三村弘上飛曹以下7名は、7月28日の早朝に台湾の新竹基地に到着しました。
そこで彼らに「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われました。
式が終わるとすぐに出発しました。
台湾の宜蘭基地を経由して、石垣島へ転進です。
そして石垣島から先島諸島へ、そこから宮古島へと移動しました。
本来なら、台湾からひとっ飛びの距離です。
しかし、それができるだけの性能が、この飛行機にはありません。
燃料も持たなかったし、飛行速度が遅いから、飛ぶのに時間がかかるのです。
実はこの移動だけでも、九三式中間操縦練習機(赤とんぼ)にとっては、たいへんなことでした。
実は、「第三竜虎隊」に先だって「第一、第二竜虎隊」が台湾を出発しているのです。
しかし、第一も第二も、飛行中に機体に故障が続出、さらに天候不良が重なって、両隊ともほぼ全機が与那国島へ不時着してしまっていたのです。
しかも全機、飛行不能です。
エンジンに無理がかかってしまったのです。
28日夜半、「第三竜虎隊」は、赤トンボに、250キロ爆弾をくくりつけました。
無茶な話です。
当時、特攻に使われた戦闘機の多くは、2000馬力級のエンジンを搭載しています。
対する赤トンボは、わずか300馬力です。
そこに250キロ爆弾をくくりつけるというのは、原動機付き自転車で大型ダンプカーを牽引するようなものです。
機の性能の限界を超えています。
ですから宮古島を離陸した「第三竜虎隊」は、まず8機のうちの1機がエンジントラブルに見舞われました。
限界を超えてエンジンを全回転させているのです。無理もないことです。
やむをえず、その機は宮古島に引き返したのですが、着陸までエンジンが持たずに飛行場で大破しています。
残る7機は、三村隊長機を先頭に、整然と隊列を組んで沖縄に向かいました。
しかしやはりエンジンが不調となり、2機がいったん宮古島に引き返します。
残る5機は、そのまままっすぐに米艦隊の群がる沖縄の海に向かいました。
沖縄までたどり着くだけでも容易でない赤トンボです。
その行き先の沖縄の海には、見渡す限りの米軍の大艦隊がいます。
到着したとしても、速度の遅い赤とんぼで、見事、特攻を成功させれる見込は、かなり薄いと言わざるを得ません。
当時の戦闘機は、時速600km/hくらいのスピードで飛びました。
しかし、250kgh爆弾を搭載した赤トンボは、時速130km/hがようやくです。
三村隊長は、出発前の日記に、
「九三中練で死ぬとは思いもよらず」
「九三中練とはちょっと情けないが、我慢しよう」と書いています。
そもそも不可能としか思えない作戦なのです。
それに誰だって、最期に死ぬ時くらい、カッコよく死にたい。
どうせ死ぬなら、憧れのゼロ戦に乗って、とは誰しもが考えます。
ところがそのゼロ戦は、すでに補充がありません。
もはや赤とんぼしか、まともに飛べる飛行機もなかったのです。
たとえ、機体が練習機にすぎなくても、皇国を護るために命をかける。
その覚悟あっての特攻作戦でした。
ところが、ここに奇跡が起こったのです。
「第三竜虎隊」は、米軍に発見されなかったのです。
米艦隊は、当時、最新式のレーダー探知機を使い、日本軍の飛行部隊を通常150kmで捕捉していました。
ところが、赤トンボは、極めて操縦性能の良い練習機です。
ですから、夜の海を海上すれすれに飛びました。
そのためにレーダーに捕捉されにくい。
しかも、機体は木と布です。
ですから米軍自慢のレーダーにもほとんど反応しない。
たまに反応しても、光点は、点いたり消えたりです。
しかも、異常に飛行速度が遅い。戦闘機なら落下してしまいそうです。
米艦隊の中でも、議論になりました。
レーダーが感知したこの光点は、鳥か飛行機か、それとも誤反応か。
このため、本来なら、特攻攻撃に備えて準備万端整えるのに、その迷いが、米軍の戦闘準備を遅らせました。
米軍が、ようやく「敵機だ」と気が付いたときは、すでに赤トンボは、艦隊のわずか20km先、到着までわずか10分弱の距離まで近づいていたのです。
「敵機来襲!」
米艦隊は大慌てて、特攻攻撃に備えました。
艦上は大混乱に陥ります。
敵は、どこだ!?
