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三沢市の空に舞ったミス・ビードル号(2011/9)

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)昨日に引き続いて飛行機のお話です。
いまはリンゴの美味しい季節ですが、実は飛行機とリンゴに、切り離せない関係があります。
さて、国内で生産されるリンゴの50%は、青森県産です。
国際的には、リンゴ生産量は、1位がChina、2位米国、3位フランスです。
米国では、ワシントン州にあるウェナッチ市が、リンゴの産地として有名です。
そのウェナッチ市は、青森県三沢市とリンゴ産地の「姉妹都市」になっています。
なぜ姉妹都市かというところに、実は、飛行機が関係してくるのです。
ライト兄弟が世界で初めて飛行機を飛ばしたのは明治36(1903)年ですが、その後、飛行機は瞬く間に世界に普及し、性能も向上していきました。
昭和6年ごろになると、500馬力近いエンジンの飛行機が開発されています。
科学技術の進歩はすさまじいものです。
チャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行を成功させたのは有名な話です。
この飛行は「翼よ、あれがパリの灯だ」という映画でも紹介され、世界的に有名になりました。
この飛行が行われたのが、昭和2年です。
この飛行で、リンドバーグは「大西洋」を征服したのですが、すると今度は世界の冒険飛行家たちの間で、次の目標として「太平洋横断」に注目が集まりました。
ところが、ニューヨーク~パリ間の大西洋横断が約6千キロであるのに対して、太平洋横断は、約8千キロの道程です。
3割も距離が長くなります。
しかも通信機が貧弱な時代です。
通信手段は、トンツートントンのモールス信号だけです。
しかも下は海です。
途中でエンジンが不調になって海に不時着したら、まず助かることはできません。
まさに命がけの大冒険だったのです。

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実際、昭和7年に太平洋横断飛行に挑戦した日本機は、択捉島あたりで消息を絶って行方不明になってしまいました。
さらに大きな問題があります。
「飛行場」がないのです。
飛行機を飛ばすためには長い滑走路が必要です。
しかし飛行機そのものが普及していなかった時代なのです。
そんな長い滑走路など、そうそうあるものではありません。
そうしたなかで、昭和6(1931)年、朝日新聞社が、太平洋無着陸横断飛行(本州とカナダのバンクーバーより南の間を飛行)の最初の成功者に、日本人であれば10万円、外国人であれば5万円の懸賞金を出すと発表しました。
こういうところの朝日新聞社は、もともと大衆紙だけに、実に感性豊かです。
離陸場所には、青森県の三沢村(現在は市)の淋代海岸(さびしろかいがん)が選ばれました。
日本のなかでは北アメリカ大陸に近く、南北に長い砂浜があり、その砂浜は、砂に粘土と砂鉄が混じって地が硬くしまっているのです。
つまり、舗装しなくても滑走路に使えたのです。
三沢村の人たちは、自分たちの村が世界記録の挑戦の場所に選ばれたことに大喜びしました。
しかし、それはそれでたいへんな現実が待っています。
言葉の通じない飛行士の宿泊の世話をしなけりゃならないのです。
燃料を運ぶための道路も作らなければなりません。
滑走路を平坦にする作業も、たいへんな労力です。
浜を飛行場として使えるように整備しなければならない。
加えて三沢は雪国です。
冬場には飛行機は飛ばせないからです。
そして飛行機を飛ばせる春・夏は、地元の人たちにとっては農繁期です。
しかも、全部、無報酬です。
みんなの心だけでそれだけの大事業が行われました。
最初の挑戦者は、アメリカ人の二人組が乗った「タコマ市号」という飛行機でした。
三沢村の人たちは、海岸に舞い降りる飛行機を見てびっくりします。
轟音とともに空から大きな鳥がやってきたのです。
三沢村の人たちは、三沢村の前村長小比類巻要人氏の指導のもと、自分たちの仕事を中断して、機体の保管、食事の世話をしました。
滑走路とミス・ビートル号
(ビートル号は複製)

