ところがこの本は、戦後の日本では、まったく知られていません。
それどころか、まるで「なかったもの」にされています。
『入唐求法巡礼行記』をわかりやすく書いた本も、ほとんどありません。
いまだと1961年の筑摩書房の『古典日本文学全集』の第15巻・仏教文学集の中に、他の仏教関連書と並んで、ようやくその原文と現代語訳文を見つけられます。
単行本もありましたが、なんとその単行本、円仁が日本を出発するまでと、帰国する時以降の話だけで、肝心の唐の国での円仁の10年間の見聞録の部分が、まるごと削除されています。
これには驚きました。意図的な編集なのかどうかまでは知りませんが、不思議なことがあるものです。
『入唐求法巡礼行記』は、円仁が遣唐使として承和5(838)年に博多を出発して、唐の都の長安に向かい、そこで生活して、承和14(847)年に帰国するまでの、10年間の日記です。
このときの唐の皇帝は武宗(ぶそう)でした。
武宗は、道教に入れ込んで、仏教を弾圧した、晩唐の皇帝として知られる人です。
円仁は、滞在中に、百回近くにわたって日本への帰国願いを出していますが受理されず、最後はなんと、外国人僧侶追放令にあって、ようやく帰国できました。
そういう時期のお坊さんの渡唐記録なのですが、内容はすこしも私情を交えず、冷静に、きちんとした観察眼をもって綴られています。
そして冷静だからこそ、世界中から、この書がたいへん高く評価されているのです。
そしてこの本の中に、9世紀の唐の様子が、実に克明に記録されています。
そこで本文をすこしご紹介してみたいと思います。
原文は漢文なのですが、筑摩書房の古典日本文学全集〈第15〉仏教文学集、入唐求法巡礼行記(堀一郎訳)をもとに、ねず流で、おもいきった現代語訳にしてみます。
ご一読いただければ、当時のChinaが見えてくるだけでなく、Chinaのウシハク皇帝、つまり神話を失なった国において、権威と権力と武力を併せ持った皇帝が、いかなる存在となり、臣下や民衆にどのような影響を与えるのか、おわかりいただけようかと思います。
日本は、神話を持ち、権威と権力・武力を分離したシラス国です。
国の大本のカタチの違いが、ここまで大きな違いになることを、私たちは学ぶ必要があると思います。
==========
『入唐求法巡礼行記』
円仁(第三代天台座主:慈覚大師)
皇帝の討伐軍は、叛乱軍が立てこもる州の境界線で、叛乱軍の激しい抵抗にあって攻め込みきれないで境界線上にとどまっていました。
すでに多くの日数が費やされています。
皇帝からは進軍を促す催促が、毎日、矢のように来ています。
けれども叛乱軍の抵抗が強くて前に進めません。
ところが追討軍が前線から進められないでいることを、中央で「あやしんでいるらしい」というのです。
それを知った征討軍はびっくりして、戦線付近の牛飼いや農夫たちを捕まえて、これを叛乱軍の捕虜と偽って、長安の都に送りました。
長安では皇帝から勅令が発せられ、儀礼刀が賜(たまわ)られ、街頭でその偽りの捕虜たちの処刑が行われました。
捕虜たちは、三段に斬られ、あるいは左右両軍の兵馬が、彼らを取り囲んで捕虜たちを撲殺しました。
かくて前線からは、続々と捕虜たちが送られて来るようになり、兵馬は休みなく往来し、市街で殺された死骸は道路に満ち、血は流れて土を濡らし泥となりました。
これを見物する人も道にあふれました。
皇帝もときどき見物にやって来ます。
一般のウワサでも、「護送されてくるのは叛乱軍ではなくて、近隣の牛飼いや農民ばかり、罪もないのに叛徒に仕立てあげられて捕らえられて来たものだ、皇帝の軍隊はまだ州の境界線を突破できず、皇帝に戦果の上がらないのを怪しまれないようにするために、むやみと罪もない人民を捕まえては都に護送しているのだ」と、言っています。
もう誰もが知ることなのです。
にもかかわらず、そんな捕虜たちを、左右両軍の兵士どもは、斬り殺しては、その眼肉を割いて食べています。
