
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)
今日は、尼港事件(にこうじけん)が起きた日です。
大正9(1920)年、96年前の出来事です。
いま黒竜江(アムール川)の河口にある街、ニコラエフスクは、当時は尼港と呼ばれていました。
そこに約4300人の共産パルチザンがやってきて、大規模な住民虐殺事件を引き起こしました。
このお話は、拙ブログで何度もお伝えしています。
けれど「何度でも」繰り返します。
なぜなら、下の写真があるからです。

この写真は、尼港の獄舎の中で発見された写真です。
獄舎の壁に書かれていました。
やっと日本の援軍が到着するとなった日、最後に残った日本人たちが、虐殺されたのです。
そこには鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれています。
この事件で殺された住民は、当時のニコラエフスクの人口の約半分にあたる6,000名です。
加害者の共産パルチザンの内訳は、ロシア人約3000人、Korean1000人、Chinese300人でした。
そしてこういう場合、その中に朝鮮族が入ると、自体が非常にややこしくなります。
凄惨になるのです。
国家の安全保障がいかに大切なことか。
こうした過去の現実から、私たちは目を逸らしてはいけないと思います。
なぜなら、絶対に繰り返してはいけないことだからです。
けれど現実には、共産主義者はソ連でもChinaでも、あるいは周辺諸国でも同様の大量虐殺を繰り返しています。
朝鮮族はベトナム戦争で、たった5万の兵士が、10万のライダハン事件を引き起こしています。
そしていまもなお、あちこちの国で強姦致傷殺害事件を引き起こしています。
歴史は何度でも繰り返されているのです。
私は、「だから恨みを持て」とは言いたくありません。
「恨み」を根本に置くということは、決して良いこととは思えないからです。
そうではなく、事実を事実として、ちゃんと「知る」ことが大事だと思います。
尼港事件で犠牲となった方々も、おそらくは「恨んで欲しい」とか、復讐してほしいという思いなど、ないと思います。
壁に書かれた文字にあるように、ただ「忘れるな」という、これは血の出るような叫びです。
その叫び声を、私たちは決して忘れてはいけないのだと思います。
なぜなら、二度と、同じような苦しみを味わうことがあってはならないからです。
そしてそれは、恨みとか差別とか、そういうことではなくて、人道というものが、人に対してはとってもたいせつなことだけれど、この世には人の皮をかぶったケダモノが、実際に存在するのだということ、そして、そのようなものに対する警戒は、金輪際、怠ってはならないことを、私たちに教えてくれていると思うのです。
もともとニコライエフスクは、ロシアやソ連ではなく、China女真族(満州族)の土地だったところです。
ここには、大正9(1920)年当時、日本人700名を含む1万7千人あまりが住んでいたのです。
内訳は次の通りです。
日本居留民 約 700名
白系ロシア人約1万5000名
中国人 約 1000名
朝鮮人 約 500名
日本人700名というのは、日本陸軍の2個歩兵中隊が約260名を含みます。
その他の日本人440名は軍属と婦女子です。
なぜ尼港(ニコラエフスク)に、日本陸軍が駐屯していたのでしょうか。
それには理由があります。
大正6(1917)年に、帝政ロシアでレーニンに指揮された「ロシア革命」が起こりました。
ロシア革命というと、ただちにソヴィエと連邦共和国が成立して、いきなりロシア全体が夢と希望に満ちた地上の楽園の共産主義国家になったかのようにいう人がいますが、まったく違います。
なるほどこの年にレーニンはロシア皇帝を引きずり降ろして政権を奪いましたが、ロシア革命が行われた当時は、世界中どこの国の政府も、レーニン率いるソ連政府を国家として承認していません。
むしろテロによる過激派勢力によるロシアの内乱として警戒していました。
そしてロシア革命がロシアにもたらしたものは、ロシア各地の無政府状態です。
とりわけ多数の囚人が送られていたシベリアは、とんでもない状況になりました。
シベリア送りになっていた凶悪犯罪者らが突然牢から出され、ロシア共産党から武器を受け取って世間に放たれたのです。
これが共産パルチザンです。
彼らは、集団で徒党を組み、あちこちで悪逆非道の限りを尽しました。
これはもともと大陸の伝統です。
日本では古来、軍人がきわめて礼儀正しいので、多くの日本人が誤解するのですが、大陸では、軍人と暴徒とヤクザはまったく同じものです。
しかもシベリア送りになっていたのは、帝政ロシア時代の極悪人たちです。
ただでさえ極悪非道な連中が、そのしでかす凶悪行為を、共産主義革命のためだと正当化され、武器弾薬の補給まで得るようになったのです。
キチガイに刃物とはよく言ったものです。
彼らは集団で徒党を組み、武器を手にし、パルチザンとなってシベリア各地を荒し回ったのです。
ロシア革命当初は、シベリア方面には保守派のロシア極東総督のロザノフ中将や、コルチャック提督などがいました。
彼らはロシア帝国の正規軍を指揮し、パルチザン化した凶悪犯たちや、革命派勢力などと戦ったのです。
けれどすでに本国のロシア王朝は倒れています。
これが意味することは、彼らシベリアの正規軍には、中央からの補給がない、ということです。
