▼日本軍と一緒に戦おう
昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、千二百メートルの滑走路二本を持つ飛行場を築きました。
日本にとってパラオが、太平洋防衛上の重要な拠点だったからです。
日本の防衛上重要拠点ということは、敵対するアメリカ軍にとって、それは攻略目標となります。
フィリピン奪還を目指すアメリカ軍は、その手前に位置するパラオ・ペリリュー島の日本軍基地を、どうしても排除しなければなりませんでした。
昭和19(1944)年9月、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督の指揮下、アメリカ軍はパラオ・ペリリュー島攻略作戦を実行に移しました。
当時、ペリリュー島には899名の島民がいました。
日一日とアメリカ軍が迫ってくるなか、島民たちは集会を開きました。
かつてスペインやドイツによって植民地支配を受けていた彼らは、白人統治時代の悲惨さを知っています。
日本統治となってからの時代も身をもって経験していました。
その彼らは日本兵と仲良くなり、日本の歌を一緒に歌いました。
だから島民たちは、全会一致で、大人も子供も一緒になって日本軍とともに戦うことを決めました。
こうした村人の会議と、全会一致での決定という仕組みは、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
話し合いはその全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
日本でいったら町内の自治会の会館のような建物があり、島民たちはその建物に何日もこもって話し合うわけです。
そうしてみんなの意思を固めるのです。
「全員一致で日本軍とともに戦う」
そう決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
ペリリューの守備隊長は、中川州男(くにお)陸軍中将(任期当時は大佐)でした。
中川中将は熊本県出身で、陸軍士官学校の第三十期生。日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんです。
その中川中将がパラオ・ペリリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出るときに奥さんから、
「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」
と聞かれた中川中将は、にっこり笑って、
「永劫演習さ」
と答えられたそうです。
永劫演習というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。
温厚で日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体で分かるものです。
この言葉を聞いたときの奥さんのお心やいかばかりだったか。想像するに余りあります。
温厚な中川隊長なら、自分たちの「一緒に戦いたい」という頼みを、きっと喜んで受け入れてくれるに違いない。島の代表団たちは、そのように考えました。
ただでさえ日本の兵隊は数が足りないのです。
自分たちはきっと日本の兵隊さんたちの役に立つことができる。
ペリリュー島の人たちは、そう思って中川中将のもとを訪ねました。
そして中川中将に、
「わたしたちも一緒に戦わせてください!」
と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めました。
これは村人たち全員の総意です」
中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられました。
一同の話が終わると、場に沈黙が訪れました。
しばし沈黙のあと、中川隊長は突然、驚くような大声をあげました。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村の代表たちは、瞬間、何を言われたのか分からなかったそうです。
そして耳を疑いました。
(俺たちのことを、「土人」と言った?)
島の代表団たちは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らはみんな泣いたそうです。
一緒に戦うことを断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
「あんなに仲良くしていたのに」
という悲しみのほうが大きかったのです。
いつも日本人は、自分たちのことを仲間だと言ってくれていました。
同じ人間だ、同じ仲間だ、対等だと言ってくれていました。
それなのに、「土人?」。
信じていたのに。
あれは見せかけだったのか?
集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて、みんな泣いてしまいました。
何日かたちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、島民たちがパラオ本島に向かって島を離れる日がやって来ました。
港には、日本兵はひとりも見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みました。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間だと思っていた日本人に裏切られたことが、ただただ悲しかったのです。
汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。
次の瞬間です。
島から、
「おおおおおおおおおおお」
という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。
