◆第34回倭塾は、2016年11月12日 18:30〜開催です。http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3188.html</u>">
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3188.html知覧特攻平和会館

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特攻作戦は、知覧を始め、宮崎の都城など九州各地や、台湾の航空基地からも出撃していますが、なかでも知覧にある陸軍航空隊基地は、本土最南端であったことから、陸軍の全特攻戦死者1,036名のうち、半数近い439名が、ここから出撃しています。
その知覧基地のすぐそばにあったのが、鳥濱トメさんの冨屋食堂です。
富屋食堂は出撃前の特攻隊員たちの憩いの場となっていました。
隊員たちはトメさんのことを母のように慕い、トメさんは出撃されたおひとりおひとりのことを、全員、まるで昨日のことのようによく覚えておいでだったそうです。
そして戦後はお孫さんたちに、当時のことをよく語って聞かせてくれたそうです。
なかでも宮川少尉のことは、とても印象に残っていて、何度も何度もお話されていました。
*
宮川さんが知覧に来られたのは昭和20(1945)年5月の終わりごろです。
宮川さんは新潟県小千谷市出身の人で、
宮川少尉は、旧制新潟県立長岡工業高等学校を首席で卒業し、昭和18年10月に明治神宮で行われた第一陣学徒出陣壮行会にも参加した、雪国の人らしく色白でハンサムな人でした。
宮川三郎少尉

知覧に来る前、宮川少尉は万世飛行場から一度特攻に出撃しているのですが、機体の故障で引き返していて、一人だけ残ったのを大変気にしていました。
ようやく代わりの飛行機がもらえ、出撃する前夜の6月5日のことです。
宮川さんが、一緒に出撃する仲良しの滝本恵之助曹長と二人で、富屋食堂にやってきました。
【倭塾】(江東区文化センター)
第34回 2016/11/12(土)18:30〜20:30 第4/5研修室
第35回 2016/12/24(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
第36回 2017/1/14(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
【ねずさんと学ぶ百人一首】(江東区文化センター)
第8回 2016/10/20(木)18:30〜20:30 第三研修室
第9回 2016/11/24(木)18:30〜20:30 第三研修室
第10回 2016/12/8(木)18:30〜20:30 第三研修室
第11回 2017/1/19(木)18:30〜20:30 第三研修室
宮川さんと滝本さんは、
「明日出撃です」と、ごきげんでした。
この日は、宮川さんの20歳の誕生日でした。
そこでトメさんは、宮川さんのために、お赤飯を炊いてあげていました。
二人はそのお赤飯を、おいしいおいしいと嬉しそうに食べました。
その帰りがけ、
「おばさん、
俺、明日も帰ってくるよ。
ホタルになってね。
滝本と二匹で。
だからおばさん、
追っ払ったらだめだよ」
と冗談のように言いました。
トメさんは、食堂にくるときどこかでホタルでも見かけたのかな、と思いました。
翌6日は、どんより曇った日でした。
この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。
トメさんも見送りに行きました。
その日の夜のこと。
出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。
二人は編隊を組んで飛び立ったのです。
が、どうにも視界が悪い。
そのため、滝本さんは何度も宮川機の横に並んで、
「視界が悪い。引き返そう」
と合図を送りました。

けれど、宮川さんはその都度、手信号で、
「俺は行く、お前は帰れ」と合図しました。
何度か目の合図のあと、滝本さんは引き返しました。
宮川さんは、そのまま雲の彼方に消えていきました。
滝本さんは、
「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」
と言って、涙をぽろぽろとこぼしました。
夜の9時ごろのことです。
食堂には、トメさんの娘さんが二人と、滝本さん、奥の広間には、明日出撃予定の隊員たちが7〜8名いて遺書を書いていました。
トメさんは、なんとなく不思議な気持ちになって、食堂の入り口の戸を、すこしばかり開けました。