見れば、もう肉眼で見える海上を、超低空で日本機がやってきています。
この当時、米軍が日本の特攻機対策のために採用していた高射砲は、飛来する飛行機のすぐそばで破裂すると、弾薬の中の鉄片が四散するというものでした。
弾が直接当たらなくても、敵機を撃墜できるのです。
ところが練習機赤トンボは、あまりの低空飛行であるがために、高性能高射砲を撃てない。
その角度で撃ったら、友軍の艦船に弾が当たってしまうからです。
米艦隊は、至近距離に近づく赤とんぼを、近距離砲を使って迎撃します。
滅茶苦茶に弾が飛んできました。
赤トンボは、低速です。
何発もの弾が、赤トンボに命中しました。
ところが、弾が命中しているのに、赤トンボは、墜ちません。
赤トンボは、機体が布張りですから、弾が貫通してしまったのです。
三村隊長以下7機の「第三竜虎隊」は、全機、敵弾を受けて機体を穴だらけにしながら、さらに敵艦隊に肉迫しました。
敵の輸送船には目もくれません。
狙いはあくまで敵の軍艦です。
そして最初の一機が、米軍の誇る最新鋭駆逐艦「キャラハン」の右舷に体当たりを成功させました。
赤トンボは、時速130km/hの低速です。
機体は艦上で爆発炎上し、木端微塵になりました。
通常、これだけでは、固い装甲を施した駆逐艦は沈没しません。
ところが、赤トンボが、重たい荷物として運んだ250キロ爆弾は、装甲弾です。
爆弾は機関室まで突入し、そこで大爆発を起こしたのです。
機関室のすぐ脇には、対空弾薬庫がありました。
炎はこれに誘爆して、艦は大爆発炎上しました。
そして「キャラハン」は、まさにあっという間に沈没しました。
米軍は、大東亜戦争を通じて、いまにいたるまで、その場であっという間に完全に沈没した艦以外は、「沈没」と発表していません。
たとえば、大破炎上して、数時間の後に沈んだ船は、それが日本側の船なら「撃沈」に加えますが、自軍の船なら「大破」とします。
戦いのその場では沈んでいない、というわけです。
けれどこのときの「キャラハン」は、どうにも誤魔化しようのない、まさに「沈没」とされました。
続く2番機は、「キャラハン」のすぐ近くにいた駆逐艦「プリチット」にめがけて突入しました。
「プリチット」の対空砲火開始は、なんと赤トンボとの距離が1500メートルに迫ったときでした。
それでも、ギリギリ、艦の1.8メートル手前で、赤トンボを撃墜しています。
ところが、この日のために訓練を積んだ「第三竜虎隊」の執念の一撃です。
赤トンボが海上に激突した衝撃で、搭載した爆弾が「プリチット」に命中したのです。
「プリチット」は、大破炎上しました。
「プリチット」の近くにいた、米駆逐艦駆逐艦「カシンヤング」は、赤トンボ2機を撃墜しました。
ようやくホッとして、武装を解いたとき、そこに、いったん宮古の基地に引き返した赤トンボ2機が、機体の整備を終えて、すぐに後方から発進してきていたのです。
この2機も米軍のレーダーに発見されませんでした。
気がついたとき、その2機は、最初の特攻攻撃が終わってホッとひといきついていた「カシンヤング」の目の前にいました。
迎撃の間もなく、超低空を飛行してきた2機の赤トンボは、「カシンヤング」の右舷に激突しました。
「カシンヤング」は、艦の中央部が大爆発し、炎上しました。
この特攻攻撃で、「カシンヤング」は、22人が戦死、45人が重傷を負っています。
さらにこのときに、米駆逐艦の「ホラスAバス」にも特攻機が命中、炎上しています。
タイミングからすると、これも「赤トンボ」の「第三竜虎隊」による戦果である可能性が高い、というより、そうとしか言いようがないし、米軍機が自軍の船に体当たりした以外には、考えられないことです。
