ところが、この歌の解釈となると、いま販売されている多くの本は、
「わずかな逢瀬も許されない恋への絶望感を読んだ歌」だというのです。
伊勢が「逢えない恋に絶望している」というわけです。
そしてさらに、このように解釈を述べておきながら、この歌は、
「『ほんのわずかな間も逢えないと言うの?』と
上目遣いに媚びて潤んだ瞳を男に向けた女性の姿を詠んだ歌」
「平安時代の貴族の女性の色気の歌です」
などと、なんだか矛盾したような解釈を述べていたりします。
しかし伊勢は、国司の娘であり、中宮に仕えた立派で優秀な女性です。
もちろん相当な美人で才媛であったことは疑いのない事実ですが、この歌が詠まれるまでの経緯をちゃんと学ばせていただいたら、全然違うストーリーしか浮かばないし、歌はもっとはるかに内容が深いし、藤原定家がこの19番に伊勢の歌を入れたことも何故かという理由が、実にくっきり鮮やかに見えてくるのです。
では、伊勢とは、どのような女性なのでしょうか。
伊勢の生まれは西暦870年代と言われています。
没年は938年(66歳)以降というところまではわかっているのですが、それ以上のことはわかりません。
もともと従五位上・藤原継蔭(つぐかげ)の娘で、父が伊勢守であったことから、「伊勢」と呼ばれるようになりました。
伊勢はとても優秀な女性で、10代で宇多天皇の中宮・藤原温子のもとに出仕するようになります。
ちなみにこの藤原温子、中世の女性の名前は、漢字をなんと読んだらよいのかわからないからと、温子を「おんし」と音読みすることとされているのですが、温子なら、どうみても「あつこ」であろうと思います。
その中宮・藤原温子は、藤原基経(ふじわらのもとつね)の長女です。
この藤原基経というのは、藤原の一族の中でも、もともとそれほど高い身分ではなかった人だったのですけれど、努力と根性で這い上がり、ついには清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたって、朝廷の最高の実権を握った、平安時代前期の超大物政治家です。
有名なのは阿衡事件(あこうじけん)で、宇多天皇が即位されたとき、朝廷の要職をとお誘いを受けたのですが、基経がこれを断り、宇多天皇が困ったという事件です。
この事件後に、宇多天皇が基経のために特別に用意したポストが「関白(かんぱく)」で、そういうわけで藤原基経は、我が国最初の「関白」となった人物です。
要するに藤原基経は、超大物のNo.1の政治権力者であるわけで、その娘が藤原温子で、その娘が宇多天皇の中宮となっていたわけです。
伊勢は、その温子のもとに出仕するようになりました。
ちなみに、温子の兄が藤原時平(ふじわらのときひら)で、この兄は、宮中で遣唐使を廃止した菅原道真と激しく対立し、道真を宮中から太宰府に追い払った人物です。
ところが道真の没後、その怨霊に祟られて、39歳という若さで没してしまう。
このことが原因で、菅原道真は天満様として祀られるようになりましたし、時平の子が敦忠(あつただ)で、敦忠は右近との恋の物語に登場する貴公子です。
また、温子の弟には、藤原仲平(ふじわらのなかひら)がいます。
姉弟の関係ですから、仲平は、よく温子のもとに出入りしていたのでしょう。
そこで姉の温子のもとで働いている自分とほぼ同じ年頃の美しい女官である伊勢に、恋をしてしまうのです。
宮中一の美人と、時の最高権力者の次男坊の貴公子です。
しかも十代の恋です。おそらく二人は熱愛であったのであろうと想像できます。
さて、熱く燃え上がった仲平と伊勢ですが、繰り返しになりますけれど、仲平の父は、宮中の最高権力者の基経です。
父の基経にしれみれば、息子の結婚は、下級の女官などではなく、やはりそれなりの家柄の娘でなければならない。
仲平は、父の薦めに従って、伊勢ではなく、別な女性と結婚してしまいます。
伊勢は、心から仲平を愛していたし、その愛に一寸の疑いも持っていなかったのであろうと思います。
ところが、仲平は、自分を捨てて別な女性と結婚してしまったのです。
ショックだったと思います。
仲平は、やむを得ない事情があることなどを、きっと伊勢に告げたことでしょう。
そのときに、伊勢が詠んだ歌が、冒頭の歌です。
そしてこの冒頭の歌には、伊勢集に、詞書が付されています。
そこにはこう書かれています。
「秋の頃うたて人の物言ひけるに」
「うたて」というのは、嫌な奴とか、大嫌いな奴、気味の悪い奴、不愉快な奴といった意味の言葉です。
伊勢は、仲平のことを、嫌な奴だと言っているのです。
ところがその詞書に続く歌は、
難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
(あなたは私に、ほんの一瞬たりとも逢わずに
この世を過ごせとおっしゃるのですか?)