そこで日英米の三国が、シベリアのロシア正規軍の支援のために、大正7(1918)年8月に、シベリアに共同出兵しました。
ところが翌年になると、シベリア・オムスクにあったロシアの総督府が、パルチザンの攻撃によって倒されてしまうのです。
ロシアの総督府あればこそのシベリア出兵です。
身の危険を感じた米英両国はシベリアから撤兵してしまう。
ところが日本は、ロシアと国境を接しています。
北満州には、たくさんの日本人の一般人も残っています。
そしてパルチザンが南下してくれば、それはそのまま日本の危機になります。
現実にもしパルチザンが海をわたって樺太、北海道にやってくれば、その被害は想像を絶するものになります。
ですから米英が軍を撤収しても、日本はシベリアに兵を留めるしかなかったのです。
そして日本はこのとき、やむなく第12師団(約1万5000名)を、シベリア各地に派遣しました。
師団の派遣となれば、それは大事(おおごと)です。
けれど広大なシベリアに、1万5000名は焼け石に水です。
師団は諸所に分散し、その結果、ニコラエフスクには、2個中隊260名しか駐屯できなかったのです。
そこにパルチザンがやってきたのが、大正9(1920)年1月29日のことでした。
それまで雪深いこのニコライエフス(日本名「尼港」、以降尼港と書きます)は、共産パルチザンも鳴りをひそめ、比較的静かな状態だったのです。
ところがそんなニコライエフスクに、突然ロシアの共産主義者のトリビーチンを首領とする約4000人のパルチザンが押し寄せてきたのです。
尼港 1900年

守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(約260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)の合計約350名たらずです。
つまり、守備隊の10倍以上もの暴徒が、街を取り囲んだのです。
パルチザンたちは、街を包囲すると、「自分たちに敵意はない、食料の補給に協力してほしいだけだ」と使いを立ててきました。
それを真に受けたニコラエフスク市は、パルチザンたちを市内に入れました。
ところが市内に入るやいなや、パルチザンたちはロシア白衛軍の将兵を捕らえて、これを全員殺してしまったのです。
さらに彼らは、一般市民(ロシア人、ユダヤ人)を虐殺し、家内の家財、財宝を奪い、婦女子にいたるまで、その全員を虐殺してしまいます。
パルチザンたちは、次々と白衛兵と白系市民を銃剣で突き殺し、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに人々を放り込みました。
たった一晩のできごとです。
たった一晩で、こうして尼港では、ロシア人とユダヤ人約2500人が虐殺されてしまったのです。
翌朝、事実を知った石田副領事が、この暴虐行為に対して「厳重抗議」を行ないました。
けれど、共産パルチザンは聞く耳を持ちません。
当たり前です。
抗議を受け入れるくらいなら最初から虐殺などしていない。
そしてパルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきたのです。
ここは大事なところです。
いまでも外国や外国人の非道に対して、「話し合って解決する」あるいは「遺憾の意を表する」などととぼけたことを言う政治家などがいます。
現実を見てもらいたいと思います。
つい前日に、白人たちが虐殺されているのです。
日本兵が武装解除したら、そのあと日本人が何をされるのか。
それこそ火を見るより明らかです。
現地の日本軍部隊は、日本に急を知らせる電文を打ちました。
援軍の要請です。
けれど日本からの援軍は、小樽から発進するのだけれど、真冬の寒い時期のことです。
海面が凍結していてすぐには動きようがありません。
満州方面にいる他の部隊も、移動は徒歩です。
いちばん近い部隊でさえ、到着するのに40日かかる。
ニコラエフスクから日本人、ならびに日本軍駐屯隊が脱出しようにも、周囲は凍土です。
しかも街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されていたのです。
つまりニコラエフスクの駐留部隊は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。
座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。
白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募りました。
そして3月11日、日本軍110名で武装パルチザンの本拠を急襲したのです。
けれど敵は、武装した4000人の大部隊です。
衆寡敵せず。
駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまいます。
義勇隊に参加しなかった軍人、軍属と女子供達600名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に退避しました。
けれど、領事館に集まることができたのは、わずか250名です。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかってしまっています。
