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「修理固成」はこれで「つくりかためなせ」と読みます。
「修理」と書いて「つくり」と読みます。
(本によっては、「をさめ」と読ませるものもあります。)
この言葉は、古事記のはじめの方に出てきます。
古事記は、はじめに17代の創世の神々が描かれ、その創世の神々が諸命以(もろもろのみこともちて)、伊耶那岐命(いさなきのみこと)、伊耶那美命(いさなみのみこと)に「この漂っている国を修理(つくり)固め成しなさい(修理固成)」と命じます。
古事記は序文で、
一、漢字の持つ意味と上古の言葉の意味が一致する場合は漢字で記述した。
一、漢字の持つ意味と上古の言葉の意味が一致しない場合は漢字を音として用いて記述した。
と書かれています。
ということは、「修理」を「つくり」と読むのが正しいのか「をさめ」と読むのが正しいのかはわかりませんが、上古の大和言葉の意味と漢語の「修理」の意味が一致したから、ここで「修理」と書かれているわけです。
わたしたち現代日本人は修理という言葉を、壊れたものを直すという意味にしか使いませんが、古事記に書かれた修理は、すこし意味が違います。
伊耶那岐、伊耶那美の二柱の神は、「修理固成」と命ぜられて、天の沼矛を授かり、天の浮橋に立たれると、下界の混沌としたところにその沼矛を差し入れ、そこをコオロコオロとかきまぜて沼矛を引き上げると、矛の先端から塩が滴って積もってそこが淤能碁呂嶋になったと書かれているからです。
つまり「壊れたものをなおす」のではなく、「すでにあるものの形を変えている」のです。
それを「修理」と書いているわけです。
実際「修理」の「修」の字のもともとの漢字の成り立ちを見ると、
飾りを示す「彡(サン)」
「攸(ユウ)」から成り立っていて、
「彡」は神々の創造物の天・地・人、
「攸」は神々のお働の動詞形とされています。
つまり「修」という字は、「神々の創造物である天地人すべてへの神々のお働き」です。
「理」は、「玉」+「田」+「土」で成り立ちます。
田と土は耕して利用するものですが、この字では「玉」を耕しています。
つまり、玉を磨いて整えているわけです。
そこから派生して、「ものごとに消えない分別をつけて整えること」が「理」の意味です。
そこで「修」と「理」を組み合わせると、
「神々が創造したものを、神々の御意思である道理に沿って磨く」
という意味だとわかります。
何もないところからモノを創り出せるのは神々だけのなせる技です。
私たちはその「神々が生み出したもの」を加工し、工夫し、活用し、使用させていただいています。
ですから私たちのモノ作りは、神々の生み出したものを「修理(つくり、をさめ)」させていただいているわけです。
ちなみに、修学旅行という言葉があります。
修学は、「学を修める」と書きますが、ここにおける「修」も、その意味はもともとは「神々の創造物である天地人すべてへの神々のお働き」を学ぶというところから来ています。
つまり、神々の宝である学童たちが、神々の知恵や知識を学び、修めるわけです。
そして学びの最後に、それまでに修学した知識を、実際に現地に行って、自分の目で確認し体感していく。
そのために始まったのが、もともとの修学旅行です。
残念なことに、戦後の教育では、その修学精神がどこかに失われてしまいました。
いまや修学旅行は、学生向けのただの慰安旅行です。
そればかりか、日本がやってもいない、むしろ感謝されてしかるべき韓国に出かけて行って、生徒たちに韓国人の前で土下座させて謝まらせる。
いったい、何を教えているのかと思います。
日本において学童たちが「修める」ものは、神々の知恵です。
知恵もモノも、すべては神々のものです。
自分のものなら勝手に処分したり使い捨てても構わないかもしれませんけれど、それがもともとは神々の創造によるものであり、神々のものを、私たちが生きるために加工して使わせていただいているのですから、本来その中心におかれるべきは神々への感謝です。
ただ知恵を得る、モノを得るだけではなく、そこに感謝の心を磨いていくから「修理」です。
この精神は、実はそのまま日本の統治の根幹です。
日本は、国土も国民も、ことごとく神々のものであるということが大前提となっている国だからです。
日本では、領主にとっての領土領民は、領主の私的財産ではありません。
どこまでも神々からの預かりものです。
そして神々の直系のご子孫が天皇ですから、領土も領民もすべては天皇からの預かり物ということになります。
これを「シラス(知らす)」統治といいます。
政治をつかさどる者は、神々が生み、神々が宿る国土や国民を、すべて神々のものと知って治めるのです。
