
(画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)
←いつも応援クリックをありがとうございます。
一日過ぎてしまいましたが、昨日、8月20日は70年前の昭和20(1945)年に「真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)」が起きた日です。
真岡町は、樺太にある町です。
樺太は、魚のようなカタチをしていますが、その南側、つまり魚の尾ヒレのようになっているところの、付け根のあたりにあった町が真岡です。
そこにいた9名の女子電信職員が、ソ連軍の侵攻によって、職務を最後までまっとうし、最後に集団自決しました。
ソ連はいきなり日ソ不可侵条約を破って満州、樺太、アリューシャン列島に、8月9日、突然攻め込みました。
ソ連が動員した兵力は、戦車5千輌、兵力157万人という、気の遠くなるような戦力です。
ちなみに日本は、真珠湾攻撃が対米宣戦布告の30分前に行われたことで「だまし討ちだ」米国に言われ、そのことを多くの日本人はいまだに申し訳なく思っています。
けれども戦争は、このように、まったく宣戦布告などなしに、突然開始されるものの方が、はるかに多い。
むしろ、キチンと宣戦布告をしながら戦いを行ってきたのは、日本くらいなものです。
日本は、礼にはじまって礼に終わる国です。
しかし世界は異なるのです。
朝鮮戦争における北朝鮮の韓国侵攻にしても、中共政府のチベットやベトナム侵攻にしても、そこに宣戦布告などありません。それが現実です。
ですから最初、日本側は、突然攻めてきた軍団が、いったいどこの国のものかさえ、わかりませんでした。
このため避難勧告も遅れ、樺太に緊急疎開の指示が出されたのは、8月13日になってからの出来事です。
そして二日後の8月15日の正午には玉音放送が流れて、戦争が終わったと思っていたら、ソ連は、これとは関係なく侵攻してきている。
そこで、とにもかくにも樺太に残留する邦人を、特に女子供を優先して本土に疎開させようと輸送船を出したところ、この疎開用の輸送船を狙って、ソ連の潜水艦が攻撃をしかけ、輸送船が沈められて1700名の日本人が殺されています。
これは8月22日に実際にあった出来事です。
輸送船を撃沈するというのは、明白な戦時国際法違反です。
しかしそれでも、樺太にいたら危ない。だから本土への集団疎開は8月23日まで続きました。
それはとっても危険な航海です。いつ襲撃され沈没させられるかわからないからです。
けれど日本の輸送船の船員たちは、この輸送に勇気をもって挑み、なんとわずか10日で合計8万7千人を北海道へ輸送しています。
そしてこの輸送を成功に導くために、絶対に欠かすことができなかったことがあります。
それが、本土との「通信連絡網の確保」です。
当時、樺太と日本本土の間には、電話線が引かれていました。
いまでは、電話は、電話番号を押せば、コンピューター処理で相手の電話機にすぐに繋がりますが、この時代は、すべてが手作業です。
アニメ映画の『となりのトトロ』で、さつきちゃんがおばあちゃんの家の電話を借りて受話器を外し、くるくると横の取っ手を回して「七国山病院をお願いします!」と言うシーンがありますが、この時代の電話機には、まだ番号を押すところがありません。
電話の受話器(耳あて)を取り、電話機の横についている取っ手をクルクル回すと、電話交換所の交換員につながります。
そして電話を架けた人が、「どこそこをお願いします!」と言うと、電話交換手が、相手先の電話回線に、手作業で通話のコードを差し込んで電話を繋いでいました。
その電話回路の接続業務(電話交換業務)をしていたのが、郵便局の乙女たちだったわけです。
さて、時計の針を少し戻します。
8月16日の朝、真岡郵便局で、朝礼が行われました。
その朝礼で、交換手の主事補だった鈴木かずえさんが、部下の女性交換手たち次のように話しています。
=========
政府から、特に女性たちを優先して緊急疎開させるようにと、疎開命令が出ています。
でも、その疎開を効果的に実現するためには、電話交換業務を継続しなければなりません。
そこで、残って交換業務を続けてくれる人を求めます。
ただし、すぐに返事は聞きません。
全員、一度家族と相談したうえで、返事を聞かせてください。
==========
鈴木かずえさんのこの言葉に、その場にいた女性交換手全員が手を挙げて、「私は残ります」、「私も残ります」、「私も残らせて下さい」とこたえたそうです。
