古事記も原文は漢字ばかりで書いてありますけれど、先日「あめとあま」でもご案内しましたように、その中身はやはり国語です。
「あめ」も「あま」も、明らかに意味が違うのに、漢字では「天」だけです。
あきらかに、Chinaにはない文化が、日本にはあるのです。
その「ない文化」のところが、実は日本的アイデンティティであろうと思います。
そこで今回は、今月号の『玉響(たまゆら)』に掲載された拙文をご紹介します。
タイトルは「修理固成」です。
「修理固成」については、ねずブロでも過去にご紹介したことがありますが、本にするときは、またそこから一段考察を深めています。
お楽しみいただければと思います。
また、末尾に、「をさめ」について少し補足をしています。
『玉響』は日本弥栄の会が発行する月刊誌です。
日月神示で有名な中矢伸一先生の最新の書き下ろし連載を始め、対談や様々な分野からの執筆陣の先生方の論が掲載されたもので、私も毎月とらせていただいています。
ひとついえるのは、様々な雑誌を購読する中で、毎号、隅々まで完読してしまうのは、現時点では自分の中では『玉響』だけです。
構成も内容も良いので、あっという間に読了してしまいます。
皆様にもお勧めです。
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http://www.nihoniyasaka.com/contpgm2/w_main.php?oya_id=5なお、「修理固成」は、ねず本の第一巻にサインを求められたとき、一緒に揮毫するようにしています。
とてもたいせつな日本の言葉です。
ちなみに人も、神様がお作りになったものです。
その心身を最高の状態で神様にお返しすることも修理固成です。
【修理固成(つくりかためなせ)】
小名木善行
玉響 No.267号
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▼「修理」の本来の意味
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「修理固成」はこう書いて「つくりかためなせ」と読みます。
「修理」と書いて「つくり」です。
古事記の解説本によっては、「をさめ」と読ませるものもあります。
この言葉は、古事記のはじめの方に出てきます。
古事記は、はじめに十七代の創世の神々が描かれ、その創世の神々が「諸命以(もろもろのみこともちて)、伊耶那岐命(いさなきのみこと)、伊耶那美命(いさなみのみこと)にこの漂っている国を修理(つくり)固め成しなさい(修理固成)」と命じます。
ちなみに古事記は序文で、
一、漢字の持つ意味と上古の言葉の意味が一致する場合は漢字で記述した。
二、漢字の持つ意味と上古の言葉の意味が一致しない場合は漢字を音として用いて記述した、
と書かれています。
「修理」を「つくり」と読むのが正しいのか「をさめ」と読むのが正しいのかはわかりませんが、上古の大和言葉の意味と漢語の「修理」の意味が一致したから、ここで「修理」と書かれているわけです。
わたしたち現代日本人は修理という言葉を、壊れたものを直すという意味にしか使いませんが、古事記に書かれた修理は、すこし意味が違います。
伊耶那岐、伊耶那美の二柱の神は、「修理固成」と命ぜられて、天の沼矛を授かり、天の浮橋に立たれると、下界の混沌としたところにその沼矛を差し入れ、そこをコオロコオロとかきまぜて沼矛を引き上げると、矛の先端から塩が滴って積もってそこが淤能碁呂嶋になったと書かれているからです。
つまり「修理」は、
「壊れたものをなおす」のではなく、
「すでにあるものの形を変えている」のです。
そこで「修理」の「修」の字のもともとの漢字の成り立ちを見るとおもしろことがわかります。
「修」という字は、飾りを示す「彡(サン)」「攸(ユウ)」から成り立っていて、「彡」は神々の創造物の天・地・人、「攸」は神々のお働の動詞形となのです。
つまり「修」という字は、もともとは「神々の創造物である天地人すべてへの神々のお働き」を示す漢字です。
「理」は、「玉」+「田」+「土」で成り立ちます。
田と土は耕して利用するものですが、この字では「玉」を耕しています。
つまり、玉を磨いて整えているわけです。
そこから派生して、「ものごとに消えない分別をつけて整えること」が「理」の意味です。
そこで「修」と「理」を組み合わせると、「神々が創造したものを、神々の御意思である道理に沿って磨く」という意味だとわかります。
何もないところからモノを創り出せるのは神々だけのなせる技です。
私たちはその「神々が生み出したもの」を加工し、工夫し、活用し、使用させていただいています。
私たちのモノ作りは、神々の生み出したものを「修理(つくり、をさめ)」させていただいているわけです。
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▼「学を修める」ことの重要性
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ちなみに「修学」という言葉があります。
修学は、「学を修める」と書きますが、ここにおける「修」も、そのもともとの意味は「神々の創造物である天地人すべてへの神々のお働き」です。
つまり神々の宝である学童たちが、神々の知恵や知識を学び、修めるわけです。
その学びの最後に、それまでに修学した知識を、実際に現地に行って、自分の目で確認し体感していく。
そのために始まったのが修学旅行です。
残念なことに、戦後の教育では、その修学精神がどこかに失われてしまいました。
いまや修学旅行は、学生向けのただの慰安旅行です。
