富樫は、この時点でそれが義経の一行だと見抜きます。
その一方で、弁慶の堂々とした振る舞いにも心を動かされます。
ところがこのとき、富樫の部下のひとりが、
「そこにいる小男は義経ではありませぬか」と富樫に申出ます。
富樫は奉行ですから、これを無視するわけにいきません。
富樫は弁慶に、
「そこにいる小男が義経ではないか」と問います。
すると弁慶は、やにわにその小男を
「お前が愚図だから怪しまれるのだ」
と、金剛杖で殴りつけるわけです。
金剛杖というのは、いまでもお遍路さんなどで使われる、六角形、または八角形をしている木製の杖です。
これで思い切り殴るのです。痛いです。
弁慶は義経の家来です。
家来が主君を棒で殴るなど、本来ありえないことです。
それが目の前で行われている現実に、義経主従の絆の固さを感じた富樫は、義経一行の関所通過を許すのです。
ここは山場です。
富樫は関守であり、当時の仕組みとして、彼が義経一行を見つけ、逮捕すれば、彼は巨額の恩賞と名誉ある地位を得て立身に授かることができます。
ところが富樫は、知っていて義経一行の通行を許可するわけです。
しかもこのときの富樫は、自分が「それが義経一行である」と気付いたことさえも、周囲に悟らせないよう、配慮して振舞います。
知らないで通してしまったというのならまだしも、知っていて通したとなれば、富樫ひとりではなく、周囲にいる富樫の部下たちもその罪を免れないからです。
弁慶も、そうした富樫の心遣いに気がつかないふりをします。
そこで感謝などしたら富樫の立場を失わせることになるからです。
二人は眼と眼でわかりあいます。
歌舞伎では、ここは無音になります。
笛や太鼓や歌などにぎやかな演出が多い歌舞伎ですが、この場面では、静寂がかえって緊迫感を漂わせます。
最後に富樫は「失礼なことをした」と一行に酒を勧め、弁慶はお礼に舞を披露します(延年の舞)。
弁慶は舞ながら義経らを逃がし、弁慶は富樫に目礼して後を急いで追いかけます。(飛び六方)。
歌舞伎では、このシーンで弁慶が花道を踊りながら去っていきます。
観客はここで万雷の拍手となります。
勧進帳の読み上げや、山伏問答における弁慶の雄弁。
義経の正体が見破られそうになる戦慄感。
義経と弁慶主従の絆の深さの感動。
舞の巧緻さと飛び六方の豪快。
見どころが多いこの勧進帳は、歌舞伎のなかでも、実に素晴らしいものです。
物語は、もちろんフィクションです。
しかし、ここで登場した富樫左衛門は、実在の人物です。
実名を富樫泰家(とがしやすいえ)といい、1182年、木曽義仲の平氏討伐に応じて平維盛率いる大軍と加賀・越中国境の倶利伽羅峠にて対陣し、燃え盛る松明を牛の角に結びつけて敵陣に放ち、夜襲によって義仲の軍を大勝利に導いた実績を持ちます。
そして木曾義仲が源義経に討たれた後は、頼朝によって加賀国の守護に任ぜられました。
肚のわかる豪胆で立派な武士だったようです。
この「勧進帳」はお芝居とはいえ、日本人の気質の、いくつかの大事な点を気付かせてくれます。
第一に「武士は上からの命令だけで動くものではない」という点があげられます。
もし富樫が、上の命令だけに忠実であるのなら、義経一行と見ぬいた時点で、義経らを逮捕しています。
しかし彼はそうはしていません。
見破りながらも、義経と弁慶の信頼、そして弁慶の堂々とした立派な態度に心を打たれ、通行を許可しています。
観客は、そうした富樫の態度に、拍手を送ります。
上からの命令だけしか動かない者を、日本人は軽蔑します。
パブロフの犬と同じだからです。
パブロフの犬は、ベルを鳴らす都度餌を与えていると、そのうち犬はベルが鳴っただけでヨダレを垂らすようになるというものです。
ベルが鳴る→ヨダレを垂らす。
上からの命令→ただ従う。
同じです。
お天道さまが観ていると考える日本人は、たとえ断れない上からの要望であったとしても、要求されたからただ従うというのではく、それを行うことが自分の魂に誓って正しいことといえるかを判断します。
そして納得して行動する。
納得して行動するから強いし、命がけにもなるのです。
後ろから銃を突きつけられてする仕事と、自ら率先して行う仕事では、仕事の質が違います。
ずっと後年になりますが、昭和13年にソ満国境に殺到した二万人のユダヤ人難民を救った樋口季一郎中将にしても、あるいは昭和15年にリトアニアで6千人のユダヤ人に命のビザを発行した杉原千畝にしても、建前に基づく上司の「駄目だ」という判断よりも、自らの魂の清浄さに従うという選択をしています。
そして、その選択をした部下を、上司は逆に、人として男として認めます。
似たような話は、忠臣蔵にもあります。
