昭和天皇の行幸は、
昭和21年の神奈川県を皮切りに
昭和29年の北海道まで足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、
総日数は165日に及びます。
実はこれはたいへんなことです。
陛下の日常には、我々平民と違って、休日がありません。
一年365日、
常に式典や祭事、
他国の元首その他の訪問、
政府決定の承認等があり、
その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。
そういうお忙しい日々を割いて、全国行幸をされたのです。
この巡幸を始めるにあたり、
陛下はその意義について次のように述べられています。
「この戦争によって祖先からの領土を失い、
国民の多くの生命を失い、
たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、
どうすればいいのかと考え、
また退位も考えました。
しかし、よくよく考えた末、
この際は全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちあがらせる為の
勇気を与えることがわたくしの責任と思う。」
当時、焼け野原になった日本で、
人々はそれまで「正しい」と信じて来た
価値観を全部否定されました。
それまでの正義が悪とされ、
それまでの悪が正義とされるようにりました。
しかも、たいへんな食料不足で、
物価は急激に高騰していました。
お腹を空かせた家族のために闇市に買い出しに行けば、
そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、
ようやく物々交換で米を手に入れると、
ならず者たちにそれら根こそぎ暴力で奪われる。
そういう暴力を取り締まるべき警官は、
肝心の暴力には一切目をつぶり、
むしろ闇米の売買は禁止だからと、
苦労して得た一般人がようやく手に入れたお米を没収する。
そういう情況だったのです。
そんなひどい状況から国内が一日も早く脱皮し、
日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
そんなときに陛下が選択されたのが、
全国行幸です。
陛下がおでましになられるのに、
街が荒れていたら行政はその責任を問われます。
ですから陛下が御行幸されると通知された地域では、
行政府が中心となって大急ぎで、
街の復興が図られ、
また治安の回復が行われました。
一方、未曽有の戦災を被った日本国内で、
不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにする。
そのために何が必要かという問いに、
おそらくいまの時代なら、すぐに
財政出動だ、
何々手当の支給だ
という話になるのでしょう。
けれど終戦直後の本当に混乱していた時代に
陛下が御選択されたのは、
「全国民の真心を喚起する」
という一点だったのです。
国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しみ、ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がる。
そのために陛下は、「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与え」ようとされたのです。
ところがこの時代、全国に「共産主義に感化された人たち」がいました。
この人たちは、共産主義革命の実現のために陛下を亡きものにしよう、
あるいは陛下を吊るし上げようと、本気で各地で待ち受けました。
陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下はたってのご希望で、
佐賀県三養基郡にある「因通寺」というお寺に行幸されました。
因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、
皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、
それを百万人の女性たちの手で、
歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ったお寺です。
その御歌は、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。
やすらかに眠れとぞ思う きみのため
いのち捧げし ますらをのとも
なぐさめんことのはもがな たたかいの
にはを偲びて すぐすやからを
陛下は因通寺が、この歌を大幟にしたことをいたく喜ばれ、
皇后陛下も針をおとりになって、
御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。
また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に
「洗心寮」
という施設を作り、
そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていました。
ちなみにこの因通寺のご住職が書かれた本が、
「天皇様が泣いてござった」です。
いまではなかなか手に入らなくなったこの本には、
通州事件の話などが所蔵され、
たいへんに歴史的意義の深い本となっています。
陛下がその因通寺におこしになるという当日、
寺に至る県道から町道には、
多くの人が集まりました。
道路の傍らはもちろんのこと、
麦畑の中にも集まった方がたくさんいたそうです。
その町道の一角には、ある左翼系の男が麦畑を作っていました。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、
「自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる」
などと豪語していました。
けれど、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、
感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、
すっかり心が変わってしまい、
自ら麦畑を解放して
「ここで休んでください、
ここで腰を下ろしてください」
などと集まった方々に声をかけていました。
朝、8時15分頃、
県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。
群衆の人達からは、自然と
「天皇陛下万歳」
の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。
人々の自然の発露として、この声があがったのです。
御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。
一瞬、静まり返ったところに、
車から、まず入江侍従さんが降り立ちました。
そのあとから陛下が車から降りられました。
そしてえ入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。
その瞬間、再び群衆の間から、
「天皇陛下万歳」
の声があがりました。
陛下は、その群衆に向かって、
御自らも帽子をとってお応えになられました。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まります。
ここに集まった人達は、生まれてこのかた、
お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない人たちです。
その陛下が、いま、目の前におわす。
言い表すことのできないほどの感動が群衆を包み込みました。
お車を停められたところから因通寺の門まで約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、
よくもこんなにもと思うくらい、
たくさんの人が集まっていました。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、
陛下は一歩一歩お進みになられました。
町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていました)でした。
彼は、まさかこんなにも多くの人が出るとは思ってもみなかったらしく、
道路わきのロープとかの設置もしていませんでした。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、
そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。
そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。
その声は、まるで大地そのものが
感動に震えているかのような感じでした。
陛下が寺の山門に到着しました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、
その坂を上り詰めると、23段の階段があります。
その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、
