
(画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)
←いつも応援クリックをありがとうございます。
『尋常小学国語読本 巻十一』(文部省)第十七に、『松坂の一夜』というお話があります。
短い文ですが、当時の指導要綱を見ますと、この短編のために、なんと4時限の授業があてられていました。
この文のなかに、賀茂真淵の言葉として
「私も、実は早くから古事記を研究したい考えはあったのですが、
それには万葉集を調べておくことが大切だと思って、
その方の研究に取りかかったのです。
ところが、いつのまにか年を取つてしまって」
というところがあります。
この言葉から、賀茂真淵さえも、行間を読む、察するという訓練をしなければ、古事記を読み解くことが出来ないと考えていたことがわかります。
そしてその賀茂真淵の研究があったからこそ、宣長は次のステップとしてまる二五年をかけた『古事記伝』を著すことができたのだわかります。
ひとりではなし得ないことを、世代を越えて、成し遂げていく。
そこに日本人のたくましさがあります。
そしてまた、それだけの努力をする価値が、そこにあるからこそ、努力が続けられるのだと思います。
二人が直接会ったのは、この日一日だけのことです。
けれど宣長は眞淵を生涯の師としたし、眞淵は宣長を生涯の弟子にしました。
それが、心を通わせるということなのだと思います。
まずは本文をご紹介し、そのあとで、私なりの感想を述べたいと思います。
なお本文は、読みやすさを優先して、いつものねず式で現代語訳しています。
【倭塾】(江東区文化センター)
第34回 2016/11/12(土)18:30〜20:30 第4/5研修室
第35回 2016/12/24(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
第36回 2017/1/14(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
【ねずさんと学ぶ百人一首】(江東区文化センター)
第8回 2016/10/20(木)18:30〜20:30 第三研修室
第9回 2016/11/24(木)18:30〜20:30 第三研修室
第10回 2016/12/8(木)18:30〜20:30 第三研修室
第11回 2017/1/19(木)18:30〜20:30 第三研修室
***
松阪の一夜
『尋常小学国語読本 巻十一』所収
本居宣長(もとをりのりなが)は、伊勢(いせ)の松阪の人です。
若いころから読書が好きで、将来は学問で身を立てたいと、一心に勉強していました。
ある夏のなかば、宣長がかねてからの行きつけの古本屋へ行きますと、主人は愛嬌よく迎へて、
「どうも殘念なことでした。
あなたが、よくお会いになりたいと言われていた
江戸の賀茂眞淵(かものまぶち)先生が、
先ほどお見えになりました」
と言います。思いがけない言葉に宣長は驚いて、
「先生が、どうしてこちらへ」
「なんでも、山城・大和(やまと)方面の御旅行が済んで、
これから参宮をなさるのだそうです。
あの新上屋(しんじょうや)にお泊りになって、
さっきお出かけの途中に
『何かめづらしい本はないか。』と、お寄りくださいました」
「それは惜しいことをしました。
どうかしてお目にかかりたいものだが」
「あとを追っておいでになつたら、たいてい追いつけましょう」
宣長は、大急ぎで眞淵の様子を聞き取ってあとを追ったが、松阪の町のはずれまで行つても、それらしい人は見えません。
次の宿(しゆく)の先まで行ってみましたが、やはり追いつけませんでした。
宣長は力を落して、すごすごと戻って来ました。
そうして新上屋の主人に万一お帰りにまた泊まられることがありましたら、すぐに知らせてくださいなと頼んでおきました。
望みがかなって、宣長が眞淵を新上屋の一室に訪ねることができたのは、それから數日ののちのことでした。
二人は、ほの暗い行燈(あんどん)のもとで対面しました。
眞淵はもう七十歳に近く、いろいろ立派な著書もあつて、天下に聞えた老大家です。
宣長はまだ三十歳余りで、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいている少壮の学者です。
