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よく、和服の着物のことを「呉服(ごふく)」といいます。
魏蜀呉の三国志の時代の孫権が率いる「呉の国」から伝わった着物だから「呉服」というなどといわれますが、実は違います。
「呉」という字は、訓読みは「くる(繰る)、くれ(繰れ)」です。
そして、糸を繰って織った布地を使った衣服のことを、もともとの大和言葉で「くれはたおり」、または「くるはたおり」といいました。
その「はたおり」が長い時代のなかで言葉が常識化し短縮されて、「はとり」となりました。
「はとり」は、服を織(お)る部(べ)ですから、「はとりべ」で、これがやはり短縮されて「はっとり」となり、この意味をあらわす漢字として「服部(はたおりべ)」が用いられるようになり、これが転じて「はっとり」となっています。
そして「糸を繰って」つくった布で服を織ったもののことを「くれはた」といわれたものが、やはり漢字で「呉(くれ)服(はた)」と書かれるようになり「呉服」と書いて「くれはた」と読まれるようになったわけです。
そして「呉服(くれはた)」は、漢字の音で読んだら「呉服」です。
それで「はたおり」で作られた着物のこと全般が「呉服(ごふく)」と呼ばれるようになったわけです。
そもそもChinaの「呉」の国は、孫権が打ち立てた国ですけれど、この国は西暦229年に成立し、西暦280年には西晋によって滅亡させられています。
つまり、呉が国家を営んでいたのは、わずか51年のことでしかありません。
そしてこの時代に、魏志倭人伝が書かれたことに明らかなように、日本(当時は倭国)は、呉とは敵対している魏とむしろ仲が良く、逆にいえば、呉は敵国の範疇ですから、この時代に日本が「呉の衣装の影響を受けた」というのは、いまいち考えにくいことなのです。
これは現代にも通じることですが、被服などの習慣は、文化的優位性のある国や地域から、遅れた国へと伝播するものであって、その逆はありません。
逆が起こる・・・つまり文化の遅れた国から、文化の進んだ国へと伝播するのは、スラングや暴力、隠語や売春など、風俗や暴力、つまり裏世界に関することに限られます。
早い話、英国が七つの海を制したから、世界のビジネスマンの衣装は英国風背広とネクタイになったわけです。
あるいは、文化的先進国とみなされた英国からやってきたツイギーがミニスカートだったから、日本中でミニスカートが流行ったのです。
では、この時代、呉は、それだけ進んだ文化を持った偉大な国とみなされていたのでしょうか。
そもそも魏蜀呉の三国が鼎立したときに、なぜか魏の曹操だけが、憎らしいくらいに強い宰相であり、魏は軍事大国として描かれます。
それは事実であったようなのですが、ではなぜ魏がそれだけ強い軍事力を誇れるようになったかといえば、魏の後方に倭国という技術大国があったからです。
魏は、倭国との交易のために、わざわざいまの平壌に楽浪郡庁を置き、次いでいまの漢城に帯方郡という郡庁を置いています。
理由は、倭国との交易を盛んに行うためです。
ではそれが何のためだったのかといえば、倭人たちは鉄を作ったからです。
三国志の時代は、Chinaはまだ青銅器の時代です。
その青銅器の時代に、鉄製の武器を持てば、その軍団は世界最強です。
だから曹操は強かったのです。
そして魏と国交を持つ倭国からしてみれば、わざわざ遅れた国である呉とこの時代に付き合う理由はありませんし、呉人の衣装を「かっこいい!」と真似る必要も理由もないのです。
要するに「呉服」というのは、呉の国から渡ってきたから「呉服」というのではなくて、もともと「繰れ織(くれはた)」に「呉(くる)服」という漢字を当てただけのことで、実は呉服と呉の衣装とは、何ら関係などありません。
ちなみに、もともとは単に機織りして作った布で出来た衣装のことを呉服と言ったのに、これが「ごふく」と呼ばれ、なんとなく海の向こうからやってきた服装のようなイメージで受け取られるようになったのことには、歌舞伎が影響しています。
江戸時代のはじめに、派手な衣装を付けた歌舞伎者たちが三国志演義の上演をして、これがたいへんな人気となりました。
日本人はもともと洋モノが好きなことに加えて、なにせ歌舞伎の衣装は派手で恰好いい。
ちなみに史書である三国志と、三国志演義は実は中身はまったくの別物で、演義の方は、なるほど史書の三国志をモチーフにしているものの、桃園の誓いとか義兄弟の契りとか、いわばひと昔前の任侠ものの映画みたいなもので、義理と人情と恋と喧嘩と、弱い正義が強大な悪に最後は必ず勝つという創作ドラマです。
