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ドイツ生まれの米国人で、エリク・ホーンブルガー・エリクソン(Erik Homburger Erikson)という人がいます。
彼は昭和8(1933)年にドイツにナチス政権が誕生したときに、祖国を捨てて米国に渡り、そこで精神科医を勤め、他の治療機関で手に負えなくなった問題行動を起こす青年に、独自の心理療法を施して、きわめて高い治癒率を上げました。
そのエリクソンが提唱した概念が、「アイデンティティ(identity)」です。
エリクソンによれば、人は青年期において、「自分とは何か」「これからどう生きていくのか」「どんな職業についたらよいのか」「社会の中で自分なりに生きるにはどうしたらよいのか」といった問いを持ち、その問いを通じて自分自身を形成していくのですが、これができないと自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごし、ときに熱狂的なイデオロギー(カルト宗教や非行など)に染まりやすいと説きました。
その熱狂には、政治的非行、宗教的非行、不良グループ、ヤクザ、暴力団、守銭奴への傾斜などがあります。
これは頭の善し悪し、テストの成績の良い悪いとはまったく関係のないことで、どんなに成績が良くて聞き分けがよく、成績の良い子であったとしても、自分が何者であるのかがきちんと形成されなければ、結果として、それを怪しげなものに求めてしまうということです。
良い例が、オウムにいたエリート幹部たちでした。
優秀な頭脳を持ちながら、自分がどう生きたら良いのかわからない。
その精神の間隙に、松本智津夫の魔手が入り込みました。
しかしそれにも増して、戦後教育は日本人から愛国心や、徳育、神話を奪いました。
この結果、エリクソンの言う「社会の中で自分なりに生きるにはどうしたらよいのか」といった問いに対する答えを得ないままの青年、自分自身の核となるアイデンティティが形成されていない青年が、学校から社会に排出されています。
このことは、テストの成績の良し悪し、学校で教師に従順であるかないかといった、現代教育における出来の良い子、悪い子と、しっかりとしたアイデンティティを持った生徒とは、まるで異なるということを示しています。
そして、本当に社会に役立つのは、テストというクイズに、早く正解を出すことができる児童や、教師の前でおとなしいだけの生徒ではなく、明らかにアイデンティティをしっかりと持った青年です。
なぜなら彼らは、ただ言われたことをするのではなく、1を聞けば10を知って行動し成果を挙げていく能力を持っているからです。
一方、アイデンティティを喪失したままの人間は、言われたことしかできません。
自分の利得しか考えないから、すぐに被害者を装ったり、極端に残酷な加害者になったりします。
涙を飲んで敵を討つような主体性を持つことができないのです。
アイデンティティは、「自己同一性」と邦訳されます。
簡単にいえば自分を優秀な過去の人物やご先祖、あるいは誇りある民族の歴史に同化させることです。
これがないと、人は時間の縦軸の中の集合体の一部ではなく、個体となり自己の利益だけを求めるようになります。
だから目先の金儲けや一時的な快楽に走る馬鹿者に簡単にたぶらかされる。
だから被害者を自称する加害者になります。
過去に誇りを持てる歴史のないどこかの国の自称「民族」が、できそこないのファンタジーに走るようなものです。
誇りある歴史を持つ日本人であっても、その誇りを知らなければ、民度の低い自称民族となにひとつ変わらない痴れ者に成り下がってしまうのです。
反日や、侮日も、カルトそのものです。
ほんのわずかでも思考力があるならば、日本人でありながら日本を失うということが、日本人にとって最悪の選択となることは歴史が証明していることは、幼児にだってわかることです。
私達ひとり一人には「名前」があります。
その名前は、日本という国家によって承認された名前です。
たとえは悪いかもしれませんが、名前があるということは、飼い犬や飼い猫と同様、国という名の家族の一員となっているということです。
国がなくなるということは、家族の紐帯さえも断絶し、私達ひとりひとりが孤立した名のない存在になることです。
つまり、野良猫や野良犬になることです。
路上で車に跳ねられて殺されても、誰も見向きもしてくれない。
大怪我をしても、医療も受けれない存在になるのです。
国を失うということは、人が人としての尊厳を失うことです。
すこし考えたらわかることです。
およそ政治の世界でも、言論の世界でも、本来ならそういう思考自体がありえない。
もちろん、解体すべき国家もあります。
旧ソ連が、その典型です。
旧ソ連は、それこそ一日も早く、なくなったほうがいい国家でした。
そのソ連を崩壊に導き、新たなロシアを誕生させたエネルギーは、反ソ、侮ソといったマイナスのエネルギーではなくて、祖国を愛する心です。
