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【紅扇に乗せた梅の花】『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第二巻p.124より
矢頭右衛門七の恋(やとうえもしちのこい)
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十二月十四日といえば、赤穂浪士討ち入りの日です。
赤穂浪士の物語というのは、本編(浅野内匠頭と吉良上野介の確執、切腹から討ち入りまで)のお話だけではなくて、四十七士その他の登場人物のひとりひとりに、それぞれの細かなエピソードがたくさん残されています。
ここまでくると、もうどれが実話で、どれが脚色なのか、さっぱり分かりません。
それらのエピソードの中でも、私が特に好きなのが、「矢頭右衛門七(やとうえもしち)」のお話です。
矢頭右衛門七は、討ち入りのときわずか十七歳でした。大石主税(内蔵助の息子)につぐ若さです。
当時は「数え年」ですから、いまでいったら十六歳。
それも栄養事情がいまよりはるかに悪かった時代ですから、見た目はいまの十三、四歳くらいだったかもしれません。
それでもやはり武士は武士です。
はじめ大石内蔵助は、右衛門七(えもしち)を同志に加えることを、あまりに若いからと許さなかったそうです。
しかし同志に加えなければ切腹もしかねないという右衛門七の真剣な姿に、内蔵助もついに折れ、父、矢頭長助の代わりとして同志に加えています。
この右衛門七ですが、討ち入り後に「赤穂浪士には女が交じっている」と噂されたほどの美男子であったといわれています。
さて、時は元禄十五(一七〇二)年の秋のことです。上京した右衛門七は、大石瀬左衛門とともに浅草の花川戸の裏店に住んでいました。
近くには浅草山の聖天宮があります。
ここは紅葉の名所です。
まだまだ隅田川の水も、透明できれいだった頃のことです。
透き通った青空に、ぽっかり浮かんだ白雲のもと、隅田の川面に浅草山の真っ赤に燃えた紅葉が、見事に映えていました。
そんなある日のこと。
右衛門七が、ひとり紅葉見物に歩いていると、浅草山の崖の上から、紅色の扇子が落ちてきました。
「はて?紅葉のように美しい扇子だが、誰が落としたものか・・・」
右衛門七は落ちてきた扇子を拾い、持ち主に届けようと坂道を登りました。
すると、そこに同じくらいの年頃の、美しい少女がいました。時は元禄の世、まさに日本中が好景気にわいた頃です。その少女は実に美しい着物を着ていました。
右衛門七が、「もしやこの扇子は、あなたのものでは?」と声をかけると、その少女は顔を真っ赤にして、
「よけいなことをしないで!」と、走り去ってしまいます。
近くにいた町方のおじさんが、右衛門七に声をかけます。
「そこなお武家さん、野暮なことをしちゃぁ、いけませんよ。これは紅葉供養っていってね、年頃の娘さんが、良い人(夫)が見つかりますようにって、願いをこめて、ここから下の紅葉の中に紅扇を捨てるんでさあ。それを拾うってなぁ、雰囲気ぶちこわし、ってことですよ」
知らなかったとはいえ、ささやかな乙女の願いを邪魔してしまったことを深く恥じた右衛門七は、こんど少女を見かけたら、ひとこと謝ろうと、何日か浅草山に出向きました。
二、三日たったある日、右衛門七は、ようやく少女を見つけました。
少女は、紅葉の枝を取ろうと、背伸びをして手を伸ばしていました。
「おどきなさい。私がとってあげよう」
抜く手も見せぬ早業で剣を抜き、一瞬で枝を切り落として剣をパチリと鞘におさめた右衛門七に、少女は目をまるくして言いました。
「まぁ、なんということをっ!私は願い事を書いた短冊を、枝に結び付けようとしていたのです!それを切り落とすなんて!」
田舎から出てきたばかりの武骨者の右衛門七には、花のお江戸の若い女性の習慣など、知るすべもありません。親切にと思ったことが、またまた裏目に出てしまいました。
よかれと思って女性にしたことが、ひんしゅくをかい、「デリカシーがない」と叱られてしまう。
こういうの、なんだかすごくよく分かる気がします。
