なぜなら政治の実権を鎌倉に親任したということは、朝廷は祭祀の中心(シラス)であり、ウシハク政治・経済・軍事の中心は鎌倉幕府方にあります。
そうであれば、夷狄からの宣戦布告文書への対応は、当然政治の中心である鎌倉幕府が決断し、朝廷の決裁を得て行動すべきこととなります。
もしこの決断を朝廷が行うならば、朝廷が権威と権力の両方を併せ持つ存在ということになってしまいます。
また現実の経済を考えても、もし朝廷が鎌倉方に夷狄征伐を命じれば、そのあと発生する恩賞の支払いは、朝廷が行うことになります。
けれど国内経済を牛耳っているのは幕府方であり、朝廷にはそれだけの財政のゆとりがありません。
結局朝廷としては、鎌倉将軍の方から、「どうしても征伐したい。責任はこっちでとるし、恩賞についても朝廷には迷惑はかかけない」と言ってくるのを待つしかないし、多少の費用がかかっても、神社仏閣に外敵退散の祈祷を依頼するしか、他に動きようがないのです。
一方、鎌倉将軍は、このとき第7代の惟康親王です。
幕府の実権は北条氏が握っており、将軍はただの「お飾り」でしかありません。
ですから一切の判断は、執権の北条時宗に任せるしかありません。
ところがその北条時宗は、執権職を譲ってもらったばかりの18歳の若者です。
地位は得ましたが、まだ、幕府内をまとめているわけではありません。
しかも鎌倉方としても、夷狄征伐をするとなれば、莫大な予算がかかります。
事後の戦死病傷者への保障の問題も発生します。
そこはやはり、いまだそれなりの財力を持つ朝廷からの出動指示を待ってからの方が良いのではないかということになります。
つまり、朝廷と幕府の位置づけと役割の問題と、現実の費用の問題の両方が、解決できない問題となってしまったのです。
現実に、外寇となれば、多くの血が流れることになります。
その血を流すのは、一般庶民や武士たち、つまり「おほみたから」です。
その戦死病傷者への保障をきちんと考えようとするから、ものごとの筋道をきちんと立て、資金手当てもちゃんとしていこうとするのです。
そしてそのために返事が遅れる。
このことは、高麗のように、ただウヤムヤにしようとする卑怯卑劣な姿勢とは全然異なるものですし、実に日本的な、状態が生まれたことを意味します。
さて話はすこし前後しますが、蒙古の書簡到着からわずか6日後に、北条時宗が執権の座につきました。
だれも引き受けたがならない国防上の大きな決断が、若干18歳の時宗の両肩にかかったのです。
このことをもって、前の執権の北条政村が責任から逃げたとしている本もありますが、これまたまったく違います。
大きな責任を伴う仕事が与えられたとき、その仕事そのものは、若者に与え、自らはその若者の全行為について、連帯して責任をとる、というのが、実は、我が国の神話の昔からの伝統です。
このことは、たとえば大国主神に国譲りを迫った建御雷神のところにも出てきます。
建御雷神は、天之尾羽張神の子です。
天照大御神は、その父の天之尾羽張神に大国主神との談判に向かうようにと命じるのです。
そしてこのとき、天之尾羽張神は、「息子の建御雷神を向かわせます」と答えています。
こうすることで、子は、親の命をかけて前線に出ることになります。
そして親は、子の為す行動の結果に全責任を負います。
こうすることで、命じた側としても、二重に担保を得ることになる、というのが、日本古来の思想です。
元寇で活躍する北条時宗は8代執権ですが、本来その時点で執権職であるべき時宗は、1264年7月に14歳で執権職の後継者となりました。
いくらなんでも14歳は若すぎます。
そこで大叔父で60歳になる北条政村が7代執権に就任したのです。
ところが元寇という未曾有の国難が訪れます。
そこで政村は、故事にならって、自ら身を引いて連署として時宗の補佐役となり、8代執権職を時宗に継がせたのです。
責任逃れをしたいなら、連署になどなりません。
朝廷の意思は明白です。
なにせ「敵国調伏」の加持祈祷を行っているのです。
つまり、戦うにせよ、和平の道を探るにせよ、外国の言いなりにはならない、ということです。
けれど、では具体的にどうするのかといえば、外国の侵略に対して、政治局内が主戦派、穏健派に分かれてしまうのは、これはいつの時代も同じです。
なかなか具体策がまとまらない。
しびれをきらしたフビライは、何度か高麗に命じて使者を日本に派遣しました。
ところが高麗は、天候が悪いの、海が荒れたのと理屈をつけて途中で帰ってしまったり、日本に蒙古と通交するようにすすめたりと、まるでラチがあきません。
そもそも、我が国は貧乏で何もないけれど、海の向こうには日本という黄金を大量に産し持する国があるから、そちらを討ちなさいとフビライに薦めたのは高麗の忠烈王(ちゅうれつおう)です。
この王は、死後に「忠烈光文宣徳景孝大王」などという立派な諡号を贈られた人ですが、余計なことをフビライに進言したために、日本を攻めるための巨額の戦費の支出をする羽目になり、結果、高麗の経済を疲弊させ、部下によっていったんは廃位までさせれれている人です。