これは関ヶ原以降に生まれた新たな幕府という権威に歯向かうような一種の爽快感をもって庶民感情を刺激して大ヒットし、同じ着物でも、役者のようなかっこいい着物、流行の最先端のモテ系の着物を扱うお店が、呉服屋を名乗るようになりました。
いまでも原宿や青山あたりに、派手な最先端のファッション店がたくさんありますが、江戸のはじめころのああいった派手系のお店が、呉服屋を名乗り、着物の流行の最先端を担ったわけです。
要するに、呉服は、もともとは単に繰って織った布で出来た服」を指す言葉を意味したし、着物は単に「着るもの」を意味した言葉だったのだけれど、江戸のはじめの歌舞伎と三国志演義の出しものの影響で、呉服がなんとなく、海外のモノをイメージする着物の最先端ファッションを意味する一般名詞へと変化し、これが時を経て、江戸の末期には、着物全般を意味する言葉へと変化していったわけです。
ところが幕末から明治にかけて、西洋から男物は筒袖にももひき姿の衣装、女物はすその広がったスカートの衣装が入ってきます。
さらに明治政府は、文明開化のために洋装を奨励しました。
このため、従来の被服が和服、西洋風の被服が洋服と分けて呼ばれるようになったのですが、このとき、もともとあった呉服や着物という名称もそのまま生き残りました。
さてその和服、戦後洋装化に拍車がかかったために、いまや和服は絶滅危惧種になりつつあります。
けれど、着たらわかりますが、自然と姿勢が保たれ、また、夏の暑いときには、人は脇の下にびっしょり汗をかきますけれど、和服はそこが空いているわけです。
やはり、高温多湿の日本の気候にあっているというか、夏、和服は意外と涼しいし、冬は温かいものです。
ところが近年職人さんがみなさん高齢化し、実はあと30年もしないうちに、呉服の柄を書ける日本人の職人さんが絶えてしまいそうな危機にあります。
理由のひとつが、近年の中国柄です。
日本の職人さんに、絵柄を描いてもらうと値段が 高いのでと、Chinaに行って、Chineseの絵描きさんに柄を描いてもらう。
ところが、やはり日本人とChineseの感性の違いで、色使や絵柄から、日本人の職人さんの描く、やさしさやすなおさ消え失せ、派手で手抜きの電飾のようなケバケバしさだけの絵柄となってしまいます。中国柄や中国染では、伝統的な和服の控え目でいるようでいて、精緻でキメの細かな和服の熟練の美しさが出ないのです。
下にある動画は、そんな消えていく昔ながらの呉服を大事に保管なさっている花村文子さんが、このたび出版された本と、その内容のご紹介です。
手元にその本がありますが、昔の着物、涙が出るほど美しいです。



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コメント
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たとえばイスラエルでは、日本の鍼灸や指圧が公立病院で受けられます。なぜこれが国内では不可能なんでしょう。柔道についても、生涯無敗の柔道の達人がブラジルに渡り、そこで弟子たちに教えた技がブラジリアン柔術として急速に広まっているそうです。
今は極端な内向き・自滅志向に陥っていますが、先人たちの各地での活躍に間近に接した人たちから、今の日本に対する評価が確立しているんです。
着物は着るだけで日本文化そのものを体現できます。海外では着物が逆に必要とされる機会が多いので、むしろ海外の愛好者や日本人が、わずかながら着物を消費している現象があるかも知れません。まだお古しか手が出せませんが昔の物で目を養って、いずれ着物を仕立てられたらと思います。
2016/06/27 URL 編集
猫めでる婆
>実際に着る人の感想・・・
実際は好きでもないのに親や義理の親(舅姑)に着せられた人の感想というほうが、より正確と思います。
>疲れる、
体調にもよりますが、背筋がシャンとして気持ちがいいですよ。
着なれていない方は疲れるかもしれませんが、何事も慣れです。
草履をはくと足が痛いという方もおられますが、これも慣れです。
>重い(洋服より)、
重い丸帯ならいざ知らず、袋帯や名古屋帯程度で重いと感じるのは体力が低下しています。
夫を見送った高齢の看病疲れの妻でも喪服を着ますよ、いい若い者が情けないです。
また夏物以外の着物は少々の重みがないと、きれいに着姿が決まりません。
>苦しい(帯二重に巻いたり)、
初心者が本当に苦しいのは腰ひもで、腰ひもを使わない着方もあります。
>暑い(絽でも紗でも)、
日傘をさしましょう。