そのとき、船上にいた島民たちは、はっきりと分かりました。
日本の軍人さんたちは、我々島民を戦火に巻き込むまいとしたのだ。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。
船の上にいる島民の全員の目から涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でも分からない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、日に焼けた日本人の兵隊さんたち、ひとりひとりの姿が見えました。
誰もが笑っていました。
歌声も聞こえました。
そこには中川隊長の姿もありました。
みんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていました。
それは、とっても素敵な笑顔でした。
そのときの日本の兵隊さんたちの笑顔は、戦後何年たっても、ペリリュー島の人たちのまぶたに、ずっと焼き付いたままだったそうです。
▼「オレンジビーチ」そして「サクラサクラ」
昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の本格的な戦闘の火ぶたが切られました。
島に立てこもる日本軍は1万500。
対するアメリカ軍は総員4万8千です。
そして火力差はなんと約百倍です。
圧倒的な火力をもって、アメリカ軍は小さな島に襲いかかりました。
まず、航空機と艦砲射撃によって島内のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして9月15日、
「2、3日もあれば陥落させられる」
と豪語したアメリカ軍は、海兵隊を主力とする第一陣、約2万8千を島に上陸させたのです。
アメリカ軍の上陸用舟艇が、続々とやって来ました。
島はじっと沈黙したままでした。
アメリカ軍は、海岸に上陸しました。
そこに陣地を巡らしました。
そのときです。
突然の集中砲火が、アメリカ軍の上陸部隊を襲いました。
それまで地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。
水際の状態は、凄惨を極めました。アメリカ軍の第一次上陸部隊は大損害をこうむり、煙幕を焚いて退却しました。
この戦闘で島の海岸が、アメリカ兵の血で赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
10月30日にはアメリカ軍第一海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病してしまいました。
将官が倒れるほどまでに、すさまじい戦いだったのです。
この時点で、3日で終わるとされた戦いは、なんと1カ月半も継続していました。
けれど日本軍には、補給が一切ありません。
食糧も水もないのです。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと泉に水を汲みに行けば、待ち構えたアメリカ軍の猛火に遭いました。
水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめました。
アメリカ軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきました。
11月24日、司令部陣地の弾薬も底を尽いた日本軍は、ついに玉砕を決定しました。
軍旗を奉焼し、訣別電報「サクラサクラ」を打電しました。
そして中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の3名が、割腹自決を遂げられました。
そして残る将兵は翌朝にかけて、最後の突撃攻撃を敢行しました。
こうして11月27日、ペリリュー島はついに陥落しました。
アメリカ軍の上陸開始から2カ月半が経過していました。
中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、11回の嘉賞と、3度の感状を与えられています。
中川州男中将、
明治31(1898)年1月23日生まれ。
昭和19(1944)年11月24日戦死。
享年四十七でした。
戦闘が終わったあと、アメリカ軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
アメリカ兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしでした。
戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは島中に散らばる日本兵の遺体を、ひとつひとつきれいに片付け、埋葬してくれました。
▼太平洋に浮かぶ親日国パラオ
戦後、パラオはアメリカの信託統治領となりました。
けれどアメリカは、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。
島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始しました。
そしてようやく戦争から三十六年目の昭和五十六(一九八一)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
そのパラオがアメリカの信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成六(一九九四)年のことです。
下にあるのは、独立したパラオ共和国の国旗です。
この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になったものです。
