相模 恨みわび干さぬ袖だにあるものを



20160720 日本史検定7期


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20160722 平安時代女性


百人一首の65番に、相模(さがみ)の歌があります。

 恨みわび干さぬ袖だにあるものを
 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ

この歌について、最近の解説書の多くは、「相模が夫以外の男性に恋をして振られたため、世間の噂が
立ち、自分の名前に傷がつくことを悔しく思い、詠んだ歌」と説明しています。
「名こそ惜しけれ(名前が惜しい)」を「相模自身が自分の名誉が惜しいと嘆いている」というのです。

もうすこし詳しく申し上げると、どの本とかどの先生がということは言いませんが、おおむね次のように解釈しています。
 恨みに恨みぬき、恨む気力すら失って、
 涙に濡れた袖が乾く暇もありません。
 そんな涙で朽ちそうな袖さえ惜しいのに、
 恋の浮名で朽ちてしまうであろう
 私の評判がなおさら惜しいのです。

要するに相模が夫以外の男性に恋をして振られたため、世間に噂が立ち、自分の名前に傷がつくことを悔しく思って詠んだのだ、というのです。
つまり、「名こそ惜しけれ(名前が惜しい)」を「相模自身が自分の名誉が惜しいと嘆いている」と解釈しているのですが、ではなぜ相模が夫以外の男性に恋をしたかというと、夫の浮気に悩ませられたからというのです。
そんなこと「あるわけねーだろっ!」と言いたいのです。
思い切り、「常識で考えろよ!」と怒鳴りたくなります。

少し考えたらわかりそうなものです。
旦那の浮気で悩んでいる妻が、余所の男に手を出そうなどいう、そんな気持ちの余裕などあるわけないです。
加えて男にフラれて「あたしの名が傷ついたわ」などいう自分勝手な愚痴のようなつまらない歌を、わざわざ内裏で開かれる歌合に出詠するだろうかということです。
並みいる高官たちが集う国をあげての一大イベントの席です。
しかも公式に記録が残る・・・つまり末代まで歌も自分の名も残る席なのです。
しかもこのときの相模は、脩子内親王付きの女官です。

相模は数々の歌合に招かれ、当時一流の女流歌人とされた女性です。
相模が自分だけの不幸や不名誉を嘆いているだけの心根のさもしい女性であり、この歌がそのような歌であったならば、たとえ彼女がどんなに歌を詠む技術に長けていようが、周囲の高官たちが、そんなくだらない歌人を歌合に招くことなど絶対に承知されないし、藤原定家が500年の歴史の中でそれこそ星の数ほど詠まれた数々の歌の中から、この歌を彼の晩年最後の大仕事としての「百人一首」に収録するなど、絶対にありえないことと断言できるということができます。
まるで意味が違うのです。

では、この歌の真意とは、どのようなものであったのでしょうか。

相模という名前は、相模が若い頃、夫の大江公資(きみより)が相模国の国司として赴任したことに由来します。
百人一首で地名を歌名にする女流歌人は、百人一首には他にも和泉式部(いずみしきぶ)や周防内侍(すおうのないし)などがありますが、見ればわかる通り、式部とか内侍とかの肩書が付いています。
なぜか相模だけが、相模と地名だけの名前になっています。
女性でありながら、かつての任地の地名を歌人の名としているところにも、何か秘密がありそうです。

この歌は内裏歌合で詠まれた歌です。
すでに説明したことですが、当時の歌合は、一昔前の紅白歌合戦のような大イベントです。
しかもこの歌は、永承6(1051)年5月5日の後冷泉天皇の歌合に出詠された歌です。
天皇の前で行われる公式な式典です。

観客として臨場するだけでも名誉なことなら、歌人として出詠するとなれば、このうえもない当代一流の歌人として、万人の知るところといえる人であり、歌であるということです。
ということは、抜群に歌がうまいことはもちろん、人格や識見が整っていることや、誰もが認める高い教養のある人物であったということです。
相模がこの歌を詠んだのは、そういう席です。

相模は、もともと源頼光の娘です。
生まれは995年とも、998年説があります。
源頼光というのは、武人ですけれど、たいへんな大富豪で、当時、土御門家が家を新築した際に、家財道具一式をまるごとプレゼントしたことがあるというくらいです。
ご皇族が新築した邸宅への家財道具です。
どれだけ贅をつくした家財道具だったのかと思いますが、「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と詠んだ、あの有名な大金持ち兼権力者であった藤原道長が、その贈られた家財道具一式を見て、あまりの素晴らしさに舌をまいたと伝えられているくらいですから、源頼光は、それはもうたいへんな大金持ちであったわけです。

