彼はいまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。
入学時の成績は、150人中21番です。
卒業時の成績は、144名中2番です。
同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎がいます。
旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
卒業時の成績が生涯ついてまわります。
戦後は、このことによる弊害ばかりが強調されていますが、当時の成績順というのは、もちろん単に学業の成績が良ければ事足りるというものではありません。
なにせ、ひとりの生徒に、教師が4人も5人もついて、徹底的に鍛え上げるというのが当時の兵学校です。
すべてを見極めた上で、序列が決められるのです。
ただガリ勉して学科試験の成績が良くなれば上位というものではありません。
栴檀は双葉より芳し。
その栴檀を、双葉から徹底的に鍛え上げていたからこそ、成績順が大事なものとして扱われたのです。
昨今では、日教組が平等教育をうたい、成績の公表すらしない学校が増えていますが、はき違えもいいとこです。
いいものはいい。悪いものはわるい。
能力には上下があるのです。
人として対等であるということと、能力の差異は、まったく別な議論です。
とくに軍隊は、実戦において無能な指揮官が上に立てば、部下は全滅します。
「誰もが平等」というわけにはいかないのです。
これは企業におけるビジネス戦争でも同じです。
日教組の「誰もが平等」なる思想の子供たちへの強要は、教育の名を借りて役立たずの社会人を育成している、それだけで反社会的行為です。
山口多聞は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属しました。
もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦でした。
そして軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向します。
船舶や陸戦は、水平運動です。
潜水艦は水平運動に垂直運動が加わります。
つまり動きが上下左右の三次元行動です。
潜水艦の専門であった山口多聞にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすい媒体であったのです。
山口多聞は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らしました。
彼は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしています。
ちなみに山本五十六はハーバート大学で学んでいます。
そして両者とも、駐米武官を経験した国際派です。
またたいへんな愛妻家、子煩悩家としても知られています。
もともと合理主義の家系に育った山口多聞が、海軍兵学校でその合理主義にさらに磨きをかけ、そして駐米武官として米国の大学で学んだのです。
その合理主義的頭脳に、いっそうの磨きがかかったであろうことは、容易に想像がつきます。
その山口多聞が、駐米武官として最も関心を抱いたのが、日米の国力の違いだったそうです。
なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。
日本は石油消費量の90%を輸入に頼り、しかもそのうちの70%を米国から輸入しています。
石油の備蓄量は、聯合艦隊の2年分だけです。
米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということです。
戦艦を建造するための鉄鋼産出量は、米国は日本の13倍です。
日本は資源輸入を米国に頼っていたのです。
その日本が、米国との関係を悪化させるということは、日本は「資源を失う」ということです。
当時、日本国内では、メディアがさかんに鬼畜米英などといって米国との開戦を煽っていましたが、これが現実なのです。
もし日本が米国と開戦するとなれば、日本は資源を南方の東南アジア諸国に求めざるを得なくなります。
開戦相手は米国だけでなく、東亜諸国を植民地として支配するオランダや、フランス、英国などとも戦争をしなければならなくなることを意味します。
しかも日本は国際連盟から委託された南方の島々の平和を守る責務を負っています。
つまり日本は、太平洋の島々から東南アジア諸国にまで戦線を拡大しなければならなくなるのです。
すでに、Chinaではイクサがはじまっています。
これをさらに我が国が戦線を拡大するということは、我が国の国防力を分散させます。
国防力の分散は、すなわち国防力の弱化です。
ですから、米国の現状をつぶさに見聞した山口は、米内、山本らとともに、日米開戦に堂々と反対しています。
この時期、多くの日本の陸海軍人が、日米開戦に反対だったことは注目に値することです。
武人というのは、合理性を尊びます。
戦いは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるものだからです。
そして戦いに敗れることは、武人にとっては即、死を意味します。
死を恐れはしませんが、無駄死にになることは絶対に避けたいし、部下をそのような戦いに用いたくない。
それは、人して当然の思いです。
ところが文人は、能書きが先行します。
平和を維持しよう、戦いはいけない、などなどです。
客観性よりも思想が優先されるのです。
しかも権限に「死」という責任が伴いません。
シビリアン・コントロール(文民統制)なるものが、いかに「いかがわしい」ものであるかは、歴史が証明しています。
「武人は戦争を起こすから、文人が制御すべし」というけれど、私はそんなものは虚構にすぎないと思います。
むしろこのことは、権限と責任の問題として考えるべきことと思うからです。
明治維新で戊辰戦争を戦ったのは、武人たちです。
明治27年の日清戦争も、武人によって開戦が行なわれました。
ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止しようとしたのです。
この日清戦争が、国際的にみて「やむを得ない戦争」であったことは、歴史が証明しています。