なのです。
嫌な奴だと言いながら、でも逢いたい。
否定しながら、それでも気がつけば、あの人のことを思っている。
伊勢の心の葛藤が目に浮かぶようです。
ひとつ注意が必要です。
この時代は通い婚社会であるし、一夫多妻が認められていた時代です。
しかも仲平は、基経という絶大な権力者の次男坊ですから、複数の女性を養うだけの財力もあります。
つまりたとえ仲平が別な女性と結婚したとしても、伊勢は別段、仲平と別れる必要などないし、そのまま側室に収まるということもできたのです。
そして見事、仲平の子を懐妊したということにでもなれば、仲平の実の姉は天皇の奥様なのですから、その子は天皇の縁続きということになりますし、なにせ時の最高権力者である基経の孫にもなるのです。
要するに政治的に考えれば、一地方長官の娘が、側室としてとんでもない出世コースに乗ることにもなる可能性があるのです。
けれど伊勢は、そんな政治的なことでははく、彼が自分ではなく別な女性と結婚したことが悲しかったし、だからこそ、仲平に逢いたいと思いながらも、仲平を「嫌な奴(うたて人)」と言っているのです。
傷心の伊勢は、その頃父が大和に国司として赴任していたので、都を捨てて、その父のもとへと去ります。
その大和で伊勢が詠んだ歌があります。
忘れなむ世にもこしぢの帰山
いつはた人に逢はむとすらむ
(もう忘れてしまおう。この世の峠の帰山を越えたのだから。
あの人は、いつまた私に逢ってくれるというの。)
出世なんかいらない。
政治なんかどうだっていい。
ただ、愛を信じていたかった。
でも、もう忘れてしまおう。
あの人とのことは、もう峠を越えたのだから。
そんな伊勢の悲しい気持ちが伝わってくる歌です。

そんな伊勢のもとに、1年ほど経ったある日、中宮温子から、「再び都に戻って出仕するように」とお声がかかります。
温子は、ほんとうにやさしい、思いやりのある女性だったのだろうと思います。
弟と伊勢のことをちゃんと知っていて、それでも
「あんたは、大和でくすぶっていちゃいけないわ。
もう一度私のところに出仕しなさいな。
あんたはもっとずっと活躍できる女性なのだから」
と宮中に呼んでくださったのです。
中宮様からの直接のお声掛かりともなれば、伊勢に断ることはできません。
伊勢は、再び、都に帰って温子のもとに出仕して働きはじめます。
もともと頭もいいし、美人だし、気立てもよいし、なにより才能豊かな女性です。
都にあって伊勢は、各種の歌会でもひっぱりだこになり、屏風歌を頼まれて書いたりもします。
要するに、宮中にあっても、伊勢は目立つ存在となっていくわけです。
その宮中には、元カレの仲平がいます。
その仲平がある日、伊勢に歌を贈りました。
「もう一度、逢わないか」というものです。
すこし背景があります。
ある日のこと宇多天皇が伊勢に、伊勢の家で見事に咲いていると評判の女郎花(をみなえし)の献上を命じたのです。
それを知った仲平が、伊勢に歌を贈りました。
このときの仲平は朝廷の中枢にいる権力者です。
その権力者に、伊勢は歌を返しました。
をみなへし折りも折らずもいにしへを
さらにかくべきものならなくに
(女郎花は折っても折らなくても、
昔のことを思い出させる花ではありません。
私は今更あなたのことを心にかけてなどいないし、
これを機会に昔を懐かしむこともありません。)

伊勢は、きっぱりと、もう会わないと左大臣仲平に伝えています。
もう逢わないって決めたのです。
二人は、別々の人生を歩くことにしたのです。
たとえ、あなたがどんなに出世したのだとしても、私はあなたとはもう逢わない。
懐かしむこともない。
歌は、そのように詠まれています。
もちろん、それは伊勢の本心だったと思います。
けれど、同時に、その心の奥底では、もしかするといまでも仲平を愛し続けていたのかもしれない。
そのときの伊勢の気持ちはいかばかりであったことか。
男性の私には、仲平の気持ちはわかる気がするのです。
男は、想いを引きずるものです。
仲平は、きっといまでも伊勢のことが好きで好きでたまらない気持ちを持っていたのだと思います。
そして愛した伊勢を自分が幸せにしてあげることができなかったふがいなさを悲しく思っています。
だから、変な欲望などではなく、ただ会って、一緒に食事でもして、昔の笑顔を見せてもらえたら、それだけで、仲平は、安心できるし、癒されるし、それだけでなく、伊勢の幸せのために、自分に、何でもいい。何かできることがあったら、何かひとつでもいいからしてあげたいと思っていたのだと思います。
男の愛は責任でもあるのです。
伊勢を愛したひとりの男として、伊勢への責任をまっとうしたい。
それは独りの女性を心から愛した「男の考え方」です。
一方、伊勢の気持ちは、私は女性ではないので、女心がよくわかりません。
一般的によく言われることは、「女性の愛は上書き」という言葉です。