こうして米駆逐艦「キャラハン」「プリチット」「カシンヤング」「ホラスAバス」7機中4機が命中しました。
「キャラハン」は沈没、他は大破です。
成功率57%、そしてこの駆逐艦「キャラハン」が、米軍の発表する最後の「特攻機に沈められた艦」です。
「第三竜虎隊」隊は以下の7名です。
水偵出身で洋上航法に習熟した海軍上等飛行兵曹三村弘(岡山県)。
予科練出身の、海軍一等飛行兵曹 庵民男(鹿児島県)
同、佐原正二郎(静岡県)
同、川平誠(静岡県)、
同、原優(長野県)、
同、近藤清忠(長野県)、
同、松田昇三(東京都)、
わずかでも可能性があるならば、その可能性を信じて戦いぬく。
なんのためでしょうか。
沖縄を護るため、日本を護るためです。
沖縄戦を生きのびた民間人の方の証言があります。
「特攻隊が来て村の上を回って米軍に突っこむ。どこの子かわからないが胸がつぶれる思いだった。自分たちのために来て死んでいっただんだなと。。。。」
今を生きている私達の命は、こうして何もかもなくしながら、勇敢に最後まで戦ってくれた英霊たちのおかげでもたらされた命です。
犬だって、飼い主への感謝を忘れないといいます。
ましてや私達は人間です。
そして同じ日本人です。
感謝の心を持とうではないですか。
なるほど戦後70年、日本は平和でした。
戦争も一度もしないで済んでいます。
けれどそれは、憲法9条があるからではありません。
このことは、ちょっと考えたらわかることです。
戦争は、一方当事者がいくら戦争を放棄しても、もう一方の当事者国が攻めて来たら、平和は破られるのです。
ではなぜ日本は、戦争をしないでこの70年を過ごすことができたのか。
その理由は、寝た子を起こしたらヤバイというのが、世界の共通認識だったからです。
日本人は、平和を愛します。
これほど平和を愛する民族はいません。
けれど、ひとたび怒らせたら、これほど戦いに強い民族は他にないのです。
いま、宮古島の市営陸上競技場の東の嶺に、彼ら「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑が建っています。
そこには、次のように記載されています。
【建碑の由来】
もう何も思うまい何も思うまいと、思うほどこみ上げる父母への思慕、故郷の山河。
今生の別れの瞼にうかぶ月影淡く孤独を伴に無量の思いを抱き、唯ひたすら沖縄へこの胸中いかにとやせん。
ああ途絶の死真に痛恨の極みなり
一九四五年七月二十九日夜半
神風特別攻撃隊第三次竜虎隊上飛曹 三村弘
一飛曹 庵 民男
同 近藤清忠
同 原 優
同 佐原正二郎
同 松田昇三
同 川平 誠
義烈七勇士は、日本最後の特攻隊として、世界恒久の平和を念じつつ、ここ宮古島特攻前線基地を離陸。
沖縄嘉手納沖に壮烈特攻散華す。
その武勇萬世に燦たり。
願はくば御霊安らかに眠られよ。
父母のみむねに
神風特別攻撃隊竜虎隊一同
一九九五年七月二十九日
神風特攻第四次竜虎隊員
滋賀県水口笹井敬三
【鎮魂の詩】
紺碧の海 風亦清し
島人素朴にして
人情濃いなり
誰か思わん 此の地激戦跡なるを
瘡偉飢餓将兵僵る
相図る戦友建碑の事
鎮魂痍悼安眠を祈る
幾たびか島を尋ねて遺族感泣す
更に願う
島を守りて 平和の全きを
昭和六三年 十月吉日
この文を書く前、たまたまウィキペディアで「特別攻撃隊」の記事を読んでみたら、そこには、次のように書いてありました。
「元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は、敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった。
だがまったく使えなかった訳でもなく、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦1隻を撃沈している)。」
