二宮忠八は、慶応2(1866)年の生まれです。
このとき25歳の青年でした。
もともと忠八は、伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)の出身で、かなり富裕な家の生まれでした。
ところが父が事業で失敗し、さらに二人の兄が遊女に狂って家計が傾いたところに、父親が急死してしまうのです。
残された家族を養うために、忠八は12歳で、一家を支えるために奉公に出ました。
出た先は、町の雑貨商店だったのですが、忠八は無類の凧(たこ)好きだったため、店でいろいろな凧(たこ)を考案しました。
忠八の凧は、とてもよく飛び、凧は「忠八凧」と呼ばれて、たいそう人気を博したそうです。
20170117 若き日の二宮忠八

明治20(1887)年、忠八は21歳で徴兵されました。
任地は丸亀歩兵第十二聯隊です。
その聯隊に入隊して2年ほど経ったころのことです。
野外演習の帰り道、木陰で昼食をとっていると、霧の中からカラスが飛んできました。
残飯の米粒を求めてやってきたのです。
よく見かける光景です。
カラスは、翼を広げ、羽ばたかずに、すべるように舞い降りてきました。
そして飛び立つときには、何度か大きく羽をあおって、谷底からの上昇気流でサァ~と舞い上がります。
この様子を見た忠八は、天啓を得ます。
向かい風を翼で受け止めたら、空気抵抗で空を飛ぶことができる!
これが、いま空を飛ぶすべての飛行機に共通する「固定翼による飛行原理」の発見です。
そして一年後、ついに忠八は、「カラス型飛行器」を完成させました。
カラス型模型飛行器

明治24(1891)年4月29日の夕方のことです。
忠八は、丸亀練兵場の広場で、自作のカラス型飛行器の飛行実験を行ないました。
練兵場の仲間たちがみんな見に来ました。
この頃の忠八は、練兵場にある精神科の軍病院に勤務していました。
その忠八が、飛行機の動力源に選んだのが、なんと医療用聴診器のゴム管です。
そのゴム管には、4枚羽根のプロペラがつながれていました。
そしてプロペラが回転すると風が起き、飛行機が舞いあがるという仕組みです。
凧は、糸を人が引っ張って空に浮かべます。
しかし動力飛行機は、自分の力で、空に舞います。
忠八が、プロペラを回して、ゴムを巻きました。
いっぱいに巻いたところで、カラス型飛行機を、そっと地面に置きました。
まだ誰も飛んだことのない有人飛行に向けて、忠八の夢いっぱいに乗せた飛行機が、いよいよ練兵場の地面に置かれました。
忠八が手を離しました。
プロペラが勢いよく回転をはじめました。
多くの人が見守っています。
その中を、カラス型飛行器は、約3メートルを助走しはじめました。
そして、フワリと空に舞い上がりました。
飛行機は、ぐ~んと高度を上げました。
そして10メートルほど飛んで、草むらに着地しました。
成功です。
「な~んだ。ただのゴム飛行機じゃないか」と思われる方もおいでになるかもしれません。
けれど人類を宇宙に飛ばすロケットだって、最初の一号機は、ロケット花火程度の小さなモノから出発しています。
見守る人も忠八も、飛行機が自走して空に舞ったことに大喜びしました。
忠八は、何度も飛行器を飛ばしました。
そしてその都度改良をほどこし、翌日には、飛距離を30メートルに伸ばしました。
自信をつけた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手しました。
いろいろ研究しました。
有人飛行の研究のために、忠八は、鳥類の体型を詳細に調べるだけでなく、鳥や昆虫、トビウオいたるまで、およそ「空を飛ぶもの」ならなんでも調べたそうです。
このとき、天女や天狗についてまでも調べたといいます。
どれだけ、藁をもつかむ思いだったかということです。
この結果、鳥の体型にヒントを得た「カラス型」では、人間の体重を支えきれないことを知ります。
どうしたらいいのか。
そこで忠八は、昆虫の飛行を研究して、4枚羽根の飛行機を完成させました。
明治26(1893)年のことです。
この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられました。
玉虫型飛行器