みんな、17歳から24歳の、若い女性たちです。
みんなの気持ちは、とても嬉しいものです。けれど残れば、ソ連兵に蹂躙され、殺される。
つまり残るということは、死ぬ、ということです。
「だから自分ひとりで決めちゃいけない。あくまで家に帰って、親と相談してから、あらためて希望者は名乗り出てください」と鈴木かずえさんは締めくくりました。
斉藤春子さんと、妹の美枝子さんは、姉妹で電話交換手をしていました。
そして二人とも、残留を志願しました。
家にいた母には、娘たちの気持ちや行動がわかりました。
だから母は、「娘二人とも預けたままでは、引き揚げられない。だから、どうしてもひとりだけでも連れて帰らせてください。」と真岡郵便局長に電話をかけました。
18日、上田局長は、斉藤姉妹を呼び出して母からの電話のことを伝えました。
そして「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げました。
姉妹は互いに、自分が残ると押し問答を繰り返しました。
そして言い合いの後、姉が母と帰ることになりました。
そんな姉妹の言い争いを黙って見ていた上田局長は、残留の決まった妹の美枝子さんも、母と姉の乗る復員船の出航に間に合うように、帰しています。
こうして最終的に、真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残りました。
8月19日の朝、人数の少なくなった真岡郵便局は、電話交換手を平常の三交代制から、非常勤務体制である二交代制に体制を組み替えました。
電話交換手の女性たちは、上野班と高石班の二つに分けられました。
午後7時、最初の夜勤当直班として、高石班11名が勤務に付きました。
この時点で、真岡郵便局にいたのは、
平井茂蔵電信主事他、男性職員6名、
女性職員が14名です。
高石班11名は、電話交換業務を行う奥の建物にいました。
翌朝7時33分、ソ連の軍艦が真岡付近にやってきました。
港に近づいたソ連軍艦は、なんの予告もなく、いきなり猛烈な艦砲射撃を始めました。
続いてソ連軍の上陸用艇が、樺太に上陸を開始しました。
南京のことがよく取り沙汰されますが、南京城攻略の際、総大将の松井石根大将は、南京城を包囲したあと、なんと1週間もの間、城内に向かって、降伏と軍人以外の一般市民の退去を呼び掛けを行い、その間、一切の攻撃をせず、一般人の避難のための時間を相手に与えています。
戦いに際し、一般人への被害を極力少なくしようとしたからです。
これが日本の姿勢です。
便衣兵などと呼ばれ、女子供まで一般服に身を包みながら、日本軍が近づくといきなり発砲して日本兵に損傷を負わせる。そんな卑怯なルールを無視したChina兵に対してでさえ、日本は出来うる限りの温情で、一般人の被害が出ないよう最大限の配慮をしていたのです。
ところが真岡にやってきたソ連軍艦は、近づくや否や、いきなり艦砲射撃を一般人に向けて行なっています。
多くの日本人はこのため防空壕に入る間もなく、この艦砲射撃で命を失っています。
内陸部にある真岡町では、郵便局の高石班長が、上田郵便局長他、局幹部に電話で緊急連絡を行って、職員全員に非常招集をかけました。
本土への応援(救援)の依頼等に際して、電話交換業務が混みあうことが予期できたからです。
地震や台風などのあと、電話回線がパンクするのを想像したら、事情はおわかりいただけようかと思います。
局員たちは、急いで郵便局に向かいました。
ところがその頃には、すでにソ連兵が上陸し、真岡にも迫ってきていました。
ソ連兵は、動くものを見れば、片端から銃撃してきます。
日本人の民間人は、武器を持っていません。
けれど、武器がなければ、反撃される危険がなければ、情け容赦なく銃撃を浴びせ、見つけ次第殺すのが大陸の兵士たちのやり方です。
そして屋内に侵入しては強姦や略奪を始めました。
混乱の中で、郵便局に出勤途上の上野班の電信受付の折笠雅子さんも、ソ連兵によって射殺されています。
艦砲射撃やソ連兵の銃撃を避けて、途中の防空壕に避難した職員たちも、壕の中に手榴弾を投げ込まれて次々爆死しました。
そのときの様子を、混乱の中でからくも助かった上野班の藤本照子は、後に次のように証言しています。
「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした。」
まさに、無差別殺戮がおこなわれていたのです
上田郵便局長も郵便局へ向かいました。
