ひとつの例で申し上げます。
以前、川崎で中一児童殺害事件がありました。
もしこの事件が江戸時代に起きたのなら、下手人は未成年であるかを問わず死罪です。
保護者である親も死罪または遠島です。
それだけではなく、下手人を出した長屋の隣近所5人組は、全員罰金です。
さらに事件を起こした長屋の家主や地主も遠島もしくは所払い。
そのうえ長屋はお取り壊しです。
厳しいようですが、ここまでは「結果に対する処罰」です。
これだけでは片手落ちです。
事件は、起きてしまってからでは遅いのです。
起こらないように事前に察して手を打つことが、人々の治安を預かる者の使命です。
その責任者が川崎の町奉行です。
町奉行には、そのために必要なあらゆる権限が与えられています。
その権限のことを、別な言い方で権力と言います。
川崎の町奉行は、権力を持ちながら、事件の発生を未然に防ぐことができなかったのです。
ですから当然、切腹です。
自ら腹を斬ればよし。
その場合は、町奉行の家は安泰です。
奉行の息子さんは武士であるという地位は失わず、与力くらいにはなることができます。運がよければ奉行職に復帰できるかもしれません。
奉行が愚図々々して自分で腹を斬らなければ、江戸表から使いがやってきて、「上意でござる」と切腹を命じます。
この場合は、お上の手を煩わせてたわけですから、お家は断絶です。
妻子も家人も、翌日からは浪人者として露頭に迷うことになります。
厳しいようですが、権力を持つものは、それに等しい責任を持つのがあたりまえです。
権力と責任は、常にセットなのです。
これが日本社会の原理原則です。
その伝統があるから、権力を持ちながら「世間をお騒がせ」したら、責任をとって辞職することが当然と考えられてきたのです。
これが日本人にとってのあたりまえの常識です。
戦後のテレビドラマなどを見ると、毎週悪人が現れて「越後屋殿」とやっていますが、現実の江戸社会では、たとえば有名な八代将軍徳川吉宗の治世は享保年間ですが、その享保年間20年の間に、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された罪人の数は、ゼロです。
これは奉行所の役人が、まさに真剣に犯罪が起きないように必死に取り組んだ結果であり成果です。
ちなみに、多くの人が誤解をしていることに、江戸時代の牢屋のことがあります。
牢屋は未決囚もしくは、犯罪を「犯しそうだ」という人が収監されたところです。
実際に犯行を行えば、速やかに死罪もしくは遠島、百叩きなどの刑罰が執行されました。
いまの日本のように、死刑判決が確定した者に、ずるずると何十年もタダ飯を食べさせるような余裕は、民のたいせつなお米(田から)を預かる奉行には、まったくなかったのです。
人の上に立つ者ということは、日本では、天皇の「おほみたから」を幕府の旗本であれば将軍様に成り代わって知行地として預かる者です。
諸大名も同じです。
ダテに◯◯守(なになにのかみ)を名乗っているのではないのです。
ではなんのために預かっているのかといえば、民が豊かに安心して安全に暮らせるようにするためです。
さきほどの例の川崎の町奉行であれば、川崎の管轄内の庶民が、豊かに安心して安全に暮らせるようにすることのために、一切の責任を負い、そのために必要なありとあらゆる権力を行使できるのが町奉行です。
このような考え方は、江戸時代に始まったことではなく、いつはじまったのかわからないほどの大昔からの日本の伝統です。
その昔は、これを一霊四魂で表わしました。
四魂とは、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)のことです。
これはそれぞれ順に調和、活動、霊感、幸福を意味するなどとわかったような教え方がされがちですが、実はもっと身近な人の上に立つ者の心得でもあります。すなわち、
荒魂=武力行使
和魂=やさしさ、調和、話し合い
幸魂=民の幸と稔り
奇魂=御定法
です。
奈良平安の貴族が武力を持たないというのはウソです。
現に、流鏑馬から鹿島神流などの武芸に至るまで、遠く神話の昔から日本に存在するものです。
日本刀も、平安中期には、すでにほとんどいまの形の完成形に至っています。
平安貴族は女遊びばかりしている「うつけ」のように教えられますが、全然違います。
もしそうであるのなら、どうして平安時代に日本刀が完成しているのでしょうか。
弓道が確立したのでしょうか。
武家の時代よりも遥か太古の昔から、日本では武が重んじられてきたのです。
さらにいえば、裁判において量刑に公平性を期するために量刑の理由を明記するという現代の裁判制度も、西洋では近代になってから確立した制度ですが、日本では、11世紀のはじめの平安中期に藤原公任がこれを完全に確立しています。
皇臣民といいますが、要するに天皇の「おほみたから」を預かっている以上、臣は、民が豊かに安心して安全に暮らせるために必要な権力持つし、権力がある以上、それに伴う責任があるのです。