「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されました。
ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。
ただし、翼幅は2メートルです。
有人飛行を前提にしながらも、この飛行機は、実機の縮小模型として作られていました。
実寸で飛べば、それがまさに、世界初の実用機です。
そしてこの飛行機は、人間が搭乗することを前提に、空中で飛行機の向きを上下左右など自在に操れる工夫が施されました。
いよいよ、飛行実験の日です。
動力は、強力なガソリンエンジンを搭載して、といいたいところですが、なにせ当時としてはまことに高価なガソリンエンジンを買うだけの資金がありません。
そこで、機体をゴムヒモだけで飛ばせる最大サイズで作ったのです。
烏型と同じ4枚羽の推進式プロペラを機尾で回転させます。
そして、「玉虫型飛行器」は、
実験で、10メートルを飛行します。
大成功です。
残る問題は、動力源です。
なにせゴム紐エンジンでは、人が乗るわけにいきません。
しかし、まだ電気すら通っていない明治の中頃のことです。
ガソリンエンジンは、あまりに高価で、庶民が買うことなどできません。
一方、石炭を焚く蒸気機関では重すぎて飛行機になりません。
そこで忠八は、「飛行機は絶対に戦場で役に立つ」と考えました。
「だから軍で、この研究を引き取ってくれないか」
忠八は、「飛行器」の有効性とその開発計画について、必死でレポートにまとめました。
そして翌明治27(1894)年、有人の「玉虫型飛行器」の開発を、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申しました。
個人では資金がないのです。
このままでは実機を作れない。
軍が研究を採用してくれれば、発動機を入手することも可能です。
しかしなんど足を運んでも、長岡大佐の返事は
「戦時中である」
というものでした。
大島旅団長も乗り気ではありません。
忠八の趣味や夢物語に軍予算をまわすわけには行かなかったのです。
あと一歩。
あとすこしで有人飛行機が完成するのです。
発動機さえあれば。
エンジンさえ買うことができれば。
忠八は、必死に考えました。
そして、軍の協力が得れないならば、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかない、と考えました。
忠八は、軍を退役しました。
そして大日本製薬の営業部に入社しました。
必死で働きました。
営業職は、頑張ればその分、給金があがります。
だから本気で働きました。
忠八は、みるみる成績を挙げました。
そしてついに明治39(1906)年には、愛媛の支社長にまで出世しました。
支社長になった忠八は、すこし時間に余裕が生まれました。
そして、それまで一生懸命蓄えたお金も、ようやくある程度の金額になっていました。
明治40(1907)年、忠八は、精米用の二馬力のガソリンエンジンを購入しました。
そして再び飛行機の研究を再開しました。
ところが、せっかく購入したエンジンなのだけれど、ニ馬力では、人間を乗せて飛ばすだけの推力が生まれません。
要するに力不足なのです。
しかし、当時、徐々に入荷しつつあったオートバイ用のガソリンエンジンは、まだ高く、忠八の手は届きません。
いろいろ考えた忠八は、ガソリンエンジンの部品を少しずつ買い集め、エンジンそのものを自作しようと考えます。
すこしずつ部品を買い揃えはじめました。
このとき忠八が自作しようとしたエンジンは、12馬力エンジンです。
実は、ライト兄弟の「フライヤー1号」も、12馬力エンジンです。
そのライト兄弟ですが、いまでこそ、世界初の有人飛行として有名になっていますが、明治36(1903)年12月17日のライト兄弟の有人飛行というのは、アメリカ本国内ですら、当時はまるで報道されていません。
ライト兄弟自身が、アイディアの盗用を恐れてなかなか公開飛行を行わなかったこともありますが、地上すれすれに僅かの距離を飛んだということが、この時代には、まだ、すこし「大型の凧上げをやった」だけ、くらいにしか一般には認識されなかったのです。
ようやくライト兄弟による有人飛行成功が広く世間に広まったのが、明治40年です。
そして日本で、これが初めて報じられたのが、雑誌「科学世界」の明治40(1907)年11月号です。
おそらく、忠八が、ライト兄弟のことを知ったのも、このときではなかったかと思われます。
これはショックです。
一説によると、このとき忠八は、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話もあります。
実際に壊したかどうかはわかりません。
しかし、忠八にとってライト兄弟の成功が、とてもつらくて悔しい出来事であったろうことは、容易に想像できることです。
人生を賭けてやってきたのです。
そのすべてを失ったような、そんな感じだったかもしれません。
結局、忠八は、このときのショックから、飛行器の開発を辞めてしまいます。
そして薬の製造の仕事にうちこみ、明治42(1909)年には、株式会社マルニを創業します。
ところでこのとき忠八が製作しようとした飛行機は、長い間重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。
平成3年10月、有志によって、忠八の当時の設計図通りに、実機が作られました。
そしてこの飛行機は、見事に、忠八の故郷の八幡浜市の空を舞っています。
つまり、忠八の設計による飛行機は、きわめて高性能な飛行機だったのです。
大正8(1919)年といいますから、このとき忠八は、53歳です。
明治から大正にかけての日本人の平均寿命は、44~45歳くらいだといいますから、いまの感覚でいったら、60歳くらいの社長さんという感じかもしれません。
忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(当時)と懇談する機会に恵まれます。
このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がりました。
この白川義則という人、後年、陸軍航空局長を務め、最終階級は、陸軍大将になる方です。
後に関東軍司令官、上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任した人物でもあります。
つまり、タダモノではないのです。
酒席の上での話ながら、忠八の言葉に関心を抱いた白川中将は、実際にその上申があったかをすぐに確認させました。
そして忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じました。
結果は、
「上申の事実あり」
「技術的に可能」
との回答でした。
つまり忠八は、ライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたということなのです。
白川は陸軍省にに働きかけ、大正11(1922)年に忠八を表彰します。
さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動してくれました。
おかげで忠八は、大正14(1925)年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、
大正15(1926)年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、
昭和2(1927)年には、勲六等に叙勲され、
さらに忠八の物語は、昭和12年度から、国定教科書に掲載されるようになりました。
このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪しています。
このときの長岡大佐の謝罪は、上から強制されたものではありません。
もうとっくに軍を退役したおじいちゃんです。
いまさら命令もない。
彼は、自らの不明を恥じ、自らの意思で忠八に頭を下げに来たのです。
実に男らしい振舞いだと思います。
誰だって、自分を正当化したがるものです。
失敗を他人やご時世の「せい」にしたがるものです。
そうやって、自らの責任から逃れようとするものです。
しかし長岡大佐は、自らの非と正面から対峙し、これを認めました。
自分に厳しいから、他人に対して頭を下げることができるのです。
往々にして、他人に罪をなすりつけたがるタイプの人は、自分に甘いものです。
長岡大佐は、実に立派な人であったと思います。
飛行機は、その後、瞬く間に世界に普及しました。
ただし、初期の頃の飛行機は事故も多かったのです。
満足な滑走路も、飛行管制塔もない時代です。
エンジン性能も、いまどきのエンジンのように安定したものではありません。
そのため、飛行機事故で、多くの命が失なわれました。
忠八は、自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われたことに、深い悲しみを覚えました。
彼は、飛行機を作るために貯めたお金や、懸賞でいただいたお金を、ずっと大事に遣わずに持っていたのです。
そのお金を使って、忠八は飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るために、私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立しました。
そして、自ら神主になりました。
そこで残りの生涯を、航空の安全と、航空殉難者の慰霊に捧げました。
二宮忠八翁