エリクソンは、青年期にしっかりとしたアイデンティティを身につけると、人間の根本的な性質としての「忠誠性」が養われると説いています。
この場合の「忠誠性」は、様々な社会的価値やイデオロギーに自分の能力を捧げることのできる性質のことを言います。
しかしエリクソンは西洋人ですので、この場合の忠誠心は、国家や所属長への忠誠を意味します。
これはウシハク国の忠誠心です。
けれども日本人の「忠」は、もっと深いものです。
日本には、国体と政体があります。
天皇を中心とした日本人全体が家族となっていることが国体です。
その家族間の様々な取り決めを行うのが政治であり政体です。
日本のすべては、領土も領民も天皇のおおみたからです。
そして政治を行う者、人の上に立つ者、自分がいま所持しているもののすべては、天皇からの預かり物です。
ですから政治は、天皇のおおみたからである人々みんなが、豊かに暮らせるためにあります。
人の上に立つものは、みんなが豊かに暮らせるためにその立場があります。
自分の所有する物も、天皇からの預かりものです。
ですから掃除をし、営繕して大切に使います。
将軍も大名も、天皇のおおみたからである民が豊かに暮らせるために存在します。
そのために武士がいます。
これが上古の昔からある日本社会の仕組みです。
そしてそういう仕組の中に、自分自身をおき、社会の中でしっかりと生きて、その勤めを果たしていく。
それが日本人のアイデンティティです。
世界に民主主義を標榜する国はたくさんありますが、たとえ民衆による選挙で選ばれたとはいえ、権力者によって民衆がただ支配されている状態は、本当の意味での民主主義といえるかは疑問です。
そうではなく、国家の最高権威によって、その国の民が「おおみたから」とされる。
政治権力はその「おおみたから」のために行使される。
これこそ、究極の民主主義です。
根底に愛がなければ、民主主義は成立しないのです。
その愛の根幹に、日本では天皇という存在があります。
いいかえれば天皇を否定することは、民主主義を否定することです。
民主主義を否定するなら、否定する人たちは民主主義政治に参加する資格はありません。
そういうことを誰もが知って、国家の常識とすることが、私たちが日本を取り戻すということになろうかと思います。
これが日本のアイデンティティです。
民は、誰もが豊かに安心して暮らせるようになりたいのです。
そうであるなら私達は「国を愛すること」という民族としてのアイデンティをあらためて共有化する必要があります。
なぜなら、それこそが日本人の原点だからです。
私達が、新たな日本を築き、かつてない好況と現代だけでなく、子や孫の世代までもの繁栄と平和を手に入れたいのなら、日本人が日本人としてのアイデンティティを取り戻すことです。
このことは、会社を経営しているみなさまにとっても同じです。
会社の歴史を築いたすごい先輩を学ぶ。
社員は、オーナーのたからものであるとして、そのたからをみんなで大事にして支え合う。
みんなで努力して、みんなで豊かさを手に入れることができる会社をつくる。
ある上場会社のオーナー会長は、そのことを1年365日、もう60年にわたって毎日、手を変え品を変えて語り続けているそうです。

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コメント
くすのきのこ
・・・しかし、なかなかこれは難しくて、時間をかけなくては実現しないわ
けですね。で、現実に長く続いている国は、立憲君主国であると・・憲法を
基盤とし、政権と国家盟主を分けている国のありかととらえてもいいかな。
インドやドイツは、夫々のお国事情も違いますが、政権を掌握する首相の上
に大統領を名誉職としておいています。これが亜型かな?ww国難の際に、
盟主を失うと国が危いからですね。・・ど~も、英国の影響が匂いますが、
敗戦時の日本を観察していたかもしれませんね。インドの影には英国ありww
フランスにも首相と大統領がいるのですが、どちらも政治権力をもつ半大統
領制だそうで・・・ルソーのお国は、今やエリートと官僚による強力な中央
集権社会だと・・絶対王政を脱しても、結局は類似形態?にも思えるが、換
骨奪胎?みたいな漸進なのか?ルソーは、ま~だ暫くは放浪者なのかもww
、
2016/03/03 URL 編集
越智冨雄
♪さん、ごめんなさい。
高校3年生の時だったか大学浪人している時に、文庫本に出会い、はまってしまいました。当時は、「はぐれ学生純情派」(別名・落ちこぼれ)でしたので、その心情に合っていたのでしょう。
ルソーは晩年、被害妄想に取り憑かれていたらしく、その心情を日記風に書いたものです。
この本の中で一番印象に残っていることがあります。
魔法のリング(指輪)があって、3つの願い事を何でも叶えてくれる。私(ルソー)が願うのはたった一つ。それは、「世界中の全ての人が幸せになること」だと。「幸せ」じゃなくて「笑顔」だったかな?