だから市中の人々は、いずれも今年はなんと不吉な年かと言っています。
・・・・・・・
山西省の太原府の三千の軍は、三年間ウイグルとの国境守備に任じられ、ようやく今年、ウイグルを破って凱旋してきました。
ところが太原府に帰ってまだ日も経たないうちに、節度使はこれを再び四川方面の叛乱軍討伐に出発させようとしました。
将兵たちは「三年もウイグルと戦って苦しい思いをし、疲れきって帰国してきたばかりです。故郷に帰って、まだ父母にも妻子にも会っていません。どうか他の軍隊を派遣していただきたい」と固辞しました。
ところが節度使は「皇帝の命令である」と聞き入れません。
このため三千の軍が暴発して太原府城に押し寄せ、節度使を攻撃しました。
節度使は、この事態を皇帝に報告しました。
都から尋問使がやってきました。
調査の結果、尋問使たちは、「この者らは、ウイグルを討伐した功績をあげており、言い分はもっともである。当然、死罪にすべきではない」と、詳しく理由書をつけて上奏しました。
けれどもその上奏は聞き入れられず、三千人は東市の北街の塚のほとりで全員、斬り殺されました。
・・・・・・・
9月にはいって、四川方面の叛乱軍がようやく大敗しました。
叛乱軍の軍団長らは、捕虜として都に護送されました。
彼らへの処刑は67回に及びました。
後に叛乱軍の首魁の劉従簡(るうじゅうかん)の首が長安の都に送られて来ました。
都では、この首を三叉の槍の頭に差し抜き、三丈あまり(10m弱)の竿(さお)の先に名前をしるして、東西の市(いち)を巡回して、内裏に行進しました。
皇帝は銀台門の楼上に坐して、この行列を見て大いに笑いました。
その後数十日のうちに、叛乱者たちの財産や宝物、家具などの一切を政府に没収し、毎回7〜8台の金で装飾した車が、これらを満載して都に入り、宮廷の倉庫に納めました。
・・・・・・・
※ 仏教と僧侶たちのことも書かれています。
・・・・・・・
8月に太后(たいこう)が薨去(こうきょ)されました。
姓は郭(かく)で、太和皇后といいます。
太后は、仏教をとても篤(あつ)く信仰していました。
皇帝は道教を信仰しています。
その皇帝から、僧侶や尼僧を淘汰せよという条例が出るたびに、いつも皇帝に諫止(かんし)していたのが太后でした。
皇帝は、そんな太后を、薬酒をすすめて毒殺してしまいました。
また義陽殿(ぎようでん)におわす皇后は(皇帝の実母)たいへんな美貌の持ち主でした。
皇帝は、その母を後宮に召し入れて妃(きさき)にしようとしました。
あたりまえのことですが、皇后は拒絶しました。
すると皇帝は弓で皇后を射殺してしまいました。
・・・・・・・
道教の道士である趙帰真(ちょうきしん)らは、皇帝に、
「仏教はインドで生まれて『不生』を説いているが、『不生』とは、単に死のことである。仏教はまた、さかんに無常や苦、空を説くが、これはまことに奇っ怪な妖説であって、道教にいう無為長生(無駄に長生きしない)の原理を理解していない。
老子は、無為自然にあそんで仙人となり神薬を練った。この神薬を飲めば、不老長寿となり、神仙界の一員となることができる。その功力は無限である。
そこで願わくば、宮廷内に神仙台を築き給え。
身体を練磨して、神仙界にのぼり、九天に逍遥し給え。
必ずや陛下の聖寿万歳となり、もって長生きの楽しみを保ち得られることでしょう」と奏上しました。
皇帝はこの奏上を聞いておおいに喜びました。
左右の近衛兵に命じて、宮城内に、神仙台として「望仙楼」を築かせました。
それは、高さ45メートルの楼閣でした。
皇帝は「望仙楼」ができあがることを、とても楽しみにされ、毎日左右の近衛兵三千を動員して土を運ばせ、築造させました。
皇帝は、一刻もはやく完成させたい意向でした。
毎日、できあがりを催促されました。
左右両軍の近衛兵の団長も、指揮棒をとって監督にあたりました。
ある日、皇帝が視察に赴きました。