なにせまだ燃費の悪かった当時のエンジンです。
太平洋を無着陸で横断するには、飛行機が飛び立てる重さの限界までの大量な燃料を積み込まなければなりません。
当然、その分、飛行機が重くなります。
重いということは、離陸が難しくなるということです。
その離陸を成功させるには、できるだけ平らで、加速を付けやすい滑走路が必要です。
そして飛行士たちは、失敗したら命がない。
外人であれ日本人であれ、命は大切です。
村人たちは、心から横断飛行の成功と飛行士の無事を祈り、みんなで協力しあいました。
昭和5年9月14日、いよいよ第一号「タコマ市号」の出発の日となりました。
ハロルド・ブロムリー、ハロルド・ゲッティ の2名を乗せた飛行機は、村人たちが固唾を飲んで見守る中、エンジンを全開にして、発進しました。
そして見事離陸に成功しました。
ところが「タコマ市号」は、排気管から漏れた有毒ガスが操縦席に充満してしまいます。
このため、飛行を断念してカムチャッカ沖から霧のなかを引返し、下北半島東通村尻労に不時着します。
失敗です。
二番目の挑戦者は、アメリカ、トーマス・アッシュ中尉が乗った「パシフィック号」でした。
しかし「パシフィック号」は、搭載したガソリンの重量で重い機体を浮上させることができず2千Mを滑走しても浮力がつかずに停止しました。
三番目の挑戦者は、若い二人のアメリカ人が乗った「クラシナマッジ号」でした。
これも離陸後にガソリン漏れを起こし、出発後数日で消息を絶ってしまいました。
そしてカムチャッカ東北端の無人島に不時着していたところをロシア船に救助されています。
昭和6年9月、ハバロフスクにいたアメリカ人の冒険飛行家、クライド・パングボーン(Clyde Pangborn)35歳とヒュー・ハーンドン(Hugh Herndon)26歳の二人が、この朝日新聞の企画を聞きつけました。
パングボーンとハーンドン

飛行機による世界一周を目論み、失敗して落胆していた二人は、この企画にとびつきました。
二人は東京・立川飛行場に、愛機「ミス・ビードル号」で飛んできます。
ところが急な予定変更なので、入国許可証がありません。
スパイと間違われた二人は、日本の警察に機体と身柄を拘束されてしまいます。
このとき、二人の逮捕を聞いたリンドバークが、必死で米国大使館を通じてとりなして、ようやく二人は、罰金だけで釈放となりまた。
一方、朝日新聞社も、二人の情報を聞きつけ、日本に滞在していたアメリカ人たちに協力してもらって、立川飛行場に押収し保管されていた彼らの飛行機への改造に協力しました。
燃料タンク増設し、800ガロン搭載のところを、950ガロンのガソリンを積めるようにし、また燃料節約のために離陸後に車輪を落とせるようにするなどの改造を施したのです。
そして車輪のない「ミス・ビートル号」が、今度は胴体着陸できるようにするための補強材も装着しました。
朝日新聞社も人類初の快挙実現に必死で協力したのです。
そしていよいよ二人の乗った三沢村前村長小比類巻要人が三沢村にやってきました。
「こんどこそ成功させたい。」
それは、小比類前村長を筆頭に、村の青年団みんなの思いでもありました。
彼らは機の不寝番をしたり、二人のための宿泊所や食事の世話をしたり、ガソリンの輸送や積み込みをしたり、機体の掃除をしたり、献身的な努力を惜しまずに提供しました。
砂地の滑走路にも、加速しやすいようにと、厚い杉板を敷き並べて傾斜をつけた長さ30mの助走台まで作りました。
三本木に、英語の話せる退役海軍軍人がいるとのことで、村の青年団で迎えにいき、通訳と助言もお願いしました。
出発に際しては、二人の飛行士のために、当時なかなか手に入らなかったパンも調達しています。
前村長の娘さんの小比類巻チヨさんは、サンドイッチと鶏の揚げ物を作りました。
そして、青森県三沢産のリンゴ紅玉20個を包みました。
それは、飛び立つ彼らのための機内食でした。
飛び立つミス・ビードル号
翼長14.8M、長さ8.5M、エンジン出力425馬力