政治のリーダーは昔は領主だったので、領主で話を進めますが、領主にとって領土領民が「自分のもの」なら、捨てようが殺そうが自分の勝手です。
けれど、そのすべてが神々のものであり、その神々との最高の接点であられる天子様(昔は天皇のことを天子様と呼びました)から、自分が領主を任命されて預かっている立場となると、そうはいかなくなります。
領主の役割は、その天のものである領土領民が、豊かに安全に安心して暮らして行けれるようにすることが役割となります。
ここが私有財産を前提とする諸外国の政治史と日本の政治史の違いの根幹になります。
西洋でも、民衆は神の子とされます。
バチカンにローマ法王庁があり、ローマ法王はこの世における神との最大の窓口です。
ところが王権が強かった西洋では、王が戴冠するときには、教会の司教が王に「神の名において」王権を授けます。
つまり王権は、神から授かったものとなり、王は神の代理人として政治を司ることになります。
王が神の代理人ということは、神は姿が見えませんが、王の姿は見えるわけですから、その王国は、すべてが、神の権威と権力を代理する王のものとなります。
全部が王のものですから、王は王国の領土領民を完全に私的に支配することになります。
Chinaにおける皇帝の位置づけも、ほぼこれと同じですが、Chinaには法王庁がない分、皇帝の権力はさらに強大なものとなります。
ところが日本では、天皇が神々の代理人であり、天皇が神々との最高の窓口です。
そして民衆は、王のものではなくて、どこまでも天皇のものです。
つまり政治権力者も民衆も、人として天皇のもとに対等です。
そして政治権力者は、天皇に代わって、天皇の民が豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことが使命となります。
政治権力者にとって、民衆は私物ではないのです。
どこまでも天皇からの預かり物です。
早い話、全国の大名や武士たちを統括しているのが将軍です。
その将軍は、天皇によって任命された天皇の部下です。
従って将軍が統括している全国の大名や武士たちもまた、天皇の部下です。
そして藩ごとに治めている領土領民は、すべて天皇の大御宝です。
そうしたことを国民の誰もが「知」って、神々の創造物をたいせつに利用させていただく、つまり「修理」し、生活するわけです。
全てが神々のものであれば、最後には、ちゃんときれいにして神々にお返しするのが道理です。
もっといえば、お借りするときよりも、更によい状態にしてお返しする。
ここに再生の思想があります。
刀などの鉄器は火を燃やしてつくりますが、そのためには、森の木々を伐採しなければなりません。
けれど、伐採だけしていたら、山は禿山になってしまいます。
ですから、森の木々を伐採すれば、そこにちゃんと植林し、木々が大きくなるまで育てるのです。
日本は上古の昔からずっとこれをやってきたから、いまでも日本は森の国です。
日本が豊かな森林を保っているのは、日本が温帯だからという説がありますが、もともと人類が文明を築いた場所は、住みよい温帯です。
けれど3〜4千年前に文明があったところは、いまでは全部、砂漠化しています。
人が火を得るために、森の木を全部伐採してしまったからです。
森は貯水能力を失い、そこは砂だらけの砂漠になってしまいました。
木を伐採したあと、植林をしなかったからです。
ようやく昨今、世界でも、使い捨てではなく、再生やエコが大切だと説かれるようになりました。
けれど日本では、すくなくともほんの百年前までは、あらゆるものを再生産、再利用が可能になるように用いていました。
ですから、日常使う物も、安かろう悪かろうではなく、少々値段が高く付いても、大事に使えばいつまでも使える製品が好まれていました。
最近では、デフレの影響もあって、とにかく安ければ良いとばかり、China産の百円均一製品が大量に出回っていますが、おかげで年間10兆円の富が、日本からChinaに流出しています。
もし、全て日本製にしたら、おそらく価格は百円均一ではなく、三百円均一くらいになると思いますが、その代わり、約30兆円のGDPが日本国内に生まれます。
長い目で見てどっちが得なのか。
政策面においても、一考に値することなのではないかと思います。
そして「修理」は、「固成(かためなせ)」と続いています。
神々がつくられたものを、玉を磨くように大切につかわせていただき、感謝し、それによってしっかりと国を固めていく。
だから「修理固成」です。
その普段の努力にこそ、私たち日本国民の幸せがあるのだと思います。
逆に感謝の心を忘れ、自分勝手な都合や、目先の快楽ばかりを追求し、モノを粗末にするなら、日本はどんどん壊れていってしまいます。