皇帝は宮内長官に向かって、「あの棒を手にしているのは誰か」と問いました。
長官は、「軍団長みずからが築台の指揮をとっています」と答えました。
すると皇帝は、
「汝、棒を手にして指揮する必要はない。自分で土を担って台を築け」と命じました。
またある日には、「望仙楼」の工事現場に出かけた皇帝は、自ら弓をひいて、何の理由もなく将校のひとりを射殺しました。
・・・・・・・
3月3日、仙台の築造が完成し、皇帝に引き渡しの儀が行われました。
その日、皇帝は、仙台に登りました。
両軍の司令官や道士たちも、登りました。
その途中、両軍の司令官が、道士の趙帰真に、
「今日、仙台の引き渡しが行われますが、あなたがた道士は、不老不死の仙人になれますか?」と問いました。
趙帰真は、うなだれたまま、何も答えませんでした。
皇帝は「望仙楼」に七人の道士を招き、神薬を練り、空を飛んで仙人となる術を行わせました。
皇帝が「望仙楼」に登った日、皇帝は同行した楽師に、「左近衛師団長を建物から突き落とすように」と命じました。
ところが屈強な師団長を前に、楽師はこれができません。
皇帝は、「朕が突き落とせと命じたのに、なぜ命令に従わぬのか」と問いました。
楽師は、「軍団長は国家の重臣です。これを故なく突き落とすことなどできません」と答えました。
すると皇帝は怒り、楽師の背中を杖で20回殴りつけました。
望楼の上で皇帝は、そこにいる道士たちに、
「朕は、ここに二度足を運んだが、汝たちにまだひとりも登仙した者がいないのは、どういうわけか」と問いました。
道士らは、「国中に仏教がはびこり、その邪気がたちこめているために登仙になることができないのです」と答えました。
皇帝は、宮城内の僧道奉行に対し、「朕はお主らを必要としない」と宣言しました。
そして数日のうちに、国中の僧侶や尼僧で、年齢が50歳以下の者は、すべて強制的に還俗させ、そのまま本籍に返せとの勅令が発せられました。
実はこれには裏話があります。
皇帝は当初、「仙台を築くために掘った土の穴が極めて深く、人民に恐怖と不安を与えている。朕はこれを埋めたい。ついては仙台の落慶供養の食事会を催すといつわって、近隣の僧侶や尼僧をことごとく、無理やりにでも左近衛軍営内に集め、その首を斬り、その死体で穴を埋めよ」と命じたのです。
これにおどろいた卜(ぼく)某が、「僧尼といえども、もともと国家の民です。せめて還俗させて各自生産を営ませれば、国家に利益があがります。穴に追い込むようなことはせず、還俗させて、すぐに地方に帰し、役夫にでもさせればよろしい」と申し上げ、皇帝が「もっともである」とこれを受け入れたために、先の勅命となったのです。
さりとて僧尼たちは、どうしてよいかわからない。
私(円仁)は、書類を提出して還俗したうえで、日本に帰りたいと請願したのですが、奉行もこれを受け取ったきりでまだ返事がありません・・・。
=========
と、話はまだまだ続くのですが、ここまでお読みいただいて、いかがお感じになりましたでしょうか。
すべての権力と権威を握る個人がいるということの恐ろしさ。
そういう国に生まれることの恐ろしさ。
そしてそういう国に生まれ育てば、息を吐くように嘘を言ってでも生き抜かなければならなくなることも、理解できようかと思います。
またご一読いただいて、この『入唐求法巡礼行記』が、世界で「東アジアの三大旅行記」と呼ばれている古典書物でありながら、戦後の日本で、まったく秘匿されてしまっていた理由も、おわかりいただけたのではないかと思います。
当時の唐は、周辺国にたいへんな影響力をもった超大国です。
そしてそこには、数多くの仏典などもあります。
ですから、日本からは、勉学のため、遣唐使が派遣されていました。
他国の状況をキャッチアップしておくことは、とても大事なことです。
いつ唐が、日本に攻め込むと意思決定するかもしれないし、唐に大異変が起これば、難民が押し寄せる危険もあるのです。