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捨てた命と恋心─────────
それから何日かたったある日、右衛門七が川べりを歩いていると、そこにたたずんでいる少女がいました。
あの少女です。
見ると川面には、なにやら荷物のようなものがプカリプカリと浮いています。
『こんどは間違っちゃイケナイ』と思った右衛門七。行動を起こす前に、ちょっと慎重になって、先に声をかけました。
「何を流しておいでなのですか?これも何かの風習でしょうか?」
すると少女は、
「ちがうのよ。大事なお届けもののお荷物を川に落としてしまったの。お願い、拾って!」
「ええっ!」
びっくりした右衛門七は、おもわず初冬の隅田川に飛び込んでしまったそうです。
荷物は無事に拾い上げたけれど、全身、水浸し。
「さ、寒い!」
こうなったら、もはや走るしか体を温める方法はないとばかり、右衛門七は近くにあったゴザで身を覆うと、後ろで何か叫んでいる少女を差し置いて、いちもくさんに家に向かって駆けだしました。
この少女は、浅草駒形の茶問屋、喜千屋嘉兵衛の娘で、お千という名でした。
茶問屋さんというのは、江戸時代、どこも大店(大金持ち)です。
いくら若い男女のこととはいえ、娘がお武家さまを、冬の川に飛び込ませたとあっては一大事です。
親御さんは、とにかくお礼をしなくてはと、家にあった反物を使って、お千にお侍さんの着物を縫わせました。
何日もかけて、ようやく右衛門七の住まいを見つけた家の者は、右衛門七をお千の家に招待しました。
そしてお千が縫った着物を右衛門七に渡そうとしたのです。
けれど右衛門七は、
「そのようなお気づかいは、ご無用に」と、受け取りません。
「せっかく心をこめて縫ったのに、受け取らないなんて!」
お千は泣いて、奥に引っ込んでしまいます。
そこに、ばあやが出てきます。聞けばお千は不治の病で、もういくばくの命もないそうです。
そしてお千の家の茶問屋では、宇治茶を「吉良家」にしばしば届けているといいます。
「これは!」
吉良家の動静を知るうえで、重要な手掛かりになるかもしれません。
右衛門七は、お千の縫った着物を受け取り、またの来訪を約束しました。
若い二人です。
美しい大店の娘と、女と見まごうほどの色男の右衛門七です。
二人には恋心が芽生えます。
しかし右衛門七は、討ち入りしたら死ぬ身です。
「いくらお千さんのことが好きでも、私は彼女を幸せにすることはできない。そうと分かっていながら、お千さんの家が吉良家に出入りしていると知って、私はお千さんに近づいている。お千さんを利用しようとしている。こんなことをしていいのだろうか......」
しかし、お千の命は、聞けばあと半年という。
「お千さんも私も、長くはない命。せめてその短い間だけでも......」
「いや、しかし......」
右衛門七の心は、千々に乱れます。
「それでも、会いたい。無性に......」
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無言の再会と永遠の別れ─────────
十二月十四日、朝からしんしんと雪が降る日、屋敷にいた右衛門七のもとに、お千がやって来きました。ひどい高熱でした。お千は右衛門七に告げます。
「今夜、吉良家で茶会が開かれます。吉良様もご在宅です」
右衛門七は高熱に冒されているお千を、籠屋を呼んで家に帰すと、すぐさま討ち入りの仲間に、「今夜」と報告をしました。
もともと体の弱かったお千は、雪の中を無理をして走ったことがたたって、床に伏せてしまいます。
そして、討ち入り。
翌朝、お千のばあやが血相を変えて、お千の部屋に飛び込んできます。
「今朝早くに、深川へお茶を届けに行くと、たいへんな騒ぎで、なんでも赤穂の浪士が吉良邸に討ち入ったとか!」そこへ引き揚げの赤穂の浪士がやって来たというのです。
「右衛門七さまも、いましたか?」
「いましたよ、いましたとも!」
ばあやを見つけた右衛門七は、隊列を抜け、ひとこと告げました。
