竹橋事件



20160829 竹橋事件
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同じ日に、と思いながら、ついつい日にちが経ってしまったのですが、実は8月23日にあったのが、「竹橋事件」です。
明治11年(1878)のことです。

この事件がきっかけとなって、日本軍に「憲兵」ができ、いまもある「皇宮警察」が創設され、軍人全員に明治天皇から「軍人勅諭」が下賜されることになりました。

ではその「竹橋事件」とはどのようなものだったのか、歴史を振り返ってみたいと思います。

 *

事件の翌日の新聞です。
わかりやすく、ねず式で現代語訳してみます。

=========
【竹橋近衛砲兵暴発、出火と同時に発砲】
(東京日々新聞 明治11年8月24日 号外)

8月23日深夜の午後11時30分頃、
一発の銃声とともに
竹橋内の近衛砲兵営所から火が出たとみるやいなや、
営内の兵士たちが一斉にときの声をあげ、
大砲を三発撃ち放ち、
皇居のお堀の外に出てきました。

知らせを受けた警視庁は、
すぐに武装警官隊を組織し、
皇居を始め閣僚たちの私邸を警護しました。

また陸軍は東京鎮台の諸隊を出動させ、
竹橋付近から鍛冶橋、和田倉、神田橋、日比谷、馬場先など
各所の警固にあたりました。

このため皇居の内外は、
人馬による交通が混乱して大混雑となりました。

幸い火は12時頃に消し止められました。

現時点では何が起きたのか、
時節訛言(じせつかご)百出していて、
真偽のほどがわかりません。

詳細が入り次第、号外を再度発行します。

=========

「号外」に「詳細が入り次第、号外を発行します」と書かれているわけですから、当時の情況の緊迫が伺えます。

ところが24日終日経過しても、情況がはっきりしない。
ようやく25日の号外あたりから、事態の情況が公表されはじめました。
事件の起きた当時の情況を、東京日日新聞から追ってみます。

*****
【東京日日新聞・25日、号外】

その夜の暴挙の通報を受けた大山巌少将は、
早速騎馬で近衛局に駆け付けた。
近衛参謀長野津大佐は直ちに皇居へ赴いて
警護の手配を指揮した。
また西寛二郎少佐(薩摩藩)率いる近衛歩兵隊が、
近衛砲兵の挙動を窺おうと砲兵兵営に赴いた。

近衛砲兵の大隊長宇都宮茂敏少佐も竹橋内の営内に向かった。
兵舎内は騒がしく、暴発しそうな気配であった。
そこで下士官たちを呼んでとどまるように説得したが、
彼らは聞き入れず、ますます騒ぎ出し、
午後11時過ぎには砲兵一同が銃を持って営外へ出て、
隊列を組みはじめた。

このとき二階に居た宇都宮少佐は、
もはやこれ以上捨て置くべきではないと判断し、
屋外に出て、
しきりに制止の号令をかけた。
しかし、いきりたつ兵たちはいうことを聞かず、
いまにも反乱を起こしそうな気配であった。
宇都宮少佐はやむなく風紀衛兵に命じて、
非常ラッパを吹かせた。

ラッパを聞いた兵たちは、
「すわ、我々は誅せられるぞ、
 目の前の敵の宇都宮少佐を討ち果せ!」と、
銃剣を打ち振って宇都宮少佐に斬りかかった。

少佐も腰の剣を抜いて抵抗した。
しかし衆寡敵せず、
乱刀の下に討死にする。

一方、すでに営門前で整列していた近衛砲兵の第一、第二聯隊は、
この乱戦の様子をみて、
士官が「打テ」の号令を放ち、
兵舎の入り口付近にいる宇都宮大佐の同行者たちに小銃を乱発した。
兵舎付近にいた砲兵隊員も、呼応して大砲を二発撃った。

砲兵大隊付きの週番士官である深沢巳吉大尉は、
この様子に「静まれ、静まれ」と声をあげ
砲兵隊員たちの中に飛び込んだ。
しかしその声も終らないうちに、
たちまち銃剣で刺殺された。

この混乱の中で一部の砲兵隊員が、
さらに気勢をあげようと厩(うまや)に行き、
積み重ねられた累ねた馬のエサの秣草(まぐさ)に火を放った。

また別の一手は
土手に上って眼下にある大隈重信参議の邸内に発砲した。
また別な一手は
近衛砲兵の営門へ向い、
しばらく戦うと、
こんどは二門の山砲をひいてきて
近衛砲兵営門の正面に据え付け、
弾薬を込めみだした。