けれど、手当たりしだい一般市民を虐殺するソ連兵の前に、とりあえず付近の建物に避難しました。
するとその建物には、局長の他5~6名が、先に避難していました。
建物内に郵便局長の姿を見つけた真岡署の木村巡査部長は、局長らを救出しなければならないと、上田郵便局長が隠れている建物に向かって走り出しました。
ところがあと一歩で、建物にたどり着くというときに、ソ連兵の銃弾によって、後ろから撃たれてしまう。
自分たちを助けようとしにきた木村巡査部長が目の前で倒れたのを見た上田局長は、なんとか彼を建物の陰に引きずり込もうと、路上に飛び出しました。
すぐあとを同僚の局員が続きました。
その二人をみつけたソ連兵が、また発砲しました。
上田局長は、左手に貫通銃創を負い、もうひとりは右足に盲管銃創を負って倒れました。
血だらけになった局長の姿を見て、一緒にいた若い男が、棒の先に白布を縛り付け、ソ連兵に降伏の意思表示をしました。
その場の全員がただちにソ連兵によって拉致されました。
真岡郵便局では、平屋建ての本館と、奥の2階建ての別館があったけれど、本館は爆破され、そこにいた全員が死亡してしまいます。
こうして、指揮系統を失った電話交換手の女子11名だけが、奥の別館に取り残されました。
彼女たちは、ソ連の攻撃が始まってからも、各方面からの電話交換業務を1時間以上も継続しています。
けれど、はじめのうちは遠くにあったソ連兵の銃撃の音が、どんどん間近に迫りました。
さらに表側にあった郵便局本館も吹き飛ばされました。
この時点で、もはやこれまでと悟った彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送りました。
それが、
「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」というものです。
11名の女子は、この電文のあと、全員足を縛り、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを口にしました。
ソ連兵が電話交換室に乱入してきたとき、そこに裾が乱れないように足を縛り、きれいに並んで死んでいる11名の乙女たちの姿がありました。
その凄惨さに、さしものソ連兵にも人の心が息を吹き返しました。
ひとりひとりの状態を丹念に調べ、まだ息のあった女性二人を救出しています。
けれど残りの9名は、そのまま還らぬ人となりました。
このことから、戦後、アホな学者などが、真岡郵便局の女性たちは、何も死を選ぶ必要がなかった。なぜなら2名の女性は、ソ連兵によって救助され、命を永らえているではないか、彼らは悪魔ではない、などと、最近になっていい加減なことを言っているそうです。
そういう学者たちは、通化事件その他、満蒙で起こった事件にほおかむりしています。
ソ連兵に限らず、大陸の兵にとって強姦と略奪は、給料のようなものです。
青酸カリを飲んで、仮死状態になっている女性では、ソ連兵にとっては戦利品となりえなかったというだけのことです。
残酷だけれど、それが事実です。
ちなみに、大正9年5月に、いまではロシアのニコライエフスクと名前を変えた尼港で起こった尼港事件では、露・支・韓人の混合パルチザンが、日本人の民間人121名を殺害しています。
ここでは、日本人は生きたまま両目を抉り取られ、5本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されて殺されています。
そして金歯があるものは、生きたまま顎(あご)から顔面を裂かれて、金歯を抜き取られ、女は裸にされ、死ぬまで強姦された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されています。
このとき、酸鼻をきわめた現場の壁には、血痕や毛のついた皮膚などがこびりついています。
≪参考:尼港事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2650.html</u>">
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2650.htmlこのような危険が間近に迫ったとき、真岡郵便局の乙女たちが、おのれの人間としての尊厳を守るために、他にどういう選択肢があったというのでしょうか。
彼女たちの冥福のため、昭和天皇と香淳皇后は、和歌を残されています。
【昭和天皇 御製】
樺太に
命を捨てし
たおやめの
心思えば
胸せまりくる
【香淳皇后陛下 御歌】
樺太に