日本は、そういう社会が、すくなくとも2千年、続いてきたのです。
2千年が大げさだというのなら、少なくとも藤原公任以来千年、ずっと、そういう社会が日本の伝統として日本社会に根づいているのです。
そのような伝統があるからこそ、いまでも「世間を騒がせた」ら、権力を持つものは、それなりの責任をとることが、あたりまえと、日本人は考えるのです。
そしてこのことが、日本社会の常識として、江戸時代が終わってからも、すくなくとも昭和の終わりまでの125年間は、人の上に立つ人たちの気概として、ちゃんと生き残ってきたのです。
ところが昨今では、権限を持って権力を行使する人は、責任を取らない人、になっています。
彼らにとって、権力は行使するけれど、それは私腹を肥やすためであり、民のためではないのです。
責任というのなら、私腹を肥やしそこねたという責任、つまり自分への責任があるにほかならず、だから責任をとって辞職するなどもってのほか、捕まらなければ何をやっても良いと考えます。
およそ旧来の日本人とは程遠い思考の持ち主が、日本社会に多数根付くようになりました。
もともとが「自分の私腹を肥やすため」ですから、世間が騒いだとしても、それはむしろ有名になれたという滅多にないチャンスの訪れであって、それをいかにうまく利用して、ついでにテレビにまで出演して、言いたい放題を言って、さらに顔と名前を売って票を伸ばす。
これで議員生命は安泰だというわけです。
それで良いのでしょうか。
しかもこうなると、日本の政治社会に不思議な減少が起こります。
悪貨は良貨を駆逐すると同じで、古くからの日本的伝統を大切にし、責任ある政治を行う日本的精神を持った日本人の政治家は、常に権力と責任がセットと考え、責任ある行動をするとともに、何かあれば、いとも簡単にあっさりと責任をとって、辞職してしまいます。
すると、政治の世界に、生粋の日本人的思考を持つ人が相対的に少なくなり、まったく日本人とは異質な思考の持ち主が相対的に増えていきます。
政治の世界が、民意と乖離をしていると言われるようになって久しいですが、日本人でない人が日本の政治に介在すれば、たとえその人が日本語を流暢に話したとしても、政治が歪むのはあたりまえのことです。
そしてそういう政治家が権力を持てば、当然のように、次から次へと問題を引き起こします。
けれど、彼ら彼女らは絶対に責任を取りません。
この状態が何十年も続くと、政治家は、自分のために権力を行使し、一切の責任を取らない人だらけになります。
まれに、責任感の強い人が政治家になっても、結果として辞職して議席を失います。
日本人として、日本社会の正常化を願うなら、まずは日本人としての常識や道徳的価値観の共有が必要です。
そしてそれがない人は、そもそも政治家になるべきではないし、政治家にするべきでもありません。
そしてもし、そのような人が、なんらかの錯誤で政治家になってしまったとするならば、これを否定する仕組みをしっかりと築かなければ、日本の社会が壊れてしまいます。
戦後世代の私たちは、「古い衣は脱ぎ捨てて」という流行語のもとに育ちました。
ところがいまになってわかることは、この言葉は、人類社会は常に進化しており過去より現在、現在より未来は常に優れたものであるとする、共産主義史観に基づくものでしかなかったわけです。
実際には、努力しなければ現在も未来も拓けたりはしないし、良くもなりません。
そうではなくて、現在の問題を過去の歴史の蓄積から再評価して学び、過去の知恵と現在の問題意識を併せることではじめて、未来は拓かれます。
そんなあたりまえのことに、日本はいまだ気付いていないし目覚めてもいない。
日本という「寝た子を起こすな」というのは、周辺国や日本に住む不逞外国人にとっては、都合のよいことかもしれませんが、多くの日本の民衆にとって、それは決して良いことではありません。
もうそろそろ、日本人のみんなが、「おはよう!」と言って元気に目覚めるときに来ているのではないかと思います。
人の上に立つということは、人々の模範となるということです。
子供たちからみて、模範となれないような大人は、厳しい言い方をすれば、たとえ東大出であっても幼児の域を出ていないのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
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英国憲法は、マグナカルタなどの慣習憲章などの体系で
あり、憲法典自体は不文です。同様に、日本の憲法体系
は、十七条憲法、五箇条の御誓文、教育勅語を基礎とし
たもので十分で、憲法典も不文にすべきです。つまり、
正しい改憲とは、現状の憲法典としての、憲法素人のGHQ
職員のやっつけ仕事で作られたアメリカ製成文日本国憲
法を破棄し、前述の憲法体系を有効にすることです。な
お、教育勅語はアメリカでパクられ「the Book of
Virtues」という本で、聖書に次ぐベストセラーになった
そうです。
2016/11/04 URL 編集