夏場に涼しく着る工夫はいろいろあり、肌襦袢や裾除けに新素材が使われ涼感が得られるよう工夫されています。
うろ覚えですみませんが、確かNASAが開発した素材もあったはずです。
>メンテが大変(洗濯、シミとり、裾切れなど高い)、
メンテをしっかりしておくと、40年前の着物でも娘に譲ることができコスパがいいです。
裾切れとは、八掛が擦れて切れたことを指すのですか。
八掛だけ交換できますよ。
>袷単衣など現実の気候に合わせるべき、
たくさんの着物ブログを拝見していると、5月でも25度以上の夏日は単衣になさる方が多くなっています。
衣替えの習慣も明治期に始まった歴史のないものだから、着物教室で教えているようなガチガチの着物原理主義は無視しましょう。
もし原理主義者にうるさいことを言われたら、上記のことを言ってください。
余談ですが、街中で見ず知らずの原理主義者らしいお節介ババアに帯や着物を触られ直してあげるなどと言われたら、「きゃー、何をするの」と大声で叫んでもかまいません。
若き日の私はされるがままでしたが、最近のお嬢さんならできると思います。
大切な帯や着物を汚い手で触られるくらいなら、張り手をかまして警察沙汰になってもいいくらいの気概を持ってください。
>決まりごと多すぎ、
それが日本の被服文化を守ることにつながるのでは、と思っています。
でも、決まりごとにとらわれずハッチャケた着方もありますw
>小物が多すぎ、
着物上級者になると、紐二本・伊達締め一枚で綺麗に着られるのだそうです。
>完成され過ぎて、くずせない。
何の何の、基本をきっちり押さえていれば自分なりの着方ができますよ。
基礎を築かないうちにくずすことを考えるのは、どうしたもんじゃろのうw
>行動が自由でなくリラックスできない、etc.
着物の方が多く出席する冠婚葬祭の場でリラックスするほうが、どうかなと思います。
TPOを弁えてその場にふさわしい行動をとるのが、本当の日本人だと思います。
袖をブンブン振り回し大股開きでドスドス歩きたかったら、どうぞそのようになさってください。
ナニ人と間違われるか、知ったこっちゃありません。
以上辛口なコメントですみませんが、怖いのはあなたのコメントを読んで着物を着てみようかなと思っている人が、「やっぱり、やーめた」となってしまうことなのです。
着物初心者さんの一歩手前の方に、どうぞ否定的な事を言わないでいただきたいです。
2016/06/27 URL 編集
蝉
どうして、なんでも「伝わった、渡来した」ということになるのでしょうか。
その逆もありえるという発想がなぜ浮かばないのでしょうか。
私も常に疑問に感じていました。人類という種の発達はどこの場所だろうとそれほど能力に違いはなかったでしょ?環境ですよね。あと歴史。経験の積み重ね。異民族との出会い、戦い。
日本は縄文1万年、その前の何万年の無意識の時間、揺籃期、それほど長く丁寧に暮らしてきた。
だからすべての文化の芽は既に日本人は持っていたのではないでしょうか。
たとえば漢字だってそのまま影響を受ければチャイナと同じ発音、同じ文法になってしまう。朝鮮がその例。
日本風に翻訳してレ点とか使って読み解いたと言うことは、日本が概念をすでに持っていてある意味確立していたことでしょう。そして柔軟性もあるので、必要なものは簡単に取り入れ即使えた。
衣服も刺繍も食事もあらゆる人間の生活文化はそれほど違いがない。
改良されているか、美しいか。あまりに当たり前のものは既にここにあったので問題にもならない。
いま世界中が、日本に渡来したものは我らの物などと言い出している。たとえば寿司や鰹節の原点は東南アジアだとか。歯ブラシ、生活台所製品、耳かきetc.
私はこれだけ長い歴史ある日本国に、他国と並行して生まれなかった理由はないと思う。その芽は並行してあり、それを発展改良させたものを売買したのでしょう。韓国など話すのも問題外だが、チャイナからすべてなどというのはとんでもないことだと思う。そういう思い込みから解放されて研究が進んでほしい。(桜チャンネル、小林達雄氏・縄文文明の・・・はとっても良かったです。縄文人は自然とお話していた。小川はさらさらと・・・かぜはさやさやと・・・等)
2016/06/27 URL 編集
じょあ
これから日常生活でも取り入れてみようと思います。
2016/06/27 URL 編集
絹糸
夏涼しく、冬あたたかい。
洋装よりも軽い。
着心地が良い。
体型も姿勢も乱れにくい。
リラックスできる。
柔道着も空手着も剣道着も合気道着も、着付けは和服と通じるものがありますが、夏でも冬でも道着は不可欠ですよね?