けれど日清戦争は、国力からしたら数十倍の国力を持つ清国との戦いです。
日本は、からくも勝利し、ロシアの南下を阻止することに成功していました。
しかし日清戦争による戦果、すなわちロシアの南下をまるで無駄にして、あらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、文人たちの無責任です。
武人が多大な命を犠牲にして日露戦争に辛勝すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげくChinaを蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて、日華事変に至らしめたものは、無責任な人道主義に基づく文人たちの「平和外交」です。
平和を愛する「文人統制」といえば聞こえは良いです。
しかし、責任を伴わない者に権限を与えることは、結果として国民が迷惑を被るのです。
そのことは歴史が証明しています。
さて、大東亜戦争開戦時、山口多聞は海軍少将で、第二航空戰隊司令官でした。
日米開戦が決定すると、山口は航空母艦「飛龍」に乗って、真珠湾攻撃に出撃しました。
日米避戦論者であっても、ひとたび開戦が決意されるや、命をかけて戦い、国家を護らなければならない。
それが軍人の使命です。
開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施しました。
この頃、山口は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されたそうです。
「丸」は、彼が太っていたからです。
「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。
山口は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていたし、大飯ぐらいで、体力も強かったそうです。
それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に一切の容赦などありません。
ほんのわずかなミスも許さない。
当然のことです。
150倍の国力を持つ米国と、さらに世界の85%を支配する白人国家全部を相手に日本は戦うのです。
頭が痛い、腹が痛いなどと、甘ったれは一切許さない。
ある日山口は、みなに聞こえるように、
「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、
ありゃいったいどんな感じのものなのかね」と言ったそうです。
訓練生たちにはこの言葉が相当ショックだったらしく、いまも語り草になっているのですが、山口多聞は本気だったのです。
山口多門に訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込んだとき、全員がびっくりしたそうです。
艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされていたのです。
居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれていました。
ドラム缶はむろん、一斗缶まで動員されて、ところ狭しと置いてあったのです。
山口が、船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げさせたのです。
そのため居住区まで重油の臭気が満ち、船の航行中は、船体のピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかったといいます。
それくらい大量の重油が積載されていました。
なぜでしょうか。
実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていました。
けれど両船とも航続距離が短かいのです。
これが第一の理由です。
平時なら油送船を一緒に連れていけばよいだけのことです。
然料が切れたら 洋上で補給すればいい。
けれど、真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動です。
連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定しています。
冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
しかも、のんびり航海していて、途中でどこかの国の船に発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。
要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのです。
そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになってしまいます。
ですから当初、軍令部(大本営海軍部)は、飛行機は他の空母に搭載して、この三艦は内地にとどめおくべし、と決定しました。
けれど、これを聞いた山口少将は、烈火のごとく怒り、即座に南雲中将に面会しました。
そして南雲中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくったのです。
結果、山口の強い抗議と要望で三空母が、作戦に参加することになりました。
なぜ山口は、ここまで航空機にこだわったのでしょうか。
彼は戦争が「艦隊主義」から「航空戦の時代」に変わったことを知っていたのです。
ここにも、先例主義でない、あくまで合理性を尊ぶ山口の個性があらわれています。
理由の第二は、山口の標的は、真珠湾だけでなかった、ということです。
真珠湾にいる米艦隊は、日本が攻めて来ることを予期し待機しています。
だからこそ米艦隊は日米の中間点である真珠湾に艦隊を配備したのです。
だからこそ日本海軍は真珠湾に向かったのです。
もっとも真珠湾で米艦隊が、あれだけの大きな被害を受けたのは、米国の予想をはるかに上回るものでした。
これは日本が真珠湾で、「航空機による浅瀬での魚雷攻撃」という新戦法を、世界で初めて実用化したからです。
真珠湾は浅い湾です。
浅いから敵潜水艦は入れません。
