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(画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)以前、土佐藩の
野中兼山のことをご紹介したことがあります。
土佐藩の総奉行として大活躍をした人です。
彼の功績によって、いまでも高知県では、毎度台風が直撃するのに、被害が少なくて済んでいるし、坂本龍馬で有名な「郷士」という制度を考案したのも野中兼山ですし、幕末の土佐藩が活躍できたのも、もとをたどれば江戸のはじめに、この野中兼山が行った産業政策が、土佐藩に大きな冨をもたらし続けたことによります。
ところが、大きな功績を残すということは、それまでにあった枠組みを変えたということでもあります。
そうすると必ず既得利権者がワリを被ります。
そして功労者は嫉妬され、恨まれます。
Chinaの歴史などを見ると、この嫉妬や恨みを潰すために、反対者は皆殺しにされてきました。
ところが日本では、もともとが全民衆が「おおみたから」という建前に立っているため、明らかな不条理であっても、その不条理者が保護されます。
そして多くの場合、世の中に大きな功績を残した側の人が、叩かれ、地位を追われ、酷い仕打ちに遭います。
正義の人は、どこまでも正しい道を歩もうとしますが、嫉妬の人は自己満足のためなら、相手をどこまで追い詰めても平気だからです。
野中兼山の場合も同じです。
彼は正義の人であり、辣腕をふるって偉大な功績を残した人であるが故に、既得権者である古参家老たちから疎まれ、藩主が代わったタイミングを悪用されて地位を追われ、蟄居を命ぜられています。
その蟄居後、日を置かずに兼山は病死したと公式記録には書かれています。
ここが日本史を読むときの大事なところなのですが、唯物史観論者は、書いてあることだけを信用します。
ところが日本は建前の国です。
この場合も、兼山は、本当は腹を切ったのだといわれています。
しかし兼山の名誉を奪いたい人たちは、兼山の武士としての覚悟の切腹を、単なる「病死」としてしまったというわけです。
真実はどちらだったのかわかりません。証拠もありません。しかし私はおそらく後者であろうと思っています。
ひどいのは、それだけではありません。
兼山の没後、兼山の家族全員、一か所に集めて幽閉されいます。
どのくらい幽閉されていたのかというと、なんと40年間です。
しかも解かれた理由が、「兼山の子の男子が絶えて、兼山の血筋が絶えたから」です。
そこまで貶めようとしたのです。
ですから幽閉が解かれたとき、出てきたのは女子ばかりです。
娘の名を婉子(わかこ)と言います。
なにせ幽閉されたときが、4歳です。
すでにこのとき、婉子は44歳です。
幽閉中は、どこにも行けません。
ですから婉子は、屋敷内で毎日学問だけが楽しみだったそうです。
元禄14年に幽閉を解かれた婉子は、高知城下の西朝倉で医院を始めました。
医院はとても評判が良く、治療も巧みだし、あの野中兼山の息女だということで、世間の評判も良く、またたく間に名医として患者が常に列をなすようになりました。
婉子は、治療費の払えない貧しい者たちも別け隔てなく治療するし、高額な薬も無償で貧しい患者たちに提供します。
このため繁盛しているのに、医院はまるで赤貧状態だったそうです。
やむなく婉子は処方箋の万能薬を売薬にして、糊口をしのいだそうです。
噂を聞きつけて藩の重役やその家族が、お忍びで婉子の医院に治療にやってくることもありました。
彼らは、表向きは、野中兼山を追いやった側、もしくは追いやった人に仕える人たちです。
そのことを婉子も理解していて、彼らの治療は別室で、他の患者と顔を合わせることがないように配慮して治療してくれたそうです。
婉子の売薬は、よく効くとこれもまた評判でした。
実は藩主まで、この薬の世話になりました。
病気の治った藩主は、これを喜び、婉子に8人扶持を与えようと申し出てくれました。
多くの人の治療に役立つならとこれをありがたく承諾した婉子でしたが、藩主はさらに、お金持ちの商人との縁談を世話するという話をもちかけてきました。
お殿様からの内々の縁談です。
ありがたいことと婉子が受けると思いきや、
「わらわは
いまは不幸にして落魄の身の上といえども