着心地が悪くて重くて使えないなら、道着にもなりません(笑)
2016/06/27 URL 編集
絹糸
>倭人も海洋民族でしたから、海洋民族同士が盛んに交易し、その結果として衣類も物産も同じになってしまったという事を、漢書と魏志倭人伝は示している
と書いていながら、
>絹布の原産地は東南アジアで、そこから華南や日本に養蚕と絹布が伝わったと推測される
と、何がなんでも日本の服飾文化は海外から伝わったと結論づけていますね。
どうして、なんでも「伝わった、渡来した」ということになるのでしょうか。
その逆もありえるという発想がなぜ浮かばないのでしょうか。
>桑は熱帯地方原産の植物なのに、蚕はひどく高温に弱い
とありますが、ということは熱帯から温帯へと大きな気象変動があったところで養蚕が生まれ、生糸がとられるようになり、それが織られて被服となり、さらに工夫されて美しい着物にまで発展していったと考えるのが普通ではありませんか?
何でもかんでも日本生まれと考えることは良くないことと思いますが、同時に、何でもかんでも洋行で日本は遅れた国だったと考えることも政治的な悪意を感じられて嫌味ですね。
2016/06/27 URL 編集
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「古より以来、その(倭人の)使いの中国に詣るときは皆、自ら大夫と称す。」
大夫というのは、中国では春秋戦国時代の諸侯の重臣を意味し、中央集権制になった秦・漢代には使わなくなった称号ですが、魏代にあった邪馬台国の、使者だけでなく、ご漢書に依れば、後漢の初代皇帝に朝貢して金印を貰った倭奴国の使者も、大夫と名乗りました。倭人の大夫の身分は、中国の春秋戦国時代の大夫の身分と同じです。この事は、倭人は春秋戦国時代の中国の、呉や越と交渉があった事を示します。
魏志倭人伝には他に、以下の記述もあります。
「(倭では)稲や苧麻を植え、蚕桑して絹布を作り、細苧・縑緜(上等な絹布)を出荷する。」
AD3世紀に上等な苧麻布(後世の上布)や絹布が生産され、中国に出荷していた事を意味します。単なる絹布ではなかった事が、卑弥呼や台与が魏の皇帝に贈った品物から分かります。
卑弥呼が最初に送った使者は、班布(まだら織りの布)を魏の皇帝に贈りましたが、これは染めた糸で織った絹布だったと考えられます。次の使者は倭錦、絳青縑(赤と青の糸で織った絹布)を贈りました。魏から色々貰ったから、その返礼です。錦も織っていた事が分かります。卑弥呼が死んで台与が跡を継ぐと、更に豪華な物を色々贈りました。その中に「異文雑錦」がありました。異文は、中国にはない文様だったから、名前がない事を意味し、雑は悪い意味ではなく、色々な色の糸で織られていた事を意味します。かなり豪華な錦だったと推測されます。
倭人が何時から絹布を織っていたのかは分かりませんが、魏志倭人伝から引用した2番目の文章は、漢書地理誌の粤の状に記された、海南島の習俗を記した文章から引用しています。
「民は皆、服布は単被の如く、中央を穿って貫頭を為す。男子は耕農して稲と紵麻を植え,女子は桑蚕織績する。」と記しているものを、明らかに引用しています。魏志倭人伝は、倭の物産は海南島と同じだとも記していますから、引用してその事を明らかにした事になります。
漢書は前漢時代(BC1~2世紀頃)の事を記していますが、漢の役人が海南島に近い大陸から、東南アジアの海洋民族の船でインドネシア辺りに出掛け、その地域の人々の習俗は海南島と同じだと記し、そこの人達から絹布を買っている事も記していますから、インドネシアは絹布の大産地で、漢民族の商人はインドネシアから絹布を輸入していた事が分かります。倭人も海洋民族でしたから、海洋民族同士が盛んに交易し、その結果として衣類も物産も同じになってしまったという事を、漢書と魏志倭人伝は示しているのです。
以上の事から、絹布の原産地は東南アジアで、そこから華南や日本に養蚕と絹布が伝わったと推測されます。桑は熱帯地方原産の植物なのに、蚕はひどく高温に弱いのですが、それは熱帯の島の原生林の中で、蚕が誕生したからではないでしょうか。島では夏も猛暑になりませんし、雨が多い密林の中では、気温はあまり上がりませんから。中国大陸の様な夏の猛暑が酷い地域では、蚕が飼える地域は極めて限定的になってしまっていたでしょう。桑が耐寒性を得たのは、後世になって、品種改良されたからだと考えられます。