すると待っていたかのように、一匹のホタルが、ふら〜と食堂にはいってきて、天井のはりところに、とまりました。
それは、とても大きなホタルでした。
大人の親指くらいの大きさがあります。
ホタルの季節には、まだ少し早いのに、そんなに大きなホタルがいること自体が、不思議です。
娘の礼子さんが、
「あっ宮川さんよ。
宮川さん、
ホタルになって帰ってきた!」
と叫びました。
滝本さんもびっくりしていました。
トメさんは、みんなに言いました。
「みなさん。
宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」
その場にいた全員で、何度も何度も「同期の桜」を歌いました。
ホタルは長い間、天井のはりに止まっていましたが、すっといなくなりました。
*
トメさんは、戦争が終わったあとも、こうして出陣され知覧を飛び立たち散華された特攻隊員達のために、もとの知覧基地に、一本の墓碑を立て、そこに来る日も来る日も、お参りしていました。
自宅からその墓碑まで歩いて30分です。
足の悪かったトメさんは、片手で杖をつき、片手にお線香を大事そうに抱えてお参りに行っていました。
雨降りの日などは、たいへんだったそうです。
両手がふさがっているため、傘を持つことができません。
トメさんは、雨が降ると、ずぶぬれでした。
それでもお参りを欠かしませんでした。
そのトメさんが、お孫さん達に、繰り返し語ったことがあります。
それは、次の言葉でした。
「特攻隊のみなさんは、
みんなとっても
思いやりのある子たちだったんだ。
あの子たちが行ったのは、
軍の命令だからとか、
そういうことじゃなかったんだ。
あの子たちはね、
故郷にいる
親御さんや、
兄弟の方々や、
妹や
大好きな人たちを守ろうとして、
旅だって行ったんだ。
誰だって死ぬのはこわいよ。
そのことは、
昔の人もいまの人もなんにも変わらない。
あの子達だって、
こわかったんだ。
でもね、
あの子達は、
みんなを守るため、
自分の命を犠牲にしてでも
みんなを守りたいっていう
思いやりの心があったんだ。
私はね、
出撃した
全部の隊員さんたちを知ってるよ。
ぜんぶ、
私の子供たちだったよ。
あの子たちはね、
人を、
故郷を、
大好きな人を
思いやる心があったから、
自分の命を犠牲にしてでも、
まわりの人たちを守ろうとして
出撃して行ったんだ。」
*
知覧基地で、特攻に行く隊員さんたちは、全員、三角兵舎と呼ばれる建物の中で寝起きしてました。
その三角兵舎は、松林の中にありました。
戦争が終わると、その三角兵舎は、全部取り壊されました。
何年も経ってから、トメさんの娘さんの礼子さん姉妹は、まだ幼かった子どもたちと松林に行きました。
ふと眼にしたのは、その松の木の一本一本に刻まれた文字でした。
そこには、亡くなられた特攻隊員さんたちが掘った筆跡の異なる文字がいっぱい刻まれていました。
それを見たとき、わかりました。
彼らだって、死にたくなかった。
そして、俺たちが、生きて、呼吸してて、ここで寝起きしていたことを、決して忘れないでくれ!
その木に刻まれたお名前のひとつひとつに、そういうメッセージが込められているのだと。
そのことに気付いたとき、その場に居合わせた全員が、泣きました。
*
以上は、その礼子さんのお子さん(トメさんからみてお孫さん)の赤羽さんが新宿でやっている「薩摩おごじょ」というお店で伺ったお話です。
母の礼子さんは、『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』(草思社文庫)を書いています。
戦前の日本にあって、戦後の日本にないもの。
その最大のものが「思いやり」の心なのかもしれません。
自分の全知全霊をかけて、ときに自らの生命さえもかけて人を思いやる心。
私達の、日本の心を取り戻す戦いというのは、そういう思いやりの心を取り戻すための戦いなのかもしれません。
鳥濱トメさんのお孫さんの赤羽さんたちは、知覧基地をめぐる様々なエピソードを、決して風化させてはらならないと、
「鳥濱トメ顕彰会」
をお作りになっています。
私もメンバーに加えていただきました。
そして赤羽さんには一度、この「鳥濱トメ顕彰会」を通じて、ご講演をいただいたことがあります。
涙がでました。
◆鳥濱トメ顕彰会http://www.torihamatome.jp/</u>">
http://www.torihamatome.jp/お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は、2012/10月の記事のリニューアルです。

