ところがこの雷電、18歳で相撲部屋に入門したものの、親方に命じられて、なんと6年間も下積み生活をしています。
そして、そのことがまさに、雷電を育て、史上最強力士として、また人格者としての雷電を、いまも伝えているのです。
雷電の生まれは明和4(1767)年です。
出身は、長野県東御市です。
本名は、関太郎吉(せきのたろきち)といいました。
豪農の子で、幼い頃から体が大きくて力が強かったそうです。
それで相撲好きの隣村の庄屋さんの目にとまり、庄屋さんの家で行われていた寺子屋で、相撲や読み書きなどを習いました。
雷電の書がいまも残っていますが、その字を見ると、きわめて几帳面な、いかにも教養人らしい字です。
雷電の諸国相撲控帳

さて、雷電18歳のとき、たまたま地元に巡業に来ていた江戸相撲の浦風親方が、雷電の才能を見抜き、門弟にして江戸に連れ帰りました。
そして西の大関だった谷風梶之助の付き人にしました。
谷風もまた、めちゃめちゃ強い力士だったそうです。
いくら体力に恵まれた雷電が村一番の相撲上手でも、さすがに江戸の大関には敵わない。
ほとんど大人と子供のぶつかり稽古状態で、雷電は、徹底的に谷風にしごかれたそうです。
相撲取りは、体が大きいですから、ビロウな話、大関の谷風クラスになると、自分の体の大きさで、大用をしたあと、自分でお尻を拭けません。
そのお尻のお味噌を拭きとるのは、付き人の仕事です。
親方は、これを雷電にやらせました。
その下積み生活の中で、雷電は相撲の腕をメキメキとあげました。
しまいには、谷風さえも、手こずるほどの実力を身に着けました。
もはや浦風親方の部屋では、雷電に敵う相手はいません。
同じ部屋の後輩の力士たちが、幕内に次々と入っていきます。
すると、明らかに実力が上であっても、下積みは下積みなのです。
雷電はその後輩の幕内力士の尻の始末をしなければなりません。
それでもなぜか、浦風親方は、雷電だけ場所に出しませんでした。
同門の他の力士たちは、明らかに雷電より腕が劣っているのに、次々と幕下デビューを飾り、出世していきました。
それでも親方は、雷電を場所に出しません。
もちろん雷電が「強い」ことは浦風親方には、ちゃんとわかっています。
親方だけではありません。
相撲界自体、狭い世界です。
浦風親方の部屋にいる雷電は、ものすごく強いやつだと、もう角界の誰もが知っている。
そこまでいっても、なお、浦風親方は、雷電の場所入りを認めませんでした。
そもそも浦風親方は、雷電の素質を見抜いたから、江戸に連れ帰っているのです。
そして、彼の稽古をずっと観てきています。
ですから誰より雷電の実力を知っています。
それでも親方は雷電を土俵に出さなかったのです。
なぜでしょうか。
このことは、古事記を学ぶとよくわかります。
ものごとは、裏と表が常に表裏一体です。
そして苦しみが大きいほど、人は手に入れたものを大切にするようになるのです。
簡単に要職を手に入れた者は、弱いものです。
ついつい天狗になります。
そして自滅します。
親方は雷電を、なにものにも動じない、本物の力士に育てたかったのです。
イチロー選手もプロ入り当時、比類ない実力を認められていながら、あえて二軍に落とされたりしています。
監督もコーチも、イチローの実力はわかっています。
知らずに二軍に落としているのではなく、知っているから二軍に落としているのです。
こうした姿を見ると最近のメディアなどは、実力があるのに二軍に落とすのは、
「監督には人を見抜く能力がない」
「不審だ、何かウラがあるのではないか」
「疑惑だ、嫉妬だ、おかしい、問題だ」
と騒ぎ立てます。
無責任は素人考えで、勝手な批判をし、誹謗し、中傷する。
まるでそれは、現代日本の流行病のようです。
そもそもメディアには、選手や力士を「育てる」という概念がありません。
ただ話題が欲しいだけです。
日常的に選手や力士などと接しているわけでもありません。
あくまでも外野の素人にすぎません。
それに、彼らは、力士や選手に対して、なんの責任も負っていません。
