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(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています) 上にある写真は、東京の青松寺にある、インドネシアのスカルノが建てた市来龍夫氏への顕彰碑です。
スカルノは、この書を涙を流しながら書いたと伝えられています。
そのインドネシアの独立は、昭和20(1945)年8月17日です。
そのときの独立宣言書には、次のように書かれています。
「Proklamasi
Kami bangsa Indonesia dengan ini menjatakan kemerdekaan Indonesia.
Hal-hal jang mengenai pemindahan kekoeasaan d.l.l.,
diselenggarakan dengan tjara seksama dan dalam tempo
jang sesingkat-singkatnja.
Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05
Atas nama bangsa Indonesia.
Soekarno/Hatta」
意訳しますと次のようになります。
「独立宣言
我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力及びその他の委譲に関する事柄は、
完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
ジャカルタ、05年8月17日
インドネシア人民の名において
スカルノ/ハッタ」
1945年なのに、なぜか日付が05年です。
これは日本の皇紀2605年(=西暦1945年)の下二桁を表記したものです。
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実は、インドネシアには古くから伝わる伝説がありました。
それは12世紀頃のもので、当時、東ジャワのクディリ王国に、ジョヨボヨ(Jayabaya)という王様がいました。(位1135以前-1157以後)
このジョヨボヨ王は、宮廷詩人ウンプ・セダーとウンプ・パヌルーに命じて、
『バラタユダ』
という予言書を残したのです。
その預言書には次のように書かれていました。
「インドネシア国内に大きな混乱が生じたあと、
外部から侵入した白い人間たちによって
支配される時代が続く。
その後、北から黄色い人がやってきて、
白い人間を追い払い、
トウモロコシ1回限りの間支配する。
その後、男は女のように、女は男のようになり、
世は麻の如く乱れるが、
やがて白馬にまたがる救世主が登場し、
永遠の平和と幸福が約束される。」
この予言は見事に的中しました。
インドネシアは16世紀以降、約300年にわたって、オランダに支配されたのです。
オランダ人は、インドネシアの人々に、一切の教育・医療を与えませんでした。
人々の私有財産も認めませんでした。
そして人々の集会も、イスラムの信仰も禁止しました。
運動広場などの体力を鍛えるための設備を作ることも一切禁止しました。
知力体力をつけたらオランダ人に歯向う危険があると考えられたからです。
当時の象徴的な物語があります。
日本軍がやってくる前、インドネシアの公営プールには、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「犬とインドネシア人入るべからず」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と書かれた看板がありました。
これは現実にあった出来事です。
1942年、日本軍がインドネシアに上陸しました。
日本軍はオランダ軍と闘い、なんと、たったの一週間でオランダ軍を全面降伏させました。
これはインドネシアの人々にとっては驚異でした。
(いまの我々からみても驚異です。)
古いジョヨボヨの予言にあった「北から黄色い人がやってきて、白い人間を追い払う」は、的中したのです。
インドネシアの人々は、これこそまさに予言の成就と狂喜しました。
日本軍は、インドネシアの各地で紅白旗(インドネシア国旗)と国歌「インドネシア・ラヤ」の大合唱で迎えられました。
けれども、日本の占領統治は、トウモロコシ1回限りの間・・・3年5ヶ月にすぎません。
これも予言の通りでした。
しかし、日本の統治がインドネシアの民衆に与えた影響は、予言以上のものでした。
独立運動家であったスカルノ氏ややハッタ氏らは、「オランダ領東インド」という国名を「インドネシア共和国」に改称しました。
「バタヴィア市」も「ジャカルタ市」と改名しました。
そしてオランダ人の代わりにインドネシア人を役所や企業でかなり高い地位につけ、インドネシア人の社会進出を飛躍的に進めました。