「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。
石段を登りきった目の前に、
新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、
感嘆の声をあげられました。
陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、
入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、
何らかの言葉を申し上げると、
陛下はうなずかれて、
本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝されました。
そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。
洗心寮の二階にある図書室に机を用意して、
そこで佐賀県知事が
陛下にお迎えの言葉を申し上げる
という手はずになっていたのです。
図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、
当時佐賀県知事だった沖森源一氏が恭しく最敬礼をし、
陛下にお迎えの言葉を述べました。
「本日ここに、
90万県民が
久しくお待ち申し上げておりました
天皇陛下を目の当たりに・・・・」
けれど、そこまで言上申し上げていた沖森知事は、
そこで言葉が途切れてしまいました。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、
その生きることの中心に陛下がおわし、
自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、
陛下のお姿を前に、
もろもろの思いが胸一杯に広がって、
嗚咽とともに言葉を詰まらせてしまったのです。
するとそのとき、入江侍従さんが、
知事の後ろにそっと近づかれ、
知事の背中を静かに撫でながら、
「落ち着いて、落ち着いて」
と申されました。
すると、不思議なことに知事の心が休まり、
あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。
この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、
寺にある戦争羅災孤児救護所のことについて
ご説明申し上げることになっていました。
自分の前にご挨拶に立った知事が、
目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分はあんなことがあってはいけない、
そう強く自分に言い聞かせると、
住職は奏上文を書いた奉書を持って、
陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。
「本日ここに、一天万乗の大君を
この山深き古寺にお迎え申し上げ、
感激これにすぎたるものはありません。」
住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げました。
けれど、ここまで読み上げたところで、
住職の胸にも熱いものが突き上げてしまいました。
引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、
戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、
「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿、
彼らと一緒に過ごした日々、
そうしたありとあらゆることが
一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、
目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、
陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、
奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。
意識は、懸命に文字を探そうとしていました。
けれどその文字はまったく見えません。
発する言葉も声もなくなり、
ただただ目から滂沱の涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、
それがまったく不可能な状態になってしまったのです。
そのとき、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、
「落ち着いて、落ち着いて」
と背中に触れていてくれたのです。
住職は、このときのことを、
「前に挨拶に立った知事の姿を見て、
自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、
知事さんと同じ状態になってしまった」
と述べています。
こうしたことは、外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、日本に駐在して
いていよいよ日本を離れるというときに、
おいとまごいのために
陛下のところにご挨拶に来るならわしになっています。
駐日大使というと、長い方で6~7年、短い方でも2~3年の滞在です。
帰国前に陛下にお目にかかってお別れのご挨拶をするのですが、
ほとんどの駐日大使が
「日本を去るに忍びない、
日本には陛下がおいでになり、
陛下とお別れをすることがとても悲しい」
と申されます。
この言葉が儀礼的なものではないことは、
その場の空気ではっきりとわかるのだそうです。
そして陛下とお話しをされながら、
駐日大使のほとんどの方が、
目に涙を浮かべて言葉を詰まらせる。
特に大使夫人の方々などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、
泣きながら陛下においとまごいをされます。
因通寺のご住職と同じ状態になってしまうのです。
こうしたことは、その大使が王国であろうと、
共和国であろうと、
共産圏の方であろうと、
みな同じなのだそうです。
不思議なことに、
むしろ反日の共産圏の国々の方々のほうが、
より深い惜別の情を示されるといいます。
さて、ようやく気を取り直した住職は、
自らも戦地におもむいた経験から、
天皇皇后両陛下の御心に報いんと、
羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。
この奏上が終わったとき、
何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、
つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。そして、
「親を失った子供達は大変可哀想である。
人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。
預かっているたくさんの仏の子供達が、
立派な人になるよう、
心から希望します」
とご住職に申されました。
住職はそのお言葉を聞き、
身動きさえもままならなかったそうです。
この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、
部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、
子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしないのです。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、
みな、呆然と黙って立っているのです。
すると陛下が子供達に御会釈をなさいます。
頭をぐっとおさげになり、
腰をかがめて挨拶され、
満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで、
陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。
そして陛下は、ひとりひとりの子供にお言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」
すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」
とにこやかにお応えになる。そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」
と子供達が答える。
すると陛下は、子供達ひとりひとりに
まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」
とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いのだけれど、
その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、
「おまえたちは、
遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、
お父さん、お母さんがいないことは、
さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
けれど今こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、
たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。
これからは、今までの
辛かったことや
悲しかったことを
忘れずに、
立派な日本人になっておくれ。
元気で大きくなってくれることを
私は心から願っているよ」
というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸に沁み込んでいく。
陛下が次の部屋にお移りになると、
子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、
いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に
「さようならね、さようならね」
と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。
次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、
主治医の鹿毛医師が付き添っています。
その姿をご覧になった陛下は、
病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、
鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」
と申されました。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、
まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、
一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、
突然、直立不動の姿勢をとられ、
そのまま身じろぎもせずに、
ある一点を見つめられました。
それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、
おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
この禅定の間では、
うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、
何事があったのかと顔を見合わせます。
重苦しい時間が流れる。
ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた
三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、静かなお声で、
「お父さん。お母さん」
とお尋ねになったのです。
一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、
何事があったのかわからない。
陛下の目は、一点を見つめていました。
それは、三人の女の子の真ん中の子が、
胸に抱きしめていた二つの位牌でした。
陛下は、その二つの位牌が
「お父さん?お母さん?」
とお尋ねになったのです。
女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」
これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」
とお尋ねになりました。
「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。
母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。
すると陛下は
「おひとりで?」
とお尋ねになる。父母と別れ、
ひとりで満州から帰ったのかという意味です。
「いいえ、奉天からコロ島までは
日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。
佐世保の引揚援護局には、
ここの先生が迎えにきてくださいました」
この子が、そう答えている間、
陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい?」
と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけられました。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は、
「いいえ、淋しいことはありません。
私は仏の子です。
仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、
お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、
お母さんに会いたいと思うとき、
私は御仏さまの前に座ります。
そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
そっとお母さんの名前を呼びます。
するとお父さんもお母さんも、
私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。
だから、私は淋しいことはありません。
私は仏の子供です」
こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。
そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、
左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。
そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。
これからも立派に育っておくれよ」
と申されました。
そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、
お眼鏡を通して畳の上に落ちました。
そのとき、この女の子が、小さな声で
「お父さん」
と呼びました。
これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられました。
様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣きました。
東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。
子供達の寮を後にされた陛下は、
お寺の山門から、お帰りになることになります。
山門から県道にいたる町道には、
たくさんの人達が、
自分の立場を明らかにする掲示板を持って
道路の両側に座り込んでいます。
その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、
ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、
そのためにみんなが悲しんでいるが、
自分もみなさんと同じように悲しい」
と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。
遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてきました。
陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。たったひとりの息子でございました」
そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。
激しい戦いだったそうですが、
息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。
でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。
軍のほうからいただいた白木の箱には、
石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、
それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。
息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、
長生きしてください。ワーン・・・・」
そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。
そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、
陛下の悲しみは、老婆の悲しみとなっていたのです。
そばにいた者全員が、この様子に涙しました。
遺族の方々との交流を終えられた陛下は、
次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
そして陛下は、
「引揚者」と書かれた人達の前で、
足を停められました。