相模はその娘です。
つまり、家柄も良く大金持ちで武人で権力者の家の娘です。
何不自由なく育ったお嬢さんであったであろうことは容易に想像がつきます。

父の源頼光はその娘を大江家に嫁がせました。
大江家というのは代々学者の家系です。
いまで言ったら代々東大教授を勤めている家柄のようなものです。
一方相模の父の源頼光にとって、足りないのは(ごめんなさい、ちょっと失礼な言い方になりますが)学だけです。
父の源頼光が、愛娘が学者の家の知的な若者と祝言をあげることにたいへんな喜びを感じていたであろうことは容易に想像がつくことです。

結婚後、若夫婦は相模の国の国司としての赴任が命ぜられました。
夫の大江公資は、もともとたいへん優秀な若者です。
優秀だから相模の父の源頼光も、娘を嫁がせたのです。
とびきり優秀で将来性のある若者を、地方支店の支店長に据えて、地方と人の上に立つことを学ばせ、その後に本社の管理職として登用するということは、いまでもよくあることです。
若い大江公資が相模の国の国司に任じられたことには、そういう中央高官の配慮があったことでしょう。

当時の国司としての赴任は、妻子、一族郎党をみんな連れて行くのが常識でした。
ですから当然、妻の相模も相模国に同行しました。
相模国で夫がそれなりの成果を挙げれば、次には中央朝廷に戻り、出世の道が約束されているのです。
公資の家には、当代一の学力があり、妻方の家にはカネと権力、そして武力までもあるのです。
これはもう最初からエリートコースに乗っているようなものです。

二人は、幸せを噛み締めながら相模国に、国司として赴任しました。
いまで言ったら、20代の若者、それもとびきり家柄が良くて美男子が、神奈川県知事になるようなものです。
イメージ的には、神奈川県知事に、EXILEのタカヒロ君みたいな子が知事、または江戸時代ならお殿様として赴任してくるようなものです。

この時代、だいたい国司としてやってくるのは、多くの場合、中央を追われたり、中央で役立たずとしてレッテルを貼られたおじさんたちです。
それが、若くて教養に溢れた知的な若者が妻同伴で県庁に赴任してきたわけです。
県庁の職員の若い女性たちが、まるでスターを迎えたような大騒ぎになったことは想像に難くありません。

妻同伴の着任とはいえ、一夫多妻制の時代です。
しかも国司ご夫婦には、まだ子がいない。
運良く、国司の子を身篭れば、娘は中央貴族の、しかも大学教授の子の母の地位になるわけです。
県庁の女子職員たちのみならず、その父たちまでもなんとか若い国司の種をもらおうと躍起になったであろうことは容易に想像がつきます。

しかしこれに手を出したら負けなのです。
いくら誘われたからといっても、地方豪族の娘さんに手を出せば、地方組織の中にある種の特権者を生むことになってしまうのです。

けれど公資は、その誘惑に負けてしまいます。
国司のもとに働きに来ている娘達に手を出してしまったのです。
しかも複数。。。

相模がそんな夫をどれだけ心配したか、察するに余りあります。
ちゃんと任期中に無事に勤め上げれば都に帰れるし、中央での出世が約束されているのです。
逆に失敗すれば、一生、地方まわりで終わってしまう。

だから相模は、なんとかして夫の浮気を諌めようと、正月に百首の歌を詠み、その歌を伊豆の走湯権現に奉納しています。
これはいわば後世の御百度参りのようなものですが、ただ百回お参りするというのではなく、百首の和歌を詠んで奉納するのです。

和歌を詠まれる方ならおわかりいただけると思いますが、和歌は一首詠むだけでもたいへんなものです。
それを相模は百首も詠んだというのですから、相模がどれだけ優秀で知的な女性であったかということですけれど、同時に相模の夫を思う真剣な気持ちは察して余りあります。

ところが驚いたことに、四月になって「権現様からです」といって百首の歌に対して百首の返歌が相模のもとに届いたのです。
どのようなものかというと、例えば相模の歌に
「お慕いしているのですから、私以外の女性を愛 さないでほしいのです」とあると、
「何を言うか。君よりほかに愛する女性はいませんよ」という返歌です。
どうみてもこれは、夫の大江公資が「妻が浮気封じに権現様に歌を奉納した」という話を聞きつけて、これはヤバイと神社から歌を取り寄せ、一首ごとに返歌をしたため、それを「権現様の返事」として相模に渡るようにしたものなのでしょう。