そこにやってきた近衛の番兵が背後から小銃を撃った。
山砲をひいてきた隊士たちは
大砲をその場に棄てて引き退き、銃撃戦となった。

ところが砲兵たちは弾薬が続かず、
午前0時を過ぎる頃にはまったく潰走し、
その場で討ち殺された者6名、
その場での逮者が70余名となり、
そのほかの104名が代官町から半蔵門をさして敗走した。

この時砲兵の周番だった池田少尉は、
情況を皇居へ注進しようとして表門に駈け出たが、
門にいた反乱兵に斬りつけられ、
やむを得ずいったん引き返し、
竹橋の石垣から皇居のお堀に飛び込み、
そのまま皇居へと走った。

磯林中尉は、この夜近衛局の宿直だった。
野津大佐から
「各隊を巡回し不審の挙動があれば報告せよ」
との命を受け、ただ一騎で皇居を出で、西ノ丸下に向かった。

ところが大手門前に差し掛ったところで竹橋の砲声を聞いたので、
馬を飛ばして歩兵の営内まで乗り付けた。
そこではもう銃撃戦がはじまっていた。

そこで戦況を探ろうと模様を探っていると、
反乱兵たちが代官町を南の方角に潰走し出した。
そこで磯林中尉は、官軍全勝と
情況を本部に報告に行こうと馬を走らせた。

すると半蔵門あたりで、
麹町方面に向かう百余名の兵士と出会った。
これはおかしいと、馬を駐めてしばらく容子を伺っていると、
兵たちが磯林中尉をみとがめて、
「そこにいるのは士官と覚えたり、疾く討ち殺せ」
と叫びながら七、八人が駈け来ってきた。

中尉は、まずいところに来たと思ったが、
今更引くにひけず、いっそのこと諭してみようと思いたち、
暴徒が近づくを待って、
「汝らは何者ぞ」と問えば、
「我々は砲兵なり」と答える。

そこで「砲兵が今ごろ何用ありてこの辺を行軍するぞ」と云えば、
「歎願の筋ありて皇居へ推参するなり」と云う。
「しからば大隊長は誰なるぞ」、
「大隊長の宇都宮少佐はただ今討ち果して来りたり」
「しからばここより兵営へ立ち戻り、
 聯隊長野崎中佐(時に中佐は竹橋内の歩兵営にあり)に面会して
 願意を陳べよ、
 将校の手を経ずして皇居へ直参するは不都合なるべし」と説論した。

暴徒は二つに分れ、
百余名の内30余名が兵営へ立ち戻り、
残り93名は皇居の表門まで押し寄せて
御門前に整列した。

この時皇居に詰めていた将校は、
暴徒が御門前まで押し寄せたりと聞いて、
「この上は詮方なし、
 もし敵対せばたちまち討ち掃うべし」と評議一決し、
西少佐は磯林中尉とともに門内から出て
暴徒のリーダーを呼び出した。

すると隊中から一人の軍曹が数歩前に出て停まった。
西少佐はその軍曹に
「今夜の近衛砲兵の挙動は実に非常である。
 既に大隊長宇都宮少佐を殺し、
 かつ深沢大尉を害したれば、
 もはや暴賊の名を免れず。
 イザその方の兵器をこちらへ引き渡せよ」と申し渡した。

軍曹は不平の顔をし、
今にも抜刀して西少佐に切り掛かろうとし、
少佐の護衛兵が対抗に進み出た。

少佐は再び軍曹に向い、
「この上は隊士全員、
 ことごとく兵器を脱せしめよ」と命じた。
すると軍曹はこれに答え、
「もし令に従わなければいかが取り計らいますか」というので、
少佐は、
「令に従わざる者あらば、
 こちらにて処分に及ぶべし」と言い棄て、
御門内に待機する近衛歩兵一中隊に、
「前へ!」と号令をかけた。

中隊が銃剣を付けて暴徒の前に迫り、
否と云わば打ち掃わんという勢いを見せると、
暴徒のなかの大久保某が、
銃を腹に押し当て自らを撃ち貫いて自害した。
即死であった。

他の暴徒は大久保の自殺で戦意が砕け、
異議なく兵器を引き渡し、
全員が縛に就いた。

この夜の暴動で討死したのは、
宇都宮少佐、深沢大尉、坂本少尉の三名、負傷が田中少尉(同第一中隊)、野木中尉(同第二大隊第四中隊)、池田少尉(砲兵大隊)、中村軍曹(同第一大隊第四中隊)、この外に砲兵大隊七名が負傷した。


*****

なんとも緊迫した光景です。
実はその後の調べで、近衛砲兵隊が暴動を起こした理由が明らかになりました。
理由は3つです。

第一の理由は、近衛砲兵の給料です。
近衛砲兵はもともと他の諸兵より給料が多かったのですが、陸軍省が兵全員の給料を減じたときに、近衛砲兵の給料も減俸しました。
彼らはこれを不満としました。