すこし前に流行った映画で「のだめカンタービレ・最終章」という映画がありました。
愛する人に憧れて、ピアノの勉強にフランスに留学した「のだめ」の天才的な才能を、音楽学校の教授は見抜きます。
教授は、彼女の才能を大事に大事に育てようとし、彼女をなかなかピアノの発表会に出しません。
周囲はみんな華麗なデビューを飾っています。
そんなわけで落ち込んでいる「のだめ」に、別な天才指揮者が声をかけ、いきなりコンサート・デビューさせます。
世界は、彼女の才能に舌を巻きます。
世界中に大センセーショナルが起こります。
ところがそのために、彼女は逆に潰れてしまうのです。
もう二度と、あんなすごいピアノは弾けないと、ピアノを弾くのが怖くなってしまうのです。
教授は、彼女を何があっても負けない強い心を持ったピアニストに育てようとして、敢えて彼女をコンサートに出さなかったのです。
それを無責任な商業資本が、彼女を担ぎあげ、潰してしまった。
これはドラマの話ですが、実例もあります。
マイク・タイソンです。
タイソンといえば、猛烈なハードパンチャーとして有名です。
彼はカス・ダマトによってその才能を開花され、ボクシング・ヘビー級の王者になります。
最盛期のタイソンの試合を見ると、まるでブルドーザーです。
まるで人間業に見えない。
ところがダマトの死後、タイソンの才能にドン・キングが目をつけました。
ドン・キングは、ボクサーは、ただのドル紙幣にしか見ない男です。
死んだダマトは、生前、ドン・キングだけとは、絶対に組んではいけないと言っていました。
けれど「俺は強い」と天狗になっていたタイソンは、ドン・キングのもとに走ってしまうのです。
結果が、どうなったかというと、タイソンは、まるで試合に勝てなくなってしまうのです。
あの鮮烈な試合を見せたマイク・タイソンが、まるで試合の精彩を欠いてしまう。
勝てないタイソンは、そのストレスから、犯罪者に成り下がってしまっています。
たいへんな才能をもった者であればあるほど、ホンモノに育てるというのは、とてもたいへんなことです。
雷電を育てた浦風親方は、雷電の素養をはじめから見抜きました。
だからこそ、彼をして本物の力士に育てるため、いつ幕内に出しても全勝間違いなしとわかっていながら、6年間も見習い力士のまま、彼を据え置いたのです。
そしてただ相撲が強いだけでなく、書も達者で、人格も見事な、やさしさのある本物の力士を造り上げたのです。
素晴らしい親方です。
浦風親方は、本当に立派な親方であったと思います。
なぜなら、浦風親方は、ただ試合に勝つ力士を育てたのではなく、どこまでも「人を育てた親方」であるからです。
雷電も、親方の配慮によく耐え、我慢し、人一倍練習に励みました。
そんな雷電に、ようやく初土俵の話が持ち込まれたのが、寛政2(1790)年11月のことです。
寛政2年といえば、松平定信が寛政の改革を打ち出していた時代にあたります。
雷電は、江戸の興行で、いきなり西方の関脇付け出しで初土俵を踏みました。
番付は、実力者で小結だった柏戸勘太夫よりも上におかれたスタートです。
これは、普通ではありえないスタートです。
雷電の初土俵の取り組み相手は、大柄な八角という名の猛者でした。
立合いざま雷電は、右手一発の張り手を繰り出しました。
この一発で、大男の八角は、土俵の外まで吹っ飛ばされ、その夜、へどを吐いて絶命してしまいました。
さらに雷電は、この場所で横綱免許の小野川喜三郎とさえ預かり相撲(引き分け)としてしまいました。
初場所でいきなり8勝2預りです(当時の場所は10日間)。負けなしです。
江戸相撲の一行が、小田原で巡業したときのことです。
小田原に大岩というならず者がいました。
この大岩が、地元で大関を張っていて、これがメチャクチャ強くて、江戸力士が挑んでもまるで歯がたちません。
ですから大岩は、江戸力士を頭から小馬鹿にしていました。
そんな大岩に、かつて投げ殺された力士の遺族から、雷電は、