後日の調査記録によると、共産パルチザンたちは、この日、日本人の子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺しています。
こうしてまたたく間に、義勇隊110名、逃遅れた日本人約240名が犠牲となりました。
日本領事館では、襲ってくる共産パルチザンたちと、激しい戦闘が繰り広げられました。
戦闘はまる一昼夜続きました。
実際に傭兵として世界の戦場を点々とした経験を持つ方から聞いた話ですが、一般に、銃撃戦というのは、ほんの数分で決着がつくものです。
銃撃戦が10分も続いたら、「今日の戦闘はむちゃくちゃ長かったねえ」などと、後々まで話題になるくらいです。
それだけ銃撃戦というのは、両軍の戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を強いるものです。
ところが、尼港の日本領事館では、まる一昼夜、銃撃戦が続いたのです。
立てこもる日本人兵士たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。
一昼夜が経ち、朝日が射す頃、領事館内の生存者は、わずか28名になっていました。
弾薬も底をつきてしまいました。
残った一同は、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
こうして一夜が明けたとき、尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しないで、かつ生き残っていた民間人121名だけになりました。
抵抗を続ける日本軍強しとみた共産パルチザンは、策を弄しました。
「山田旅団長の停戦命令」を偽造したのです。
河本中尉は、これは「怪しい」思いました。
けれどもし、停戦命令に従わなかったことが、後日、国際上の問題となったら取り返しがつきません。
軍は、あくまでも上官の命令によって動くものです。
河本中尉は、命令を受け入れました。
河本中尉以下の121名は、全員、武装解除のうえ投獄されました。
そして、食事もろくに与えてもらえないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。
零下30度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
そして、陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれ殺されました。
春になって、ようやく旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。
そこで彼らは、地獄絵図を見ました。
そこは焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」
と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。
日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月24日に、Chineseの妻妾となっていた14名の女性以外の生き残った日本人全員を殺害していたのです。
Chineseの妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月24日までの100日余の尼港の模様が明らかになりました。
日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ、
死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたまま、あごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。
※この記事は2009年6月の記事のリニューアルです。
尼港事件を忘れるな!と思う方
↓クリックを↓
中山成彬講演会 02 歴史問題
【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓
コメント
ポッポ
その25年後、大東亜戦争の終末期に日ソ中立条約を一方的に廃棄して満州や占守島に侵攻し、日本の民間人をころし、陵辱しました。この時終戦として戦闘を放棄した日本の兵隊は不当にもシベリアに抑留され、永い者は10年以上の帰国させませんでした。
ソ連の不当・無法は一度ではありません。昔のことだから、今は信用できるのかと思っていましたら、クリミア侵略です。
民族として、歴史の事実を忘れられるものではないと思います。
すこし外れますが、明治初期におけるロシアとの北方領土の分割統治です。
今は、北方領土問題は小康状態ですが、その理由は日本がロシアに北方領土を全て取られているから、小康状態なのです。(理由は、日本は武器を持って戦いません。)
明治初期に於いて、4島を含む千島列島と樺太を俯瞰してみるとき、ロシアが樺太を我が物にするにはどうすれば良いかと考えますと、スッキリした見方を出来ます。
当時は間宮林蔵が樺太を調査、千島列島も松前藩が調査していますから、国際的には両方とも日本の領土になります。
しかし、後から出てきたロシアは、一番大きくロシアの太平洋への出口を作れる樺太が欲しかったのです。そこで日本に対して、先ず千島列島の分割統治を持ちかけた。