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コメント
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その年の12月、知覧に進駐してきたのは、米第8海兵隊第1大隊の兵士たち。上陸戦でわが身を盾に真っ先に敵地に乗り込む海兵隊員は、米軍でも最も気が荒いとされる。しかもサイパンや沖縄で、日本軍との血で血を洗う死闘をくぐり抜けてきた男たちだった。
日本の警察権がまったく及ばないこの男たちが町で事件を起こさないようにする。そのために警察が白羽の矢を立てたのが、特攻の母、トメさんだった。死を前にして動揺しがちな特攻隊員らの心をつかんだように、米兵たちのすさんだ心を和ませてほしい、と。
明久さんは言う。
「米兵の宿舎は道向かいの内村旅館。この食堂も米軍に開放してくれと署長に言われ、トメは最初断ったそうです。でも、酔っぱらうと拳銃をぶっ放すような暴れん坊の米兵も、ポケットにお母さんの写真を忍ばせていた。ああ特攻隊員たちもそうだったと。国は違えど、若者たちに何の変わりもないじゃないかとトメは思ったんですね。彼らを戦地に向かわせた偉い人たちを恨むべきで、若者たちを恨むべきではないと」
トメさんは食堂を米兵に開放し、歓迎会を開き、生け花を教え、一緒に料理を作った。英語は分からないが言いたいことは分かると、米兵らの話にうなずきながら耳を傾けた。
「やがて米兵たちはすっかり打ち解け、トメをママ、ママと呼ぶようになったんです。特攻の若者がお母さん、お母さんと慕ったように。2カ月後、基地の接収が終わって知覧を撤収する時、彼らが男泣きしたと、当時15歳だった叔母が日記に書き残していますよ」
2016/11/09 URL 編集
みわ
職人、公務
向き不向き
自身は職人で、「仕事が終わったら終わり」勿論、一日凄く働いていたこともあります。
今勤めてるのは元新聞社勤務の方が、自営しているお店なのですが、
仕事終わりが自分で見えている、とか
やりがいがあったりすると
凄い時間働いてても、苦にならない人はおります
仕事したい人は仕事ずっとしていてもよいと思うのです
法で縛って、時間を決めても不向きな仕事は一分でもつらいのです。
その微妙な差異に皆が気がつきますように
伝聞なのですが、救急通報をした方が、蘇生措置をしなかったとかで亡くなったのを罪だ、と訴えられた事案が国内であったと聞いて。衝撃を受けました。
通報すらせず、最初から見捨てた方がよかったの?
ちょっとこわい、です
2016/11/09 URL 編集
m.e
"Japan and South Korea reached a landmark agreement in December to resolve the longstanding issue of “comfort women,” who were forced to provide sex to Japanese troops before and during World War II."
<翻訳文>
日本と韓国は、12月に長期にわたっていた問題である第二次世界大戦の前から戦中にかけて、強制的に日本軍の性行為の相手をさせられた「慰安婦」に関して画期的な合意を結んだ。
”South Korean President Park Geun-hye agreed to set up a foundation for the surviving women, using funds provided by the Japanese government.”
<翻訳文>
朴槿恵大統領は、日本政府による資金で生抜いた(生き残っている)女性達の為の基金を創設することに合意した。
懲りてませんね、というか、腹ワタが煮えくり返りました。
2016/11/08 URL 編集
なび
特攻隊員についてはただただ感謝しかございません。
西尾幹二氏の「GHQ焚書図書開封」の講座動画を拝聴しております。
その中でシンガポール攻略の際の出来事。
トーチカからの敵の攻撃で身動きがとれず、味方がバタバタと斃れる戦況を
打破するために、3人の兵士がトーチカの銃窓に自ら頭を突っ込み
敵の銃撃を止めさせたこと。もちろん命令ではありません。
あぁ日本人はこのようにして戦ってくれたのだと…。
神風特攻隊員は空で、回天や震洋は海で、ダイナマイトを巻いて戦車に
或いは己の身体で銃口に蓋をするのは陸の兵士。
言わば誰もが特攻隊員であったのではないかと思いました。
ちなみにそのトーチカの敵は中国人で、逃げられないように足を鎖で