漢書地理誌は不思議な書籍です。地域名としてですが、韓、趙、魏と呉を、同列に扱っています。史記は呉が滅んだ後で、晋が韓、趙、魏に分裂したとしているから、どちらかが嘘を言っている事になりますが、捏造要素が少ない漢書地理誌の方が、事実を伝えている可能性が高いですから、史記は信用できない事になり、戦国時代になっても呉が存続していた可能性が高まります。それであれば、「大夫」の件と併せて考えれば、日本の絹布の織り方の中に、呉で発達した高度な織機を使うものが含まれていた可能性が高まります。
呉服(くれはとり)という言葉は、最も古い日本語で記されている古事記の、応神天皇の事績に出てくるから、奈良時代初頭にはあった言葉です。
2016/06/27 URL 編集
マリナ
びっくり仰天した私は抗議しようとしたところ、夫に止められ会場から連れ出されてしまいました。なぜそうなるのでしょうか。着物を着ていた二人の美しい日本女性は全く着物についての知識がないのでしょう。チャイナはチャイナで、映画を使い、唐時代の話だとしながら、江戸時代の日本の将軍そのままの姿で出てきたりしますから、それを見た世界の人々は、簡単に日本文化はシナ文化をまねたものだと誤解するのでしょう。
NHKのJapanologyでは英語で、何でもかんでもチャイナから伝わったと放送しています。サツマイモまでそうなのですから、あきれてしまいます。
2016/06/26 URL 編集
ポッポ
室町に行けば(室町は室町通りのことですが、京都で室町は着物の問屋街のことです。)、着物の問屋がズラーッと並んでおり、狭い通りは運び入れられる商品と車で通行するのも大変です。
と言っていたのも今は昔で、近頃は通りのあちこちでガレージとマンションが建っており、昔を知る者としては寂しい限りです。
着物の作り方は、反物の幅が狭いものですから、どうしても単品ものに近いものになります。柄を決める型枠もそんなに大きくないので大量生産には不向きだと思います。
また、一品物は作者を選びますから、高価にならざるを得ないのです。
それに、着物を縫うこと一つとっても、大正生まれ位の女性なら普通に縫ったと思うのですが、今の女性は縫うどころか、着ることも出来ない人が多いでしょう(勿論、男性も同様です。)。
その前に、生まれてから何回きたことがあるかのレベルですから、これで産業として発展することは出来ないでしょう。
寂しい話です。
ところで、京都の産業振興策として、京都に旅行に来られた女性に、無料で着物を1日着ていただく催しが行われています。
この催しを希望する女性には、外国人というか中国人が多いようです。すると、選ばれる着物は派手というか、原色というか、着物の良さを知る人ならば、溜息をつきたくなるのを選ぶことが多いのです。
外国人が着るのですから仕方がないのですが、日本人が着物の良さを広めて欲しいと思います。
それから、着物は京都の伝統産業で、昔からの物を只管守ってきたと思われますけれど、これは違うと思っています。
昔からのままだったら、昔は作る人が沢山いたのなら何の工夫をせずに作り続けたならば、より良いものを作る人が出た場合には負けてしまいます。
ですから、着物という物の中で色々な人が工夫して、競争していたはずなのです。そして、勝ち残ってきたものが残ったと思います。
ただ、着物という呉服の中での競争ですけれど、昔は皆が着ていたのですから、競争としては激しかったでしょうし、日本人はそうでなくとも工夫をする民族ですから、不思議はありません。
布、染め方、柄等の差を見ていますと、驚くことがあります。
そんな中で着物産業は発展してきたと思いますが、その技術は現代の産業に大きく影響したと思います。
京セラ、ローム、オムロン、島津を始めとする企業は、日本でも有名な企業だと思います。
話が飛びましたが、伝統産業と言われる着物は、先端産業だったと思っています。(その一方で、昔のままに作られている着物もあります。)
2016/06/26 URL 編集
蝉
実際に着る人の感想・・・
疲れる、重い(洋服より)、苦しい(帯二重に巻いたり)、暑い(絽でも紗でも)、
メンテが大変(洗濯、シミとり、裾切れなど高い),、袷単衣など現実の気候に合わせるべき、決まりごと多すぎ、小物が多すぎ、完成され過ぎて、くずせない。
行動が自由でなくリラックスできない、etc.