何れにしても、根本は純粋だったんですね。そう思わせてください!
ルソーは、コルシカ島の民主化運動に熱心に取り組んで、島民に未来の可能性を見出しました。
「このコルシカ島からフランスを大きく変える存在が出現するだろう」と予言していたそうです。
その言葉通り、コルシカ島出身のナポレオンが、フランスを大きく変えたのです。
フランス革命は王政を打倒したのに、ナポレオンは皇帝になってしまいました。これでは逆戻りではないか?
ナポレオンの言い分では、「フランス革命の成果を横取りしようとする勢力からフランスを、ひいてはヨーロッパを守るためにしたことだった」とか。真偽のほどはわかりませんが。
ナチスも民主主義の手続きを経て、政権につきました。
ヒトラー個人への支持率は常に50%を超え、絶頂期には九割を超えていました。
それにひきかえ、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は支持率が50%に達することすら、ついにありませんでした。
ナチス・ドイツはヒトラー個人の人気に支えられて、全体主義国家たりえたのです。
Jリーグのチェアマンだった川淵三郎氏が言っていました。
「私利私欲のない独裁者なら、その存在には意義がある」と。
このような独裁者には、大衆は従うでしょう。
ただし、大衆の声を聞き取り、その心を汲み取りながら。
どのような政治体制が優れているのでしょう?
ウシハク国家でなく、シラス国家でしょう!
そのためにも、教え知らしめなければ。
万民が共感する社会を目指して!
2016/03/01 URL 編集
taigen
~ あるユダヤ長老の懺悔(ざんげ) ~
──ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像──
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe801.html
かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。
「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」
ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。
ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。
2016/03/01 URL 編集
にっぽんじん
国民に関心のある政策はと聞くと必ず「福祉の向上」「経済政策」といった「自分の利益」につながる政策を挙げます。「命」は二の次です。
民主主義の最大の欠陥は「成熟していない国民が主権者」にあります。成熟していない多くの国民は無責任です。その無責任者たちに政治家は迎合していきます。
これは「民主主義国家」の最大のリスクです。ヒトラーが生まれたのも「民主主義国家」です。藤原正彦氏は「真のエリート」が必要だと説いています。明治には「真のエリート」がいました。
今の日本にいるでしょうか。自虐政策に励む「外務省」にいるでしょうか。「福祉」という麻薬を経ち切れる真のエリート政治家や官僚が必要です。
2016/03/01 URL 編集
junn
http://bylines.news.yahoo.co.jp/katoyoriko/20160224-00054537/
2016/03/01 URL 編集
♪
その淵源に潜むのが民主主義の守り本尊ジャン・ジャック・ルソーだ。
かの仁の説いた主張が今日では万国のスタンダードとなっているが、その実、ジャン・ジャックそのものは紛れもないアイデンティティ喪失者である。
最晩年の作品に『孤独な散歩者の夢想』というのがある。
このタイトルだけからも、彼が帰属すべき共同体を失った孤独な浮浪者であることを如実に示している。
浮浪者?確かに晩年の彼は貧困ではあったが、経済的には自立している。だから言葉の真の意味での浮浪者ではない。しかし、彼が共同体から切り離されて、それでも浮浪者として飢え死にしなかったことに、近代の秘密がひとつ隠されている。
ところで、彼と同様に自己を語った同時代の作品にレチフの『堕落百姓』というのがある。これもタイトルから自己の遍歴を振り返る形を撮っているが、ルソーとの決定的相違は「百姓」と自らの帰属すべき共同体が示唆されていることだ。だからこの作品は自伝的作品であるとしても、ルソーのそれとは異なる。
ではルソーの作品に見られる近代の秘密とは何か?
それは、故郷を失い、孤独な散歩者となったルソーは読者大衆というパブリックによってスターダムに押し上げられたことだ。ある種の偶像といっていい。
古代社会であれば教団を組織して教祖として君臨することでひとつの新たな共同体を創設しえたかもしれない。しかし近代において、組織も持たず、しかし大衆の熱狂によって支えられたひとりの孤独な散歩者は、読者大衆に奉仕する「メディア」によって人類の未来を指し示す灯台として屹立させられてしまった。
しかし放浪の狂人が称揚する未来とは狂った未来でしかなかった。現代のわれわれが如実に実見してる通りの世界、それがルソーの主張から結果した世界である。
孤独な散歩者の妄想を理念とした近代の人権原理主義、多文化強制主義から、共同体的伝統主義に回帰しないかぎり、われわれも根無し草の浮浪人として答えの出ない不毛な堂々巡りを続けることになる。
2016/03/01 URL 編集