年こそ違っていても、二人は同じ学問の道をたどっていました。
だんだん話をしているうちに、眞淵は宣長の学識の尋常でないことを知って、非常にたのもしく思いました。
話が古事記のことにおよぶと、宣長は、
「私は、かねがね古事記を研究したいと思っております。
それについて、何か御注意くださることはございますまいか」
「それは、よいところにお気づきでした。
私も、実は早くから古事記を研究したい考えはあったのですが、
それには万葉集を調べておくことが大切だと思って、
その方の研究に取りかかったのです。
ところが、いつのまにか年を取つてしまって、
古事記に手をのばすことができなくなりました。
あなたは、まだお若いから、しっかり努力なさったら、
きつとこの研究を大成することができましょう。
ただ、注意しなければならないのは、
順序正しく進むということです。
これは、学問の研究には特に必要ですから、
まづ土台を作って、それから一歩一歩高くのぼり、
最後の目的に達するようになさい」
夏の夜は、ふけやすい。
家々の戸は、もう皆とざされています。
老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸をおどらせながら、ひつそりした町筋をわが家へ向かいました。
そののち、宣長は絶えず文通して眞淵の教えを受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加えましたが、面会の機会は、松阪の一夜以後とうとう来ることはありませんでした。
宣長は眞淵の志を受けつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、ついに古事記の研究を大成しました。
有名な『古事記傳』という大著述は、この研究の結果で、わが国の学問の上に不滅の光を放っています。
***
よく「行間を読む」といいますが、日本の古典の場合、この姿勢がたいへん重要な意味を持ってきます。
たとえば先日ご紹介しました土佐の野中兼山は、公式記録には、蟄居を命ぜられてほどなく「病死した」と書かれています。
けれど、情況からして、昨日まで現役の総奉行として、精一杯、藩のために努力を続けて来た者が、蟄居を命ぜられてすぐに病に倒れたくらいまではわかりますけれど、そのまま病没したというのは、話があまりにできすぎています。
むしろ、藩の重役たちの不興を買って、見に覚えのない収賄などの疑いをかけられたことに、武士の一分として腹を切ったと考えたほうがよほどすっきりします。
なぜなら、当時の武士にとって、腹を切るということは、武士としての名誉を守る最期の手段であり誠意であったからです。
これを藩の重役たちが、打ち首にすることはできません。
藩の財政を豊かにし、野中兼山のおかげで、大地主となったり、漁業による水揚げ高を過去の何倍にもすることができた、多くの藩民の目が、それをすることを許さないからです。
だから蟄居処分にしたところが、兼山は、武士として名誉の切腹をしてしまったわけです。
こうなると世間は、「やはり重役たちよりも兼山のほうがはるかに立派な人だった」ということになってしまいます。
だから公式な記録は病死とした、と、そのように考えると、辻褄が合ってくるわけです。
そうでないと言い切るのは簡単です。
なぜなら公式記録は「病死」だからです。
あくまでも「書いてあることが正しい」とするなら、正解は「病死」です。
しかし、病死にしてはあまりにもタイミングが良すぎるし、蟄居処分の直前まで兼山が健康で働いていたこと、さらに、蟄居は兼山ひとりではなく、兼山の家族全員、親から妻子に至るまで、全員揃って蟄居です。
つまり家ごと、まるごと蟄居です。
その状態で家族を救う道は、兼山にとっては、罪なき罪を一身に背負って、やはり自ら腹を切るしかありません。
兼山切腹説を証明できるものは、いまとなっては何もありません。
記録はあくまでも病死です。
だからこそ、当事者の身となって行間を読むというが求められるのです。
以前もお話しましたが、町方で、たとえば川崎の中1児童殺害事件のような事件が起きれば、川崎の町奉行は切腹です。
自ら腹を切れば良し。その場合は、一族郎党は処分を免れ、息子は跡目を相続できます。