そして次に、樺太の統治について日本と話をする際に、樺太と千島列島全体とする交換条約にしました。
この時、ロシアの軍事力を考えますと、日本は何も出来なかったと思います。そして、ロシアは貪欲です。
元に戻します。
日本の「歴史」は、事実を基本としています。もし、誤りがあれば修正します。
しかし、東アジアでは、「歴史認識」という見方を重視しています。
誤ったことを歴史としていた場合、正しいことが見つかっても為政者に都合が悪ければ事実をなかったことにした歴史を創作し、これが歴史認識であると主張するのです。
この様な国に取り囲まれている日本は、事実の歴史を知った上で周辺国家と相対し、嫌が上にも国交を行わなければならないと思います。(本心は、『助けない、教えない、関わらない』です。)
そうしないと、戦前の日本人には当たり前のことであった通州事件の事実も、戦後は当時にありもしなかった南京事件にかき消されてなかったことにされます。
日本の歴史については、加害者としてのことだけでなく、被害者のことも歴史教科書に於いて記述することで、今の自虐史観を断ち切る必要があると思います。
2016/05/25 URL 編集
くすのきのこ
植民地主義を特権階級による過度の民衆からの搾取。特権階級主義とでも言
い換えれば解りやすいかもしれません。経済に関して表現すれば共産主義、
政治に関して表現すれば社会主義。これらは当初、この特権階級主義に対抗
するためのものでもありました。しかし結局、ロシアでもチャイナでも運動
の方向性は捻じ曲げられてしまい、エリート官僚による搾取主義とそれに伴
う異論者への圧迫という・・結局は特権階級主義へと回帰してしまった。
階級闘争という内部分裂のための造語に踊らされ、異論者を否定してしまう
バグが、最初から仕込まれていたからでしょう。コレを見逃さないで下さい。
大戦中、日本の中枢は亡国の徒ではなかったでしょう。国を否定する気など
なかった。しかし・・踊らされてしまった・・のではないかな?しか~しw
後に開眼したかは不明wwただ、アメリカに占領されて苦しもうが、日本
の国民がうま~く民主主義と社会主義を融和させてしまった・・とゆうか日
本化させてしまったのが事実ですねw見えなくても働く日本システム・・和
を貴ぶ・・があるからかなw
そして・・例えば現在のアメリカ内部の格差社会の現状は、やはり特権階級
主義でありましょう。アフリカは依然、欧米資本にチュウチュウ~と吸い取
られており、それに対抗し石油利益を国民に還元し教育費も医療費も居住費
も限りなく安くしたカダフィはヤられて内戦状態に追いやられたリビアを筆
頭に、問題は続いています。南米・・常にアメリカに吸い取られ、自国の
食糧生産さえ不能にされている状況。その中で対抗していたのが、人民主義
のキューバやベネズエラのチャベス・・やはり石油利益を国民に還元し教育
と医療と農業復興、住居確保に宛てたが先年亡くなった・・ベネズエラは揺
り戻しの中でリビア同様にあえいでいるらしい・・。そんな中、アメリカの
政府予算の半分近くを国防省がゲットしたそうな・・無人兵器化などに使う
のかな?不穏ですね。
チャイナを含め、南米やアフリカなどの底辺庶民が知識と理性を持って事を
見れる時代が到来するまで、植民地状態は続きそうです・・。チャイナは中
共の植民地状態・・上級幹部の家族は海外暮らしですから、こう表現しても
いいでしょう。国を国土を社会を去りがたく求めてはいないのですから。
日本はこの特権階級主義をず~っと懐柔してきた歴史があるわけで、”権威”
としての皇室の存続がその大事な証であるし、また欧米列強への防波堤とも
なっているので、これからも守り続けなくてはご先祖様に怒られますね。明
治の王政復古を、欧米に合わせた歴史の遡りと解すれば、その後の戦国時代
ならぬ軍国主義も、かつて経験した歴史ともとれたりしますw
2016/05/25 URL 編集
シバサマ1966
本稿を読み、今年も同じ事を思います。
いつまでたっても戦争の悲惨さばかりを繰り返し報道する
日本のメディアさん、非常時における外国人の怖さや、
武力の大切さをもっと分かりやすく伝えてくれませんか。
あまりに偏向した報道を続けていては、国民をバカにしている
としか思えません。民進党の二の舞になっても知りませんよ。
2016/05/25 URL 編集
名無しさん@Pmagazine
しかし、今はどうなのか?
今でもの残虐な事件をピックアップするのではなく、今の時代にロシアも、アメリカもシナ・朝鮮もどうなのか
冷静に判断できる材料は必要だと思う
つい、この間、沖縄での事件はあったものの、良い事であるわけは無いが、それを持ってアメリカ海兵隊全員が残虐性を帯びた犯罪集団だとは到底言えぬ
我々は、何故か、ロシアに関しては情報がまるで入って来ない
その様にされているのだろう
だから、今の時点でのロシア人の在り様が当時のそれとはどれ程変化があるのか、これも知らなければならない事だと思う
アメリカは、行き来も激しく概ね解っている事が多いから、これは放っておいても良い
尼港事件は忘れてはならないが、それを強調ばかりするのは、現実を見えなくしてしまう
必要なのは、書いた通りで日本を取り巻く諸外国の、今、の情報だろう
ロシア人は今も相変わらず、女を捕まえては強姦の末に股裂きでも行って殺しているのが日常なのだろうか?