「なんとしても仇討ちを」
と頼まれました。
雷電は、大群衆の見守る中で、大岩と土俵で対決することになりました。
「時間です。待ったなし。
はっけよーい、のこった!」
と行司の采配を受けた両者は、互いに土俵の上で激突しました。
このとき雷電は、大岩にもっとも都合のよい組み手を意図して取らせました。
雷電不利!と見ている誰もが思いました。
そのとき、おもむろに大岩の腕の外側から自分の腕をまわした雷電は、そのまま大岩の両腕を絞め上げました。
相撲の荒業、閂(かんぬき)です。
そしてそのまま大岩の両腕の骨を砕くと、激痛におののく大岩を土俵の外に振り飛ばしました。
それは圧倒的な強さでした。
以後大岩は不具者となってしまっています。
あまりの雷電の強さに、相撲界では、雷電だけ、顔への張り手、突っ張り、閂(かんぬき)の3つを禁じ手としました。
それでも雷電は勝ち続けました。
だから「三手封印されてなお負けぬ雷電」などとも呼ばれました。
寛政3(1791)年、雷電は、第十一代将軍徳川家斉から、「天下無双」の称号を授けられました。
そして引退までに通算28回の優勝という前人未踏の大偉業を成し遂げました。
彼の生涯の勝ち数の254勝も、当時の相撲興行は、年2回だけ、しかも一場所が10日制です。
いまのような15日制ではないのです。
そう考えますと、雷電こそ、現代に至るまでの、最多勝ち星の保有者といると思います。
雷電は、身長197cm、体重169kgです。
身長体重からすると、ちょうどボブ・サップと同じくらいです。
しかも、色白でなかなかの美男子だったそうです。
雷電が現役で、勝ち続けていた頃のことです。
雷電は、巡業の途中、千葉県の佐倉で、甘酒屋ののれんをくぐりました。
雷電は大酒飲みだったと伝えられますが、それと同じくらい甘党でした。
饅頭や甘酒が大好物だったのです。
その甘酒屋で、お店に出てきたのが、「おはん」という看板娘でした。
お店の娘さんです。
雷電はおはんにひと目惚れしました。
それから毎日、お店に通い詰めたそうです。
ところが、いまの時代と違います。
なかなか「好きだ」とか「惚れた」だのと言いだせない。
ただ、毎日来ては、おはんさんと目が合うと、大男の雷電が、顔を真っ赤にしてうつむいていました。
はじめは、大柄な雷電に、恐怖を感じていたおはんさんも、次第に雷電の好意を感じるようになりました。
「どうやら二人ともまんざらではないらしい」
と、こうなると周りがほっとかなくて、ワシが仲人を勤めるだの、いやいやそれは親方であるワシの仕事だ、だの、もうてんやわんやの騒ぎになって、ついに、甘酒屋のご主人に、嫁さんにもらいうけたいと正式にご挨拶に伺うことになりました。
こうして二人はめでたく結婚しましました。
その後、雷電為右衛門は、現役力士のまま、出雲国松江藩の松平家のお抱え力士になりました。
こうなると、おはんも、武家の妻です。
そこで名前も「八重」と改めました。
雷電は、角界引退後も藩の相撲頭取に任ぜられました。
けれど、松江藩の財政の悪化から改易となり、以降は妻の実家の佐倉市臼井台で暮らしました。
文政8(1825)年、雷電は、59歳で短い命を終えました。
同じ年だった八重も、雷電の後を追うかのように、2年後に亡くなりました。
歳をとっても二人は、傍で見ていて恥ずかしくなるほどの仲良し夫婦だったそうです。
雷電は、ただ強いだけの相撲取りではなく、諸国を巡業するたび、その土地の詳細は風俗を「諸国相撲控帳」に書き遺しました。
楷書で丁寧に書かれたこの「控帳」は、いまでも当時の各地の状況を知る第一級の史料となっています。
たとえば、秋田の巡業で大地震に遭遇したときは、町の復興に怪力を活かして手を貸す傍ら、当時の状況を次のように記しています。
***
出羽鶴ヶ岡へ向かおうと、六合から本庄塩越へ向かって歩きました。
六合のあたりから壁が壊れ、家はつぶれて、石の地蔵も壊れ、石塔も倒れています。
塩越では、家々が皆ひしゃげていて、大きな杉の木が地下へもぐっています。