忠八は、昭和11(1936)年、70歳でこの世を去りました。
忠八は、ライト兄弟のような有人飛行機を飛ばすには至っていません。
しかしライト兄弟が成功するよりも14年も前に飛行原理を着想していました。
忠八が飛行機の開発にいそしんだ時代は、まだ日本に電気はありません。
動力もありません。
そんな中で、世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになりました。
日本語の「飛行器(機)」という言葉も、もともとは二宮忠八の造語です。
このお話は、戦前の教科書にはちゃんと載っていた実話です。
どうして教科書から消してしまったのだろう。
こういう話って、絶対、学校で教えるべきだと思います。
それともうひとつ。
天の神々が、二宮忠八ではなく、最終的にライト兄弟に世界初の有人飛行の手柄を譲ったこと。
それについて、こんな話を聞きました。
「発明や発見というのは、
その人一代限りの名誉でしかないんだな。
人類は飛行機の発明で、
これまでとまったく違った世界の扉を開いた。
このことはすごく意義深いことだけれど、
同時に人類は、未来永劫、
飛行機による殉難者を抱えることになったよね。
その慰霊ができるのは、
日本人の二宮忠八しかいなかったんだ。
だから神々は忠八の手柄を、
ライト兄弟に譲ったのさ」
もしかしたら、それがほんとうなのかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。

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※この記事は2010年4月の記事のリニューアルです。
このお話は2012年の航空自衛隊機関紙「翼」に掲載されました。
写真提供:飛行神社、航空自衛隊、他


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コメント
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2017/01/19 URL 編集
ラベンダー
ジブリ作品の「風立ちぬ」を思い出します。
https://youtu.be/ZR5lY-CV9VY
二宮忠八さんのような方がいらしたお陰で、後に続く技術者も輩出されたのではないでしょうか。
飛行機に憧れ、ゼロに憧れ
美しく空を羽ばたく鳥に憧れ
日本人は飛行機を作ったのですね。
今日も、素敵なお話のリニューアルを
ありがとうございました。
2017/01/18 URL 編集