第二の理由は褒賞(ほうしょう)です。
前年の西南戦争のとき、近衛砲兵隊は、植木・田原坂の戦争で、抜群の戦功を立てていました。
それは敵軍からも「赤い帽子と大砲がなけりゃ」と謡われたほどのものでした。
ところが官軍凱旋の後、他の諸隊はそれぞれの御賞誉があったのだけれど、近衛砲兵隊には報償がありませんでした。
これを不満に思った隊長たちが、政府へ歎願しようとして乱を起こしたというのがふたつ目の理由です。

彼らの不満の背景には、近衛砲兵隊の隊長以下多くの隊士が、もともと紀州藩その他、戊辰戦争における旧幕府側の藩の出身者で固められていたことが上げられます。
つまり、自分たちは抜群の功労をあげたにも関わらず、旧幕府側の藩の出身者のため差別されたと思い込んだのです。
実際のところは、論功行賞は、中央から遠いところから順に行っており、身内ともいえる近衛隊については、順番が最後になったというのが真相です。
このことは逆に考えればすぐにわかることで、中央にいる近衛隊から先ずさきに報償をしたら、地方から参戦した部隊は、逆に不満に思ってしまいます。

これは古くからの日本のしきたりに近いものですが、
何事につけ
「まずは他人様が先、
 身内は後、
 自分のことは最後」

というのが、日本の古来変わらぬ習慣です。
ですから西南戦争の論功行賞も同じ考えで、少ない予算で、まずは地方から報償が行われました。
ところが不幸なことにそこに「旧幕府側の藩の出身者」と「薩長閥」という複雑な要素が入り込みました。

第三の理由は、徴兵です。
幕末の農民兵は、幕軍なら各旗本や大名などが知行地の庄屋さんたちなどと語らい、納得ずくで屈強な若者を農兵としました。

ですから多くは農家の次男三男で、家にいても無駄飯食い扱いされてしまう人たちで、家でやっかいになっているくらならむしろお国のために役立とうと志を抱いて兵になる者が多かったのです。
長州藩の奇兵隊でも同じです。
本人の意思が優先されています。

ところが明治新政府になってからは、欧米に倣って徴兵制がひかれました。
その気もないのに強制で兵役にとられるのです。
そのことについて、農兵側から苦情がでることはなかったけれど、中には家督を継ぐ長男も徴兵されているわけで、しかもそうした人たちが、西南戦争で命を失ったり、あるいは大怪我をしたりしているわけです。

このことは、当時の社会を考えるうえでも、実は貴重なことといえます。
もともと我が国では、鎌倉以降、武道を学ぶことは、町人百姓にも許されたものの、武士として武力を行使できるのは、もともとは武士だけの専売特許でした。

ですからいざというとき死ぬ覚悟を持っているということが、武士と庶民の違いの最大の要素として社会的に認識されてきたのです。
そして、人の上に立つ者は、いざというとき先頭をきって戦い、その責任を負い、真っ先に死ぬ覚悟を持った人であり、それが武士であるという社会的共通認識があったし、武士にはその覚悟が、民間にはその期待があったし、このことは自ら先頭を切って「撃ちてしやまん」と戦った、神武天皇以来の日本社会の常識でもあったのです。

ところが日本に開国を迫った列強は、民間からの徴兵です。
戦いに際しては、民間兵を前面に出して戦わせる。
兵に誇りの要求はないし、誇りがなくても銃があれば戦えたわけです。

この時代の日本は、欧米列強に追い付け追い越せで、欧米風の兵制を導入しましたが、それでも兵たちの多くには、戦いは本来オラッチの仕事じゃねえ、という気分が色濃くあったし、社会的にも戦いは武士の仕事という気分が広く浸透していたし、一方で、多くの場合、その軍における指揮官は、旧武士層が担っていたわけです。
その意味では、指揮官層と、兵たちの間には、気分という面での大きな断絶を抱えていたということができます。

こういうことから、竹橋事件を主導した元武士層出身者である下士官層の
 元幕臣だった鎮台予備砲隊隊長岡本柳之助大尉、
 紀州藩の剣客、松尾三代太郎騎兵中尉
らは、部下である農兵に対しての心苦しさがあったし、

 近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助、
 近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵、
 同第二小隊馭卒長島竹四郎、
 同じく小島萬助
らの農兵たちは、自分たちのことを心苦しく思いやる旧幕臣士族の上官たちの向こう側にある薩長新政府にたいして、
「軍は民を守る武士の役割ではないのか」という
根本的疑問を抱いていたというわけです。