2016/06/26 URL 編集
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更に、値段が不透明なことも問題です。お馴染みさんだけを相手にして値付けも相手によって違うような商売は、現代社会で一般の消費者を相手にした場合にはかなり続けることがむづかしくなります。
しかしそういう部分を完全に除外してしまうと技術として成り立たなくなります。
生活必需品ではないので、贅沢商売として衰退してしまうのは仕方がないのかもしれません。
2016/06/26 URL 編集
ポッポ
室町に行けば(室町は室町通りのことですが、京都で室町は着物の問屋街のことです。)、着物の問屋がズラーッと並んでおり、狭い通りは運び入れられる商品と車で通行するのも大変です。
と言っていたのも今は昔で、近頃は通りのあちこちでガレージとマンションが建っており、昔を知る者としては寂しい限りです。
着物の作り方は、反物の幅が狭いものですから、どうしても単品ものに近いものになります。柄を決める型枠もそんなに大きくないので大量生産には不向きだと思います。
また、一品物は作者を選びますから、高価にならざるを得ないのです。
それに、着物を縫うこと一つとっても、大正生まれ位の女性なら普通に縫ったと思うのですが、今の女性は縫うどころか、着ることも出来ない人が多いでしょう(勿論、男性も同様です。)。
その前に、生まれてから何回きたことがあるかのレベルですから、これで産業として発展することは出来ないでしょう。
寂しい話です。
ところで、京都の産業振興策として、京都に旅行に来られた女性に、無料で着物を1日着ていただく催しが行われています。
この催しを希望する女性には、外国人というか中国人が多いようです。すると、選ばれる着物は派手というか、原色というか、着物の良さを知る人ならば、溜息をつきたくなるのを選ぶことが多いのです。
外国人が着るのですから仕方がないのですが、日本人が着物の良さを広めて欲しいと思います。
それから、着物は京都の伝統産業で、昔からの物を只管守ってきたと思われますけれど、これは違うと思っています。
昔からのままだったら、昔は作る人が沢山いたのなら何の工夫をせずに作り続けたならば、より良いものを作る人が出た場合には負けてしまいます。
ですから、着物という物の中で色々な人が工夫して、競争していたはずなのです。そして、勝ち残ってきたものが残ったと思います。
ただ、着物という呉服の中での競争ですけれど、昔は皆が着ていたのですから、競争としては激しかったでしょうし、日本人はそうでなくとも工夫をする民族ですから、不思議はありません。
布、染め方、柄等の差を見ていますと、驚くことがあります。
そんな中で着物産業は発展してきたと思いますが、その技術は現代の産業に大きく影響したと思います。
京セラ、ローム、オムロン、島津を始めとする企業は、日本でも有名な企業だと思います。
話が飛びましたが、伝統産業と言われる着物は、先端産業だったと思っています。(その一方で、昔のままに作られている着物もあります。)
2016/06/26 URL 編集
蚕通知
これが『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」=「(倭人は)自ら太伯の後と謂う」と記され、室町初期の禅僧・中厳円月は自ら撰進した「日本紀」(現存せず)で神武天皇は呉の太伯の後だと説きました。江戸期になって儒学者・林羅山が自著「神武天皇論」で天皇呉太伯後裔説を肯定的に紹介したのを若き日の徳川光圀が読んで憤慨し、「大日本史」編纂の動機となったともいう。
現在のところ太伯・虞仲の実在は疑問視され、殷代における「呉」建国は否定的で、後代の作り話と考えられています。ただ、後代といっても春秋時代の呉が自らの権威を高めるために周王朝とのつながりを創作したものとだと考えられ、極めて古い時代の話です。
「日本書紀」の応神天皇37年春の条に、日本の求めに応じて「呉王が、工女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人の婦女を与えた」という記事が載っています。といっても応神天皇37年を機械的に西暦に変換すると306年です。使者と呉織・穴織らが戻ってくるのが天皇崩御後なので310年以降です。対して春秋時代の呉はもちろん、三国志時代の呉が滅亡するが279年。応仁天皇の御代に呉はすでに存在しないので、使者たちが呉の故地にたどり着いた可能性は否定しませんが、呉王が4人の女性を倭国に与えたというのは誤伝です。
ですが呉織・穴織の伝承は各地にあり、2人を祀る神社もあることから、工女来日は事実だろうと推定できます。「兄媛・弟媛・呉織・穴織」という説明は前半と後半でカテゴライズの次元が変わっているので実際4人だったのかは疑わしいですが、「呉織」と「穴織」が対になっていることは分かります。
呉織・穴織を連れてきた阿知使主と都加使主は、高句麗経由で呉に行ったと書かれていますが、到着した呉がどこだったのかは分かりません。実際には行っていないかもしれません。「呉に行って穴織(漢織)を連れてきた」を許容するなら、「呉でないところに行って呉織を連れてきた」を許容してもいいはずです。
呉織は「くれはとり」と読み、穴織(または漢織)と書いて「あやはとり」と読みます。前者は「呉の機織り」、後者は「漢の機織り」の意味でしょう。呉織、穴織(漢織)というのは当時の機織りには「呉方式」「漢方式」の2つがあったというだけで、使者が連れてきた工女は呉から来たのではないのかもしれません。日本書紀の記事は、単に呉方式と漢方式が同時に伝わったと言っているだけかもしれません。
ちなみに古い文献に倭文(または静織)と書いて「しとり」「しどり」「しずり」という言葉が見られます。倭の国の文隷(または織物)という意味です。この織物は麻(あさ)、苧(からむし)、楮(こうぞ)などの繊維を赤や青に染めて織ったものです。「しとり」という読みに「は=はた(機)」がないので手織りなのでしょう。「静織」という表記も「機(道具)を使っていないので静かだ」と解釈できます。
呉服は本来「絹織物」の意味ですから(江戸時代、木綿や麻布の反物は「太物」といった)、呉織・漢織も絹製品だったでしょう。日本に養蚕と絹織物を伝えたのは秦氏とされますが(公伝)、彼らが帰化したのは応神14年(283年)。呉織・穴織と同じ応神期です。彼らの伝えた方式は秦織(はたおり)だったのでしょうか?