水雷艇がやってくるには、ハワイはあまりにも日本から距離がありすぎます。
ということは真珠湾は魚雷攻撃の心配がないのです。
ということは、米軍が注意を払わなければならないのは、日本の航空機による爆撃と、艦砲射撃だけとなります。
まだGPSによるピンポイントのミサイル射撃などなかった時代です。
揺れる海上から撃つ日本の艦砲射撃に対し、海面が静かで揺れない湾内と、陸上砲台から撃つ米軍の対艦攻撃の方が有利です。
加えて、戦闘態勢をとった戦艦は、絶対に航空機には破壊できないと、当時は考えられていたのです。
その航空機にさえ、多数の米戦闘機部隊を配備することで、十二分に対抗できる。
真珠湾攻撃が、米国にとって、米国の欧州戦線参戦に際して必要なことであり、あえて日本を真珠湾に誘い込もうとしたということは、近年、様々な米国の公開資料によって明らかになってきていることです。
けれども、ルーズベルトの予想と政治は、あくまで真珠湾基地に日本を誘い込み、日本に攻撃をさせながら、逆にこれを徹底して撃退し、米国の強さを世界にアピールするとともに、米国内の国民世論を開戦に向かわせようとするものだったのです。
ここは間違えてはいけないポイントです。
ルーズベルトは真珠湾を日本に晒し、攻撃を受けることを待ち受けましたが、そこで日本にやられるとは、まったく予期していなかったのです。
ところが日本は真珠湾で、米軍がまったく予期していなかった「航空機による魚雷攻撃」という、当時の世界の常識にはありえない前代未聞の戦法をとり、真珠湾の米海軍の艦船を全滅させました。
あり得ないことが起こったのです。
そしてそれが「ありえないこと」であったことは、戦後、まったく語られて来なかったことです。
なぜなら、「日本に攻撃をさせるだけで、絶対に壊滅することのない真珠湾」という所期の予定がくつがえされて、真珠湾が壊滅したことを掘り下げられると、米国と日本の開戦時の関係のもたらす意味が、まるで違うものになってしまうからです。
どういうことかというと、「日本に真珠湾を攻めさせて、その攻撃を米軍が跳ね返す」という予定が、「日本に真珠湾を攻撃されて、真珠湾基地が壊滅した」という結果を招いたことは、これは明らかなルーズベルトの失政ということになります。
そしてもっと大事なポイントは、この真珠湾攻撃において、日本は「航空機による戦艦の壊滅」という当時の常識では考えられないほどの戦果をあげながら、真珠湾における他の周辺施設、すなわち、石油の貯蔵施設や、爆弾などの収蔵施設、あるいは非武装の米兵たちがいる兵舎などに対して、一切の攻撃をしかけていないことです。
繰り返しになりますが、当時、「戦闘態勢をとる戦艦は、絶対に航空機では沈めることができない」というのが、世界の軍事の常識です。
その戦艦が、真珠湾にいるのです。
しかも日本の爆撃機を迎え撃つために十分な数の戦闘機が待機しています。
常識で考えたらわかるのですが、爆撃機というのは、重たい爆弾を腹にかかえていますから、空で軽快な行動をとることができません。速度も遅いし、小回りもきかない。
これに対し、戦闘機は、速度も速いし、小回りも利きます。
つまり、戦闘機からみたら、爆撃機というのは、撃ち落としのための格好のネタでしかなかったのです。
日本が真珠湾に攻撃をしかけてくるならば、それは日本の艦隊では、海上からの陸上への攻撃となりますから、陸上にたっぷりと防衛施設を持つ米軍が、圧倒的に有利です。
しかも戦艦は、戦闘機では沈めることはできず、やってくる爆撃機は、戦艦の持つ速射砲の餌食になる。
加えて日本の爆撃機は、米軍の戦闘機のネタです。
そうなれば、日本は、真珠湾の米艦隊へも攻撃をしかけるだろうけれど、いきおい、狙いは、真珠湾の基地施設、つまり石油の貯蔵庫や、爆弾などの兵器の貯蔵施設、あるいは米兵たちの兵舎になるであろうと予測がつくわけです。
従って、これに対する守りをきっちりと固めていれば、真珠湾が壊滅することはない。
むしろ、遠路はるばるやってくる日本軍の側が、ネタになるのです。
当時、真珠湾に米空母がいなかったことを問題視する人もいますが、ルーズベルトの目的は、日本を追い込んで日本に真珠湾を攻撃させることにあったわけです。
もし、そこに空母がいれば、米国は日本を攻撃に行く意思があったことになりますし、対空防衛力の弱い空母を、何も日本が来るとわかっている真珠湾においておく必要もなかったのです。あたりまえのことです。
そして日本の攻撃は、戦艦への攻撃は航空機では無理、日本の戦艦による艦砲射撃も当たらないとなれば、日本の攻撃は爆撃機による米軍兵舎や、補給施設に限られると予想できます。
そうであれば、米大統領府は「卑劣なジャップ」という印象を米国民に与えることができるし、その日本の攻撃を真珠湾で圧倒的な戦力で「防いだ」となれば、米軍への世間の評価は圧倒的なものとなり、欧州戦線への参戦も容易になるし、おそらく総力をあげてやってくるであろう日本海軍に大きなダメージを与えることで、東亜の攻略さえも容易になる。
それがルーズベルトの「もくろみ」です。
ところが、日本の攻撃は、意に反して、絶対に沈まないはずの米戦艦に向けられたものだったし、日本は真珠湾基地の米軍兵舎や補給施設には、まったく攻撃をしかけない。
しかけないどころが、圧倒的な戦いで真珠湾の米太平洋艦隊そのものを壊滅させただけで、悠々と引き揚げてしまいました。
ということは、日本には、米国を侵略する意思などまったくなく、誰がどうみても、日本はあくまで米国の日本への政治的干渉に対して、乾坤一擲の大槌をふるっただけ、ということになります。
国家の行う戦争というのは、ただ武力を行使するだけの暴力事件ではありません。
充分に計画された政治的問題解決のための手段です。
実際、日本の意思はまさにそこにあったわけです。
「日本に真珠湾を攻撃させて、これを完璧に防ぎきり、米軍の強さを世界にアピールし、返す刀で日本の海軍力に壊滅的打撃を与える」というルーズベルトの「もくろみ」は、完全に崩れました。
米国の真珠湾基地は、日本の艦隊に一発の報復もできることなく、またたく間に、壊滅してしまったのです。
しかもその攻撃は、米軍の「待ち構えていた」攻撃施設に対してだけ行われました。
つまり、真珠湾攻撃で、日本は、米国の対日強硬戦略という政治目的を粉砕したわけです。
そこに日本の真珠湾攻撃という政治目的があったし、そのことは日本の攻撃の仕方、引き揚げ方に明確に現れているわけです。
