★次回倭塾は12月24日13:30開催です。
この日は、今年最後の倭塾なので、ちょっぴり特別なイベントが開催されます。
詳細は⇓で。 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3232.html</u>">
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(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)元寇のさらに250年前のことです。
寛仁3(1019)年3月27日、突然、壱岐島に、50余隻の高麗船がやってきました。
ひとつの船はだいたい15メートルくらいで、その船に約60人ずつが分乗していました。
島に上陸した彼らは、百人くらいで一隊をつくり、先頭の20~30人が斬り込み隊、後ろの70~80人が弓や盾を持ちました。
彼らの持つ矢は4~50cmの短いもので、楯も射通すほどの貫通力がありました。
彼らは、上陸と同時に民家に襲いかかかりました。
ものすごく残忍なやつらでした。
彼らは武装と人数にものを言わせました。
備蓄の食べ物を奪い、抵抗する男たちや老人、子供たちを容赦なく殺しました。
女性は強姦し、生き残った者たちは船に拉致されました。
船に拉致された島民たちは、船上で病人とそうでない者に分けられました。
そしてすこしでも病気がある者は、縛られたまま海に投げ捨てて殺されました。
残った者は、船の舷側に、女は髪の毛で、男は両手に穴を空けられて吊るされました。
それは、生きたまま干して、乾かして、干し肉にするためでした。
暴徒上陸の知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。
しかし敵は三千です。
衆寡敵せず皆殺しにされてしまいました。
【倭塾】(江東区文化センター)
〒135-0016 東京都江東区東陽4丁目11−3
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理忠を打ち破った賊徒は、壱岐の真ん中にある国分寺(嶋分寺)まで攻め込みました。
寺には常覚という和尚がいました。
気丈な和尚は、僧侶と地元住民たちを指揮して応戦しました。
そして賊徒を三回まで撃退しました。
しかし賊徒たちは猛攻をあきらめません。
やむなく常覚和尚は、島民と語り合い、ひとり島を脱出して事の次第を大宰府に報告に向かいました。
残された僧侶や島民たちは必死に戦いましたが、最期には全滅し、嶋分寺は全焼させられました。
こうして女子239人、男子若干名が捕虜として連れ去られました。
壱岐島で生き残った者は、わずか35人だけでした。
千年前の事件でありながら、このようにひとりに至るまで正確に記録が残されているということには、注目が必要です。
ChinaやKoreaの戦記等では、数万人から数十人に至るまで、死傷者等の数が、常にあやふやです。
これは、ひとりひとりが「人」として認識されていなかったことを示します。
たとえは悪いですが、家畜が殺処分となれば、その数は何頭とはっきりわかります。
しかし野良犬が道端で大量死しても、その数は、数十頭とか数百頭と言われるだけで、正確な数は多くの場合わかりません。
これと同じで、大陸や半島では、人が人として扱われていないから、何人とわからないのです。
さて、4月7日には、対馬からも大宰府に「対馬危急」と知らせが届きます。
このときの対馬守遠晴の報告です。
「対馬に刀伊国の者が五十隻あまりの船でやってきた。
彼らは殺人・放火をはじめた。
彼らは隼のように迅速で数が多く、
とても対抗できない。
壱岐は壱岐守理忠が殺害され、ほぼ全滅である。
彼らは博多警固所と目と鼻の先の
能古島まできている。」
大宰権帥の藤原隆家は、知らせを受けるとすぐに京の都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばしました。
そして同時に応戦のための非常招集を九州各地の豪族たちに呼びかけました。
翌8日、賊徒が筑前・怡土郡(福岡県西部)にやってきて上陸しました。
彼らは付近の山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船に乗せました。
また数知れない米穀類が略奪されました。
戦力の不足した藤原隆家は少数の精鋭を率いて、個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で応戦しました。
その隆家の戦法に、賊徒は崩れ、この日の夕方には、海に逃れて能古島に去りました。
9日の朝、賊徒は藤原隆家の本体がある大宰府警固所を襲撃してきました。
しかし武装を整えた隆家の軍勢の前に、逆に賊徒たちが追い詰められ、生き残った者は、再び能古島に帰還しました。
そして・・・・
神風が吹きました。
10日、おりからの強風で、波浪が激しくなり賊徒たちの船が足止めになりました。
賊徒たちは身動きできなくなりました。
この隙に、隆家のもとに、続々と九州各地からの援軍が到着しました。
11日午前6時頃、朝凪を利用して賊徒たちが、再び大宰府に上陸してきました。
隆家は、援軍とともにこれを迎え撃ち、上陸してきた賊徒たちを完膚なきまでに撃退しました。
そして敵の生き残り二人を逮捕しました。
一人は傷ついた男、一人は女でした。
13日、賊徒は肥前国松浦郡の村里を攻めてきました。
ここでは前肥前介・源知という武将が待ち構え、族を殲滅しました。
ここでも敵の生存者一人を逮捕しています。
こうしてついに賊徒たちは、恐れをなし、半島に帰国しました。
帰国途中、高麗がこれを待ち伏せ、戦力の減った残りの賊を全滅させました。
また日本人捕虜270人を助けて、日本に送り返しています。
この事件で、当初日本側は何者が攻めてきたのかまるでわかりませんでした。
逮捕した三人の族は、三人とも高麗人でした。
彼らは、
「自分たちは
高麗を襲ってきた刀伊に捕らえられていた