つゆと消えたる
おとめらの
みたまやすかれと
ただいのりぬる
この事件は、後に「氷雪の門」というタイトルで映画化されました。
その冒頭のナレーションです。
========
樺太(からふと)・・・
いまはソ連の支配下にあり「サハリン」と呼ばれているこの島は、ともすればもう、人々の記憶から遠ざかろうとしている。
だが、今日もこの海の向こうに見えるあの樺太は、多くの人々にとっては、いつまでも懐かしく心を去らない故郷(ふるさと)である。
また、ある人々にとっては、父や母や子供を失った悲しみの土地でもある。
その思いをとどめようとするために、ここ北海道稚内市稚内公園に、ひとつの門が建っている。
この白御影石を使用した十メートルあまりの二本の塔。
その下に、厳しい樺太の風土に耐えて生き抜いた人々をあらわす女人像。
これは「氷雪の門」と呼ばれている。
この碑文には、次の言葉が刻まれている。
・・・・・・
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。
戦後はその門も固く閉ざされた。
望郷の念止みがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、
この塔を建つ
・・・・・・・
またその近くに、いっそうの屏風のように形作られた九人の乙女の碑。
「皆さんこれが最後です。さようなら」
この言葉の意味を知らない人は多い。
また、初めてこの碑の存在に気付く人も。
そして傍(からわ)らの碑文を読む人は、これが樺太西海岸真岡町、真岡郵便局電話交換手九人の、最後の言葉であることを知るだろう。
=========
九人の乙女の碑

この映画は、昭和48(1973)年に撮影され、翌昭和49(1974)年に上映開始予定となりました。
ところが、同年3月7日、モスクワで、モスフィルムという会社の所長がたったひとこと、
「非常にソビエトにとって面白くない映画が日本で公開されようとしているのは理解に苦しむ」と発言したことで、予定されていた全国での映画配給が、いきなり中止になりました。
上映されたのは、北海道と九州の一部の映画館が、わずか2週間ほど公開しただけです。
映画はお蔵入りになりました。
真岡の郵便局で、尊い命を捧げた9人の乙女たちの命より「人類の理想の国家ソ連」への礼賛が、戦後反日左翼主義者たちには大事だったのです。
けれども彼らが礼賛したソ連がどういう国だったのか、ソ連崩壊を目の当たりにしてきたいま、世界中の人が、その事実を知っています。
真岡郵便局でお亡くなりになった9名の乙女たちです。
高石ミキ 24歳
可香谷シゲ 23歳
伊藤千枝 22歳
志賀晴代 22歳
吉田八重子 21歳
高城淑子 19歳
沢田きみ 18歳
渡辺 照 17歳
松崎みどり 17歳
============
【碑文】
8月20日、ソ連軍が真岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった9人の乙女らは、死をもって己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険。
今はこれまでと死の交換台に向かい
「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
の言葉を残して、静かに青酸カリを飲み、夢多き若き花の命を絶ち、職に殉じた。
============
ひとつ、大切なことを加えておきます。
南樺太は、日本領であり、戦前まで日本人が入殖していました。
もともと、樺太は北海道より北側の、緑も何もない荒涼とした赤土の大地でした。
みなさま、機会がございましたら、是非、google MAPの航空写真で、その樺太を見てください。
日本領だった南半分だけが、いまでも緑の大地となっています。
日本人が、冷たい寒帯の島で、土を耕し、たくさんの木を植えたからです。
その緑が、いまでも南樺太の大地に育っています。
真岡郵便局の乙女たち、そして我が国北方領土でお亡くなりになった皆様のご冥福を捧げ、このお話を皆様にお送りします。
***
いくつか補記しておきます。
樺太の南半分は、明治38(1905)年に米国の仲介によって日本とロシアが日露戦争後の講和条約として締結したポーツマス条約によって、日本の領土となったところです。
そしてこの樺太の南半分について、日本は、昭和27年のサンフランシスコ講和条約によって「権利、権原及び請求権を放棄」しました。