ようするに日本は、真珠湾攻撃を、あくまで政治目的達成のための手段と位置づけていたということが、ここに明確になります。
このことは、また項をあらためて詳述したいと思います。
一方、読みが外れて困りきったルーズベルトは、まったく異なるへ理屈を持ち出しました。
それが「リメンバー、パールハーバー」です。
「侵略されて反撃するのは正当な戦争行為」という、世界の常識を持ち出したのです。
つまり、これは後講釈です。
そして後講釈であるからこそ、米国は、あくまで対欧州戦線参戦のために、日本を追いつめただけであったのに、結果として太平洋側にまで大きな戦力を割かなければならなくなり、多数の米国人の命を犠牲にしています。
最近、米国内でも、こうした議論が行われるようになってきました。
このことは、おそらく戦後世界の体制を一変させるインパクトを持つものに育っていくことと思います。
真実は、嘘で覆い隠すことはできないのです。
山口多聞中将は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないから、真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すべきあるという立場をとっていました。
そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができない。
これはまったくの正論です。
戦争である以上、勝たなければならないのです。
そのために必要なことを、武人として、山口は堂々と主張し続けていたのです。
けれど、その山口案は、退けられてしまいました。
それでも山口は、情況次第では、そこまでの攻撃をしておく必要性有りとして、ところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。
山口多聞は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。
学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。
しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒る。
体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない。しかもその怒りに筋が通っている。
いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。
しかし、筋の通らないことに怒るのは、男子の美徳です。
さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。
山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。
当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。
六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。
そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせました。
時刻到来。空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。
十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちました。
そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。
待ちに待った電報でした。
このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、
「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。
これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。
米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。
********
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。
日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。
この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
********
実は、山口多聞は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。
真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。
このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。
山口は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。
しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。
双眼鏡を顔から離した山口多聞は、
「南雲さんはやらんだろうな」とつぶやいたといいます。
南雲大将は武人です。武はあくまで敵を懲らすものであり、むやみに戦線を拡大すべきものではないという、信念の人でもあります。
ですから真珠湾での徹底した破壊はしないで、むしろ日本の圧倒的な強さを見せつけ、あとは外交によって、和平の道を探る。そのための道を閉ざしてはならないと考えました。
日本は、真珠湾で米軍の施設を徹底破壊し、そのまま真珠湾を占領し、そこを拠点にして米本土への攻撃をしかけることもできたのです。
それだけの軍事力は日本にあったし、米本土が焦土となる事態となるならば、それは米国としても絶対に防がなければならない事態です。
それだけのことが「できる」ということをはっきりと示したうえで、外交によって問題の早期解決を図る。
真珠湾攻撃の時点における日本の国家としての狙いも、まさにそこにあったのです。