忘れてはいけないが、今もこれが現実などと捉えられては、これからの判断も狂ってしまう
こういう事は、今後の外交のカードとして堂々と発信して使うべきものだが、中には個人的な信者のような連中がいて、バカ騒ぎだけやらかす者がいるから困りものだ
2016/05/24 URL 編集
-
外国人であろうといけないことはいけない、そして人種民族により特性や考え方の違いが存在すること、これらは重視されるべきことです。
尼港事件は現として存在し、そしてそれはおおよそ日本人として考えられない残忍な犯行です。これも、言及するだけで差別となるのでしょうか。
美辞麗句で覆われた言論封殺は断固として許すわけにいきません。
2016/05/24 URL 編集
ポッポ
>今日は、尼港事件(にこうじけん)が起きた日です。
大正9(1929)年、87年前の出来事です。
これは、大正9年(1920年)だと思います。
日本の社会の歴史では、シベリア出兵を教えても尼港事件は教えません。そして、シベリア出兵のことはソ連が国際的に認められたソビエト政権を妨害して、日本がソビエトを侵略したかのように表現しています。
シベリア出兵は1918年から1922年頃までですが、尼港事件は1920年に発生したものですから、革命によりロシアがソビエトになる間に起こった悲劇です。そして、日本はソビエトの出鱈目とロシア人の残虐性を知ったのです。
今の中学生の教科書にシベリア出兵のことが書かれているならば、歪曲した歴史館の中で記述されたものだと思いますから、シベリア出兵に関連づけて尼港事件も掲載されるべきだと思います。
ところで、
>この写真は、尼港の獄舎の中で発見された写真です。
獄舎の壁に書かれていました。
これを見て、私は森村誠一の「悪魔の飽食」を思い出しました。
悪魔の飽食の一番最後の部分には、日本軍により中国共産党の捕虜がさつ害された後に、壁体にこれに近い言葉が書かれていたとすることで、インパクトを強めていました。
もっとも、あの本も中国人から聞いたこととして作品にされたようですが、中国共産党とは戦闘をしていませんので(日本軍が戦争したのは国民党軍です。)、捕虜が有った場合は国民党の兵隊です。
もっとも、ねずさんも説明されていますが、731部隊は防疫部隊であり、こんな小説のようなことは、日本人はしません。
2016/05/24 URL 編集
ウラジミール
ニコライ2世に退位を要求したのは、ゲオルギー・リヴォフを首班とするロシア臨時政府です(2月革命)。共産主義者の言葉を借りると「ブルジョワ立憲主義者の政府」です。このとき、レーニンはスイスにいました。
レーニンは臨時政府を打倒して「人民委員会議」を創設、憲法制定議会選挙で勝利した社会革命党左派(エスエル左派)を武力で排除して政権を奪取します。なお、拘束されていたロマノフ一族を処刑するように命じたのは、権力奪取後のレーニンです。
2016/05/24 URL 編集
ネコ太郎
ブログ名『しばやんの日々』です。
「わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか」
ttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html
「『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか」ttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html
「スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応」
ttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-449.html
これら一連の記事は『戦後マスコミ回遊記』柴田秀利著(中央公論社)という現在でも入手可能な本の紹介記事です。
大東亜戦争は日本の政府、軍人に浸透していた共産主義者がコミンテルンの指導のもと中共や米国ルーズベルト政府内の共産主義者と共謀して引き起こし、引き延ばされたものであり、日本は破滅的な犠牲を払わされ、現在に至るまでその影響下にあるというものです。アメリカは戦後日本側の調査で慌てて赤狩りを始めました。日本は分かっていても赤狩りができていません。
大東亜戦争で戦ってくださった英霊の方々には感謝してもしきれません。しかし、それでも先の大戦は犠牲が多過ぎたと言えるでしょう。その最大の原因が日本、米国の中枢に浸食していた共産主義者の工作であり、その影響が現在もメディア、政治家(自民党を含む)、官僚、文系学者に残っていて害をなしているとするなら注意を喚起すべきと思います。まったく共産主義こそ悪魔が産み出した人類史上最悪の邪教というべきでしょう
2016/05/24 URL 編集
junn
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2016/05/22/192543
2016/05/24 URL 編集