逆にいえば、それまでの間は、日本は樺太に関する「権利、権原及び請求権を」所持していたことになります。
さて、この「権利、権原及び請求権を放棄」が何を意味するかというと、ひとことでいうならば「処分権を放棄」したということです。
領土としての「処分権の放棄」ですから、これは「主権の放棄」とは異なります。
実際、講和条約のどこにも「日本が領土主権を放棄した」とは書いてありません。
日本が領土主権者だからこそ、その処分権を放棄し、その処分を連合国に委ねたのです。
なんだかやっかいに聞こえるかもしれませんが、ここは大事なところです。
日本が条約で調印した連合国(国連)が、この地の処分先を決定すれば、その時点であらためて領土の割譲条約が締結されることになります。領土主権は、譲渡、割譲、先占、売買によってしか移転できません。
さて、いまから69年前の昭和20(1945)年8月15日、日本は大東亜戦争の戦闘行為を終結させました。
戦闘行為を終結させた日だから、この日を「終戦の日」と呼びます。
ちなみにこの日をもって「戦争が終わった」という人がいますが、それもまた違います。
日本が自主的に戦闘行為を終わらせたのであって、国家としての戦争状態はその後も継続しています。
戦争状態が継続していたから、GHQが置かれ、日本への軍事占領が行われていたのです。
ですから大東亜戦争が公式に終了したのは、サンフランシスコ講和条約が発効した、昭和27年4月28日のことです。それまでは戦争状態が継続していました。
ところが終戦直前の昭和20年8月9日、ソ連は一方的に日ソ不可侵条約を破って、満州、樺太、千島に侵攻してきました。
よく、「日本軍は大陸で侵略行為を働いた」という人がいますが、挑発されて攻撃するのは正当な自衛行為であり、侵略とはいいません。
日本は大陸には北京議定書という国際条約に基づき、当時の国際連盟加盟11カ国とともに共同で大陸に出兵していたのであって、これは正当な行為です。
その大陸にいる日本の民間人や施設、あるいは軍隊に対して、通州事件をはじめとした一連のきわめて残虐な挑発行為があったために、日本はやむなく兵を増員して軍を編成し、大陸へと兵を進めています。
ですからこれは、あきらかに「挑発を受けて攻撃」した行為であって、これは自衛のための正当な防衛行為の一環となります。
これに対し、終戦間際のソ連による侵攻は、日本が攻撃その他一切の挑発行為をしていない状況での一方的な侵攻です。
ですからこれは、国際法上あきらかな「不当な侵略行為」です。
ところがなぜか、日本のメディアは、「日本が侵略行為を働いた」とは言うけれど、「ソ連が侵略行為を働いた」とは言いません。
また、その後ソ連は日本の民間人や軍人をシベリア抑留して強制労働を課していますが、これまた国際法上は、あきらかな捕虜虐待行為です。
けれど、なぜか同様に、そのことを問題視するメディアはありません。
こういうところに、戦後日本の「歪み」が明確にあらわれていると思います。
真岡郵便電信局事件は、つらく悲しい事件です。
せめて、彼女たちが生まれ変わるときは、寒いサハリンの地ではなくて、南の島の明るい太陽のもとで、のんびりとしていただきたい、そんなことを思って、冒頭には、南の島の写真を貼らせていただきました。
ちなみに去年はタヒチ、今年の写真はモルディブです。
本来であれば、私達は毎年この時期に、真岡郵便局事件の映画をメディアで再放送すべきなのではないかと思います。
ただ、私は、だからといってソ連やソ連人を恨むということでもいけないと思っています。
犠牲になられた方々がおいでになった。
その事実を忘れないこと。
そして、同時に私達は、二度と、このような悲惨な目に遭わないように、軍事力だけでなく外交力も合わせて、しっかりと国の護りを固め、戦乱のない日本を築いていかなければならないことだと思います。
もし、このとき、樺太を攻めたのが日本人で、樺太にいたのがロシア人という、逆の構図であったら、いったいどうなっていたでしょうか。
日本軍は、居留民保護を第一優先としたことは、当時の東亜世界では知れ渡っていました。
おそらく、ロシア軍はさっさと逃げ、そのときに、
「日本軍がやってきたら、扉を開けて迎え入れるように」と通達していったのではないでしょうか。
なぜなら、日本の軍隊は、収奪も強姦も働かない、当時の世界にあって、世界にただひとつの軍隊であったからです。
もうひとつ大事なことがあります。
それは、ChinaやKoreaには、
自分たちがしたことは、されたこと
自分たちがされたことは、してあげたこと、