さらに、公用語をオランダ語からインドネシア語に改めました。
これは、インドネシアの人々に誇りと自信を取り戻させました。
このあたりの情況を、阿羅健一さんの『ジャカルタ夜明け前-インドネシア独立に賭けた人たち』から、すこし抜粋します。
◯モハマッド・ナチール氏の話
(当時バンドン市教育部長。1950年首相に就任)
(※日本軍政時にプリアンガン州の内政部長となり、インドネシアの初代閣僚となる人々を教育した
姉歯準平氏 について。)
姉歯さんは、
インドネシア人はオランダ時代のやり方を
すべて放棄しなければならないし、
もっと能率的に仕事をしなければならないと度々話しました。
インドネシア人は三百五十年間も植民地にされたせいで、
怠慢のくせがついているから
オランダ時代のやり方は
全て放棄しなければならないというのです。
やがて、いうだけでなく、
私達に行動することを求めるようになりました。
たとえば、私達が仕事を終えて家に帰っても、
用事があると呼び出します。
それまでいったん家に帰れば仕事をする習慣は無かったので、
私たちにとってそれはとても疲れることでした。
また、仕事をする上で遅刻は絶対しないことと、
日の出と共に働かなければならないことをいって、
ほかのインドネシア人と違い、
私たちが遅刻でもすると厳しく叱るようになりました。
姉歯さんの周りには日本人がいたにもかかわらず、
そうやってほとんど私たち五人と相談し、
私たちに仕事を命じましたので、
私たちは次第にやる気を起こすようになりました。
昼休みといってものんびり食事をすることはなくなり、
二時にみんなが帰っても四時までは仕事をするようになりました。
私たちと姉歯さんは英語で話し合っていたのですが、
それからしばらくしたころ、
姉歯さんは私たちにこういいました。
「日本がインドネシアにやって来た目的は、
インドネシアの独立を支援することで、
日本人がここにいるのはあとわずかだろう。
まずこれをしっかり頭に入れてほしい。
次に、将来、インドネシアが独立したなら、
インドネシア人の中から首相が選ばれるだろうが、
私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。
しかし、これまで何度もいっているが、
私が一番早く役所に来て、
一番遅くまで仕事をしている。
皆さんはどうか。
間もなく去ろうとしている私が、
これからもずっといるあなたたちより働いているのではないか。
インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、
熱心に仕事をする以外に独立を実現させる道はない。
独立してもきちんと行政が出来るように今から準備すべきで、
そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。
ほかの人はどうあれ、
まず皆さんが率先しなければならない」。
日本軍が来てから、
インドネシアの独立がどうなるのかははっきりしていませんでした。
インドネシアに来る前、
日本はインドネシアが独立すべきだといっていたのですが、
いつのまにか私たちの周りでは
独立については口にしてはならないというような
雰囲気が生まれていました。
日本軍の宣伝班はいろいろなスローガンを掲げますが、
独立については何もいいません。
ですから、姉歯さんのような高い地位にいる日本人から
インドネシアの独立という言葉を聞いてびっくりしました。
それと共に、仕事について厳しい指摘をされましたので、
私たちは非常に恥ずかしい気持ちになりました。
確かに姉歯さんのいう通りです。
仕事が終わって私たちと集まりを持つときでも、
姉歯さんが一番先に来て私たちが来るのを待っています。
私たちは四時まで仕事をするようになったといっても、
姉歯さんより早く帰ってしまいます。
姉歯さんは身を以って公務員の生き方を示しており、
それを私たちは目の当たりにしているのですから、
言われる前に気づかなければなりません。
国民がどうあれ、
まず私たちがもっとしっかりしなくてはならないと思いました。
***
日本軍は、さらに、津々浦々に「隣組」や「警防団」などを組織し、子どもたちのための学校を作りました。
そしてその学校の校庭で、日本軍は、オランダが決して行わなかった軍事教練も開始しました。
そして終戦。
終戦後、オランダ軍とイギリス軍がインドネシアに進駐してきました。
ジャワ島中部にあるスマランでは、欄英連合軍の侵攻を知ったインドネシア人が、日本兵居住区に行き、そこにいた日本人を収容所に入れてしまいました。
そして恐怖に怯えたインドネシア人たちは、収容所にいる日本兵を殺してしまいました。
このとき、かすかに息が残っていた阿部頌二氏(写真)が自分の流れる血で壁に次のように書き残しました。