その廃位させられたときも、自分の力で王位を取り戻したのではなく、元に縋り付いてようやく王位を取り戻しています。
高麗王ではラチがあかないと業をにやしたフビライは、四度目(日本には二度目)の使者としてChineseの趙良弼の派遣を決定しました。
要するに高麗王も、朝鮮人も、アテにはならない。
まだ、Chineseの方がマシ、と考えたわけです。
同時にフビライは、高麗に6千人の兵を送りこみます。
これは要するに、高麗王が信用に値する人物と思えなかったということです。
6千人もの兵を送られた側の高麗は、その兵たちを食べさせなければなりません。
そのため高麗は、土地や人や牛を出さなければならず、そのために過酷な徴税が行われたと記録されています。
国家レベルでみれば、たかだか6千人の兵なのです。
そのためにすくなくとも、300万人はいたはずの朝鮮の一般庶民が、草や木を食べて飢えをしのぐまで経済的に追い詰められたということは、普通に考えればおかしなことです。
けれどこれまた昔も今も変わりません。
6千人の蒙古兵を受け入れ、食べさせるために徴税を行えば、その途中で「中抜き」と呼ばれる、税吏たちの私腹肥やしが始まったと考えれば、まさに「さもありなん」なのです。
さて、太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで迫りました。
言うだけ番長は、これまたいつの世も変わらぬChineseの特徴です。
それがわかっているから、朝廷も幕府も、適当にあしらって、まともに相手にしません。
4ヶ月滞在した趙良弼はいったん高麗に戻りますが、再び日本にやってきて、今度は一年間日本に滞在しています。
この滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれています。
趙良弼の報告を聞いたフビライは「大変よくできている」とほめています。
さて、最初の使いから6年後となる1274年1月、フビライは高麗に対して日本遠征のための造船を命令します。
高麗はそのための人夫3万5千人と食糧・材料の木材を出すことになりました。
このときも高麗では、市民が労働者として使役され、無理矢理食料を提供させられたりしたことで、またたく間に庶民の生活が苦しくなり、飢えて死ぬ人も多くいたと記録に残されています。
それでも高麗は、わずか十ヶ月の間に大型船三百艘、中型船三百艘、給水用の小型船三百艘、あわせて九百艘の船を作りました。
最近でも、韓国が請け負った橋梁工事で、その橋が落ちたとか、できあがった高層ビルが傾いたとか、韓国製品の粗雑さは有名ですが、このことは七百年前の昔も現代もかわりません。
要するに船を造れと言われたから、船の形をしたものを造っただけです。
しかもその船は、頑丈な中国式ではなく、古来変わらぬ高麗式です。
このことが後に、蒙古・朝鮮連合軍にとって最大の不幸を呼びます。
同年10月3日、China兵6千人、高麗兵2万4千人、合計3万の兵を乗せた船が、高麗の合浦を出発しました。
10月5日には対馬、14日には壱岐に到着して、島民を襲いました。
当時の島民の数は、数千人です。
そこにいきなり3万の兵が襲ってきたのです。
かなうはずもありません。
対馬・壱岐の人々は殺され、生き残った人は手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれて吊るされました。
この舷側に吊るしたという行動ですが、これは博多上陸の際の矢よけと、敵方である日本人に恐怖を与えるためだったと解説しているものが多いですが、違います。
そもそも人間を舷側に吊るしても、矢避けなどにはなりませんし、その程度のことで恐怖を抱いて降参するような日本でもありません。
日本は、当時の東亜社会にあっても大国なのです。
では何のために吊るしていたのかというと、食肉のためです。
要するに食料にするための「干し肉」にしていたのです。
ちなみに、どことはいいませんが、人肉食の習慣のあった国においては、日本人の肉は格別に美味しいのだそうです。
日本人は、食事が薄味の野菜中心ですが、ハーブだけを食べて育つイベリコ豚が、世界最高の豚肉とされているのと同様、まるでハーブのような美味しい米と野菜を食べて育つ日本人は、イベリコ豚と同じで、肉として最高級品なのだそうです。
この舷側に吊るしたのは、食肉のためだったという話は、数年前にこのブログで紹介したことなのですが、その頃は、これがものすごくインパクトがあった話であったようで、その何年か後には、研究者の方がその内容を本にまとめられています。要するに事実だということです。
19日、いよいよ蒙古と朝鮮の連合軍が博多湾に集結しました。
そして翌20日には筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津などに上陸を開始します。