というマインドがあります。
自分たちが非道の数々を働いておいて、それはすべて敵にされたことにしてしまう。
自分たちが施された恩恵、たとえば仏教を教えてもらった、文字を教えてもらった、農耕を教えてもらったなどということは、すべて「してあげたこと」に転換してしまうということです。
これに対し、ロシア人は、共産主義者以外は、そのような卑怯卑劣を嫌います。
嫌う代わりに、そんなことを言わなくても済むくらい、派手に殺しまくる。
それぞれの民族には、それぞれの民族固有の文化があるということです。
※この記事は2010年11月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。


↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
■ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
http://goo.gl/WicWUi</u>">
http://goo.gl/WicWUi■「耳で立ち読み、新刊ラジオ」で百人一首が紹介されました。 http://www.sinkan.jp/radio/popup.html?radio=11782■ねずさんのひとりごとメールマガジン。初月無料 http://www.mag2.com/m/0001335031.html</u>">
http://www.mag2.com/m/0001335031.html【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

コメント
私も「蒙」ですか?
その程度のこともご存知ない方が「歴史啓蒙家」を名乗られるのはおやめになってはいかがでしょうか。
2016/08/22 URL 編集
垂逸
数日前のCostcoに関する嘘、もしくは内容未確認記事を、すぐにCostocoの名前を外すような姑息な事をしています。また主のFBからはこの記事は完全に削除されてなかった事になっています。私はこのような挙動自体が記事が嘘である事の証拠と受け取っております。
主がご自分の主張と違う意見やご自分の主張に不利な事実を主張する "学者先生" をアホ呼ばわりされる事は日常茶飯の事です。ただしこのケースではさすがに相手が明確にわからないように、”最近の学者” という言い回しをされたりします。もし名指しされれば、最低でも苦情が来る事は覚悟しなければなりません。主はそれが怖いので名指しができないのではないでしょう。
Costcoの場合、日本の会社ではないので初めは甘く見たのでしょうが、後になって外国企業の方が簡単に訴訟を起こす事に思い当たり、名前を隠したたのでしょう。
ところで、最近の学者先生 という言い回しですが、主にとっての ”最近" がどのくらいの時期からかを理解するのも結構難しいのです。例えば、和歌の解釈などに関して主が攻撃する "最近" の解釈というものが、中世、近世以降のものだったりするのはいつもの事です。こうなると一時が万事という事もあって、主のご高説はいちいち眉に唾をつけて聞かなければならなくなっています。
日本人として国に誇りを持ちたいのは皆様同様でしょう。しかし私にとってはその誇りは事実に基づいたものでなければなりません。最近の歴史上の事実を捻じ曲げて過去の行為を正当化する風潮は恥ずかしい事ですし、不敬を顧みずに申し上げれば大御心にもそぐわないものではないかと考えます。
2016/08/22 URL 編集
右曲がりのおっさん
・・・アメリカ軍のお陰だろっ!
2016/08/21 URL 編集
桐一葉
HNで良いのだから、チョンでもポンでも、センスの見せ所で何でも名乗ればよいと思いますが、余程意見と己に自信がないのでしょうか。
正しいことを言っているというのなら、それらしいお振る舞いをしたらいかがでしょう。
最近特に保守系ブログに、似たような貶めコメントや、訴えるとか公安が狙っているとか、さもさもなコメントをちらつかせている姑息な一派がいるようです(でもハッタリ)。
反日作戦が自爆続きで、左が大変焦っているようだとの事、やればやるほどお花畑から覚醒する日本人が増えてきています。日本人はまっすぐ正しいことをしていれば、神威発動されます。
リオの選手のご活躍のように。
2016/08/21 URL 編集
-
脳味噌の構造はどうなっとるんか、宇宙侵略奴なのか
土地は広いのに、近島で自由にのんびりバカンスがしたかったのかえ?