冗談じゃあないです。
「わずかばかり」とは何事か。
しかも、戦果は駆逐艦1隻の撃沈だけではありません。
戦後、私たち日本人は、こうして命をかけて戦った帝国軍人を、微妙な言い回しで辱められ、貶められてきました。
でも、もう目覚めるときです。
ちなみに「トンボ」の絵柄は、戦中までは、特に軍人さんに好まれた絵柄でした。
トンボは、空中を飛行する時、停止と前進しかできません。
後退できないのです。
だからトンボの絵柄は、不退転を意味しました。
私の扇子の絵柄も、勝負ネクタイも、トンボです(笑)
※この記事は平成22(2010)年の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
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「ありがとうございます」その言葉しか出て来ません。
靖国は、「ありがとう」とあの方達に伝える為の場所なんですね
2017/01/18 URL 編集
神主の末裔
実は、小生の亡父は終戦直前に理系の学生であったのですが、海軍に志願し、霞ヶ浦で数回赤とんぼに乗ったところで終戦となったのです。
当人は特攻に行くはずだったと言っておりました。
私は「もう戦闘機も燃料も無かったから、出撃は無理だったのでは」と言ったりしてましたが、わずかな燃料と練習機で特攻された方が居たとは知りませんでした。
赤とんぼは、ある意味当時のレーダーに対してステルスだったのですね。
私の生があるのも、命をかけて戦ってくれた先人のおかげです。
2017/01/17 URL 編集
珊 島
その「男たちの旅路」を元正論編集長の上島嘉郎さんがチャンネル桜で紹介されていましたが、同じ思いを全く同様に受けたものとして山田太一氏、上島嘉郎氏には満腔の謝意を払うものです。
https://www.youtube.com/watch?v=B2YTZCecwMc
話がそれましたが「耳を澄ましてごらん」の3番の歌詞を紹介します。
3.空を見上げてごらん
あれは南の風のささやき
時は過ぎ 人は去り
冬の世界を 歩むとも
生きるの強く あの愛があるから
https://www.youtube.com/watch?v=XXDTOIRPJA0
そこに「あれは南の風のささやき」のフレーズがあります。それは一体何を意味するのだろうかと前から気になっていたのですね。空には雲があり星がある。それがささやきとなるのだろうかと。そして次には冬の世界と来る。南の風と冬の世界を対比させている。全く分りませんでした。
ある時、龍虎隊の碑を訪れ語りかけた時、ハッ!と気づいたのですね。南の風のささやきというのは南方で散った英霊の声ではなかろうかと。私にとってはまさにそうでした。「強く生きるのだ!」と龍虎隊に励まされているようで、何とも不思議な感懐に包まれたものです。
「藍より青く」は熊本県の天草が舞台でした。昨年6月、熊本地方は大変な震災に見舞われました。被災者にとっては今なお厳しい試練が続くでしょうが、あの歌のごとく強く生きていて欲しいと願わずにはいられません。
2017/01/14 URL 編集
珊 島
日本最後の神風特別攻撃隊・第三次龍虎隊員で、沖縄本島の嘉手納沖で亡くなった本土出身7人のみ霊を慰める慰霊祭が5月29日、平良二重越にある慰霊碑前で行われた。戦友や遺族関係者らが参列。花や果物などを手向けて冥福を祈るとともに恒久平和を誓った。
隊員7人は、太平洋戦争末期の1945年7月、250キロ爆弾を搭載した海軍の九三式中間練習機、通称「赤トンボ」で、宮古島から沖縄本島沖の米艦隊を目がけ飛び立ち、敵船に体当たりして戦死した。