グズグズしていつまでも腹を斬らなければ、江戸表から使者が来て、「上意によって切腹を命ず」となります。
この場合は「お上の手を患わせた」ということになって、お家断絶、一族郎党はその日から路頭に迷うことになります。
町奉行は、悲惨な事件を未然に防ぐために、ありとあらゆる権限を与えられているのです。
にも関わらず事件が起きたなら、その責任は、奉行が負う。あたりまえのことです。
権力と責任は、常に一対なのです。
町方の事件の場合は、こうして奉行が責任を取ります。
では、武士が殺傷事件を起こした場合はどうでしょうか。
赤穂浪士の討ち入りは、元禄年間のことです。
時代は、「生類憐れみの令」で有名な将軍綱吉の治世です。
綱吉のことを「犬公方」と嗤う方がいます。
けれど、この時代、関ヶ原から100年が経過し、何が何でも完璧な治安を取り戻す努力が払われた時代です。
その前の将軍のときには、武士は髭を生やすことさえ禁じられました。
「髭は、武威を見せつけるものである」というの理由です。
武士は、平素から刀を腰に指していますが、そうすると、何かで激高した折に、どうしても刀を抜いて刃傷沙汰を起こしてしまう人が出ます。
治安を維持すべき武士が、くだらないことで刀を抜いては、世の平穏は保たれません。
だからこそ、綱吉は、
犬でさえ斬ったら処罰するのだぞ。
まして人を斬ったら切腹ではすまされないぞ。
ということを徹底するために、「生類憐れみの令」を出しています。
だからこそ「生類憐れみの令」は、以後、幕末に至るまで、何度も出されています。
ただ綱吉が異常な性格だったとか、それが世間の物笑いにしかならないという政策なら、将軍が代わったあとも何度も、ということにはなりません。
そういうところをちゃんと考えないと、時代は見えてこないのです。
その綱吉の治世に起きたのが、赤穂浪士の討ち入り事件です。
幕府は、彼らに討ち入りという乱暴な殺傷事件を起こさせないことが仕事です。
けれど事件は起きてしまったのなら、その場合の責任は誰がどうとるべきでしょうか。
答えは、将軍です。
武家の頭領だからです。
将軍には権力があります。
だから、全国の藩主たちに参勤交代を命ずることもできます。
権力があるということは、武士たちが行うすべての事案に責任を持つということです。
天皇から与えられた権力は、常に責任と一体です。
まして綱吉は、犬さえ殺してはならないという御触を出している将軍なのです。
その責任を将軍に負わせないためにはどうするか。
浪士たちの暴挙は処罰すべきものです。
けれどその動機は主君への忠であり、立派な行為であったとするしかない。
だから、彼らには名誉ある切腹を命じ、ねんごろに弔い、旧赤穂藩の武士たちの就職斡旋を、息のかかった大名たちに依頼しています。
忠臣の藩士たちという名目です。
そんなことは、どこにも書いてありません。
公式な記録上は、浪士たちは切腹を命ぜられた一方で、遺族は諸藩に優先して就職が斡旋されたという事実があるのみです。
もし浪士が逆臣という扱いなら、浪士の身内を雇うことは、幕府に対する反逆行為とみなされます。
ところがそれができたということを、ちゃんと考えれば、「なぜか」の理由が見えてきます。
事実を丹念に積み上げていくと、「そうでなければ合理的な説明がつかない」という接点が見えてくるのです。
それが「行間を読む」ということです。
古典になると、この傾向はいっそう顕著になります。
だからこそ賀茂真淵は国史を研究するにあたり、その行間をいかに読むか、そのために万葉集の研究から開始しています。
和歌はまさに「察する文化」だからです。
目標は、古事記です。
けれど、それが、自分の代ではでききらなかった。
だからこそ、次の研究を本居宣長にゆだねているというのが、上のお話です。
二人は、たった一度しか直接は会っていません。
それでも肝胆相照らす仲となる。
息が溶けあう。心が通う。年齢を越えた絆がある。
近年の歴史学者は、書いてあることだけが正しいとします。
それは共産主義から来る唯物史観です。
ですから、たとえば記紀にしても、ChinaやKoreaの史書を優先し、記紀は信用しないという立場に立っています。
これまたおかしな話です。