被害者である」
と申し立てました。
さんざん悪逆非道を行っていながら、捕まると手のひらを返したように、被害者を装う。
千年前もいまも、いざというときに現れる民族性は変わりません。
この事件の被害は、記録されただけでも、
殺害された者 365名
拉致された者 1289名
殺された牛馬 380頭
家屋焼失 45棟以上
です。
とくに女子供の被害が目立っていました。
肉は、女子と子供の肉が旨いとされていたからです。
ちなみに拉致された1289名のうち、高麗によって保護され帰国できたのは270名です。
これはつまり、残りの千余名は船上で殺された、ということです。
時の日本政府は、この事件を「刀伊(とい)の入寇」と名づけました。
刀伊というのは、この時点ですでに滅んでいた渤海国の人々を指します。
つまり刀伊に国はありません。
実際に襲ってきたのは、高麗人(半島人)です。
けれど時の日本政府は、高麗国と事を構えたくないという配慮から、この事件に、あえて「刀伊の入寇」と名づけました。
日本の古典の記録を読むときは、こういう点の行間を読むという姿勢が大事です。
「刀伊の入寇」と書いてあるから、刀伊が攻めてきたのではないのです。
実際に攻めてきたのが高麗人であっても、それを、すでに失くなった国である刀伊とと書くことによって、外交関係に波風が立たないように配慮したのです。
ちなみに最後のところで、高麗人たちからなる刀伊を、高麗が滅ぼしたとあることに、矛盾を感じた方もおいでかと思います。
それは国という概念を、日本を基準に考えるからです。
近代以前の世界の諸国の王朝は、多くの場合、いわばヤクザの親分が王を名乗っているようなものです。
ですからその縄張り(国境)も、明確ではありません。
王の眼の届く範囲が国です。
国境地帯など王の影響力の薄い地域には、領民にも王国の民という観念はありません。
とりわけ朝鮮半島の場合、王や貴族たちは領民からもっぱら富や食を収奪するだけの存在でしたし、領民の側にも国家意識など毛ほどもありません。
もっといえば、そういうことを考えるだけの教育も教養もありません。
要するに高麗は、最初は賊徒たちに手も足も出ないから放置していたのです。
自分たちが手も足も出なかった賊徒たちを、日本がやっつけたから、日本が強いと思って、拉致された日本人を送り返してきたのです。
これが千年前の事件です。
明らかに対馬も壱岐も、日本の領土です。
高麗の領土であったことなど一度もありません。
またいまある韓国と当時の高麗に、政権としての連続性もありません。
むしろ千年前から壱岐対馬に対して、乱暴狼藉を働いてきたのが半島人であり、もっぱら日本も、壱岐対馬の人々も、これにたいへんに迷惑をしてきたというのが、実態です。
善悪というのは、必ず紙の裏表です。
善があれば悪があり、悪があれば善があります。
両者は必ず同時に存在します。
国も同じです。
善い国があれば、必ずその近くに悪い国があります。
善の国が大国なら、必ず悪の国も大国となります。
このことを私たちの祖先は
「善悪の対立」
と呼びました。
いまの人たちは、これを「たいりつ」と読みます。
そして「善悪の対立」なら、善と悪との競い合いと理解します。
けれど「対立」の訓読みは、「ならびたつ」です。
善と悪は、表裏一体であり、本来「ならびたつ」ものというのが、古人の理解です。
ですから悪はなくならないのです。
けれど抑えなければ、はびこります。
迷惑するのは、善良な人々です。
だから悪は、抑えます。
そのために必要なのが、力です。
悪人は、力関係しか理解しません。
相手が弱い、あるいは抵抗しないとみれば、徹底的に相手をいたぶります。
けれど相手が強いと思えば、媚(こ)びへつらいます。
悪人の頭には、自分の利益と命の安全しか存在しないのです。
それが悪というものの正体です。
正義を貫くためには、強くあることです。
そのことを、千年前の事件は教えてくれています。
ちなみに、この刀伊の入寇があったときというのは、時代区分で言ったら平安中期です。
最近の歴史教科書では、その平安時代は「古代」であり、「古代」とは多少の文献史料などによって証明できる伝説の時代で、青銅器や多少の鉄器が用いられた、いわば先史時代であると教えられます。
つまり平安時代は、西洋でいうなら紀元前8世紀のギリシャの都市国家時代と同等の時代ということにされています。
そして、古代において日本人は文字を持たず、また朝廷においては、多少の和歌などの文化性がみられるものの、その内容はとみれば、あたかも庶民から収奪をしているひ弱な貴族が、連日、入り乱れた男女関係のセックスに明け暮れた時代であるかのような印象操作が、近隣諸国に配慮した歴史教科書として描かれています。
では、刀伊の入寇において、賊徒たちを撃退した勇敢な人々は、誰だったのでしょうか。
個人としてなら、歴史への解釈は自由ですし、受け止め方も自由です。
しかし、本来バラバラの事実を、長い時間の経過の中で、前後関係などに合理的説明を加えていくことが本来の歴史学です。
近隣諸国に配慮するのは、政治であって学問ではありません。
お読みいただき、ありがとうございました。

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※この記事は2010年4月の記事のリニューアルです。


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コメント
Adno
船はだいたい15メートルくらい
約60人
先頭の20~30人が斬り込み隊、後ろの70~80人が弓や盾を持ちました。
彼らの持つ矢は4~50cmの短いもの
高麗がこれを待ち伏せ、戦力の減った残りの賊を全滅させた
これを単に賊と見ることが出来るのか?
これはもう賊のレベルを超えている。
明確な指示系統があり、軍事力があり、組織力があり、資財がある。
つまり計画的な行動といえるでしょう。
それが何の目的で来襲したのか?
出来事が事実でも不明な点が多い。
2016/12/18 URL 編集