まさか、宣戦布告文書を、前の日の宴会の二日酔いで、モタモタとさぼって米国に日本の駐米大使が手交を遅らせるなどとは、誰も考えない。
堂々と宣戦布告文書を手渡し、その直後に、日本軍の襲来を意図的に待ち受けた真珠湾が壊滅したとの報告がはいれば、それだけで、日本の外務省は、堂々と米国に対して、和平をもちかけ、それ以上の戦争を抑止することができたはずなのです。
ところが、日本の駐米大使は、寝ぼけて宣戦布告文書の手交を遅らせました。
それによって、日本は、「だまし討ちだ」とそしられる外交上の隙をつくり、結果として長引く大戦へと引きずり込まれてしまったわけです。
宣戦布告文書というのは、国家間の戦争に必ず必要なものではありません。
むしろ宣戦布告などないままに、始まるのが戦争の一般的な姿です。
世界の歴史をみたらわかりますが、宣戦布告をしてから戦争が始まるのではなくて、宣戦布告が行われた時は、逆に戦争に至らないことの方が、世界における常識です。
宣戦布告があれば、その戦争をはじめないために、当事者両国が真剣に努力するからです。
もし日本が、米国と徹底戦争をするつもりならば、宣戦布告など、そもそも必要ありません。
事実上、米国の領土、了解をどんどん侵蝕していけば良いのです。
いまのChinaが、東シナ海や南シナ海を侵蝕しているのと同じです。
米国の領土了解を、蚕食し、できるだけ前線基地を米本土に近づけて、米国への本土空襲を行い、米国政府を降伏させて、米国を日本の占領下におけば良いだけのことです。
ですから戦いの政治目的がそこにあるならば、日本は真珠湾の米軍基地を配給施設まで含めて徹底的に壊滅させ、真珠湾に上陸し、そこを占領し、ハワイを日本の占領下におさめ、そこを拠点として米国本土への攻撃を加える。
そこまでするのが、戦争というものです。
戦いに勝つには、そこまで徹底した攻撃が必要なのです。
ですから、戦いのプロとして、山口中将は、第二波、第三波の攻撃を進言しました。
けれど、最終的に彼も、南雲大将の指揮に従いました。
大将の意図することを、山口中将自身が、ちゃんとわかっていたからです。
日本は、古来、平和を愛する民です。
しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪う。
そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。
平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。
残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。
そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。
さて、開戦から半年後、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きました。
海戦に先立ち、山口は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。
********
ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。
そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、
空母を中心とする機動部隊を編成すべきである。
空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、
敵機の襲来に備え、
少なくとも三機動部隊を出撃させなければならない。
********
しかし、アリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となってしまっています。
ミッドウエー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しました。
進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。
船は魚雷でなくては沈みません。
しかし、山口は攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。
だからまず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張しました。
すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できないのです。
仮に出撃していたとしても、敵航空機は、最早着陸することができない。
敵航空機は、燃料切れとともに海に没するしかなくなるのです。
しかし、南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。
これが仇になりました。
初動対応を遅らせてしまったのです。
敵に先手を許してしまう結果となりました。
午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、聯合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまったのです。
7時10分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。
「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。
山口は、即座に第一次攻撃隊(艦爆18機、艦戦6)を発進させました。
このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。
「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。俺も後から行く」
すでにこの時点で、山口は死を決意していました。
第一次攻撃隊を発進させた山口は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」を単独で爆走させました。
米空母をめざしたのです。
そして進撃しながら、艦隊司令部に「各損害空母には駆逐艦一を付け、主力部隊の方向 に向かわしめられたく」と要請しました。
