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拳骨拓史著『昭和の戦争の真実』という本があります。
語り継ぐ70の秘話というサブタイトルがついています。
帯には、
「帝国陸海軍から自衛隊まで、知られざる逸話で学ぶ昭和の戦争史」
「日本人が忘れてはいけない歴史」と書かれています。
たいへん良い本です。
今日は、その中から、ひとつの逸話をご紹介します。
(文章はブログ用に私の文責で一部変えてあります)
**********
61 朝鮮戦争で”戦死”した中谷坂太郎
戦後、日本共産党や社民党などの護憲派の人々の政治演説を耳にすると、「日本は平和憲法の下で一人の戦死者も出していない」との言葉を耳にします。
しかし日本国憲法があろうがなかろうが、戦争は起こるものであり、事実、朝鮮戦争において日本は一人の戦死者を出しているのです。
終戦後、戦争の爪あととでもいうべき機雷は、日本近海で約1万七百個も浮遊していました。
特に原子爆弾とならぶ第二次世界大戦の新兵器と呼ばれ、アメリカが敷設したスクリューやエンジン音、戦隊の磁気などに感応して爆発する感応機雷は、戦後復興するための復員の輸送や輸出入の大きな足かせとなっていました。
たとえば昭和20年8月22日には、朝鮮半島からの引き揚げ者を乗せた輸送船が触雷、524名が死亡しました。
10月7日には関西汽船の船が大阪港を出た直後に触雷し336名が死亡。
感応機雷の犠牲者は、昭和28年までに死亡及び行方不明者1294名、重軽傷者402名にものぼっています。
そのため日本は、海軍省軍務局の中に「掃海部」を新設。
”掃海の神様”といわれた田村久三元海軍大佐が部長として指揮を執りました。
日本の経済復興がスムーズにいった陰には、掃海部の活躍が大きかったのです。
また当時の日本の近海は不法入国や密輸などが後を断たず、韓国で発症したコレラの流行は、国境防衛の対策を急がせるものでした。
そこで昭和23年4月26日、海上保安庁法案が成立。
海上保安庁が創設されたのです。
朝鮮戦争の勃発に伴い、昭和25年9月、国連軍は仁仙に上陸。
ソウルを奪還して攻勢に転じます。
アメリカ軍は元山にも軍を上陸させたいと考えますが、近隣の海には無数のソ連の最新式機雷が敷設されており、しかもアメリカにはこれを除去できる掃海部隊がありませんでした。
バーク少将は、10月2日、海上保安庁の大久保武雄長官に、「日本海軍は優秀で、私は深く信頼している」と述べ、朝鮮半島海域への掃海部隊派遣を正式に要請します。
しかしこの派遣は、当時の国際・国内情勢から”極秘”の扱いとされ、海上保安庁としての出動ではなく、アメリカ海軍が要員・船艇のすべてを雇用するといった形式がとられました。
しかも現場に対しても極秘だったため、目的も知らされていない現場は「朝鮮の現地米海軍指揮官の指揮下ということは、朝鮮戦争に参加させられるのではないか。憲法違反ではないか」と紛糾します。
第二掃海隊指揮官であった能勢省吾元海軍中佐(後、海将補)は、「これらのことが伝達説明されていたならば、あるいは全員が使命を自覚して違った結果を生んだかもわからない」と当時を述懐しています。
この混乱は隊員の家族も同じであり、艦隊が集結する下関までかけつけ、「日本の戦争は終わったのに今さら外国の戦争に参加することはない」と涙ながらに訴える姿、「どうしても行くというのなら、この子を海に捨て、私も死にます」と叫ぶ女性などもいて、実際に船から降りた隊員もいたといいます。
10月6日、大久保長官は「日本が独立するためには、私たちはこの試練を乗り越えて国際的信頼をかちとらなければならない。諸君の門出に当たって、唐戸の岸壁に日の丸の旗を振る人はいないけれども、後世の日本の歴史は必ず諸君の行動を評価してくれるものと信ずる」とその意義を強調。
こうして田村を総指揮官として出動命令が下ります。
掃海部隊の任務は困難を極め、10月12日には、アメリカの掃海艇4隻のうち2隻が機雷に触雷。
12名が死亡、92名の負傷者を出して沈没しました。
しかしアメリカ軍は元山上陸を15日と定めていたため、作業はそのまま強行されました。
結果的に元山上陸作戦は26日まで遅延しますが、17日にはついに日本の掃海艇が触雷。
18名の重軽傷者を出したうえ、隊員の中谷坂太郎が死亡します。(享年21)
これが戦後日本、初の戦死者でした。
のちにアメリカから遺族に約400万円(現在の約3200万円)が支給されますが、それは極秘任務で戦死したことへの口止め料も含んでいたといいます。
能勢らはアメリカ軍に対して、より安全な方法で実施することを提案しますが、上陸作戦を急ぐアメリカは「日本掃海隊は明朝0700に出港して掃海を続行せよ。そうでなければ日本に帰れ。15分以内に出港しなければ砲撃する」と命令を出します。
(この命令については日本が「雇用を解除=off Hire」を「砲撃する=Fire」と聞き間違えたものだという説もありますが、当時の状況からして「砲撃する」とアメリカ側が打診した可能性は否定できません)
このアメリカの応答に日本側は激怒し、「撃つなら撃て」と戦線から離脱。
田村総指揮官はこの離脱を追認したため、任務放棄の汚名はまぬがれましたが、能勢と三人の艇長は職を辞すことになりました。