そればかりか、なかにはわざわざ韓国に修学旅行して、日本がやってもいない、むしろ感謝されてしかるべき戦前の過去について、生徒たちに韓国人の前で土下座させて謝まらせている学校がいまだにあります。
いったいその学校では何を教えているのかと疑問に思います。
本来、日本において学童たちが「修める」ものは、神々の知恵です。知恵もモノも、すべては神々のものです。
自分のものなら勝手に処分したり使い捨てても構わないかもしれませんけれど、それがもともとは神々の創造によるものであり、神々のものを、私たちが生きるために加工して使わせていただいているのですから、本来その中心におかれるべきは神々への感謝です。ただ知恵を得る、モノを得るだけではなく、そこに感謝の心を磨いていくから「修理」になるのです。
───────────
▼神々から預かった政治
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実はこの精神は、そのまま日本の統治の根幹です。
日本は、国土も国民も、ことごとく神々のものであるということを大前提として国を保持してきたのです。
ですから日本では、領主にとっての領土領民は、領主の私的財産ではありません。
どこまでも神々からの預かりものです。
そして神々の直系のご子孫が天皇ですから、この世における領土も領民もすべては天皇からの預かり物ということになります。
これを「シラス(知らす)」統治といいます。
政治をつかさどる者は、神々が生み、神々が宿る国土や国民を、すべて神々のものと知って治めるのです。
政治のリーダーは昔は領主だったのですが、領主にとって領土領民が「自分のもの」なら、捨てようが殺そうが自分の勝手です。
けれど、そのすべてが神々のものであり、その神々との最高の接点であられる天子様(昔は天皇のことを天子様と呼びました)から、自分が領主を任命されて預かっている立場となると、そうはいかなくなります。
領主の役割は、その天のものである領土領民が、豊かに安全に安心して暮らして行けれるようにすることが役割となるからです。こ
こが私有財産を前提とする諸外国の政治史と日本の政治史の違いの根幹になります。
西洋でも、民衆は神の子とされます。
バチカンにローマ法王庁があり、ローマ法王はこの世における神との最大の窓口です。
ところが王権が強かった西洋では、王が戴冠するときには、教会の司教が王に「神の名において」王権を授けます。
つまり王権は、神から授かったものとなり、王は神の代理人として政治を司ることになります。
王が神の代理人ということは、神は姿が見えませんが、王の姿は見えるわけですから、その王国は、すべてが、神の権威と権力を代理する王のものとなります。
全部が王のものですから、王は王国の領土領民を完全に私的に支配することになります。
Chinaにおける皇帝の位置づけも、ほぼこれと同じです。
Chinaにはローマ法王庁がない分、皇帝の権力はさらに強大なものとなります。
ところが日本では、天皇が神々の代理人であり、天皇が神々との最高の窓口です。
そして民衆は、王のものではなくて、どこまでも天皇のものです。
つまり政治権力者も民衆も、人として天皇のもとに対等です。
そして政治権力者は、天皇に代わって、天皇の民が豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことが使命となります。
政治権力者にとって、民衆が私物ではないのです。どこまでも天皇からの預かりものなのです。
早い話、全国の大名や武士たちを統括しているのが将軍です。
その将軍は、天皇によって任命された天皇の部下です。
従って将軍が統括している全国の大名や武士たちもまた、天皇の部下です。
そして藩ごとに治めている領土領民は、すべて天皇の大御宝です。
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▼「修理」して、お返しする
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そうしたことを国民の誰もが「知」って、神々の創造物をたいせつに利用させていただく、つまり「修理」し、生活するわけです。
全てが神々のものであれば、最後には、ちゃんときれいにして神々にお返しするのが道理です。
もっといえば、お借りするときよりも、更によい状態にしてお返しすることが人々の心得です。
ここに再生の思想があります。
刀などの鉄器は火を燃やしてつくりますが、そのためには、森の木々を伐採しなければなりません。
けれど、伐採だけしていたら、山は禿山になってしまいます。
ですから、森の木々を伐採すれば、そこにちゃんと植林し、木々が大きくなるまで育てます。
日本は上古の昔からずっとこれをやってきたから、いまでも日本は森の国です。
日本が豊かな森林を保っているのは、日本が温帯だからという説がありますが、決してそのようなことはありません。
そもそも人類が文明を築いた場所は、住みよい温帯です。
けれどいまから三〜四千年前に文明があったところは、いまでは全部、砂漠化しています。
人が火を得るために、森の木を全部伐採してしまったからです。
森は貯水能力を失い、そこは砂だらけの砂漠になってしまいました。
木を伐採したあと、植林をしなかったからです。
ようやく昨今、世界でも、使い捨てではなく、再生やエコが大切だと説かれるようになりました。
けれど日本では、すくなくともほんの百年前までは、あらゆるものを再生産、再利用が可能になるように用いていました。
ですから、日常使う物も、安かろう悪かろうではなく、少々値段が高く付いても、大事に使えばいつまでも使える製品が好まれていました。