ところが相模もたいした女性で、百首の返歌に対して、さらに百首の返歌を書いています。
先ほどの歌なら、
「地元の女性に手を出していることを、私はちゃんと知っているし、そういうふしだらな女性は、摘む人がたえない(別な男性のもとにも走る)ものとわきまえてくださいな」等々です。
夫を愛する相模の気持ちが痛いほど伝わってきます。

結局、大江公資は、都に引き戻されます。
二人は子のないまま離婚します。
そして夫の大江公資は、その後、今度は遠江に飛ばされ、地方まわりのまま生涯を終えています。

一方相模は、中央に留まり、一条天皇の第一皇女である脩子内親王のもとへの出仕を命ぜられ、歌人としての名声も高まり、
長元8(1035)年の「関白左大臣頼通家歌合」
長久2(1041)年の「弘徽殿女御生子歌合」
永承4(1049)年の「内裏歌合」
永承6(1051)年の「内裏歌合」
永承5(1050)年の「前麗景殿女御延子歌絵合」、「祐子内親王歌合」
天喜4(1056)年の「皇后宮寛子春秋歌合」
など、多くの歌合に出詠し、さらに和泉式部、能因法師、源経信ら時代を代表する歌人と幅広い交流をもち、歴史に名を留めています。

さて、夫との離婚から36年が経った時です。
相模は、永承6(1051)年の「内裏歌合」に招かれます。
このとき詠んだのが、百人一首に収蔵された、表題の歌です。

 恨みわび干さぬ袖だにあるものを
 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ

上の句の【恨みわび】の「わび」は、「落胆し気力を失う」という意味の補助動詞「わぶ」の連用形で、「恨む気力もなくなっ て」の意です。
【干さぬ袖だにあるものを】の「干さぬ袖」は、「涙で乾く間もない袖」の意味です。
ここでポイントになるのが「だに」です。これは「〜でさえ」の意で、「程度の軽いものをあげて重いものを類推させる語法」です。

下の句は「恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」です。
一般的な通釈で「恋に朽ちなむ」は、「相模が夫以外の男性に恋をしているけれど、思いどおりにならず、このままでは相模自身が燃え朽ちてしまう悔しさ、悲しさを詠んだもの」とされています。
歌のどこにも「別の男性との恋」とは書かれていないのにそう決めつけて、相手との関係が上手くいかないことが世間の噂となり、それが悔しくて「名こそ惜しけれ」、つまり「自分の名前が惜しい」と解釈しているものが多いようです。

しかし、どう考えてもその解釈には無理があります。
現実の問題として、夫の浮気に悩み苦しんで毎日泣き暮らしているという悲しい状態にある妻が、別の男性と浮気をして燃えるでしょうか。
そんな心のゆとりがあるのでしょうか。
誰がどう考えても、これは「おかしな解釈」としかいえないように思えます。

さらにいえば、相模がこの歌を詠んだときは、相模56歳です。
しかも夫だった大江公資は、10年前に他界しています。
つまり、この歌は相模が歌人としての名声を確固たるものにしたあと、「過去を思い出して詠んだ歌である」ということです。 もう、ここまでくると、「名こそ惜しけれ」の意味も明確です。
相模は、「名こそ惜しけれ」と、夫に大江家の名誉を護ること、任地での職務の大切さを訴えた36年前の過去の自分を詠んでいるのです。

そうであれば「恋に朽ちなむ」も、「夫の名誉が、恋(浮気)のために朽ちてしまう」ことを意味しているとわかります。
狭い世間なのです。
まして相模国の国司といえば、地域の著名人です。
その夫が、現地の女性に手を出しているのです。
世間にもそのことは知られています。
相模は夫の浮気を心配して、「そんなことでは、相模守の国司としての職責に影響が出てしまうのではないのですか?、それは、あなた自身の名前にも、大江家という家名にも泥を塗ることになってしまうのではありませんか」と、涙に濡れた目で、真剣に訴えているのです。