喜サ形(象潟)というところでは、引き潮の時でも、ひざのあたりまで水がありました。
***
情景が目に浮かぶようです。
日本武道の精神は「心・技・体」です。
なにものにも負けない強い心を鍛え、そのために技を磨き、結果として体力が身につくとされます。
西洋の格闘技は、「力と技」です。
筋力があり、技がきれて、試合に勝てればそれで良い。
人柄は問題になりません。
だから試合に勝つと、リングのコーナーロープに登って、ガッツポーズをして猛獣のように吼えます。
それはそれで興行としてはおもしろいのかもしれません。
しかし、どんなに試合に勝ったとしても、心が貧しくて人格が歪んでいたら、それでは人間として失格です。
日本武道では、試合に勝つことよりも、己に厳しい心を涵養することが奨励されました。
だから最強の力士は、最高の人格者であることも求められました。
雷電の勝ち手は常に壮絶なものだったけれど、彼は勝って奢らず、敗者にも実に謙虚にやさしく接しました。
試合は、いつだって勝ち負けがあるものです。
雷電だって、生涯勝ち続けたわけではなくて、すくなくとも10番は負け勝負があります。
勝つことは、もちろん大事なことです。
しかし「勝つ」というのは、何も試合に勝つことだけを意味するのではありません。
それ以上に、人としての強さ、優しさがあって、相手を調伏できる「心」こそ、武道において最も強く求められるものとされてきたのが日本です。
最近では、相撲も興行をおもしろくするために、勝った力士がプロレスみたいにガッツポーズをとったほうがいい、などという評論家もいるようです。
それは間違っています。
勝ってなお、三度を切って奢らない。
自分で誇らなくたって、ちゃんとお客さんは見ててくれているのです。
それが日本の武人です。
日本という国は、ChinaやKoreaからみると「わけのわからない国」なのだそうです。
彼らが喉から手が出るほど欲しいもの、歴史、伝統、教養あふれる国民、おかみを信頼する従順な国民、安心して生活できる清潔な町、豊かで安心して食べられる食品、便利な暮らし、高い経済力等々、それらすべてを日本は持っています。
ところが日本人は、ちょっと特亜人が脅かせばすぐにヘコヘコするほどおとなしくて弱腰です。
自分たちはこんなにスゴイと常に言い張っているのに、世界中から高く評価されているのは、いつも日本人です。
だから勝手な妄想をして日本に対抗心を抱き、これでもかというほど日本を貶め、自分たちのすごさを誇ろうとします。
これは、現役のプロレスラーが、体を鍛え、試合に勝って、俺はこんなに強いんだと内外にアピールしているのに、世間はいっけんひ弱な日本に軍配をあげているようなものです。
だから彼らは、余計に意固地になって俺は強いんだ、俺はすごいんだ、とします。
でも勝てない。
そういう彼らの臭みそのものが、人々の心を離れさせているのに、それにさえ気付かない。
日本人から見ると、これは幼稚に見えます。
鍛え方が足らないのです。
雷電が6年間も親方から幕内出場をゆるされなかったこと。
そうすることで、雷電は人として成長し、誰にも負けない実績を遺し、逝去してすでに200年も経っているのに、雷電を凌ぐ力士が現れないほどの大物になりました。
それは雷電の試合での強さばかりではない。
雷電の、浦風親方に鍛えられた心の成果です。
※この記事は2010/11のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
takechiyo1949
「雷電為右エ門」という相撲取りがいた。
歴代最強の大関だった。
先代には「雷電為五郎」という力士もいた。
雷電為右エ門の生き様。
ねずブロの通り感動的です。
しかし、ブログを読む度に引っ掛かっていることがあります。
まだ「電気」という言葉も無かった時代に「雷」や「電」の漢字があった!
出雲藩お抱え力士は代々「雷電」の四股名が慣例?
出雲藩は、どうして「雷電」という四股名に至ったのか?