この時代、燃料を遣っていたから海洋資源狙いか?
2016/08/21 URL 編集
-
社会人として、暴力は厳禁。灸を据える処分を検討する。
2016/08/21 URL 編集
-
2016/08/21 URL 編集
陸井夏樹
【道らすによりて滅ぶる国あらば滅びてもよし、断じて滅びず!】[xpec.jp/8/sy]
2016/08/21 URL 編集
-
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/187925/1
2016/08/21 URL 編集
ポッポ
>2016/08/21(日) 09:56 | URL | #
この人が,何を言いたいのか理解できません。
関東軍は,主力を南方に出動させていましたからソ連の日ソ中立条約の一方的廃棄のことをどう考えているのか知りませんが,ねずさんが前に書かれたソ連軍の侵攻に対する日本軍の守備隊の努力を知らないのでしょう(又は,無かったと勝手に思い込んでいます。)。
それから参考に,千島列島と樺太における日本とソ連の戦闘を記述します。(ねずさん,すみません。検索が下手で,ねずさんの原稿を直ぐに探せませんので,とりあえずです。)
名無しの人ですから,通州事件すら知らないでしょうね。
8月9日にソ連は日ソ中立条約を一方的に廃棄して,満州に侵攻しました。そして,千島列島の占守島へは8月18日午前2時藩頃にソ連軍は占守島に上陸したため,警戒していた日本軍と戦闘となり,そして,停戦になりました。この時の日本軍は,当初何処が攻めてきたか分からなかったそうです。
この戦闘によるソ連軍の被害は死傷者1,567名で,日本軍の死傷者は1,000名だったそうです。(日本軍による死傷者の推定は,ソ連軍3,000名で,日本軍600名です。)
南樺太では8月11日午前5時頃からソ連の侵攻は始まり,これを守備する日本軍は小兵力でしたが頑張りました。
その後も,守備する日本軍と侵攻するソ連軍の戦闘は続いて,正岡郵便局の悲劇もその中の出来事です。
南樺太での日本軍の兵力は約20,000人で,ソ連軍は1個師団と4個旅団,日本軍の損害は戦死が700~2,000人で,これとは別に民間人死者は3,500~3,700人だったそうです。
ソ連兵には民間人も兵隊もない,ただ残虐なことは確かで,樺太,満州だけでなく,ベルリンでも凄まじくドイツ女性200万人にも及ぶごう姦があったとか。
名無しの人は,ソ連軍は強く正しい軍隊だと信じているのでしょう。
2016/08/21 URL 編集
shengxin
無責任発言と同じと自分は思います。
訴訟云々も脅し?
こんな意見もあると容認できませんかね。
CHINAの嘘は大歓迎とかなんですかね?
さて、軍隊は命令で動きます。
命令で移動が決まれば心残りでも移動しなければいけません。
そういったことを理解しての角田房子、藤原ていを始め、様々な著作物なのでしょうか?
沖縄しかり、民間人を戦闘地域から遠ざけると考えれば兵隊のいる壕は危険ですからね。
戦闘地域にいるなら民間人を遠くに離れさせて被害が及ばないようにが基本。
ねずさんのブログはそういったことも書いてくださったりしていますよ。
全体から見た動きと狭い視野での動き。
全体を見ないで、些末なことに文句を言うって、左系の運動家さんとか多いですよね。
岡田某のアメリカが憲法作った発言の抗議も、アメリカではそう教えている常識なのだから。
日本が率先して憲法作ったのではないし、最初の案は否定された後だけにお手本付きの憲法作成だったのかなと思ったりもしますね。
日本語がおかしい現憲法ですから。
2016/08/21 URL 編集
-
2016/08/21 URL 編集
-
2016/08/21 URL 編集
junn
http://blog.jog-net.jp/200604/article_1.html
2016/08/21 URL 編集
junn
http://insidejobjp.blogspot.jp/2012/10/k.html
2016/08/21 URL 編集