この時代、中央から地方に派遣される国守は、今でいったら県知事と税務署長を兼任したようなポストです。
そして徴税官である国守には武力はありません。
一方、税を納める側の地方豪族は武力を持っています。
そういう状況のなかで、人柄と信頼関係で徴税をするのが国司の勤めです。
その徴税官が不謹慎にも官邸の女官たちのような、いわゆる素人女性に手を出してしまっているのです。
その官邸の女性たちの多くは、徴税を課すべき地方豪族たちの娘たちです。
どれだけ職務に影響が出てしまうか。

そうしてみると、上の句の「恨みわび干さぬ袖だにある」は、ただ「浮気されて悲しくて涙を流している」と詠っているわけではないとわかります。
しかも「だに」です。
「だに」は文法的に、程度の軽いものを例として挙げたあと、もっと 重いものをそれと対比的に提示する語です。
程度の軽いものは相模自身の気持ちであり涙です。
重いものが夫の名であり「大江」の家名です。
つまり相模は、「私だって涙で袖が乾く間もないほど悲しかったわ。でもそんなこと以上に、夫の名を惜しむ気持ちのほうが強かったのよ」と詠んでいます。

そこには、浮気ばかりしているどうしようもない夫だけど、その夫をどこまでも支えていこうとする一途な、そして悲しいまでの健気な妻の心が詠み込まれています。
夫の浮気にただなよなよと泣いている弱々しい妻の愚痴の歌などでは決してないし、まして夫が浮気しているから自分も別の男に手を出すといった、そんな品のない女性の歌でもないのです。
第一そんな歌を、相模が天皇もご臨席される内裏の歌合に出詠するはずがないし、ましてや藤原定家が「百人一首」に選ぶはずがありません。

いまや五十代となった相模が、夫の浮気に悩まされていたのは、もう三十年も前の遠い過去の話です。
「恨みわび干さぬ袖だに」という少し過剰とも取れる悲しみの表現も、「そのくらい悲しかったのよ、あの頃は。まあ私も若かったからね」と、遠い過去を振り返りながら笑っている、そんな相模の視点で詠まれています。
そして同時にこの歌からは、「あたし、今もあなたのことを愛しているわよ」という亡き夫への思いも汲み取ることができます。

冒頭、「なぜか相模だけが、相模と地名だけの名前になっている」と申し上げました。
相模は亡き夫とともに相模の国にあったとき、とっても苦労をしました。
けれど、何不自由なく育った相模が、相模の国で味わった苦労、その苦労によって、彼女は人として大きく成長することができました。

相模にとって、本当の意味での人生の出発点は、あの苦労した相模の国にあったのです。
そして彼女は、それを乗り越えることによって、人として女性として大きく成長し、その時代を代表する女官として、また女流歌人となっていったのです。

幸の中に不幸、不幸の中に幸。

だからこそ彼女は相模と名乗ったし、この歌も名歌として後年「百人一首」に選ばれ、また千年たった今でも人々に愛され続けているのです。

実はこの歌の解釈を百人一首の本の執筆中、この相模の解説が書きあがったとき、相模のすごく嬉しそうにしている感じがすごく伝わってきました。
きっと喜んでくださったのだと思います。

ところが先日の古典塾のときは、やや夫の大江公資(おおえのきみより)を、単なる浮気性の男のように描写してしまいました。するとこの日の講義のあと、体がすごく重たくなりました。
何かが違うとすぐに気が付きました。

そうではないのです。
夫の大江公資は、ほんとうに見め麗しく、頭の良い教養人で、やさしい良い男だったのです。
だからこそ彼女は結婚したのだし、大物であった彼女の父も「この男なら」と喜んで結婚を承諾してくれたのです。
そして彼には、大学頭としての将来が本当は約束されていたし、妻方の実家の財力の後ろ盾によって、もしかするともっと大きなバラ色の未来が約束されていたはずだったのです。

けれど夫はやさしすぎたのです。
だからこそ彼は誘惑に飲まれてしまったし、それを断りきれなかったし、権謀術数渦巻く地元豪族たちにそこを利用されてしまったのではないでしょうか。
そしてそんな夫を、彼女は離婚はしたけれど、決して憎んだのではなく、愛おしいけれど同時に哀れにも思っていたのかもしれません。