いやしくも前の執政の娘でございます。
どうして志を屈し身を辱しめて商人の妻となり
あえて飽食暖衣を得ましょうか」と、ついに従わなかったそうです。
ですから婉子はずっと独身です。
独身ですから、お歯黒を付けることもなく、眉も剃らず、振り袖で生涯を過ごしました。
このためか、婉子は齢60歳(これを昔は「耳順(じじゅん)の歳」と言いました)になっても、なおその若さと美貌を失わなかったそうです。
婉子は、常に父・兼山の尊厳と威信を損なわないことを自分に課していましたが、同時に一家の断絶を図った藩の重役たちから、常に命を狙われる危険がありました。
ですから用があって市中を出歩くときには、男性の武士さながらに、太刀を腰にはきました。
ある日のこと、所要のために市内の観音堂に至ったときに、国家老の山内監物の息子が馬に乗ってやってくるところに出くわしました。
道は細く、どちらかが道を譲らなければなりません。
「道を開けよ」という家老の息子に、
「わらわは前執政野中兼山の娘なり。
いかにや道を開ける必要やある!」そう言うと、婉子はそのまま道の真中を押し通りました。
その迫力に、馬を引いていた駕夫(がふ)は思わず道を開け、馬上の家老の息子も、何も言えずに、婉子を通しました。
婉子は、祖先の祠を香美郡野地村に建て、父と連座して処刑された忠臣たちをそこに合祀し、さらに祭田として5反歩を村に寄贈し、さらに潮江にも父・兼山の石碑を建てました。
婉子が幽閉を解かれた時点で、兼山の家系は男子は一切断絶しています。
婉子は、せめて、父の墓標を建て、父の偉業を、功績を、志を、後世に伝えようとしたのです。
婉子は、生涯、日課として学問に励んで精神的な楽しみを取る他は、人事の栄達や安楽を一切望みませんでした。
そして享保13(1728)年12月、享年66歳でこの世を去りました。
師匠の谷泰山は、婉子を評して「健婦、果して大丈夫に勝る」と述べています。
偉大なマスラオにも勝る女性であった、という意味です。
婉子は、生涯を独身で過ごしたわけですし、途中で藩主からの縁談さえも断っています。
おそらく彼女は、父・兼山の血が絶えるまで幽閉を続けた藩の国家老一派に対して、
「我が家の血筋を絶やすというのなら、
女の私も血を絶やしましょう。
その代わり誰よりも立派に生きて、
本当に正しかったのは誰なのか、
それを歴史に刻みましょう」という心でいたのではないでしょうか。
悲しいまでの覚悟の人生です。
そのような人生が、彼女にとって果たして幸せな人生といえたかどうかは、なるほど疑問に思います。
けれど、人間は、魂が本体です。
肉体と命は、今生限りであり、魂が自らの魂を鍛えるために、意図してその時代と人生を選んでこの世に生まれてきているのだ、というのが、昔の日本人の一般的な考え方です。
その意味からすれば、意図して辛い幽閉生活を選んで生まれてきた婉子は、今生の苦労と、その苦労の中で、学問と医療と清貧に生きた彼女の御霊は、きっと死んで神となられたのであろうと思います。
この婉子についてのお話は、昭和13年発行の『女子鑑』で紹介されているお話をもとに書かせていただいたのですけれど、昔の人は、このような話と、そうした先人たちが、なぜそのような人生を選んだかを、歴史の当事者として、教師とともに一緒に考えるという教育を受けていました。
子どもたちにとって学校が楽しいところであったことも、なるほどと頷けます。
それこそが教育のいちばん大切なところだからです。
お読みいただき、ありがとうございました。


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コメント
takechiyo1949
レンタカーで隅々巡りましたけど、その頃はこの話を知りませんでしたから、単なる物見遊山に終わってしまいました。
返す返すも残念至極です。
それにしても、実に強靭な真の大和撫子ですね。
そして深い仁に生きたお方…とても感動しました。
どんな風貌の持ち主か?
知りたいものですが、残念ながら探せません。
2019/09/01 URL 編集
佐久間修一
素晴らしい話を有難うございます。
2016/10/01 URL 編集
junn
http://uskeizai.com/article/354030642.html
2016/09/30 URL 編集