東京・青山霊園には、竹橋事件殉難者のための「碑」が建てられていますが、そこにも
「徴兵制度への根本的疑問、
 明治維新以後の政治に対する不満が、
 天皇への直訴をふくむ行動へと
 兵士たちを駆りたてていった」
と書かれています。

こうして「給料、褒賞、徴兵」という3つの理由によって、近衛砲兵隊は決起したわけです。

この事件は、出来て間もない明治新政府に、たいへんな衝撃を与えました。
そしてこの事件がきっかけとなって、我が国に憲兵隊が創設され、近衛隊とは別に、皇宮警察が創建されました。
そして全軍人に「軍人勅諭」が下賜されました。
実に迅速な対応です。

戦後の日本では、連合赤軍事件やあさま山荘事件、あるいは金嬉老事件、オウム事件など、過激な事件が多発し、また近年では、尖閣にChina船舶が大挙してやってきたり、赤珊瑚が乱獲されるという事件が起こり、またChineseによる人が生きるのに大切な水源地の買い占めが起きたりしています。
それでも政府は無策で動かない。

明治政府にもいろいろ不満もあったろうとは思いますが、それでも戦後政府と明治政府がひとつおおきく違うのは、明治政府は、事件を経験として、以後の事件発生を抑止するための具体的対策をとったのに対し、戦後政府はそうした「抑止と対策という動き」がまるでないことです。

それはなぜかといえば、戦後は国民の側が、政府が動くことを警戒する風潮が、あまりにも強すぎることにあるように思います。
ここが明治政府の時代との大きな違いです。

いまも「政治を変えなくちゃ」という人は多いです。
しかし政治は政治家が勝手に変えるものではありません。
政治家は国民の民意を総括する人たちです。
政治家が民意を作るのではないのです。
民意が政治家をつくるのです。

竹橋事件に象徴されるように、民意というものには、いろいろな階層やコミュニティによって、様々な形があります。
民意は、必ずしも一重ではないのです。
幾重にも重なり、様々な意見があるわけです。

けれども竹橋事件が、ではなぜ鎮圧されたのかといえば、国家による弾圧といった社会階層的対立の話ではまったくなくて、意見や見解の違いがあっても、人として、あるいは集団として、やって良いことと悪いことのけじめは、しっかりとつける必要があるという一点に尽きます。

そして、けじめをつけるためには、何がいけないことなのかということに関する社会的共通認識が必要です。
逆にいえば、国民の民度が低ければ、このけじめ事態が曖昧となります。
そして結果として一部のウシハク不心得者が跋扈します。
そしてそのウシハク不心得者たちが、自己の利益の独占のために、ますます世の中を乱し、私物化していくことになります。

これを誅せるのが、正義の行使者であり、それが武です。
武のないところに正義はないし、正義のないところに、民の安寧もないのです。

民度を高めなければ、政治は変わりません。
むしろ、国民がChinaやKorea並の民度に成り下がれば、政治の質も、同じように落ちていくのです。

お読みいただき、ありがとうございました。

20151208 倭塾・動画配信サービス2


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コメント

大阪市民

いつもありがとうございます。
薩摩長州の建てた明治政府と揶揄されるくらい権勢は薩摩長州人(実質は長州人)に占められてしまったのが、明治維新の汚点だと想います。
幕臣だけでなく佐幕派にも武士道を弁えた尊皇の志をもった武士が多くいました。 やはり、勝海舟、坂本龍馬、島津斉彬公が目指された合議制に基づく政権移行がなされていたら、明治維新の出発点も違っていたかもしれません。 東北地方が意外に選挙で与党議員が落選する事が多いのは、長州主流の明治政府に抑圧された反動が子孫の方達に受け継がれている側面もあると想います。

本当に強い兵隊は薩摩と東北(会津、北陸)出身者が多いですよね。

陸井夏樹

親任総覧(納得慈親)が道らすさざれ石の心得ではなかった?
知らすを道らす(「この道しかない!」この道)と換言して畏れ多くも有り難き皇(かみ)の親任総覧(納得慈親)を大政奉還後の國體(道らす立憲国家)とシロウト浅慮に思い込んでいるモノとして『直訴』はチト衝撃的でした。

うめさだ

紀州
戊辰戦争時、德川の尾張家や紀州家は新政府軍の側に付いており、これらを旧幕府側と表現するのはいかがなものかと思います。特に紀州家は早くから津田出が出て軍制改革を実施していたため、その手腕が買われて明治新政府でも近衛の前身である御親兵の創設や徴兵令の実施に尽力しています。

junn

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ヘンドリック・ハメルの「朝鮮幽囚記」を裏づける米政府の戦争犯罪再調査での慰安婦発見されず
http://ameblo.jp/matsui0816/entry-11958451107.html
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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