当時の日本の武士たちは、ほぼ全員が兼業農家です。
それまでの日本の国内のいくさというものは、おおむね次のようなものです。
農家の長男坊が、いざ鎌倉の掛け声で、馳せ参じる。家の人は心配だから長男坊に、小者四〜五人をつけて出征させます。おおむね馬上の者が武士。その周囲に四〜五人の小者という構成です。
そしていくさがはじまると、双方の陣地から腕自慢の者が前に出て、
「やぁやぁ我こそは○○県○○村の○×△太郎と申すもの。
腕に自慢のあるもの、おであえそうらへ」
と大声をはりあげます。
すると、敵の陣地からも、同じく腕自慢の男があらわれて、
「我こそは□□村の◇◇と申すもの。
いざや尋常に勝負、勝負~~」
と名乗りをあげ、一騎討ちがはじまります。
小者を含めた両軍の全員が見守る前での一騎打ちです。
これはいまでいったら、有名人のボクシングやレスリングの試合みたいなもので、ギャラリーとなる観客(この場合は戦いの場にいる武士や小者たち)にとって、名だたる武士の一騎討ちは、当時としてはお金を払ってでも見たい、最高の観戦です。
双方、全軍あげて、夢中になって応援する。
何度かそうした勝負が繰り広げられると、戦場の双方の兵士たちの興奮も最高潮に達します。
すると双方から敵陣に向けて、石投げ合戦がはじまります。
ちなみに日本の鎧かぶとは、弓矢は通すし、槍や刀も、突かれたら、刺さります。
けれど、投石はよく防ぎます。
一方、蒙古と高麗の連合軍は、長年奴隷を使った集団戦法です。
日本の武士が前に出て行って、「やぁやぁ我こそは」とやると、いきなり矢が飛んでくる。
凝り性の日本人にとって、弓も矢も、凝りに凝った高級品です。
当然、弓矢を持つのは高級武士だけです。名入りの高級品です。
敵の雑兵に向けて弓を射るなんてもったいない。
雑兵相手には、小石で充分。なにせ小石なら、地面にいくらでもあるのです。
これに対し、集団戦術の蒙古隊は、最前線にいるのは奴隷兵です。
命なんて関係ありません。
粗製の矢を持たせ、雨あられのように射かけてくる。
名乗りをあげるなんて習慣はありません。
ところが所詮は奴隷兵です。
指揮官らしい人物を弓で射ると、瞬く間に退散を始める。
こうして始まった戦いですが、一夜明けてみると、蒙古・高麗の連合軍の船が一艘もいなくなりました。
湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらないのです。
一説によると、この第一回蒙古襲来(文永の役)は、大暴風がやってきて多くの船が沈んだというけれど、日本側の記録である八幡愚童記などを見ても、嵐のことは一行も触れていません。
そればかりか「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と書いてあります。
つまり文永の役では、嵐が来た(神風が吹いた)のではなく、そもそもが様子見に来寇した蒙古・高麗連合軍が、無抵抗だった壱岐対馬と異なり、意外にも日本側が武器を持って戦いに臨んだので、驚いて帰った、というのが真相です。
弱い者に対しては嵩にかかってイジメにかかり、相手が強いとみるや、たちまちアイゴーと叫んで逃げてしまう。この風習は、七百年前も、近代の戦時中も現代も何も変わりません。
ちなみに、実際に攻めてくるまでの高麗王の話では、
「我々朝鮮人は、かつての白村江の戦いで、倭人たちをさんざんに打ち破っている。倭人たちは弱く、こちらが戦いを挑めば、すぐに逃げ出す」
という情報でした。
ところが、実際に戦ってみると、日本人があまりに強い。
それで、「話が違うじゃないか」ということにもなったようです。
一方、この文永の役について、高麗の歴史書である「東国通鑑」には、夜半に大風雨があったこと、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書かれています。
けれど、これはどうやら、意外な抵抗を受けて逃げ帰ったChina・高麗連合軍が、宗主国である元に報告する際に捏造した記録というのが、現代の通説です。
要するにファンタジーなのです。
彼らの捏造史観は、いまにはじまったことではないのです。
これに対し、ほんとうに神風が吹いたのが、文永の役の7年後に起きた1281年の弘安の役です。
七年の間に、幕府の執権北条時宗は、悩みに悩み、尊敬する日本に禅宗を伝えた宋のお坊主、蘭渓道隆から、
「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまった」と教わり、
また蘭渓道隆の後継者である無学祖元からは
「莫煩悩(ばくぼんのう)」=あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさいの意
を教わり、武家の棟梁として、日本を守るために断固戦う決意を固めます。
文永の役の翌1275年4月15日、元は、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を送り届けます。