秦氏は秦の始皇帝の末裔とされますが(新撰姓氏録)、事実だとは信じられていません。呉織・漢織が呉由来、漢由来と信じなければならない理由もないのです。養蚕と絹織物が大陸由来なのは事実でしょうが、「呉」「漢」「秦」の命名はかなり根拠薄弱で、「スパゲティ・ナポリタン」程度のものだったのでないかと思います。
2016/06/26 URL 編集
蝉
いままでもチャイナのドラマは世界中の文化や服装、調度を取り入れて好き放題。すべて起源ははチャイナからと自ら信じ、その上他国の人もそう思って誰もが不思議に思わない。以前は障子の窓や江戸の女性の髪形なども取り入れていた。ローマの兵隊の服装、ヨーロッパの服装、調度など。
今回の胸元、袖、等、「着物は中国が教えてやった。よく見ろ」と。しかしあくまでさりげなく取り入れています。
文化も何もかも日本を研究している人がいて、いかに日本が中国の真似をしてきたかを言いたいがために、完全に日本を意識しているところがある。
2016/06/26 URL 編集
heguri
今年は織姫コンテストも開催されます。歴史の古い池田市では色んな歴史伝承や遺物が多数存在しています。面白い街です。
呉織・漢織(クレハトリ・アヤハトリ)
池田には応神天皇のころ、大陸から呉織・漢織の2人の織り姫がこの地に渡り、織物や染色の技術を伝えたという伝説が残っています。
この伝承は、一般には、『日本書紀』応神(おうじん)天皇37年条に、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして縫工女(きぬぬいめ)を求め、呉の王から呉織・漢織らを与えられたという記述を題材にしたものだと考えられています。
※ 『日本書紀』 「巻第十 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)応神天皇」「巻第十四 大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)雄略(ゆうりゃく)天皇」に、この縫工女招致に関する伝承が収められています。 『国史大辞典 4 き‐く』によると、「ただし、応神紀・雄略紀のこれらの織工女の記事は、同じ内容のものを分けて記したか、あるいは前者は後者の記事の混入ではないか、といわれる。」とあります。
※呉織は呉服、漢織は穴織とも書きます。「はとり」は機織の意です。(『国史大辞典 4 き‐く』p952 くれはとり・あやはとり)(『日本歴史大辞典 1 あ‐う』)
池田市内には、この機織伝承ゆかりの旧跡が各所に残されています。2人の織姫を乗せた船が着いたところが<唐船が淵>(新町~木部町、猪名川のカーブした辺り)、糸を染めた井戸が<染殿井>(満寿美町)、絹を干したのが<絹掛の松> (畑)、機を織ったのところが<星の宮>(建石町)、2人が葬られたとされる墓が<梅室・姫室>(槻木町~室町あたり)、そして呉織が祀られたのが<呉服神社>(室町)、漢織が祀られたのが<伊居太神社>(綾羽)とされています。
池田の市章はこの伝説を元にしています。外側の井桁は<染殿井>を、内側の糸巻きは織り姫たちが織物に使った糸巻きを表しています。
『池田市史 概説篇』には次のような記述があります。「呉織・漢織が池田に来て織物技術を伝えたとされていますが、日本書紀にはこのような記述はなく、この伝承がいつ、なぜ、どのようにして誕生したのか、はっきりしたことはわかっていません。」
この伝承がいつ頃できたか確定する史料はありませんが、元禄14年(1701)にできた『摂陽群談』や寛政10年(1798)刊行の『摂津名所図会』などに、この伝承に関する記述があることから、江戸時代前期までには現在伝えられているような姿になっていたと考えられます。呉織・漢織の伝承は、池田だけに伝えられたものではなく、例えば西宮市にも同様の伝承が残されていますが、池田のように完成度の高い伝承として現在まで伝わったものではありません。
2016/06/26 URL 編集
陸井夏樹
2016/06/26 URL 編集
愛信