「ばあや、昨夜はお千さんのもとにお見舞いに行けませんでした。お千さんに、すまぬと、お詫びしてください。すまぬとひとこと」
討ち入りのあと、赤穂の浪士たちは、細川、松平、毛利、水野の四家に、別々に預けられました。
矢頭右衛門七は、水野家にお預けです。
年が明け、梅の花が咲く季節となりました。ようやく床から起き上がれるようになったお千は、水野家を訪ねました。
けれど右衛門七は罪人ですから、面会謝絶です。
水野家では追い返そうとしたけれど、見ればお千は、病いで苦しそうな様子です。
たまたまその様子を目にした水野のお殿様は、お千に、
「梅が見たいのなら、小庭をまわって、見られたらよかろう」と話しました。
「えっ」
「ただし、けっしてお声をお出しなさるな。梅を見るだけじゃ」
(きっとそうだわ!右衛門七さまに会わせてくださるんだわ!)お千は、涙を流します。
一緒にいたばあやは、あの勝気だったお千が、こんなにもいじらしくと、これもまた涙を流します。
水野のお殿様は、その足で浪士たちがいる部屋に向かいました。
そして右衛門七を見つけて言います。
「矢頭殿、庭に梅が咲いております。庭へ下りてご覧になったら、いかがかと」
「はて?ここからでも、梅は見えますが......」
「そういわずと、さぁさぁ、庭にお出なされ。ただし、どんなに美しくても、決して声は出してはなりませぬぞ」
おかしなことを言う老人だと思いながらも、右衛門七は、水野の勧めにしたがって、庭に出ました。
すると、庭の境の垣根の向こうに、お千の姿が!
二人は互いの目と目を、じっと見つめ合いました。
しかし声を出すことは禁じられています。
(右衛門七さま、たったひとことでいい。いつわりの恋ではなかったと、お聞きしたかった)
(お千さん、あなたへの気持ちは真実だと、伝えたかった)
二人は声に出さずに目だけで、そう会話します。
右衛門七は、懐から紅扇を取り出しました。
そうです。それは最初に二人が出会ったときに、お千が投げたあの扇子です。
右衛門七は梅の小枝を一枝手折ると、その小枝を紅扇に乗せて庭の小川に流します。
扇子はゆっくりと、お千のもとへと流れつきます。
ひとことも語ることは許されませんでした。
けれど、何も語る必要はありませんでした。
二人の心と心が、百万の言葉を費やすより雄弁に、強く互いの心を知りあてていたのです。
そして紅扇に乗せた梅の花が、すべてを伝えてくれました。
間もなく右衛門七は水野の家人から、お千の死を知らされました。
「お千殿は、おそらく右衛門七殿の心を知りたくて、弱り切った体で無理をしてやって来られたのであろう」ということでした。
元禄十六(一七〇三)年二月四日、赤穂四十七士に、切腹のお沙汰が下りました。
水野邸においては、右衛門七が、先んじて短い命を絶ちました。
矢頭右衛門七切腹。介錯人杉源助。享年十八。
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物語から学ぶ日本人の美徳─────────
矢頭右衛門七というのは、母と三人の妹の世話で苦労したことでも有名です。
父は赤穂藩家臣の勘定方、矢頭長助。母は姫路松平家の家臣の娘です。
元禄十四(一七〇一)年三月の浅野内匠頭の殿中松の廊下での刃傷のあと、四月十九日には、早々と赤穂城が開城され、引き渡しになっていますが、このとき、大石内蔵助のもとで、藩の財務の残務処理を最後まで行ったのが、右衛門七の父の長助です。
心労がたたった長助は、その後寝たきりとなり、元禄十五年八月十五日に病死してしまいました。
右衛門七は義挙に加わるため、母の実家、松平家が転封されていた奥州白河藩に、母と妹たちを預けようとしました。
しかし旅慣れていないせいか静岡の新居関所で女手形がないため通ることができず、やむなく大阪へ引き返しています。
そして同年九月には、討ち入りのために上京し、翌元禄十六年に切腹しています。
母と妹三人は、浪士らの義挙の後、その苦労が世間の知るところとなり、奥州白河藩へ行くことを許されています。
そして妹三人は、それぞれ松平家の家臣の家に嫁ぎ、母もその地で暮らしました。
お千という女性は創作で、水野家にやって来て対面したのは右衛門七の妹であり、母の縫った襦袢を持ってきたときのエピソードだという話もあります。