繋がれていたということです。
2016/11/08 URL 編集
m.e
僕は何が起きているのかわからず、ただ遠巻きから見ていただけでしたが、バス停には十数人がいたんですけども、誰も倒れている男性に力よりもせず、ただ見ているだけでした。
しかしそのすぐ後、通りかかった人が駆け寄り、倒れていた年配の男性に声をかけ、すぐ救急車を呼びました。
実際、目の前でイレギュラーが起きた時、人はすぐには動けません、僕もただ黙ってみてしまった一人でした。悔しかったですね。
そんなこんなでリベンジ!と言えば復讐という意味にもとれますが、同じような事が起きたら次こそはと心に誓いましたね、まぁそれでゴミ拾ったりとか、ニャンコの遺体をとか…。
そんなこんなで過ごしてきて、先月、ドラッグストアで買い物をしていた時、二人連れの女性に突然絡み始めた初老の男。
何やら叫び始め、女性達に近寄り『お前ら犬の子供が∫〆〇∮ゝヽ!』と、何を言っているのか理解不能な言葉をあびせ始め、見る見る女性達が不安な表情になっていくのを目の当たりにした時です。
前はぴくりともしなかった足がすたすたと動き、僕は女性と初老の男性の前に割って入りました。
キャップにサングラスの白髪のおっさんは、割って入った僕に言いました
『なんだてめぇは!』そう言われてもなぁ、と思いつつ
『警備員呼びますよ』と顔を近づけたところ
『そいつは勘弁だ』と言い、スタスタとレジに向かっていき『はよ帰れや』と後ろから言った僕には無反応、やれやれと思い、後ろにいた二人連れに軽く会釈して僕もレジに向かいました。
案の定、レジでもグダグダ言っていたおっさん。
レジ係の女性も怖がっていて、お釣りを手渡せず落とし、僕がそれを拾っておっさんに手渡しました。
捨て台詞を残し、おっさんは店を出ていったのですが、その後、ドラッグストアの店長さんが来て、ありがとうございましたとお礼を言われました。
とある国では人を罵倒する時、犬の子供と言いますね、ソフトバンクのCMもそうですが、あぁそういう事…と後から納得しました。
繰り返しますが、人はイレギュラーに遭遇するととっさに動けません、また思いやりの心を持って実践に移すには、常日頃の心構えと、何か日常においての悔しい思いとか、失敗談みたいな経験が必要なのではないでしょうか。
思うだけじゃだめなんでしょうね、思いやりを表す行動が取れず情けない思いをしたとか、そういう経験が必要だと思います。
2016/11/08 URL 編集
ポッポ
兵隊の誰もが生きていても、必ず死ぬとの共通の意識がそこにあったと思います。
特攻隊員は国と家族のために、この作戦に参加したのです。
そして、特攻隊員よりも遙かに多くの兵隊が、大東亜戦争に従軍し亡くなっています。
今の私たちは、彼等の犠牲の上に生きて、生活してきたことは間違いありません。
総理大臣を初めとする閣僚、国民の代表である衆参両議院の国会議員は、これらの戦死された兵隊さんを祭ってある靖国神社に参拝し、礼拝する義務があると思います。
2016/11/08 URL 編集
ばたつよ
電通に続き、大和証券でも問題が発覚しました。反社会勢力の者が部長職に就いていたとの事。しかも主幹事として株式を取り扱っている会社を「上場廃止まで追い込む。」とTwitterに書き込んでいる様は、大和証券が上場廃止なのではと思える程です。
3年程前に退職した会社が東証に上場する時、主幹事が大和証券でした。持ち株会に入っていて大和証券から半年に一回株式の残高証明書(みたいな物)が来ていたのでよく覚えています。
日本の社会が悪い事に巻き込まれない様、無事を祈る日々です。
2016/11/08 URL 編集
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東大卒業の女性社員が自殺した事についての、電通の社長の訓示を読みましたが、女性社員が自殺した事について
お悔やみ申し上げる訳でもなく、新入社員に過剰な労働を強いた事に対する経営者としての反省の弁もなく、新しい電通を作って行こうとか、述べたらしいです。 やはり在日韓国系企業の
電通は、人の命の尊さ、社員一人一人に対する感謝の想いなんか微塵もなく、役員や株主の利益の為にお前ら
社員は死んでもいいから働けって
言っているのが、よく分かりました。
こんな企業は、日本の社会にはいりません。 日本人の心を豊かにするコンテンツなんかも、電通には作れないでしょう。 有害なので日本から退場して下さい!
2016/11/08 URL 編集
junn
http://meron.vanillapafe.info/archives/7901
2016/11/08 URL 編集