この時点で、これは要請とというより命令です。
部下が上司に命令した。
カタチはどうあれ、この時点でもはや他に選択肢はないのです。
生き残った聯合艦隊は、飛龍のあとを追います。
9時10分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を発見しました。
敵空母からは、猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させた。
10時30分、山口の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機10、 艦戦6を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容します。
このとき生還できた機は、発進した24機中、わずか6機でした。
いかに激戦であったかがわかります。
11時45分、第二時攻撃隊が敵空母に到達します。
そして日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮して、魚雷2本を命中させます。
山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた、残りは空母一隻と判断します。
けれど実際には、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、最初に爆撃を成功させた空母「ヨークタウン」だったのです。
つまり、米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷でした。
12時20分、山口は、司令官、第三次攻撃の実施を、夕方に延期することを決定します。
第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついてしまっていたのです。
乗員の疲労も極限に達していました。
午後2時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機13機が飛来します。
敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきた。
このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦といわれています。
「敵機来襲!」と絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、敵の爆弾をなんと7発まで躱(かわ)してしまったのです。
しかしそこまでででした。
見張員が叫び声をあげたのが2時1分、そして2分後には4発の爆弾が、「飛龍」に続けざまに命中したのです。
最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たりました。
昇降機をひきちぎって、空高く放り上げました。
そして舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突します。
艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそぎました。
このため「飛龍」は、一時的に操艦不能になります。
しかしエンジンは動いている。
機関部にいた船員たちは、次々と爆弾が着弾する中、必死の努力でエンジンを回し続けたのです。
「飛龍」は、走りつづけます。
しかし、機関部に海水が流れ込む。
船員たちは、油まみれになって必死の努力で海水を掻い出すのだけれど、日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止してしまいます。
海面が静かな月光に照らされていました。
海上は、夕凪で、波ひとつない静けさです。
その洋上を、「飛龍」が漂う。
浸水がはじまり、艦が左に傾き始めます。
深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、
「残念ながら、飛龍の運命もこれまでと思います。総員退去の許可を求めます」と申し出ます。
山口と加来大佐は、二人揃って、黙って飛行甲板の左舷部に降りました。
そこはまだ火の手が回っていなかったのです。
そこに、汗と煤煙に汚れた800名の乗組員たちがいました。
彼ら乗組員たちは、山口と加来を取り巻きます。
このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。
********
月のせいで、そんなに暗くなかった。
艦は30度くらい傾いていたのではなかったか。
山口司令官の訣別の訓示は、
「皆のお陰で、他の三空母(赤城、加賀、蒼龍)の分もやった。
敵空母二隻と巡洋艦一隻をやつけた
(と、我々はそのときそう信じていた)
どうもありがとう。
しかし飛龍をみて分かるとおり
内地に帰還するだけの力ははすでにない。
艦長と自分は、 飛龍とともに沈んで責任をとる。
戦争はこれからだ。
皆生き残って、より強い海軍を作ってもらいたい」
と訓示した。
********
その場にいあわせた生存者全員が泣いたそうです。
日本男子は、声をあげて泣くことをしません。
人間、ほんんとうに辛いとき、声など出して泣かないものです。
みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロとながしました。
みんなが泣いていました。
そしてみんなで、日本の方向を向いて、山口長官の音頭で万歳をとなえました。
「飛龍」に高らかに掲げられていた軍艦旗と将旗を降ろしました。
退艦儀式を手順どおり進ませました。
主計兵曹がまず、御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶり先頭にたちました。
そして、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦しました。
日本の駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出してくれました。
そのときです。
山口を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、