どれが本当の話かは分かりません。
けれど、恋に不器用な男子が、忠義か恋かの板挟みで悩み、そして見事、討ち入りを果たし、恋の一念も貫く。水野のお殿様の配慮で、再会したときも、ちゃんと約束事を守って言葉を交わさない。
そのルールを遵守しようとする日本人の気質。
そうしたいろいろな要素が、この右衛門七とお千の物語には入っているように思います。
ちなみに、右衛門七は、『東海道四谷怪談』にも登場します。
お岩さんにひどいことをした民谷伊右衛門(たみやいえもん)を、ラストシーンでバッサリ切って一件落着させるお岩さんの妹の旦那、佐藤与茂七が、矢頭右衛門七をモデルにしたキャラクターです。
この物語は、いわゆる「歴史」からは外れているかもしれません。
しかし、とても大切なこを教えてくれています。
吉野山で義経が女人禁制を守って静御前と別れたり、右衛門七が約束を守ってお千と言葉を交わさなかったりするのは、「お天道様が見ている」からです。
誰もいないところでも、ちゃんと約束を守る......そういう社会が、あるいはそういう気質が、日本人の原点にあります。
騙す人と騙される人がいたとき、「騙すほうが悪い」と考えるのが私たち日本人です。
けれど世界には、「騙されるほうが悪い、騙されるのは馬鹿だからだ」と考える国や民族もいます。
ただ思うに、「騙すほうが悪い」とする文化こそ、世界の多くの民衆が切望する世の中といえるのではないでしょうか。
私たち日本人は、古い昔から、約束事や決まりを大切にし、それをキチンと守る文化を育んできました。
それはとても大切で、守っていくべき日本の美徳ではないかと思います。
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『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』は、こうした歴史上にある様々なエピソードから、日本人の心を取り戻すたすけになればと書かれた本です。
とくに「第二巻」では、今日ご紹介した物語の他に、日本アニメと対等意識、 縄文クッキーと和菓子、小野小町、
額田王、静御前、清少納言、松崎慊堂、中山成彬ご夫妻、シラスとウシハクなど、さまざまな物語が登場します。
親しいお友達への新春のプレゼントに最適かと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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右衛門七討入り(舟木一夫) 歌:青春太郎


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コメント
ケイシ
私は赤穂浪士の話で様々な感動する場合があります。その一つが浅野内匠頭の正室瑶泉院への最期のご挨拶に大石内蔵助が江戸南部坂の屋敷に参上した時の話です。 瑶泉院は赤穂の塩田から上げられる化粧料で浪士達の面倒をみながら亡き夫の菩提を弔う毎日でした。 最期のご挨拶にと伺った内蔵助から仇討ちへの誓いを聞けると期待していたら、「いや、仇討ちなど滅相もない。京の都に手頃な屋敷を見つけたので、そこで老いの身を養おうと思っています。それ故に最期のご挨拶に参りました。」と上杉の間者が瑶泉院の側にいるのを知っていて、本心ではない嘘を言った場面です。日頃から頼みとしていた内蔵助の心ない言葉に怒った瑶泉院は茶碗を投げつけ、それが主君の霊前での言葉か!二度と主君の霊前にも我の前にも現れるな!と叱責を
与え立ち去りました。 内蔵助は深々と浅野内匠頭の位牌と立ち去った瑶泉院に頭を下げて、深々(しんしん)と雪が降る12月14日、主君の仇を奉ずる為に討ち入りを果たしました。この話も創作だと言われていますが、瑶泉院が赤穂浪士を塩田の化粧料で陰ながら支えていたのは事実です。たがら心情において事実だと想います。見事、主君の仇を報じた大石内蔵助と四七士に対して瑶泉院の感謝を偲ぶ事ができます。
2016/12/14 URL 編集