円仁の帰国の47年後の寛平6(894)年、菅原道真公の建議によって、遣唐使は廃止となりました。
そしてその13年後の907年に、唐は滅亡しています。
唐の滅亡は、当時の東アジア全体をゆるがす大事件でした。
それは、東アジア秩序の崩壊でもあったし、China本土内で、大混乱、大虐殺は、周辺国へも多大な影響を与えたのです。
ところが日本は、13年前という、絶妙なタイミングで遣唐使を廃止し、事実上の鎖国をしています。
当時の政治家たちの先見性には、ほんとうに知れば知るほど驚かされます。
そして、同じ時代でありながら、500年の長きにわたって死刑さえ行われず、裁判を行う際にも、すでに10世紀には、藤原公任によって、刑事裁判において、被告人には、科せられた懲役年数がちゃんと記載されるようになっていたのが、日本なのです。
現代では当たり前になっている「被告人に科せられた懲役年数を判決書に記載する」ことは、裁判の公平性を担保するうえで、とても大切なことです。
ヨーロッパでさえ、それが施行されたのは19世紀以降です。
国の頂点に、権威と権力と武力を併せ持つ個人が置かれるということは、今回のこの『入唐求法巡礼行記』に書かれた唐の国の実情にも明らかな通り、それはとても恐ろしく危険なことなのです。
なぜ、このような、人の命を平気で踏みにじるような乱暴なことが平然と行われたかといえば、上に立つものにとって、下の者は、常に私有物であり私有民と考えられたからです。
もっといえば、人でさえなく、ただの私物なのです。
自分のモノですから、殺そうが奪おうが勝手なのです。
人の命でさえ、ティッシュペーパーをちょいと摘んで、ハナをかみ、そのままゴミ箱にポイと捨てるようなものとされてしまうのです。
ところが日本では、権威と権力と武力を分離しました。
それが何時頃からはじまったのかということさえ、わかりません。
なにしろ神話の時代からはじまっているのです。
オオクニヌシ神話に、因幡の白兎の物語が出てきます。
白ウサギは、隠岐の島から出雲まで、ワニを一列に並べて、その上をピョンピョンと飛んできたとされています。
最近の学者さんたちは、これはワニではなくてサメのことを昔は「鰐(ワニ)」と書いたのだ、と強弁しています。
ところが、1964年に、大阪府豊中市柴原の待兼山丘陵に位置する大阪大学豊中キャンパスの理学部の新校舎建設現場から、ホンモノのワニの化石が出土してしまったのです。
このワニは、体長約7メートルもある大型のワニで、更新世(30-50万年前頃)には、日本中に生息していたのです。
他にもキシワダワニなど、日本各地で、更新世のワニの化石が出土しています。
要するに、日本にも、本当にワニがいたのです。
そしてオオクニヌシ神話には、そのワニが出てくるのです。
オオクニヌシは、いったいいつ頃の人(神)だったのでしょうか。
要するに、いつのことなのかもわからない古い時代から、日本では、シラス統治として、権力と権威の分離が図られてきたのです。
そして民衆は、権力者の私物ではなく、最高権威の宝とされてきたのです。
権力者も、武力を持つ者も、自らのその権力や武力は、最高権威の裏付けがあってはじめて行使できる力です。
会社で、部長という肩書があってはじめて、部長としての権力を行使できるようなものです。
そして権力者にとって、民衆は、私物ではなくて、最高権威から委ねられた宝とされたのです。
つまり国民が宝です。
市民権ガーとか、私権ガーとかガナル前に、ひとりひとりが最高権威の宝なのです。
それが日本です。
そういう日本人にとって、Chinaのウシハク世界は、あまりにも異常な世界です。
だから良いとか、悪いとかではないのです。
なぜなら、我々がいくら非難したところで、Chinaの皇帝は変わりません。
そうでなくて、Chinaはそういうものだ、そういう人たちだと、わきまえて付き合う。
彼我の違いをきちんと認識して、付き合う。