慰霊祭で元神風特別攻撃隊龍虎隊員の庭月野英樹さん(90)=宮崎県=が追悼文を読み上げ、参列者は線香をあげ手を合わせた。
慰霊碑を建立した、同第四次龍虎隊員の笹井敬三さんの長女・良子さん(60)=滋賀県=は「多くの人たちが集まってくれて父も喜んでいる。どうか安らかに眠ってほしい。私たちは戦争を深く胸に刻み平和を願っていきたい」と話した。
戦死した川平誠さんの兄の息子である川平裕昭さん(62)=静岡県=は慰霊祭に初めて出席した。直木賞作家の古川薫さんが、第三龍虎隊士を描いた作品「君死に給うことなかれ」(幻冬舎)を読んだという。「ここ宮古島で慰霊碑がきちんと管理され、慰霊祭が行われていることに叔父も喜んでいると思うと語った。
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訂正
虹の千羽鶴
「12月16日に→12月16日の」に訂正
宮古新報記事
「合唱→合掌」に以上訂正します。
失礼しました。
2017/01/14 URL 編集
珊 島
太平洋戦争末期の1945年7月29日、宮古島から敵艦に向けて飛び立った神風特攻隊・第三龍虎隊の隊員を偲ぶ慰霊祭が29日、宮古島市平良二重越にある慰霊碑前で行われ、元隊員の庭月野英樹さん(90)や遺族数人訪れ、戦争の犠牲となった御霊の冥福を祈った。
第三龍虎隊のメンバーは全員二十歳前後の若者。終戦まで残り少なくなった7月28日、当時「赤とんぼ」と称された布張りの練習飛行機に250キロ爆弾をくくりつけて宮古島を飛び立ち、翌29日夜半、沖縄本島沖に浮かぶ敵艦に特攻を仕掛け、7人が命を落とした。
慰霊祭では、特攻を仕掛ける直前に別部隊に配属された庭月野さん、慰霊碑を建立した笹井敬三氏の娘・良子さんらが千羽鶴と一緒に献花し、慰霊碑前で合唱。深く目を閉じ、「安らかに眠って」と声を震わせた。
第三龍虎隊に所属した川平誠さんの甥に当たる川平裕昭さん(62)=静岡県=は「古川薫さん(直木賞作家)が出した本(君死に給ふことなかれ)を読んで慰霊碑のことを知った。ここに来れて良かった」と安心したように話、しっかりと手を合わせていた。
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宮古島より
2017/01/14 URL 編集
珊 島
はじめまして。
先日、宮古島の赤とんぼの碑を訪れることが叶いました。
古川先生の本を読ませていただいてから
若き七英霊に会いに行かせて頂きました。
心ばかりではありますが千羽鶴を置かせていただき
手を合わせる事が出来ました。
全ての戦没者の方々が安らかに眠って下さっている事を
心より願っています。
2015/12/16(水) 12:55 | URL | ゆうこ #-[ 編集]
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2666.html
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上記は一昨年(平成27年)12月16日に第三龍虎隊碑前に千羽鶴を捧げられた、ゆうこ様のコメントです。その後、その千羽鶴がどうなったかお知らせしたいと思います。
私が2015年12月に碑を訪れたのはクリスマス前の23日でした。そこで目にしたのはきれいな七色のグラデーションで折られた見事な千羽鶴でした。傍らにはオレンジ色の練習機赤トンボの模型もありました。どなたが捧げたのか、初めて見る千羽鶴に感激もひとしおで胸詰まりました。しかし記録的な長雨にしおれていて、模型のプロペラも脱落していました。