文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的で、「前回は早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送るよ。言うことを聞くなら今のうちだよ」という内容です。
ところが「国を守る」と覚悟を決めた北条時宗は、竜の口で、杜世忠一行五名全員の首を刎ねます。
そしてさらし首にしました。
時宗はこれによって、戦う決意を国内に明確に示したのです。
ところが困ったことに全員殺してしまったので、元の側は使者が死んだとわからない。
いつまでたっても杜世忠が帰ってこないので、元は翌1279年6月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。
ちなみに杜世忠も周福もChineseです。
要するに、もともと高麗王の差し金で始まった日本侵略ですが、高麗人は信用できないと、元王朝は判断したのです。
時宗は、この周福一行も、博多で斬り捨てます。
杜世忠と周福が首を刎ねられたことを知ったフビライは怒り、
「日本を討つべし」と決断します。
ちなみに誤解のないように申し添えますが、皇帝が怒ったら戦争が始まるなどという、安易なことは、歴史上はほとんどありません。
そもそも元がシルクロードを制圧してユーラシア大陸を横断する大帝国を築いたのは、結果としては軍事的制圧によるものですが、これは実は必要があってのことです。
砂漠を横断するシルクロードの旅では、途中にあるオアシスだけが水を得る唯一の場所です。
このためオアシスには、都市が生まれ、そこが発展して城塞都市国家を形成していたのですが、その城塞都市国家の運営は、旅人の通行税によって得られるものでした。
ですから、旅人たちは、水を求めて都市に立ち寄る都度、法外な通行税を取り立てられていたり、税とした得た物品を商人らが無理やり買い取らされたりしていたりしていたのです。
これが、立ち寄る都市毎に繰り返されるのですからたまりません。
シルクロードの交易物は、鰻上りに価格が上昇したのです。
ところが遊牧民である蒙古は、それら都市国家を支配下に置くことで、通行税を定額の一定なものとしました。
こうなると喜ぶのはシルクロード商人たちです。
「次は、あっちの都市もお願いします。謝礼ははずみます」
ということになって、次々と都市国家を制圧し、気がついたら世界的大帝国になってしまったというのが、モンゴル帝国です。
つまり、蒙古は軍事力を背景に公正取引を推進したし、そのことが世界的に受け入れられたから、モンゴル帝国のエリアが拡大したのです。
そうしたモンゴルの行動様式からすると、日本への侵略は、異例ずくめです。
まず公益上は何の利益もない。
むしろ、日本を侵略すれば、大量の黄金が手に入るということが、もともとのきっかけになっています。
ところが、
「戦って征服すれば黄金が手に入る」という動機と、
「安定した交易の確保のためにモンゴル経済圏に入って単一通行税のもとで、安心して暮らせる世の中をつくろう」
という動機では、前者が盗人根性、後者が社会正義の実現という意味で、行動のパターンがまったく異ります。
つまり、日本への攻撃は、高麗にそそのかされたものだということです。
ところが、外交の使者を殺されたとなると、これは元としても許せません。
ですから、元は、1281年(弘安四年)に、今度は范文虎を総大将とする、14万の大軍を博多に差し向けています。
これに対する日本の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人です。
小者を入れての数ですから、武士だけならわずか一万騎です。
なんと武装兵力でいえば、十四倍の大軍を相手に日本の鎌倉武士たちは戦いを挑むことになったのです。
日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなどゲリラ戦を用いて果敢に戦いました。
一方、元軍は、あらかじめ日本軍が用意した防塁に阻まれて、侵攻ができない。
戦線は港内で膠着状態となります。
そして運命7月1日がやってきました。
旧暦の7月1日は、いまでいう8月中頃です。
この日、北九州方面を、大暴風雨が襲いました。
港をうめつくしていた4千艘の船は、台風のまえに、ひとたまりもなく破壊されてしまいます。
なんといっても船は手抜きの高麗製なのです。
最初の文永の役のとき、とりあえず天候に恵まれて無事に帰れたのが災いしたのです。
文永の役の五倍近い戦力を輸送する船を、再び高麗製にしてしまいました。
ただでさえ高麗船は、水漏れ、浸水がひどい。
接合が甘いのです。
ですから台風の前に、あっというまに船が破壊されてしまいます。
台風が去った翌2日には、船の残骸と無数の死体が湾内をうめつくしました。
当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」