周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月を表しています。

月は日章旗の太陽との友好を示すものです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,
中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
(引用ここまで)
***
写真家の池間哲郎先生が、ペリリューを訪問されたとき、誰もが親日的だった島のなかで、
「日本人にだけは絶対に会いたくないと言っている人がいる」という噂を聞いたそうです。
それは、老父と、老女の二人でした。
気になった池間さんは、まず、老人の方を訪問しました。
「お前は日本人か。なら会いたくない。帰れ!」
けんもほろろだったそうです。
けれど池間先生は、あきらめずに、何度もその老人のもとへと通いました。
そして、ようやくその老人が、会って良いと許可してくれました。
「どうして日本人に会いたくないのですか?」と聞きました。
すると老人は答えました。
「この島にはたくさんの日本人が眠っている。
みんな友達だった。
みんなやさしくしてくれた。
けれど、その日本人の遺骨を、日本人は誰も拾いに来ない。
そんな心ない日本人は、ワシが知っている日本人じゃない。
だからそんな日本人には会わない」
そう答えたそうです。
老人は、ペリリューの戦いのときに、命を助けられた少年だったのです。
もうひとりのお婆さんのところにも、池間先生は行かれたそうです。
やはり会ってくれず、何度も訪問しました。
そしてやっとお会いできたとき、その老婆は、次のように言ったそうです。
「私は日本人から日本人としての教育を受けた。
ぺ島には、私たちを世話してくれた、
たくさんの日本人の遺骨が眠っている。
それを日本人は忘れている」
そしてお婆さんは、自作の歌を、池間先生に歌ってくれました。
その歌は、
「ぺ島の日本人の遺骨は私たちが守る。
ぺ島の日本人は、いつまでも、いつまでも、
わたしたちの友だち」
という内容の歌詞の歌でした。
私たちの戦後って、いったい何だったのでしょうか。
はっきりと言えることは、戦後の日本の繁栄も、東亜の諸国が欧米列強の植民地支配から脱出でき、いまの繁栄を享受しているのも、いずれもかつての私たちの父祖が、しっかりと、そして勇敢に命をかけて戦ってくださった結果です。
沖縄を制圧した米軍は、次に日本本土上陸の作戦を立てていました。
それは、はじめに九州を占領し、その上で、神奈川と千葉の九十九里の海岸への上陸作戦を挙行し、東京を制圧するという作戦でした。
そしてその作戦の立案に際して、東京制圧までに最短2年、そして米軍の死傷者数を100万人と試算していたのだそうです。
100万の将兵の死傷という現実には、米国民に対して米国政府は耐えきれない。
そこで、ルーズペルトから政権を引き継いたトルーマン大統領は、前任の大統領が、あくまで日本制圧、無条件降伏しか認めないという強硬論だったものを断念し、ポツタム宣言によって、無条件降伏は日本の陸海軍だけとし、日本の政体や文化は、そのままに温存するという方針転換をしています。
そしてこの方針転換を迫ったのは、間違いなく、アッツ島守備隊や、ペリリュー守備隊、硫黄島守備隊、沖縄守備隊などの、人類史上に残る果敢な日本軍の戦いと、特攻隊の攻撃成果が米軍にもたらした圧力です。
言い換えれば、私たち戦後の日本人の生命は、こうして勇敢に戦い、散って英霊となられた先人たちの、まさに命がけの戦いによって、もたらされたものです。
けれど、そのことへの恩を忘れ、いたずらに経済だけを追い求め、結果、先進諸国からも、いまやその経済がおいてけぼりを被るという体たらくとなっているのが、平成日本の姿です。
誇りが国をつくるのです。
誇りが人を強くするのです。
そして誇りは、先人への感謝の想いがあって、はじめて成り立ちうるものです。
11月24日のペリリューの玉砕の日を偲び、私たちがこれからの未来の日本に、いま、何を残すべきなのか、国民全体でその意思を共有できる日を、一日も早く取り戻したいと思います。
そして、たいせつなことは、こうした父祖の「血のにじむような努力」どころか、「血を流し命を失う」凄惨な努力と行動によって、日本は敗戦後も、かろうじて国家を維持することができました。
このことは、実はとても大事なことで、近現代の戦争で敗れた国は、国家が分割され、国のカタチそのものが大きく変容してしまっています。
ところが、日本は多くが失われたとはいえ、日本の古くからの伝統は、いまだ厳然として失われずにいます。
それがなぜ可能だったのかといえば、日本の軍隊があまりに強かったため、米国は日本本土上陸作戦を見送り、無条件降伏を求めることを止めにして、条件付き降伏であるポツタム宣言に方針を切り替えざるを得なかったのです。
そして、日本が戦後70年という長きに渡り、他国から、すくなくとも軍事的に侵略されることがなかったのは、もちろん、日本政府が他国のいいなりになって、カネを渡したり、あるいはそのために国民が高い税金を取られたりということがあったということもさりながら、やはり最大の理由は、
「日本人を怒らせて、日本を立ち上がらせたら、怖い」
という、日本への恐れが根底にあるからです。
玉砕までして戦う。
特攻してでも戦う。
現地人や奴隷兵を使うのではなく、それを日本人自身が先頭をきって行う。
10倍、20倍、あるいは百倍の兵力差があっても戦う。しかも勝つ。
資本家(Acquirer)が力を持つ時代の後には、必ず戦士(Warrior)の時代がやってきます。
そして、おそらく、人類史上類例のない最強の戦士(Warrior)であった日本が復活をすることは、戦後世界を牛耳った資本家(Acquirer)支配の終焉を意味してしまうことになると、実は、恐れられたのです。