バハギア ムルデカ 祝福独立
インドネシア独立 喜び死す
日本人万歳 大君
文はここで途切れています。「大君・・」まで書いたところで力尽きたのでしょう。
(阿部頌二氏)血書を書いた阿部頌二氏は、慶応大学を卒業して、森永乳業に勤めていた人です。
彼は、インドネシア人たちが自分たちを裏切り、殺害されようとして瀕死の重傷を負った中で、この血書を残しました。
そして、「祝福独立、喜び死す」と書いているのです。
当時、インドネシアには約2000人の元日本兵が残りました。
そしてその2000人が、インドネシア人と共にオランダと戦いました。
半数が死にました。
1949年、インドネシアはオランダ、イギリス両軍に勝利し、念願の独立を手入れました。
そして独立後のインドネシア政府によって、亡くなられた千人の日本人兵士は、インドネシア国営英雄墓地に埋葬され、その中の数名は独立名誉勲章を授与されました。
インドネシアの中学3年用歴史教科書に書かれている文を引用します。
「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。
第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、
インドネシア語が成長し、使用が広まった。
日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は、驚異的発展をとげた。
第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、
竹槍、木銃によるものだったとはいえ、
きびしい規律を教え込み、
勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。
第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、
日本はインドネシア人に高い地位を与えて、
われわれに高い能力や大きい責任を要求する重要な仕事をまかせた。」
日本人にとって軍人は、品行の立派な人たちです。
これは、訓練された将校たちだけでなく、徴兵された兵であっても同じです。
いま日本の軍隊は、自衛隊という法的には軍とは異なる編成となっていますが、それでも自衛隊の皆さんは、誇りを胸に、どんな辛い現場であっても、誠実に職務を遂行します。
日本人にとって、武を司る人たちは、いつの時代にあっても、常に立派な人たちであり続けました。
けれど世界における軍隊の中には、よその大国の後ろから付いていって、戦闘になれば我先にと逃げ出し、武器を持たない現地の人たちに対しては居丈高になって銃を乱射し、暴行や強姦の限りをつくし、わずか5万の兵が派遣されただけで、10万人の混血児を残してくるような、とんでもない軍隊も存在します。
そしてそういう国の出身者からみれば、軍は日本の自衛隊であってさえも、恐怖の対象にしかみえないもののようです。
歴史が違うのです。
私たちは、私達の先輩たちが行った、真摯で真面目な態度を、もっと誇りに思って良いと思います。
下にある『ムルデカ』という映画は、加瀬英明先生が監修し、インドネシアと共同で作った映画です。
これは史実です。
ムルデカ 17805 インドネシア独立と日本軍兵士VIDEO さて、インドの預言書には、日本軍が去ったあと、
「男は女のように、女は男のようになり、
世は麻の如く乱れるが、
やがて白馬にまたがる救世主が登場し、
永遠の平和と幸福が約束される。」
と書いてありました。
「男は女のように、女は男のようになり、
世は麻の如く乱れる」
は、戦後から現在にいたるインドネシアのことであるように思えます。
戦後という時代は、これはインドネシアに限らず日本も同じですが、まさに「男は女のように、女は男のようになり」ました。
そしていまのインドネシアは、宗教上の対立から、テロも頻発し、政権も不安定で、まさに「世は麻の如く乱れる」情況にあります。
では、
「やがて白馬にまたがる救世主が登場し、
永遠の平和と幸福が約束される。」
とは、どのような時代を指しているのでしょうか。
預言は12世紀のものです。
ですからここで言われている「白馬にまたがる救世主」の出現は、来世紀以降のことなのかもしれません。
ただ、ひとつ言えることがあると思うのです。
情報通信網が発達し、飛行機などの交通網も過去の世界とは比較に成らないほど発達した現代社会から近未来において、「永遠の平和と幸福」というのは、インドネシア単独では不可能なことであるということです。
世界が「永遠の平和と幸福」の輪に至ったとき、はじめて、一国の平和と幸福が約束されるのです。
とりわけ、平和を考えるとき、戦争には相手国の存在があります。
自国がいくら平和を希求しても、それだけでは平和は実現しないのです。