「司令官!」
と大きな涙声で呼んだのです。
「何か頂く物はございませんか」
山口多聞はふり向き、こんなときでもニヤリと笑ったそうです。
「これでも家族に届けてもらうか」
そう言って頭にかぶっていた黒の戦闘帽を脱きました。
伊藤中佐が受け取りました。
山口は「それをくれ」と、彼が腰に下げていた手ぬぐいを指さしました。
空母が沈むとき浮き上がらぬよう、自分の体をどこかにくくりつけるつもりだったのでしょう。
でも本当は、みんながいなくなったあとに、涙をぬぐう手ぬぐいがほしかったのかもしれません。
日付が変わった6日午前2時、白煙を上げながら漂う「飛龍」に、駆逐艦「巻雲」から二本の魚雷が発射されました。
戦後、ハーマン・ウォークという作家が、「リメンバランス・オブ・ウォー」という本を書いています。
彼はこの本の中で、次のように書いています。
********
ミッドウェー海戦で米国太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、
海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、
陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。
そのため、ヨーロッパや、北アフリカでイギリスを助ける力が弱まり、
(中略)
イギリスは絶体絶命となり、
ヒトラーがヨーロッパの勝者になった可能性が高くなったであろう。
********
ミッドウエー海戦は、なるほど日本の負けに終わったけれど、戦いはまさに伯仲の戦いだったのです。
もし、このとき日本が先に米海軍の機動部隊を発見していたら、海戦は日本の勝利に終わっていました。
戦闘が始まったとき、もし日本が陸上用爆弾を搭載したまま、敵空母を叩いていたら、日本が海戦に勝利していたことでしょう。
いやそれ以前に、もし日本が、真珠湾で米国のハワイ軍事基地を補給基地ごと叩き、さらに敵空母を壊滅させていたら、ミッドウエーは日本の完全勝利に終わったことでしょう。
ミッドウエーは、それほどまでに伯仲した戦いだったのです。
山口多聞は、当時もいまもこれからも、世界の海軍史上に名を残す名提督です。
享年49歳。
そんな提督がいた帝国海軍を、私はとても誇りに思います。
ところで戦後に秘匿された歴史の真実のひとつに、実はこの戦いで、米軍の哨戒機を、日本の哨戒機が先に発見していたという事実があります。
米軍の哨戒機が飛んでいるということは、近くに空母がいる、米艦隊がいる、ということです。
そのことをすぐに日本の哨戒機が、ちゃんと通報していたら、その時点で日本は先に戦闘配備を済ませ、ミッドウエーに100%の確率で勝利していたであろうといわれています。
ところが歴史はそうは動きませんでした。
米軍哨戒機を発見した日本機のパイロットは、その発見の報告を握りつぶしてしまったのです。
戦後、そのときのパイロットは、名前を変え、航空自衛隊の幹部になりました。
それを見つけたある元パイロットが、本人の胸ぐらをつかんで問いただし、事実が明らかになりました。
なぜ、そのときの日本のパイロットは、報告を握りつぶしたのでしょう。
彼は、帰隊したあと、米軍の哨戒機を見つけながら、それを撃ち落とさなかったことで責任を問われることが怖かった、と白状してのだそうです。
しかしそのために、多くの日本兵が犠牲になりました。
そしてミッドウエーの敗戦によって、日本は制海権を失い、大東亜の敗戦に至っています。
ときどき思うのです。
真珠湾でもし、日本が米軍の施設の徹底した破壊を行い、そのまま真珠湾に上陸してそこを占領していたら、その後の歴史はどう変わっていたのだろうかと。
もし、ミッドウエーで、そのパイロットが、勇気をもって早期の報告をし、日本がミッドウエーに勝っていたら、その後の歴史はどのように変化していったのだろうか。などなどです。
神々のご意思は、人の身では計り知れないものです。
ただ、よく言われることですが、戦前の日本はたしかにいっぱい良いところがあったし、とてもつもなく強かったけれど、どこかで日本が、あるいは多数、もしくはほんのひとにぎりの日本人に、謙虚さを欠き、他の諸国の人々を見下す弊はなかったといいきれるだろうか、ということです。
民族ごとに違いはあります。その違いを明確に区別し、よくない者たちに対して、一定の警戒をすることは当然のことであると思います。
けれど、警戒と蔑視は異なるものです。
いまわたしたちは、お隣の国を見て、夜郎自大になっている姿に、辟易しています。
日本が同じようになることなど、おそらく日本人なら思いもよらないと思います。
日本は、武の国ではありません。
どこまでも和と結いの国です。
逆にいえば、先の大戦の敗戦、そして占領、高度経済と20年の沈滞という、様々な経験を経て、またかつて植民地支配を受け、教育さえも奪われていた世界の様々な国が、戦後に自立独立を果たし、誰もが一定の教育を受けることができるようになってきたいまようやく、日本は、本当の意味で世界から対立や闘争をなくす、世界の民衆にとっての素晴らしい世界を提示できるスタートラインに立つことができるようになったといえるのではないでしょうか。
そして、そういう新しい世界を提案していくのは、日本人であるわたしたちの両肩にすべてがかかっているということなのかもしれません。
※この記事は、2010年3月の記事のリニューアルです。


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コメント
ポッポ
この考え方には、異論があります。
ルーズベルトはチャーチルに、欧州戦線への参加を要請されました。
しかし、戦争をしないと謙虚で公約していたルーズベルトは、日本から開戦させる必要があったため、ハルノートを突きつけ、日本は戦争に踏み切りました。
ルーズベルトは、日本に参戦させれば良かったのですから、ハワイの戦艦群を囮に使うよりも、当時の米国はまだまだ戦艦が中心であったのならば、空母を囮に使う選択肢も有ったのです。
日本が開戦する場合、フィリピンの米軍基地(スーピック海軍基地及びクラーク空軍基地)を攻撃することは予想されましたが、それ以上は予想しなかったと思います。
これらのことから、理由は後付けで、米国はハワイ空襲を予想していたとして、余裕を見せることで、国民からの批判を交わすとする方が、合理的だと思います。