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2016/06/26 URL 編集
猫めでる婆
初心者にもわかりやすく解説してくださる方や、着物で遊びに行って楽しかったよという方、それぞれ着物愛あふれるブログで拝見していてうれしくなります。
着物が廃れていく危機感から、皆さんは一生懸命更新なさっておられるのだと思います。
さて着物の作り手としてのお立場で発信なさっておられる方に、有名な銀座泰三の高橋泰三さんがおられます。
この方のブログを読みふけるうちに、お金の臭いに敏感な成りすまし日本人が着物業界に這いずり込み、数々の詐欺事件を起こし業界全体の信用を貶めてしまったのではないかと思うようになりました。
有名な事件では足腰の立たないご老女に何百万円も着物を売りつけたり、自殺者が出るほど高額なローンを組ませたりと、およそ日本人のすることとは違うのではないかと思う事件が多発しました。
消費者の無知に付け込む商売と世間に広まれば、行く先は無間地獄でしょう。
ただお気の毒なのがそれに巻き込まれた正直な作り手で、一例をあげると京都の染色業者さんは衰退の一途です。
自社の広い染色工場跡地にマンションを建て急場をしのいでも、その後倒産の憂き目にあったとか、数限りなく悲惨な例があるようです。
希望の見えない業界に後継者は育たず、技法は途絶えます。
腕のある職人さんが廃業してタクシーの運転手さんになったとか、そんなことがあるのかと悲しくなります。
悲憤慷慨のあまり高橋さんは行政が悪い、国のトップが悪いとことあるごとに発信なさっておられますがむべなるかなであります。
また昔は春秋の叙勲の際は、必ずといっていいくらい配偶者方が色留めそでをお誂えくださったのだそうですが、昨今はとんと無いと業界内で言われているそうです。
宮中へ上がって夫君が勲章を天皇陛下から親授されるこのうえない名誉な場に、新調の色留めそでを着用しないとは、本当にセレブなのかしらと私でも思います。
功成り名を挙げた受勲者の方々に申し上げたい、長年苦労を掛けた女房に晴れ着の一枚も作ってやらなきゃ胸の勲章が泣くよと。
それから、首相夫人ももう少しお着物を着てくださらないかなと思っています。
2016/06/26 URL 編集
m.e
ごふ…くれはたと呼びます。
ごふ何とかは忘れますね。
おはようございます。
三国志は大好きです、横山光輝三国志(三国志演義)や
数年前の蒼天航路(史実風味)。
それに限らず光栄三国志シリーズ1、2、3、4、5、6、7、9、10、11、13、それとPKシリーズ(ゲーム)。
三国志シリーズに倭国が登場したのが7でした。男は入れ墨を入れ、髪を結い、君主は女性という珍しい国の設定。
これが日本かぁと胸が熱くなったのを覚えています。
しかし洗脳と言えば良いのですかね。
日本語とは正しい意味合いを捉えていないと、正しく扱えない言語だと思います。
民に賢さを求め、民と主、両方で国を治める事を良しとした、大和たる国ならではの言語だと思います。
中華思想では民は愚かであるのが良しとされましたものね。
故に戦後教育から始まった愚民化計画。
日本語の持つ性能を貶める事が出来なかったGHQ、ならば正しい言葉の意味を封印、風化、無くす事で
日本人が共有していた感覚、感性、道徳、教訓など、有用な人生の指針足るものを消し去ろうとしたのでしょうね。
現代においても効力を発揮するそれは、疑う事がない常識だと思っていた事すら、嘘だった、歪められていた、という無意識の浸食にあると感じます。
ですのでGHQと敗戦利得者に作られたOS(教育)は投げ捨てて、日本人のスペックをフル活用出来るOS(新たな教育)に切り替える必要がありますね。
およそ火攻めに五あり。一に曰わく火人、二に曰わく火積、三に曰わく火輜、四に曰わく火庫、五に曰わく火隊。
大和に湧いた再生の烽火、日本人覚醒の野火は、消える事なく、激しく燃え盛ると思います。
2016/06/26 URL 編集
junn
http://matome.naver.jp/odai/2146481377134862501
2016/06/26 URL 編集