かつて広大な農地だったところは、いまでは住居専用区域になっています。
そこには、戦後にマッチ箱と呼ばれる家屋が立ち並びました。
建てられた当時は、新築のマイホームでした。
けれど、あれから40年、いまではその住居専用区域が、核家族化、高齢化によって年寄りの町となっています。
あと50年経ったら、老朽化して誰も住んでいない廃屋が立ち並ぶ廃墟になってしまいます。
一方で不良外国人を大量に日本に招き入れ、そういう人たちが誰もいない廃屋に勝手に住み着くようになったら、そこはまたたく間に、スラム化していきます。
実際、米国のニューヨークなど古い町で、いまスラムとなっている場所は、いずれもかつての高級住宅街です。
大陸のように広大な土地がある国であればまだしも、日本のように高度に集約され、人々が密集して暮らしている国で、そのような不穏な区域ができあがることは、決して私たちにとって幸せなこととはいえません。
国は、そうした戦後の行政を、いま、大きく見直すべきときにきているのではないかと思います。
かつて「修理固成」は、尋常小学校、国民学校で先生からしっかりと教えられた日本人の常識でした。
「修理固成」は、単に伊耶那岐、伊耶那美の神話ということではなくて、日本人としての常識語だったのです。
良い物は、何時の時代にも良いものです。
良い言葉は、常識として取り戻していきたいものだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。


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コメント
陸井夏樹
◉_カミ:八百万言霊の発源/言魂[ネ迪:しめすへんに迪をカミと読ませる会意和字で「ネ申」との惑乱を避ける]。
2016/08/19 URL 編集
くすのきのこ
かないという説があります。言葉の内容を何度も考えて吟味する事のほうが、
思考能力をのばすからです。軽い日常会話をしても、人間の相互理解は進ま
ないと。また英語教育だけではなくフランス語、教育の選択もあった方がい
いかもしれませんね。もし国際人を育てるのであればw世界にはフランス語
が通じる小国がワンサカありますし、アフリカの国々の一部もそうです。今
後発展してくると、ただ今絶賛資本投下中の大陸。スペイン語は中南米で役
立つ。世界は、先進国とその他の国々の格差を埋めていく途中です。いわゆ
る南北問題。それに真面目に向き合っていないように見える欧米諸国w個人
は別ですよ。自国の軍需産業のために紛争の種を播き、あるいは参加してた
りも。さて・・日本も間接参加でカネを払ったりしてるのが現状。。。
一方で1993年より日本主催のアフリカ開発会議を行い、インフラ協力な
どをしてたりもする。やはりフランス語でしょう。元英領よりも元気だった
り・・もしますよw
2016/08/19 URL 編集
紫陽花
京都御苑の中を通って正門で「これから崇徳天皇の所へ参ります」とご挨拶の後、松ぼっくりを拾って、碑の前に「御苑の松ぼっくりです、来年もどうか京都にお帰り下さいね」と置かせて頂きました。古事記は物語に真実を巧みに忍ばせた日本人の創世記ですね。国の伝説はそのまま私たちの伝統だと思います。
たった二人のナギナミから始まった日本の物語。皇室がなければ私たちも居なかった。人類もしかり…なのですね。 人類最古の御皇室に起きる問題は昔も今も、私たちの本家大元の一大事としてしっかりお支え出来るよう、柔らかくしなやかな気持ちで経過を見守ってゆきたいと思います。
2016/08/18 URL 編集
にっぽんじん
仮に、日本人が日本語を忘れ、英語社会になれば「日本古来の情緒文化」が失われます。英語を日本語に訳すのは簡単です。が、その逆は簡単ではありません。日本古来の情緒を表す英単語がないからです。
そんなことはないという方は「わび」「さび」という日本語を英語にしてみて下さい。日本語があるから「日本古来の文化」が永続するのです。日本の成り立ちや日本の伝統文化、歴史を知って初めて国際人になれます。
英語が話せても、日本の文化、歴史を語れなければ諸外国から馬鹿にされるだけです。英語より「国語」を大事にすべきではないでしょうか。
2016/08/18 URL 編集
悲しい爺
どうやら先祖崇拝に根差している様なのですが・・・
人だけが孤立していないところを考えると、
森羅万象も先祖と考えているのでは・・・
八百万の神々という膨大な神々を持つ日本人は、
宇宙・山川草木・・・・つまり自然!
神々を自然と置き換えて読むと腑に落ちる。
2016/08/18 URL 編集
junn
http://tyuzo.jugem.jp/?eid=811
2016/08/18 URL 編集