大東亜戦争に於いては、戦果と被害について日本ばかりが大本営発表のみが出鱈目と思われていますが、米国でも風船爆弾や潜水艦(伊15)搭載機からの爆撃は太平洋岸の住民に相当の恐怖感を与えています。それで、これらの被害は、公表されなかったと考えられます(これらの損害を、日本保知ることが出来ませんでした。)。
ミッドウェー海戦についてですが、出港時から日本は勝ったつもりの艦隊編成で、空母部隊、戦艦部隊、輸送部隊を綺麗に並べたものでした。それに較べて米国のそれは、ありったけの戦力だったと思います。
米国は航空機の使用に成功しましたが、戦艦部隊を使えなかったと言うことです。
>米軍哨戒機を発見した日本機のパイロットは、その発見の報告を握りつぶしてしまったのです。
このことは、全く知りませんでした。歴史にIFは付き物ですが、情けないというか、悲しいことです。
>いまわたしたちは、お隣の国を見て、夜郎自大になっている姿に、辟易しています。
6月5日の川崎市におけるデモを中止させたのは、隣国民でした。
しかしながら、デモ隊は共産党を非難しただけでヘイトスピーチをしていません。
もっとも、デモ妨害のために何を言ったのか分かりませんでした。
この場合、デモはヘイトデモではなく、それ以外のものです。と言うことは、警察は日本国民の憲法で保障する表現と言論の自由を破壊し、反デモの集団が正当な理由のないデモ潰しを、行ったと言うことになります。
正当な手続きで許可したデモを、不法なデモ潰しの意図に沿った行動をした警察に対して怒りを覚えました。
2016/06/08 URL 編集
まつ
戦前は統帥権なるものがあってシビリアンコントロールが機能していなかったのに「いかがわしい」とは言えないと思います。
2016/06/08 URL 編集
福井一法
私は73歳、ミッドウェー海戦の1月後に生を受けています。日本人としては真に残念な海戦でした。しかし、それはそれで受け止めなければならないと思います。
絶対に「もし」はありません。
もしの後の事態が存在するなら、あなたが生まれてくることもなかったのです。いない人間にとって良いも悪いもありません。
2016/06/08 URL 編集
垂逸
ある種の人たちは全体主義的なブラック国家を作ろうとしています。個人に自由が無いほうがそういう人たちに取ってはずっとやりやすいのです。
ですから、個人から自由を奪うために、個人主義と利己主義を意図的に混同させて個人主義を否定します。
アメリカに比べれば、日本の人たちは個人都合を主張しません。ブラック企業で滅私奉公させられてもあまり文句も言わずに過労死するまで働きます。また、国もそういう企業に強い規制を与えるわけでもなく、かえってそのような企業を保護します。
企業が安月給で国民をこき使い、輸出で外貨を稼ぐのは、中国でも韓国でもやっていることです。日本も高度成長期やその前はそのようにして外貨を稼ぎ発展してきました。そしてバブルに突入し、方針の転換が出来ないままにバブルを崩壊させてしまいました。その挙句が、輸出で稼ぐために国民の給与を下げて為替レートを下げるという発展途上モデルに戻そうとしています。発展途上モデルに戻すためには、国民の自我が発展しすぎて過去のように簡単には行かない、ということで、法律を改定して国民の権利を制限しようとしている、というのが実態でしょう。
バブルの失態は既に取り返しが付きません。しかしそれ以前のモデルに戻すことしか考えられない思考停止の方々には引き下がっていただく必要があると考えます。国民ももっと賢くならないとなりません。
2016/06/08 URL 編集
-
日本人には人類の繁栄に貢献できるものがありながら
上層部がこのように腐敗していては、実現不可能です。
戦前戦中も、上層部が腐敗していたのでしょう。
ドイツ右翼と女性を使ったゾルゲによる
ロシアコミンテルン工作にまんまと騙されていた。
儒教圏は欧米型金融の歴史が浅いので
バブルが起こると自浄作用が働かず、上層部が腐敗してしまう。
金融緩和で中韓などの通貨安戦争に勝つことは必要だけど
資産バブルを起こしたのは失敗でしたね。
9条改憲は必要ですが、日本人の人権を否定してまでやったほうがいいのか?
昭和天皇は何と仰るんでしょう。
2016/06/08 URL 編集
甘木
能力には上下があるのです。
平等教育が日教組の方針か否かについては知りませんが、成績の公表と平等教育がどう関係するのか理解できません。そもそも成績というのは個人情報ですから、個人情報保護法などの関係で簡単には公開できなくなっています。
運動会での競争競技等については、親の苦情等に大きく左右されます。ブログ主氏のお子様は既にそのような年齢を過ぎていると考えられますが、親の考え方というのは時代につれて変化しています。教師ができるだけ親に不満を感じさせない方法をとっている結果と考える方が自然です。
2016/06/08 URL 編集
べーたん
「鬼畜米英」が盛んに叫ばれるようになるのは、戦局の切迫が誰の目にも明らかになった昭和19年に入ってからです。ただし、新聞は「米、極東に武力発言か - 突如ハワイ空軍増強の発表」(東京日日新聞/昭和16年5月17日)、「対日包囲陣とわが臨戦態勢」(東京朝日新聞/昭和16年7月30日)、「英米、狼狽の証 - 日本牽制へ笑止の示威」(大阪毎日新聞/昭和16年8月16日)、『参戦せば米は破滅、英米は日独伊に勝味なし」(大阪朝日新聞/昭和16年11月28日)というようなことを書いていました。
2016/06/08 URL 編集
-
先生がTVに出て欲しいと思うのは私だけでしょうか?
先週の「そこまで言って委員会」をずっと見ていましたが
うわべだけの議論でなぜそこに至ったのかといういきさつは全くありませんでした。いきさつ無しの議論・・・本当にやめて欲しいです。
2016/06/08 URL 編集
花田良春
かくのごとく祖国と家族のために命を懸けて戦った諸先輩のご敢闘に
心より感謝申し上げます。
あとに残された我々も、手を取り合って、些かなりとも国のために
奉公したいと存じます。
(82歳老翁・記)
2016/06/08 URL 編集
junn
http://blogs.yahoo.co.jp/gakumonnoiratume/70865766.html
2016/06/08 URL 編集