OFF日の暇潰しですが、自分なりに調べたりしています。
最古の古典のひとつ『詩経』小雅・十月之交(紀元前11世紀頃)に漢字の用例がある。
恩師から教えて頂きました。
原=爗爗震電
訓=爗爗ヨウヨウとして電震ふ
訳=稲妻がピカッと光り震える
なるほど。
年表も眺めてみました。
1752年(宝暦2年)
フランクリンの雷実験
1755年(宝暦5年)
四股名「雷電民之助」
後の「雷電爲五郎」
1776年(安永5年)
平賀源内のエレキテル実験
1788年(天明8年)
四股名「雷電為右エ門」
フランクリンより先に「雷」は「電気」だと知っていたのか?
雷電の四股名
フランクリン
どういう関係なの?
私の疑問は未だに解けません。
実に不思議な話です。
世間で大きな話題になった記憶もありません。
幕末の学識者の取り組み。
外国語漢字翻訳の仕事を振り返る必要もあるね。
更に指摘されました。
物の本も読んでみましたが、気が遠くなる世界です。
簡単に「雷」と「電」の意味に限って調べてみました。
「雷」は「イカヅチ」で、カミナリの「音」のこと。
「電」は「イナヅマ」で、カミナリの「光」のこと。
だから「雷電」はカミナリの音と光のこと。
ここまでは分かりました。
結論は?
為右エ門は「雷」と「電」は「電気」だとは知らなかった。
ではなぜ?
フランクリンの「エレクトリシティ」を「イナヅマの気=電気」と我国では言うのか?
「電気」という漢字。
英語「エレキ」の中国「漢語訳」が我国に輸入され定着?
知りませんでした。
先人の言語作りは文化事業。
外国語を自国の文字に翻訳する作業は容易ではありません。
雷電為右エ門…読みながら物思いに耽っています。
2019/12/15 URL 編集
Arimatch
雷電って、同じ名前の局地戦闘機がありましたし、米軍にもP47サンダーボルトっていうゴツい戦闘機があったのですが、この時代に、雷はわかるのですが、電…電気が存在していたのか?とふと思い、コメントさせていただきました。
私の不勉強のゆえのこのコメントなら、すみません。
2016/12/06 URL 編集
one
当時は、お話に出てくる谷風に限らず、際どい勝負は、お抱えの雄藩がメンツにかけて、預りというのがそれでしょうか、物言いをつけたみたいです。この夏、深川江戸資料館でたまたま相撲関係者とばったり出会った時、そんな話を聞きました。ので、星勘定は鵜呑みにできないと、私、初めて知った次第です。
昨日、Jリーグの王者決定戦がありましたが、優勝セレモニーが頗るいけないと思いました。監督・選手のインタビューも淡々としたものでしたが、それ以上に太極旗をかぶってテレビに映っている選手。あれが最も感じ悪かった。日本の選手が逆のことやったら、自国民がどういう風に思うか。クラブの教育とファンへの思いの表し方に、甚だ疑問を感じた次第です。
同じプロでも、明日契約更改を控える、今年野球で最も注目を集めた某選手は、自分の年棒に興味なしと言っております。この選手のチームには、人材育成とファンへの思いという点で、近年とても好感を覚えます。
2016/12/04 URL 編集
zipangu
2016/12/04 URL 編集
-
雷電関の事を初めて知りました。
凄い力士ですね。六年間も下積みを
耐えた雷電関も立派ですが、才能がある為、天狗になり潰れないようみっちり下積みを命じた親方も素晴らしいです。 江戸時代の大相撲って結構力士が死んでいるんですね。地方の巡行も
荒武者と取り組まなくてはならないので、命がけだったのが分かりました。
今の大相撲で心技体と精進怠りなく努めている力士はと聞かれたら横綱鶴竜と私は答えます。勝っても笑顔をあまり見せないのは何故ですかと記者に
聞かれて、負けた力士に失礼だからですとさらっと答えていました。
教授の両親に育てられた影響で、英語も堪能との事です。白鵬や日馬富士に
比べたら大人しい感じの鶴竜ですが、
雷電関の心に一番近い力士だと私は想います。末永く頑張って欲しいです。
2016/12/04 URL 編集