インドネシアの場合、もちろん宗教上の対立は深刻ですが、他に海洋国家として、中共政府の目に余る傍若無人もあります。
韓国人の進出による、無理やり歴史を韓国に都合の良いように書き換えさせようという動きもあります。
そしてその動きは、かつての宗主国であるオランダの思惑ともある意味一致するところがあります。
加えて、2018年問題というものがあります。
コンピューターのチップが人間の脳細胞の容量を越えるのが2018年です。
つまり、来年です。
近い将来には、外国語を習得する必要もなくなると言われています。
全部コンピューターが翻訳してくれるようになるというのです。
言葉の障壁がなくなるということは、世界が、それぞれ別な言葉を用いながら、同時に世界がひとつの言語空間を共有することができるようになるということです。
そういう世界にあって、インドネシアに「白馬にまたがる救世主が登場し、永遠の平和と幸福が約束される」というのです。
「白馬に乗った救世主」というのは、おそらくなのですが、特定の人を意味しているのではないと思います。
仮にそれを意味していたとしても、その背景には、インドネシアに限らず世界に「永遠の平和と幸福を約束」できるだけの思想的背景が必要です。
そこがとても興味深いところです。
なぜなら、その思想的背景は、これまでの王権主義とも違う、宗教中心主義とも違う、民主主義とも違う、もちろん覇権主義や共産主義とも違う(これらはすべて対立を生んできました)、まったく別な思想的背景であるといえるからです。
つまりそれは、
宗教さえも超えうる何か
であり、
西洋的「〜イズム(◯◯主義のこと)」を超える何か
であるということになります。
それはどのようなものなのでしょうか。
私には、その思想的背景こそ、シラス・ウシハクであり、古事記に描かれた世界観のような気がしてならないのです。
日本列島は、世界の縮図という話があります。
たとえば下の図です。
この図でいうと、インドネシアは、日本の小笠原諸島にあたります。
そして、古事記の出雲神話は、そのままノルウェーのバイキングたちによる、ヨーロッパ社会の王権支配かもしれません。神武東征は、アフリカで発祥した現生人類が、地中海を通っていまの中東・サウジアラビアのあたりにエデンの園を築いた時代に相当しているのかもしれません。
神々の神意ははかりかねます。
けれど、あらゆる宗教を超越し、また人類に究極の平和と繁栄をもたらすものは、和の心であり、あらゆる神々と人類がつながるシラス(知らす、Shirasu)であり、秩序のためのウシハクなのであろうと思うのです。
一昨年が古事記1300年でしたが、これは、古事記の蓋が開いたということを意味しているように思います。
古事記の智慧が、人類社会の新たな智慧として、水源地を出たのです。
その水の流れは、はじめは一滴の水かもしれませんが、やがて急流となり、大河となって世界中の人々の未来を拓く大いなる海となっていくのではないかと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
ななし
http://blog.livedoor.jp/kamasapiens/archives/68597499.html
これを見たら、自衛隊員と日本兵の姿が、重なって見えました。
2017/01/12 URL 編集
紫陽花
日本人はどこに居ても日本人なのでね。
今の自分を恥じてしまいます。本当に足元にも及ばない自身を奮い立たせて、もっとお国の為になるよう、小さな歯車でよいからお役に立てるような生き方をしたいと思います。それは小さな家庭の中や、泥だらけの現場の中、書類の積まれた狭い机の上にあっても、それを全身全霊全うするに限りますね。
小さな歯車と軽んじてみたり、手を抜けば、たちまち壊れたり、崩れたりするのが、家庭であり、インフラであり、事業である事がよく判って来ました。
そしてこのような思いを後の世に遺して下さった先人達に厚く感謝する次第です。本当によく頑張って下さいました。有難うございます。
2017/01/11 URL 編集
風鈴
平和部隊に反対するアメリカ人も実は居た。若者を貧困社会へ送るだけでその共同体を破壊し、アメリカにトラブルを持ち込むという理由だった。それから数十年、あらゆるトラブルに関わったアメリカは世界一の債務国になり、国内問題でも悩まされ続けている。
ルーズベルトは日本人を列島の中に閉じ込めてしまえと言った。四島の中に閉じ込められて日本はひどい目にあったのだが、気がつけば世界一の債権国になっていた。なぜだろうか。他国の面倒を見る必要がなかったからだろう。
偉大なるルーズベルトは見通しを誤った。憎い日本を潰すためには、おだて上げて世界中のトラブルに関与させるべきだった。拡散された日本人は脆い。歴史上山田長政をはじめ、日本列島から出て行った日本人はすべて消滅した。なぜか。そこに天皇がいなかったからではないか。
2017/01/11 URL 編集