良いものは積極的にどんどん取り入れ、よくないものは、水際でシャットアウトする。
日本は、ずっとそのようにしてきたのです。
そういう古くからの日本人の知恵は、私たちはしっかりと学ぶべきことだと思います。
(参考文献)
筑摩書房『古典日本文学全集』第15巻・仏教文学集
産経新聞社『国民の歴史』西尾幹二著
※この記事は、2015年3月の記事をリニューアルしたものです。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
ねずさんの百人一首予告CM動画(118秒)
【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓
コメント
GBB
今日も楽しく勉強させていただきました。
上記の入唐求法巡礼行記は、とても興味深く、怖い内容ですが
今の日本の状況なら、読みたい方が居ると思うのです。
勿論、昨今流行りの余命みたいに、出版社が拒否るかもしれませんが、
今はアマゾンという手段があります。
日本人だけが知らない自国の本。
まるでどこかの国みたいじゃないですかww
今の日本の雰囲気なら、皆面白がって買うのではないでしょうか。
是非、有志の方を集めて翻訳してもらいたいです。
全文を読みたいです。
2016/04/05 URL 編集
くすのきのこ
和爾(わに)について、出雲国風土記の意宇郡(いおぐん)の安来郷(やす
ぎごう)にこんな話が載っています。
天武天皇の時代に、安来郷の北海にある比売埼(ひめさき)を散歩してい
た娘が和爾に会い、亡きものにされた。その父親は悲しみ怒り、矢と鋒を持
ち神々に報復を祈願した。しばらくして100の和爾が1の和爾を囲みなが
ら連れてきたので、それを鋒でさして捕らえた。和爾たちは静かに去り、さ
いた和爾の中から娘の足が出てきた。父親は安来郷の語臣猪麻呂(かたりの
おみいのまろ)という。
和爾は動物だったのでしょうか?それとも土着民族、あるいは島から来た民
だったのでしょうか?成敗のために助けを求め、支配層が話を通してそれを
かなえてやったという事だったのでしょうか?
安来市の北方50キロ位に隠岐の島があったりしますw縄文の早期から人が
いたと。隠岐の島の海底には遺跡のような構造物があるのが、2002年に
見つかっており映像もアップされていますが、研究はされていません。因幡
の白兎は隠岐の島から因幡に渡ろうとして和爾を欺いたのでした。
・・ここで自由に連想すると・・隠岐の島に流れ着いた因幡の者が、故郷に
帰ろうとして身ぐるみはがされて傷まで負い、オオクニヌシに蒲の花粉(蒲
黄)の薬効で止血できると教えられたとか?以外と身分のある人であったかも・・?白兎神社なんてのもあるそうですよ。海底の遺跡のような構造物も
ロマンをかきたてますねww
答えが解らないのがいいんですww
2016/04/05 URL 編集
名無しさん@ニュース2ch
シナ人の異常さは唐の時代から、イエもっと昔から確立されていて現在まで継承されてきたんだな、とよく分かりました。
しかも何回も王朝が入れ替わっているのに断絶することなく異常さが続いているのがすごいと言うかおぞましい。
DNAとかシナの地とか呪われてるんでしょうか。
自然淘汰されるのならまずシナ人から淘汰されて欲しいですね。
だって世界に要らないですから、こんな害悪で迷惑な生物は。(半島人も含む)
2016/03/31 URL 編集
-
このブログでも取り上げられた千葉県柏通り魔事件の被告に対して高等裁判所が無期懲役を科しました。ひとまず安心判決ですが、他にも何人かを脅して略奪おり、即死刑が普通であります。
逮捕時報道ではマスクを被っておりましたが、今回はそれが無しで、本当にコリエイリアンだと思いましたとさ。
2016/03/30 URL 編集
温故知新
しかし、地球規模での植民地主義全盛期を生き抜くため知恵とは?