ですから日本国内においては、スパイ防止法はつくられず、むしろそのスパイ工作によって、おもしろいことに日本国内では、外国のスパイ工作よりも、日本人が愛国心や誇りを持ったり、日本人が日本人らしくなることが、「日本人にとっての脅威」とされ続けてきました。
その心配は、私は間違っていると思います。
日本人が強かったのは、日本人が生まれながらの戦士(Warrior)だからではありません。
日本人は、むしろ知識人(Intellectual)です。
知識人(Intellectual)だからこそ、戦うときにも戦士(Warrior)以上の力を発揮したのです。
第一次、第二次の世界大戦を経験し、核という人類最終兵器を開発した人類は、第三次世界大戦の勃発は人類の破滅に繋ががると恐れるようになりました。
そして、第三次世界大戦を防ぐために、何よりも「世界秩序(World Order)」が重視されてきたのが、いわゆる戦後世界です。
そしてそのために、米国が強大な軍事力を持つ戦士(Warrior)となって、世界の警察の役割を担ってきた、もしくは担おうとしてきた、というのが、実は戦後世界です。
ところが、そうして形成されたはずの世界秩序(World Order)は、流民や移民問題、あるいは新興国による身勝手な収賄による横車などによって、足元から崩壊が始まり、ついには、米国大統領が、世界の警察を辞める=世界秩序の監視者という地位を投げ出す、という事態に及ぶようになったわけです。
そうすると、いまある世界秩序(World Order)が崩れ、世界の混乱が発生します。
要するに戦士(Warrior)では、世界の秩序を抑えきれなくなってしまったのです。
この混乱を抑え、世界に秩序をもたらすためには、これまでの「戦士(Warrior)の力による支配」ではなく、新たな「価値観による秩序の形成」が求められるようになります。
そしてそれは、戦士(Warrior)の実力を持つ知識人(Intellectual)によってもたらされるようになります。
これはインドのラビ・バトラ氏のプラウト理論と呼ばれるものです。
逆にいえば、日本が知識人(Intellectual)であるがゆえに、戦士(Warrior)が抑える世界においては、その力の発揮がが抑制されたし、また、同時に日本が、戦士(Warrior)の実力を持つ知識人(Intellectual)の国であるがゆえに、寝た子を起こすなとばかり、70年の眠りにつけられていた。
そのことが、別な見方をすれば、日本人にとっての戦後70年の平和となっていた、ということができようかと思います。
つまり、戦後の日本が平和を満喫できた本当の理由とは、実は、日本が、戦士(Warrior)の実力を持つ知識人(Intellectual)の国であるがゆえに、寝た子を起こすなとされてきた結果である、ということができるのです。
ちなみに、資本家→戦士→知識人という三者が、時代を交代しようとするとき、必ずそこで両当事者は激しく戦い、その上で、実は両者がガッチリとスクラムを組むことで、新たな時代へと変遷してきたというのが、人類史といわれています。
そしておもしろいことには、戦士の時代を混乱に陥れるのが、実は資本家の存在となります。
その存在によって、世界が混乱に陥るのです。
資本家→戦士→知識人という流れは、日本的な言い方をすれば、
「金→武→知」です。
もっとひらたくいえば、
「金持ち→武人→直霊」
あるいは、
「マネー→武力→叡智」です。
次は本当の意味で日本の歴史や伝統に裏付けられた叡智が世界に広がり、平和を築くということです。
そしてそのためには、日米の親善が不可欠です。
これに英国を加えた三国の融和は、叡智と資本と武力の三拍子が揃って、世界を恒久平和に導きます。
新たな時代がいま到来しようとしています。
そして、そのとき日本は、再び本来の歴史と伝統のある知識人(Intellectual)の国として目覚める必要があると思います。
その「知」とは、歴史の浅い、とってつけたような理屈ではなく、もっと深い人類の叡智であるはずです。
そして日本が、その叡智を取り戻したとき、はじめて日本は、目覚め、ペ島で散ったご遺骨を大切に扱う国に生まれ変われるのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
vandain
心に強く響く記事ばかりで、自分にも日本人の血が流れているんだと安心できます。日本人らしからぬ言動ばかりしてしまう実に情けない人間なので。
2016/12/22 URL 編集
日本を思うねずさんファン
パラオにインドにインドネシアにフィリピンに、ついでに中国、韓国と日本は何が違ったのでしょうか。遺伝子は確かに違うでしょうけど、何故なのか。
うーむぅ。
2016/11/27 URL 編集
あたた
知や叡智によって平和を築くのは理想論に偏りすぎ、現実的ではありません。同意しかねます。
国、国民、家族を守るには、今も昔も武力や軍事力が最後には有効です。
知や叡智でよる仁政が世界中に広がるには、世界の人々は野蛮で傲慢で己のことしか考えていない人達ばかりです。現実的には米、露、中国のように軍事力が国家の安全を保証するのです。
2016/11/27 URL 編集
伸之助
以前はもっと立派だったらしいのですが、敷地の一部を売り払って住之江公園になっています。道路を挟んで向かい側は住之江ボートが有り競艇のある日は騒音が激しく、御英霊の魂も安らかに眠れないのではと言う状況です。
住之江公園にせずに靖国神社の遊就館のような施設を作って欲しかったですね。
直ぐ近くの住吉大社は正月になるとすごい人出で賑わいますが、大阪護国神社は本当に人が少ないです。
統計や経済学では出て来ませんが、大阪が東京に比べて発展しないのもこんな事も原因ではないのかななんて考えてしまいました。
2016/11/26 URL 編集
junn
http://kenjya.org/ajia1.html
2016/11/26 URL 編集