※以上は、先日行われた「女性のための古典塾」でお話させていただいた内容をもとに編集させていただきました。

20151208 倭塾・動画配信サービス2


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コメント

アナコンダ

恋は真剣勝負です
知人の息子さんが、大学生になって何処か学外で出会った女性のおうちに招かれて飛行機で行ってみたら、集落みんなが集まって河原にテント張って大立食パーティーが開かれて大歓迎された話を思い出しました。
若い女性の美しさは、このように家族の繁栄に直結しています。女性もその親もその隣人たちも希望に燃えています。
その息子さんは幸せにやっているようですが、相模の夫の大江さんの場合はそうはいきませんでした。
若い女性とその後ろ盾たちは真剣です。摂関家だってそうです。
それに柔弱さゆえに圧倒されたりしたら、大きな代償を払わなければならない、百人一首は凄いことを教えてくれるのだと改めて思いました。

くすのきのこ

No title
こんにちは。政界の恋愛沙汰は、今も昔もかしましい娯楽ですねw
相模は、和泉式部の娘で恋に生きた小式部内侍と同世代で1歳年上ですw
相模は才気煥発な女性ですね。この歌の謎かけは大真面目なガクシャさんに
は・・ちょっと・・かもww以下自由連想です。
上の句を相模、下の句を小式部内侍ととらえると・・・
この歌は忍ぶ恋をとるか、あるいは堂々と恋に生きるか・・という古今東西
変わらぬ恋の悩みのテーマを提示していますね。そして半世紀以上生きてき
た相模さんの”名”を惜しむという人生観が込められています・・が、やはり
ここが微妙で、若くして20代で亡くなった恋多きと言われた小式部内侍へ
の哀惜も感じられるという秀逸さ。和泉式部とも知り合いでしたし・・。
藤原定頼への憎からぬ想いを封印して大江公資と結ばれるも、相手は相模の
本心を知ってか・・知らずか他の女性へと走る。箱根権現への百首は苦悶と
子宝を望む歌。けれども公資と一緒の時に定頼の求愛受け、付け入る隙は見
せなかったものの・・深い関係になる前から想いが重くてつらいのに・・と
いう歌を定頼に遣っている。また・・生きてゆくのもつらいから、長続きし
ないあの人の心のように自分の命も続かせたくない・・という憧憬の歌もあ
る。相模のメインテーマは、忍ぶ心かも?中央に帰ってからは夫と別れ、定
頼との仲を噂されたりも。でも定頼には他にも恋人達がおりましたしw紫式
部の娘の大弐三位とか大和宣旨とか小式部内侍の娘とかとの噂が~ww現代
の芸能界のような雰囲気が~w政略結婚が当然の殿上にとっては、こういう
忍ぶ恋の歌は心に沁みたでしょうね。
名こそ惜しけれ~の名は誰の名なのか?・・と考えると・・相模自身ともと
れるし、小式部内侍、夫の公資、和泉式部(この3人は大江氏)ともとれる。
あるいは?・・この謎かけにより読者それぞれが自分自身の周囲にも思いを
巡らせる事ができる。想いか必ずしもかなうわけでもない・・というのが上
の句に響かせてあるのもまたお見事。



てっさん

No title
百首返す人ですものね
優しい人だったのだと思います
察するというのは相手の立場に立たねばできない事なので
日本人は優しかったんだとおもいます

愛信

「私は同胞のため外国人参政権を諦めてはいない。
「私は同胞のため外国人参政権を諦めてはいない。
https://twitter.com/lOOzNOTKKrHY0KX/status/756717884412350464

【関連情報】
【投票に行こう!】
http://www.aixin.jp/axbbs/ktr/lbtcj/chapter5.htm
東京都知事選挙【政見放送】
画面は自動(6分)で切り替わります。

日本の政界に深く入りこんでいる人物は日本人ではないのです。 この者達に日本国民の税金
で手当てを支給されている事を反日売国テレビ局・マスコミが放送しない自由を行使して視聴者
に伝えないのです。 先の大戦が終わり70年もの歳月が経っているのに朝鮮進駐軍が未だに跋
扈しているのです。 日本では2重国籍を認めていません。
 この様な不法滞在者は強制送還するべきです。 国外追放の対象者なのです。

詳細は
【民主党政権では、日本が滅びますの掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj2.cgi
【民主党政権では、日本が滅びますの掲示板タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。
掲示板名は、民進党に変わっても
中身は変わらないのでそのまま使用しています。

だい

読んでいて相模にお会いしてみたくなりました。

女性が幸せな家庭は後に家運が上昇する。

そんな決まりはありませんが、そうあってもらいたいですね!!

不幸な悲しみよサヨナラ。

junn

No title
抗がん剤で殺されている日本人
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/funase-shunsuke.html
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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