最近では、デフレの影響もあって、とにかく安ければ良いとばかり、China産の百円均一製品が大量に出回っていますが、おかげで年間十兆円の富が、日本からChinaに流出しています。
もし、全て日本製にしたら、おそらく価格は百円均一ではなく、三百円均一くらいになると思います。
けれどその代わり、約三十兆円のGDPが日本国内に生まれます。
長い目で見てどっちが得なのか。政策面においても、一考に値することなのではないかと思います。
───────────
▼現代の「固成」
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「修理」は、「固成(かためなせ)」と続いています。
神々がつくられたものを、玉を磨くように大切につかわせていただき、感謝し、それによってしっかりと国を固めていく。だから「修理固成」です。
その不断の努力にこそ、私たち日本国民の幸せがあるのだと思います。
逆に感謝の心を忘れ、自分勝手な都合や、目先の快楽ばかりを追求し、モノを粗末にするなら、日本はどんどん壊れていってしまいます。
かつて広大な農地だったところは、いまでは住居専用区域になっています。
そこには、戦後にマッチ箱と呼ばれる家屋が立ち並びました。
建てられた当時は、新築のマイホームでした。
けれど、あれから四十年が経過し、いまではその住居専用区域が、核家族化、高齢化によって年寄りの町となっています。
そしてあと五十年もしたら、老朽化して誰も住んでいない廃屋が立ち並ぶ廃墟になってしまいます。
一方で不良外国人を大量に日本に招き入れ、そういう人たちが誰もいない廃屋に勝手に住み着くようになったら、そこはまたたく間に、スラム化していきます。
実際、米国のニューヨークなど古い町で、いまスラムとなっている場所は、いずれもかつての高級住宅街です。
大陸のように広大な土地がある国であればまだしも、日本のように高度に集約され、人々が密集して暮らしている国で、そのような不穏な区域ができあがることは、決して私たちにとって幸せなこととはいえません。
国は、そうした戦後の行政を、いま、大きく見直すべきときにきているのではないかと思います。
かつて「修理固成」は、尋常小学校、国民学校でしっかりと教えられた日本人の常識語でした。
「修理固成」は、単に伊耶那岐、伊耶那美の神話ということではなくて、日本人としての常識語だったのです。
良い物は、何時の時代にも良いものです。
良い言葉は、常識として取り戻していきたいものだと思います。
*******
最後にすこし補足しておきます。
古事記は「修理固成」にフリカナを振っているわけではありません。
ですのでこれを
をさめかためなせ
をさめことわりかためなせ
と読む本もあります。
「修理」で「をさめ」、あるいは「修」だけを「をさめ」と読み、「理」を「ことわり(=道理のこと)」と読んで「をさめことわり」です。
修めるという言葉は、正しく整えることをいいます。
ですから「をさめ、ことわり」となると、道理に従って正しく整えるという意味になります。
混沌としたところを「修理」するのですから、これを創生の神々が道理に従って正しく整えなさいと詔したとすれば、「をさめことわりかためなせ」と読むことになります。
すこし省略すれば「修理」を「をさめ」と読んで、「をさめかためなせ」です。
けれど、話の流れからすれば、下界の混沌を「修理」して、オノコロ島をつくり、そこに住むわけです。
つくってから、オノコロ島をおさめているというのが話の流れであり、それはすべて創生の神々の御意向に沿ったもの(諸命以)であったというのが流れです。
ですので、私は「つくり」と読む方を採用しています。
お読みいただき、ありがとうございました。


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コメント
ポッポ
サラッと書いてあるのですが、これは外国人の移住の結果と言うことです。
外国人の移住には、反対します。
日本は日本人の手で維持し、機械化を進めることで製品の質と量を確保して、日本の経済力を向上させなければならないと思います。
2016/10/14 URL 編集
junn
http://hiroomikes20120501.blogspot.jp/2013/07/201379.html
2016/10/14 URL 編集
花田良春
小生こと、昨日、『玉響(たまゆら)』の年間購読を申し込んだところです。
本日の記事に紹介されている、ねずさんの”下記の案内”は、小生の感ずるところと完全に一致しています。何たる偶然!!!
"『玉響』は日本弥栄の会が発行する月刊誌です。
日月神示で有名な中矢伸一先生の最新の書き下ろし連載を始め、対談や様々な分野からの執筆陣の先生方の論が掲載されたもので、私も毎月とらせていただいています。
ひとついえるのは、様々な雑誌を購読する中で、毎号、隅々まで完読してしまうのは、現時点では自分の中では『玉響』だけです。
構成も内容も良いので、あっという間に読了してしまいます。
皆様にもお勧めです。"
http://www.nihoniyasaka.com/contpgm2/w_main.php?oya_id=5
追記:購読料は一年〔12冊)8000円です。
未読の方は、まず一冊〔800円+税と送料100円)購入し、試読してみて ください。
価値ある買い物です。絶対お勧めです!
小生からもお勧めします。
2016/10/14 URL 編集
junn
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12208643591.html
2016/10/14 URL 編集