Chinaの史書は、できるだけ事実を尊重しながらも、「◯◯と日記に書いておこう」という日本の史書等と異なり、現王朝の正統性を証明するという目的のためにだけ書かれたものです。
ですから、現在の王朝が政権を取るために、どれだけ悪逆非道なことをしても、そんなことには触れないし書かないし、その一方で、前の王朝については、いかに残酷だったかを、犯人と被害者を逆転させてまでして、捏造して描くということが、ごく普通に行われているものです。
つまり、彼らにとっては公式記録というのは「◯◯であってほしかった」というプロパガンタであり、ファンタジーにすぎません。
強いて言うなら、日本の記録が建前優先なら、Chinaの記録は虚実を交えた正当化であり、朝鮮の記録は一から十までファンタジーです。
今も昔も変わらない。
古事記は、序文に「諸家之所賷帝紀及本辞、既違正実、多加虛偽」という文があります。
「諸家(もろいえ)のもたらされているところの帝紀(すめらきのひつき)及び本辞(さきつよのことば)は、すでに正実(まこと)に違(たが)ひ、多く虚偽(いつはり)を加えたり」と読み下します。
諸家にもたらされている歴代天皇記(帝紀)や我が国の神話や伝承(本辞)は、既に真実と違っていて、多くの虚偽が加えられているという意味です。
それぞれの家ごとに、自分の家に都合が良いように、改ざんが加えられている、というのです。
だからこそ、古事記を編纂したのだと、書いています。
ところがこれをすると、被害を被る豪族が出てきます。
そこは文章でしっかりと補わなくてはならない。
なぜなら、日本は、天皇を中心に、ひとつの国家として、全国がひとつ屋根の下に暮らす家族として一体となって睦まじくするということが、建国以来の国是です。
その日本では、書くということは、対立が目的ではなく、融和が目的となります。
さりとて、どこかの国のように嘘は書けないわけです。
それではChinaやKoreaとおなじになってしまう。
だから言葉を省くのです。
都合が悪いからではありません。
そうする必要があるからです。
読み手は、その省かれたところを、しっかりと読み取ることで、学びを得ります。
それが日本における「書いてあることから学ぶ」という姿勢です。
ひらたくいえば、それが「行間を読む」です。
それができない人を、馬鹿と言いました。
馬や鹿は、訓練しても、言われたことしかできません。
応用ができるからこそ、人です。
15÷5、答は3。これが計算問題です。
では、
「15このおかしを、5人で分けました。
5人とももらった数が全員ちがいます。
どのように分けたのでしょう」
お読みいただき、ありがとうございました。


↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
■ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
http://goo.gl/WicWUi</u>">
http://goo.gl/WicWUi■「耳で立ち読み、新刊ラジオ」で百人一首が紹介されました。 http://www.sinkan.jp/radio/popup.html?radio=11782■ねずさんのひとりごとメールマガジン。初月無料 http://www.mag2.com/m/0001335031.html</u>">
http://www.mag2.com/m/0001335031.html【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

コメント
ばたつよ
「行間を読む。」は以前「空気を読む。」とテレビなどで言われていたかと記憶しております。最近はWEBチャンネル(CGS・チャンネルくらら等)で古事記・日本の文化・近現代史を扱って下さる放送が多く、ありがたいです。
日本人に生まれて本当に良かったと思い、さてこれから日本人として何が出来るのかと不安にも思っております。今は先ず正しく学ぶ事と、それを伝えて行く事を実践して参りたいです。
今後の御活躍、お祈りしております。
2016/10/10 URL 編集
junn
http://taiyou.bandoutadanobu.com/?eid=1235606
2016/10/10 URL 編集