大石内蔵助は、主君の仇討のために江戸に向かうのですが、このとき垣見五郎兵衛(かきみ ごろべえ)というニセの名前を使います。
ところが東海道のある宿場で、本物の垣見五郎兵衛とばったり出くわしてしまうのです。
双方、自分がホンモノであると言って譲らないなか、ホンモノの垣見五郎兵衛は、大石に「通行手形を見せよ」とせまります。
当然、大石はニセモノですから、そんなものは持っていません。
だから懐から白紙を取り出して垣見に見せます。
ふと見ると、大石の荷物の長持(ながもち)には、播州浅野家の紋所が刻印してあります。
すべてを察した垣見は、目に涙を浮かべながら、
「拙者の通行手形をお使いなされよ。そして見事本懐を遂げられよ」と、ホンモノの通行手形を大石に手渡します。
このシーンは、忠臣蔵の見せ場のひとつです。
これは史実ではなく、弁慶の勧進帳に似せた創作ですけれど、観客はやはりここで万雷の拍手を送るわけです。
ここにもやはり、身分や上下関係や、事の是非よりも、人として男として立派な振る舞いをすることを優先するという日本的精神が現れています。
大石の通行手形は、白紙なのです。
どっちがホンモノかは、明らかにわかります。
オトポール事件では、当時の日本はソ連と敵対することは是が非でも避けなければならないことです。
杉原千畝のときは、当時の日本はユダヤ人を追い詰めているドイツと同盟関係にあります。
ですから千畝が内務省にビザ発行の許可を求めたとき、内務省は「ダメだ」と答えています。
しかしオトポール事件で樋口季一郎がユダヤ人を黙殺したり、あるいは杉原千畝がユダヤ人たちにビザの発行を「しなければ」、内務省も、政府の閣僚たちも、そして日本の世論も、あるいは樋口や杉原の親兄弟、親戚一同、同級生、友人たちみんなは、彼らを「腰抜け、人非人」とみなしたと思います。
彼らは上からの命令をただ実行したのではなく、お天道さまに見られている自らの魂が納得できる行動をしたのです。
単に上からの命令に服従するだけなら、バカでもできる。
それでは畜生と同じです。
「お手」と言われて、前足を出す。
「チンチン」と言われて、チンチンする。これと同じです。
単に、刺激を受けて反応しているだけです。
日本人の伝統的価値観は、こうした反応的行動を非常に蔑みます。
ベルが鳴っても、人として何が正しい生き方なのか。
それを自分自身の価値観の中で判断し、ご先祖や天地神明に誓って正しいといえる選択をし、行動する。
日本人は、これを魂の美徳としてきたのです。
おもしろい話があります。
16世紀のイエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、日本を三度訪れたイエズス会の司祭です。
彼は第1回の日本巡察のときの模様を、『日本諸事要録(S. I. SUMARIO de las cosas de Japón)』(1583)という本に書き遺しています。
この本は東洋文庫にもなっていますので、お読みになられた方もおいでになるかもしれません。
そのヴァリニャーノ神父の記述の中に、次の一文があります。
*****
この国の民の悪い点は、
主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。
主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。
反転して再びその味方となるかと思うと、
さらにまた新たな状況に応じて謀反するという始末である。
ところが彼らはこれによって名誉を失うことはないのである。
*****
ヴァリニャーノ神父は、日本人がきわめて名誉心の強い国民性を持っていると書いた後に、この文章を書いています。
どこまでも教会の命令であれば、たとえ理不尽な要求であっても従うことしか学ばなかったヴァリニャーノ神父にしてみれば、日本人はなるほど忠誠心を欠いているようにみえたことでしょう。
けれど、人として大切なこと、人として恥じないことは何かを、ひとりひとりが自分の良心と魂に誓って選択するというのが、もとからある日本人の気質です。
ですから上が間違っていると思えば、平気で反逆するし、自分が主君に代わってリーダーシップを発揮します。
このとき、「魂に恥じない」という価値観を持つかどうかが、隣国などとは異なる点です。
隣国の場合、このときの価値判断の基準は、常に「どちらが上か」か、「どちらが得か」です。
そこに「魂に恥じない」という価値観はありません。
なぜ日本人がこのような価値観を持つに至ったかは、明快です。
日本が「天皇の知国(しらすくに)」だからです。
「知(しらす)」というのは、神々とつながり、神々の御心のままに、神々の命(みこと)を持って、という意味です。