そこには、若い青年たちが数十人、
一団となって陛下をお待ちしていました。
実はこの人達は、
シベリア抑留されていたとき、
徹底的に洗脳されて、
日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、
誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、
陛下に戦争責任を問いつめ、
もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、
暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、
ただちに全国の同志にこれを知らしめ、
日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、
共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。
そうした意図を知ってか知らずか、
陛下は、その一団の前で足をお止めになられました。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、
深々とその一団に頭を下げられました。
「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して
大変であっただろうと思うとき、
私の胸は痛むだけでなく、
このような戦争があったことに対し、
深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは、外国において、
いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、
日本という国がある限り、
再び戦争のない平和な国として
新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、
新しい道を築き上げたいと思います」
陛下の長いお言葉でした。
そしてそのときの陛下の御表情とお声は、
まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、
陛下のお言葉を聞いているうちに、
陛下の人格に引き入れられてしまいました。
「引揚者」の一団の中から、
ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。
そして、
「天皇陛下さま。ありがとうございました。
いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、着の身着のままでした。
外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、
戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと
思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。
しかし苦しんでいるのは私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、
いま、わかりました。
今日からは決して世の中を呪いません。
人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、
私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申したとき、
そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、
ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。
こんな筈じゃなかった。
俺が間違えていた。
俺が誤っておった」
と泣きじゃくるのです。
すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、
ほとんどが目に涙を浮かべながら、
この青年の言葉に同意して泣いている。
彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、
慈愛をもって微笑みかけられました。
何も言うことのない、
感動と感激の場面だったそうです。
いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、
寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、
陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」
と申したそうです。
すると陛下は、この子をじっと見つめ、
にっこりと微笑まれると
「また来るよ。
今度はお母さんと一緒にくるよ」
と申されました。
御料車に乗り込まれた陛下が、
道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、
陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。
宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれました。
みほとけの教へまもりて すくすくと
生い育つべき 子らに幸あれ
===========
先日、皇居勤労奉仕に参加された方が、皇居で今上陛下におめにかかりました。
やはり、目の前が真っ白になって、胸がいっぱいになったそうです。そして、
「ああ、自分は日本人なんだ」
という思いが、頭の中をぐるぐるまわったそうです。
諸外国から日本大使に任ぜられて日本にやってきた大使たちが、日本にやってくると最初に、ご夫婦で陛下にご拝謁されるということは、日本は諸外国から、いまでも立派な君主国とみられているということを意味します。
そうでないと思っているのは日本人だけです。
日本の天皇という存在は、世界で唯一「Emperor」の称号が認められた存在です。
けれど、おそらく天皇ご存在には、そうした称号がもたらす権威や歴史以上の何かがあるように思います。
それは神に通じる何かであるのかもしれません。
わたしたちは、その天皇のシラス国の民(たみ)としてこの世に生まれてきたのです。
そして天皇は、わたしたちをいまでも「おほみたから」としてくださっています。
この世のすべての出来事は、何か意味があって起こるといいます。
そういう国に生まれ、その天皇から「おほみたから」とされることで、政治権力者とも人として対等に生きることが許容された歴史を刻んできたのが、日本人です。
そこに自然な感謝の気持ちが持てる日本人に、自分もなっていきたいと思うのです。
この世に生を受けさせていただき、感謝です。
※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」
※この記事は、2011/08/24のものをリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
「ど」の字
一体どんな教育を与えられたのか、本当に知りたく思います。
一般の民衆に寄り添い、かつ確固として立てる対話能力は、歴史上出現した数々の英雄とは全く方向性の違う偉大さであると思います。
多分、昭和天皇陛下は、後世の世界史に歴史の流れを決定した人物として、カエサル(欧州枠組みの青写真を描いた)やアウグストゥス(カエサルの青写真を現世に具現して『ローマの平和』を実現した)や徳川家康(日本という共同体の枠組みを亜細亜全体に広げる事無く日本に限定し、後の飛躍の基盤を作り始めた)と並び評されるようになるだろうと思います。
……昭和天皇陛下の理解者として日本再建に力を振るったマッカーサー元帥閣下にも、言いたい事は山ほどありますが日本人として一応の感謝を捧げます。
もし彼の代わりにアイゼンハワー元帥(欧州の物流インフラを破壊して軍民問わず夥しい死者を出しました。自分は、アイゼンハワーこそWW2における純粋な意味での戦争犯罪者だと考えています)が日本の軍政を執っていたなら、日本は彼が軍政を敷いた独逸のように分裂してしまっていただろうと考えていますので。この人が米国の大統領になったのは、米国にとっても世界全体にとっても不幸な事でした。
2016/12/22 URL 編集
kinokokko
天皇陛下や戦前戦中戦後頑張って来られた日本の方々に恥じないよう、私も頑張らなければと思いました。
こういうお話やねずさんの著書を中国語や韓国語で翻訳して 彼の国の方々に読んで頂きたいと思いました。チャングムやイ・サンなどK国歴史ドラマは見ましたし(人気のK国ドラマ達をを好きなのですが)確かに本当では無いファンタジーかも知れませんが、あの人達にも美しいもの・正しいものは理解できると思います。嘘ばかり教えられて本当に気の毒に思います。早く本当の事を知らせてあげたいです。でないと人を恨んでばかりで幸せになれないですよね・・・
ねずさんいつも分りやすくお話を書いて頂き 有り難うございます。
50代の私を含め日本の本当の事って日本人も知らないですもんね。
日本人で本当に良かった!!!
2016/12/22 URL 編集
厚木國殿
2016/12/22 URL 編集