女性は、新しい恋が芽生えると、女性の心の日記帳には、新しい恋が上書きされ、昔の恋はきれいさっぱり忘れてしまう。
新しい彼ができたら、元カレなんて眼中にない。
赤の他人。
別な人。
異なる人生。
関係ない他人となる、とも言われます。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
私には、この「をみなへし」と詠んだときの伊勢の気持ちの中に、仲平への愛はあったのではないかと思えるのです。
というわけで、百人一首塾では、ご参加の女性陣に伊勢の思いを聞いてみました。
様々な意見が飛び出しました。
「男だけじゃない。女だって引きずるわ」
「女としてというより、人としてのプライドの問題じゃないかしら」
「もしかすると伊勢は、仲平の気持ちを試したかったのかも」
「でも、別れたのにまた言いよってくる男って軽薄じゃなくて?」
「伊勢は人として成長したのだと思う。
別れはつらいけれど、伊勢は心に区切りをつけたんじゃないかしら」
「それって、あんときの私じゃないわよ、ってこと?」
「そうそう(笑)」
「でもさあ、そこまで人を好きになれるって、うらやましいわね」
・・・すごい盛り上がりとなりました。
さて、その後の伊勢の人生です。
やがて伊勢は宇多天皇の寵を得ることとなり、皇子の行明親王を産み、伊勢の御息所と呼ばれるようになります。
ところが皇子は五歳(八歳とする説あり)で夭折してしまう。
そして宇多天皇は譲位され、落飾して出家され、お世話になった中宮温子も薨去してしまいます。
憂いに沈む伊勢は、この頃30歳を過ぎていたけれど、宇多院(もとの宇多天皇)の第四皇子である敦慶親王(25歳)から求婚され、結ばれて女児・中務(なかつかさ)を生んでいます。
そして中務は、立派な女流歌人として、生涯をまっとうしました。
その伊勢の歌は、古今集に23首、後撰集に72首、拾遺集に25首が入集し、勅撰入集歌は合計185首に及びます。これは歴代女流歌人中、最多です。
そして伊勢の家集の『伊勢集』にある物語風の自伝は、後の『和泉式部日記』などに強い影響を与え、また伊勢の活躍とその歌は、後年の中世女流歌人たちに、ものすごく大きな影響を与えています。
百人一首で、伊勢の歌の前後を見ますと、
17番 在原業平(輝かしい王朝文化)ちはやぶる神代も聞かず竜田川
18番 藤原敏行(身分差と恋の葛藤)住の江の岸に寄る波よるさへや
19番
伊勢 (権力から祈りのへ)難波潟短き蘆のふしの間も
20番 元良親王(心と権力の葛藤) わびぬれば今はたおなじ難波なる
21番 素性法師(兵士に捧げる祈り)今来むといひしばかりに長月の
という流れの中に、伊勢の歌が配置されています。
天智天皇、持統天皇が目指した国内の統一と、そのためのシラス(知らす、Shirasu)統治、その統治が完成していく過程における人々の葛藤と魂の成長が描かれる歌の中に、伊勢の歌が配置されています。
伊勢は、関白藤原基経、左大臣仲平らといった政治権力の世界から、仲平との別れを経て、祈りの世界の住人である宇多天皇やその子の敦慶親王と結ばれて子をなしています。
このことは、伊勢が「権力の世界」から「祈りの世界」へと、生きる世界を成長させて変化させたことを意味します。
そして国家統治が、最高権力ではなく、神々との接点である天皇を頂点とするシラス(知らす、Shirasu)統治を目指し、それが完成していく過程を、藤原定家は伊勢の心の成長に重ねたのかもしれません。
伊勢は、権力者とは結ばれず、祈りの世界の住人との間に子をなしているからです。
伊勢の歌は、どの歌もやさしい言葉で詠まれていて、いっけん単純そうでいながら、ものすごく複雑な世界をほんの31文字の中に凝縮させています。
そして、そのひとつひとつの歌が、読む側の人に、様々な思いを感じさせてくれます。
元カレからのお誘いに、「大嫌いな人からのお誘いに」とタイトルを付けながら、
「ほんのわずかな時間も、あなたと逢わないでこの世を過ごしなさいとおっしゃるのですか?」と問いかけた伊勢。
その伊勢の歌のもつ凄みは、ついに権力と祈りの世界までをも描き出しています。
いやあ伊勢って、ほんとうにすごいです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
通りすがり
確かに「白」には「言う」「申す」という意味がありますが、一方で、中華文化圏では忌み嫌われる色で、最下層の意味でもあります。
位の高い人にあえて「白」を使ったのは、冠位12階以来、中華文化とは異なる考えがあったのでしょう。
だとしても、紫が一番上のはずです。
ということは、紫ではなくあえて「白」を使った意味合いがあるのではないでしょうか。
もし「白」に「シラス」という意味を含めたネーミングなのであれば、「あずかり統治(しら)す」という意味で、腑に落ちる気がするなぁとハッと思った今日この頃です。
2016/12/12 URL 編集