その後も、日本の特別掃海隊は数字にわたって元山、仁仙の他、海州、群山、鎮南浦等の掃海に従事します。
そして、国連が占領した後の掃海であったため作業は順調に進み、特別掃海艇は12月15日、解散となりました。
極東アメリカ海軍部隊司令官のジョイ中将は、12月7日、大久保に「どうか、本掃海作業に参加した全掃海艇乗組員に対し『よくやったぞ、あっぱれである(Well Done)』と、私の賞賛の辞を貴下から伝えていただきたい」と伝えます。
この“Well Done”との表現は、アメリカ海軍最大の賛辞でした。
このように掃海作戦は、大きな紆余曲折を経ながらも、大きな成果を上げました。
この成果によって日本への信頼は増し、日本の独立が容認される要因ともなったのです。
そしてこの作戦に従事した者の多くが、それから間もなく発足する海上警備隊(後の海上自衛隊)への入隊に繋がっていくのです。
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私たちの先輩は、勇気をもって試練を乗り越え、国際的信頼を勝ち取ったのです。
そして国際社会においては、その勇気ある者をこそ賞賛し、仲間として迎え入れるのです。
当時の海上保安庁の大久保武雄氏は、熊本市のご出身で、東大を出た後、奈良の郵便局長に就任。その後、逓信省航空局の国際課長となり、戦後に海上保安庁の初代長官となった方です。
この任務の後熊本から衆議院議員に立候補し、自民党にあって第二次田中内閣のときに労働大臣に就任。
その後、海上保安協会会長職を経て、昭和53年に勲一等瑞宝章を授与されます。
このとき大久保氏は「この栄誉は私一人のものではない。朝鮮戦争の際に、一緒に苦楽をともにした機雷掃海艇の隊員みんなの栄誉です」と述べ、掃海艇の歴史をのこすためにと、『海鳴りの日々 ― かくされた戦後史の断層』(海洋問題研究会)から出版されました。
この本は、たいへんな反響を生み、当時のNHKは、この物語を『日本特別掃海隊朝鮮戦秘史』として放映しています。
当時は、NHKは、まだ汚鮮されていなかったのですね。
その大久保氏の言葉。
「日本が独立するためには、
私たちは
この試練を乗り越えて
国際的信頼をかちとらなければならない。
諸君の門出に当たって、
唐戸の岸壁に
日の丸の旗を振る人はいないけれども、
後世の日本の歴史は
必ず諸君の行動を
評価してくれるものと信ずる」
その後世の日本人とは、今を生きている私たちのことです。
参考図書


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コメント
一有権者
自国の身勝手で戦争を起こしておいて終わったと思ったら朝鮮戦争がはじまると自国の身勝手で押し付けた憲法を無視し掃海部隊を編成し作業させよとは。・・・歴史は戦勝国が作り敗戦国はそれを受け入れざる負えない。
それにしても先人の皆様はよく耐えてくださったと思います。その先人の皆様が現在の日本社会を見たらなんと仰るのだろうか。・・・
今我が国は中共やその走狗南北朝鮮からのいわれなき歴史問題の捏造による反日工作で危機的状況化におかれつつあると思います。
それに対して我が国政府とくに害務省はきちっと対処しているのか気になります。害務省の仕事は日本文化を世界に広めるような事も仕事であり必要でしょうが、最優先は日本の国益と日本人の安全を守り増進させることでしょう。
それを疎かにすれば戦前のような危機に我が国と国民を陥らせる可能性が高くなります。情報戦において常に後手を踏む我が国。未来の子孫達の為にも我が国はいま頑張りどころと思います。
2016/05/08 URL 編集
ごんた@母
このお話は初めて知りました。
何と表現してよいのかわかりませんが、
思わず目頭が熱くなってしまいました。
読み終えた後、心の中で拍手を贈りました。
汚鮮・汚中されていない国になってほしいです。
こういう事は語り継がれなければなりませんね。
2016/05/08 URL 編集
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日本が現在、平和に暮らせていけるのは、
地獄のような戦前を戦い抜かれた日本人がおられたからです。私も含めて戦前の地獄を生き抜く根性があるかどうか。
ところで、安倍首相がプーチン大統領と会談されました。これはとても良い事だと想います。プーチンロシアはやる時はやる国です。 怖い側面もありますが、中国になんら軍事制裁を与えないアメリカに比べて、日ロ関係が改善される事は中国に対する牽制になります。 ロシアが欲しいのは経済援助と技術です。日本無しでは何も出来ない位の援助をしてあげれば良い。
これも国防であり国益です。
2016/05/08 URL 編集
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2016/05/08 URL 編集
junn
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12054642206.html
2016/05/08 URL 編集