と記しています。
「高麗史」もまた
「大風にあい江南軍皆溺死す。
屍、潮汐にしたがって浦に入る。
浦これがためにふさがり、
踏み行くを得たり」
と書き残しています。
つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができたほど、死体の数が多かったのです。
このとき、高麗史によれば、生存兵1万9379名です。
士官や将官などの上級軍人の死亡率7~8割、一般兵士の死亡は8~9割だったそうです。
なにせ14万の大軍が、一夜にして2万に減ってしまったのです。
すっかり戦意を無くした元の范文虎らは残った船で元へ引き上げました。
港には、置き去りにされた高麗兵士が多数残されました。
これを見た日本軍は、生き残りの高麗兵士におそいかかりました。
戦闘は7月7日まで続きました。
捕虜となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録後、ことごとく首をはねています。
当然です。
人肉食の習慣のある高麗人を、日本国内に放置することはできません。
今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っています。これらは当時元軍兵士の首を埋めた場所です。
遺体は、日本はちゃんと供養までしている。
この供養に行われたのが、いまも残る「踊り念仏」です。
さて、こののちのお話です。最近の歴史書では、鎌倉幕府は、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった(外国からの防衛戦だったために、恩賞を与える土地がなかった)ことから、「鎌倉幕府は、外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと書いています。
全然違います。
鎌倉幕府の滅亡は、1333年です。
弘安の役から52年後です。
幕府は源家から足利家に移るけれど、その後1868年の明治政府樹立まで、日本は長い武家政治の時代が続いたのです。
なるほど鎌倉幕府は滅んだけど、日本の国体が解体されたわけではありません。
それどころか征夷代将軍が交替しただけで、武家政治はその後五百もの長い間続いたのです。
これはつまり、武家を施政者として認める風潮が我が国に定着した、ということを示します。
つまり、元寇によって、武家の信用が増したのです。
文永の役と弘安の役、この2つの日本史上の大事件は、わずか一万の武家で14万の大軍と対峙し、これを打ち破って国土を守ったという事実を、東北地方の「モッコ」の怖さの伝説同様、武家というものが国を守る誇り高き志士たちであるという認識を深く日本人の心に刻んだ事件だったのです。
さて、その後の歴史は、元も高麗も、元寇のあと、内乱に次ぐ内乱が起こり、元は明に滅ぼされ、高麗は李氏朝鮮に統治が変わり、とりわけ李氏朝鮮は、国民にとっての収奪国家としてその後の半島の発展を四百年間の長きにわたって失わせています。
日本に手を出した国は必ず滅びる、のです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
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国際バカロレア(IB)とは、世界共通の大学入試資格とそ
れにつながる小・中・高校生の教育プログラムであり、
以下のコースがあります。
・PYP(プライマリー・イヤーズ・プログラム):3~12
歳の小学校コース
・MYP(ミドル・イヤーズ・プログラム):11~16歳の中
学校コース
・DP(ディプロマ・プログラム):16~19歳の高校生の
大学入試コース
・CP(キャリア関連プログラム):専門学校や社会に出
て行くためのコース
これらの課程で、反ナショナリズムおよび連合国史観、
特に東京裁判史観が刷り込まれます。
この中でDPは重要で、日本でも、東大、京大、阪大、早
稲田、慶応その他主要大学がDPを入試資格としています。
問題なのは、PYPからDPまでのコースが日本の学習指導
要領とは独立しており、日本の文科省管轄の学校教育を
受けずに、指導者層輩出大学に入学できることです。こ
のことは、日本の教育に関する主権侵害であり、また、
日本への忠誠心が欠如した指導者の増加の元凶となり得
ます。(彼らは、高麗をこりょ、習近平をチーシンピンと
読みそう)さらに、外国人、特に爆受験で有名な漢族の日
本の主要大学への入学の呼水となり、日本人の人材育成
機会の損失になります。
2016/12/17 URL 編集
せいちゃん
と言うことはアメリカも滅びるのでしょうか?(笑)
それはさておき、グローバリズムの限界が見えてきた昨今ですが、我々日本人も日本人としてのアイデンティティを見直す時期に来ているように感じます。
これからも勉強になる記事をお願い致します。
2016/12/17 URL 編集