明治時代を築いた人達はどのように考えたのでしょうか。
国民国家とは?。
私は、陛下に御すがりした。 と、考えています。
平和時には本来の御姿に。
2016/03/30 URL 編集
にっぽんじん
中国は相手が武器を持たなくても攻撃する。憲法9条がどれだけ役立つか考えて欲しい。憲法9条は中国や朝鮮の利益にはなっても日本の利益にはならない。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=5bv-mwcXfpg
2016/03/30 URL 編集
悲しい爺
色々な削除や、偏向を知るにつけ、利益誘導の図書だと考えるようになり。
今はほとんど買わなくなりました・・・
つい最近も『日本の歴史』をどう描いているかを確認の為、第一巻原始・古代を買いましたが、相変わらず『記紀』を認めていません・・・教育者の頭は一体どうなっているのか・・・
2016/03/30 URL 編集
「ど」の字
日本人の耳目から真実を遠ざけようとする、情報を司る「業界」に巣食う曲学阿世の徒は、本当にどうにかならないのでしょうか?
『入唐求法巡礼行記』の存在そのものまで隠蔽していた件についてもそうですが。
旧来の文書を文字通りのお蔵入り(酷い場合には焚書)にして、勝手に解釈したり捏造したりして歪めた新字体の文書を世に広める。
こうした悪事を働く人間が教育界・出版会・報道界に居る限り、世界の現実から目を背ける、いわゆる『お花畑思考』の人間が社会に輩出される危険があります。
そうした曲学阿世の徒を、どうやって排除すべきなのでしょうか?
自分は幼少期に偶然旧字体の文書に行き当たって真実を知る幸運に恵まれましたが、その幸運は多くの者にあるとは思えません。
何も知らない学童をミスリードする人間は、万死に値すると考えています。
2016/03/30 URL 編集
junn
http://www.systemken.org/geturei/32.html
2016/03/30 URL 編集
「ど」の字
古代ローマにおいても、安定した時代(少なくとも五賢帝時代)にはそうでした。
ですから、この問題に関しては、どうしてそうした制度が成立したかを論じるよりは、どうして他の国では長続きしなかったそうした優れた制度が日本で長続きしたかを論じていった方が建設的ではないかと考えています。
古代ローマは、セプティミウス・セヴェルス帝以降の皇帝が専制的な政治を執り、またその後に「他の意見の存在を許さない、イエスの言行を歪めた形の」キリスト教が乗っ取る形で崩壊していきました。
日本でも何回か新しい宗教が渡来し、仏教に至っては定着しています。
なぜ日本は古代ローマのようにならなかったのでしょうか?
2016/03/30 URL 編集
-
天皇という神聖な権威者と権力(軍事力も含む)を行使する執行者を明確に分けて統治していたのが日本の政体(シラス)との事、よく分かりました。では戦前の天皇の軍の統帥権というのは、どのような位置づけなのでしょうか。天皇に統帥権という権力を持たせた長州閥の間違いととらえる事もできなくはないですが、天皇が軍服を着るのはやはり日本の歴史上異常といえなくもありません。ここのところ、後日
ねず先生に講義頂だければ有り難いです。
2016/03/30 URL 編集
それから
日本は、ずっとそのようにしてきたのです。
まさに江戸時代の鎖国がそうだったと思います。うらやましい。
うらやましいのは、
今のネットと交通の発達した現代社会において、
鎖国の手法は不可能だからです。
では、今、どのようにして水際でウシハク思想の人たちを
シャットアウトするか?
私は、憲法9条と前文の改正が必須と考えます。
ねず先生は何をすべきとお考えでしょうか?
2016/03/30 URL 編集
junn
http://blog.livedoor.jp/acablo-nakagawayatsuhiro/archives/37346395.html
2016/03/30 URL 編集