参拝後、持ち帰って乾かし飛行機共々修繕を行い、今現在大切に保管してあります。昨年の慰霊祭にあらためて捧げたところ、庭月野様、笹井様、初めて列席した川平誠一飛曹の遺族関係者方々大変に感謝しておられました。その言葉をゆうこ様に伝えたいと思いながらも叶わず、今に至ったこと誠に申し訳なく思っています。列席者の方々にも重々お詫び申し上げます。ありがとうございました。
宮古島より
2017/01/14 URL 編集
ポッポ
日本が米国を中心とする連合軍との戦争で、戦局が悪化して敗退が続き、転身せねばならない状況に陥る一方で、後方の日本では十分な武器がなく、資材が不足し、技術もなかったとき、技術の代わりを人がやった。
日本人の精神力の強さには、連合軍はバカと言う他なかったのですが、その心胆は恐ろしかったと思います。
赤トンボの特別攻撃隊は、他に使える飛行機がなかったから使ったもので、ゼロ戦があればその方を使いたかったと思います。
しかし、その頃の軍中枢部は、兵隊は特別攻撃をするためのものだと考え違いをしていなかったでしょうか。
特別攻撃隊は特別なものであって、これを通常だとの発想はやはり可笑しいです。
造る飛行機は特別攻撃の剣や桜花、魚雷を使った回天もありました。
震洋なんてトラックエンジンを使ったボートは6,197隻も造りました。
伏龍は潜水具で棒に付けた機雷を、敵の舟艇に接触させて爆破させると言う戦法ですが、上陸前に敵が艦砲射撃で浅い水面を砲撃すれば、体を伏せることもなく撃たれるしかないと思います。
武器が十分にないのは分かりますが、兵隊の命を余りにも軽く考えて、兵隊は死ぬものだと決めていたのではないかと、悲しくなります。
2017/01/13 URL 編集
一有権者
戦争も一度もしないで済んでいます。
けれどそれは、憲法9条があるからではありません。
このことは、ちょっと考えたらわかることです。
戦争は、一方当事者がいくら戦争を放棄しても、もう一方の当事者国が攻めて来たら、平和は破られるのです。
まさに仰る通りと思います。よくぞ93中練という旧式飛行機で米軍に必死の攻撃を成功させたものと英霊の皆様に感謝の念しかありません。
投稿された方が仰る通り日本と米国は戦う必要がなく、本当の敵は中国とソ連だったのでしょう。当時の米国民主党のFDルーズベルト政権にはスターリンのスパイが多く潜り込んでいたことが戦後公開された資料から判明していますし、蒋介石の婦人宋美齢も米国でプロパガンダ活動を流ちょうな英語で行っていたことは良く知られています。我が国日本国の弱点ですね。
くわえて何が理由か調べないとわかりませんが、ルーズベルト大統領が日本人が嫌いであったようです。それは彼の政策を見ればよくわかります。
当時は弱肉強食の時代真っ盛り。米国も西海岸到達後ハワイ王国を併合、フイリピンを米西戦争にてスペインから奪取、次は中国と思ったらその手前に厄介な国日本がいる。
彼の日本人移民に対する政策は人種差別そのものです。同じ枢軸国出身でもドイツ、イタリア系の白人は戦中も普通に米国で生活できたことを見ても、彼の偏見ははっきりと判ります。
21世紀を迎えた現代も黒雲が世界の空を覆いつつあるかのような不安な状況を呈しつつあると思います。
歴史から教訓を学び決して戦争を招かぬ様、そして日本国が独立を保ち未来の日本人に託せるように、今を生きる日本人は努力せねばなりません。
情報戦に弱く今も中共や韓国からありもしない捏造の歴史で煮え湯を飲まされ続けているわけにはまいりません。様々な手を打って日本を貶める者達に鉄槌を下しましょう。
まずは韓国との付き合い方を考えるべきでしょう。もう日本人的感覚で譲歩する事は必要ないと思います。嫌ならば付き合いをやめるべき。それでも我が国日本国は困らないのですから。
2017/01/13 URL 編集