天皇は、神々とつながり、神々とともに、神々の名のもとに、臣民を大御宝とされています。
ですから、臣も民も、ともに天皇の大御宝という意味において、対等です。
臣は、人の上に立つ人、民は下にいる人々です。
もちろんそこには社会的役割としての上下関係は存在しますが、それ以上に、臣も民も、ともに大御宝、つまり、臣も民も、神々のもとで、人として対等であるということが、日本の社会の根幹になっています。
ですから、臣が間違っている、あるいは臣が、建前上NOと言わなければならなかったとしても、民は、神々が望まれることを実現する。
それが人としての生き方であるというのが、日本的正義であり、日本人的生き方となります。
ヴァリニャーノ神父は、日本人が「謀反しても、それによって彼らは名誉を失うことはない」と書いていますが、文章から察するに、おそらく彼は、なぜそうなるのかわからなかったのではないかと思います。
ですから彼の目には、それは「信じられない不思議な現象」にしか見えなかったことでしょう。
けれど、いかなる場合にあっても、どこにあっても「お天道様は見ている」と考えるのが日本人です。
お天道さまに恥じない生き方をするには、どうしたら良いのかが、日本人の行動の根幹です。
たとえ、上司の命令であったとしても、お天道さまに恥じない生き方を選ぶのが人として当然の行動と考えられたし、上司もそれができる男を、「胸に心(しん)のある男」として信頼したのです。
日本人のこうした思考と行動は、一昔前の日本人にとっては、あまりにもあたりまえの、子供の頃からの常識でした。
けれども、国王が絶対的権力と圧倒的財力を持ち、民に一切の私有を認めず、上に立つものは、下にいるものから、あらゆるものを奪いとって構わない。自分だけが得することができれば良いという思考回路を持つ人々には、日本人のこうした常識は、まったく理解できないものです。
日本人は、たとえ上の命令に逆らってでも、どこまでもみんなのためにみんなが幸せになることを選択します。
それが自らの魂に恥じない生き方を選択し行動するということだからです。
日本に住んでいても日本人になっていない人たちは、上の命令だけに反応します。
上に力があるからです。
上に力がないとなれば、平気でこれを裏切ります。
自分が上に立って、自己の利得を得るためです。
ですから日本人は、自分の魂に恥じない生き方をし、自分の頭で考え行動できる者を、優秀な男として評価し信頼します。
日本に住んでいても日本人でない人は、俺の言うことを聞く奴かどうかしか見ようとしません。
言うことを聞く者が「味方」であり、聞かない者は「敵」です。
その二者択一の思考しかない。
一見似たような行動に見えますが、その判断の元になっている考え方や行動パターンには、天地ほどの開きがあるのです。
そういえば、ユダヤ人を救った樋口季一郎や杉原千畝は、本省の命令に逆らってユダヤ人を助けたりビザを発行したから偉かったのだ、樋口も杉原も日本政府の被害者だと評価している人がいました。
全然違います。
彼らは、自分の頭で考え、自分の魂に恥じない行動を選択したのです。
そして彼らの上司も、彼らが「それができる男」と信じたから、「ダメだ」と返答しているのです。
弁慶の勧進帳の富樫と同じなのです。
それがわからなければ、日本人も日本の文化もおそらくまったく理解できません。
まして被害者などと、魂に恥じない生き方を貫くことが被害者ということなのでしょうか。
頓珍漢もほどほどにしていただきたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
垂逸
昭和最後期に主祭神に戻っています。戦後天皇の位置づけが変わり、それが定着したからでしょうね。
ところで、これで合祀されている祭神を分割して遷座することも可能、ということも明らかですね。
2016/08/26 URL 編集
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勧進長は私も大好きな演目のひとつです。
東京総鎮守の神田明神の祭神は平将門公です。普通は時の天皇側の政権に矢を向けたのだから神様として御霊が祭られる事なんかあり得ないですよね。しかし将門公は都から遣わされた官僚達の理不尽な圧政に魂(良心)で
義憤を感じて乱を起こされたのです。だからこそ民衆は将門公を今日まで手厚く祭っています。 そして、これが本当の日本人です。
2016/08/25 URL 編集
junn
http://naovegan.blog.jp/archives/557553.html
2016/08/25 URL 編集
陸井夏樹
2016/08/25 URL 編集