昭和6(1931)年10月4日午前7時1分、ドラム缶なんと18本分ものガソリンを積み込んで極端に重くなった「ミス・ビードル号」のエンジンがかかりました。
村人たちが手を振って見送る中、杉板の滑走路で助走した「ミス・ビードル号」は、徐々に加速しました。
それは長い滑走でした。
そして、ミス・ビードル号は、大空に舞いあがりました。
離陸に成功した「ミス・ビードル号」は、予定通り途中で車輪を捨てて飛行を続けました。
そして北太平洋の海原を舞うこと40時間。
ミス・ビードル号は太平洋沿岸時間の5日午前1時に、カナダのバンクーバー島標識灯を確認しました。
そして着陸のためにスポケーンへ向かいました。
しかし霧が深くて着陸できません。
やむをえずさらに西のパスコに向かうけれど、ここも厚い雲に覆われて着陸が不可能でした。
翼は凍り付いています。
燃料も、もう残り少なくなっています。
乗員の二人は、地理を良く知る、二人の故郷のウェナッチに着陸することを決断しました。
ウェナッチなら霧も雲も心配ないのです。
飛行の模様は、アマチュア無線や新聞のニュースなどで、離陸から、アリューシャン列島上空通過、米国本土での飛行ルートなどの情報がもたらされていました。
ウェナッチ着陸の報道がもたらされると、地元の人々は大喜びしました。
ウエナッチの丘の上には、地元の人々、朝日新聞社を含む新聞記者達などが集まりました。
その中には、パングボーンの母親や弟、いとこたちもいました。
みんなが見守る中、昭和6(1931)年10月5日の朝7時14分を過ぎ、「ミス・ビードル号」はウェナッチ東部の丘から低空飛行で、小さな赤い機体を現わしました。
そして着陸地点に侵入しました。
車輪はありません。
胴体着陸です。
機体のスピードを失速するくらいまで下げました。
そして滑走路代わりの道路に進入すると、エンジンスイッチを切りました。
そのとき二枚羽のプロペラを水平位置で止めようとしました。
けれど、不幸にもプロペラは垂直位置でとまってしまう。
パングボーンは操縦桿を駆使して、機首をアップさせました。
機体の胴体が地面をこすりました。
いったん機種を上げた機体が、胴体を地面にこすりました。
そしてプロペラを壊し、前のめりに土煙を上げてつんのめりました。
テールエンドが持ち上がりました。
持ちあがった機体が、すぐまた後ろに倒れました。
倒れながら地面をすべりました。
ウェナッチの人々が固唾を飲んで見守る中、そのまま地面を滑った機体は、左翼を地面にこすりながら、ようやく止まりました。
機体の中から、笑顔のパングボーンとハーンドンが降りてきました。
喝采の拍手が起こりました。
それは、41時間13分かけた、人類初の太平洋無着陸横断飛行の成功でした。
その日のウェナッチ市は大変な騒ぎになりました。
飛行場に集まった人々は、はるか太平洋のかなたから飛んできた赤い小さい飛行機をあくことなく眺めて乾杯しました。
その飛行場の中に、真っ赤なりんごが5個残されていました。
パングボーンは母に、
「日本からのお土産はこれだけ」
と、おどけた調子でこのりんごを手渡しました。
ウェナッチもリンゴの産地です。
日本から、真っ赤なリンゴの贈り物。
5個のリンゴの話は、たちまち町中に広がりました。
ウェナッチ市では記念のパレードが盛大に行われ、翌日にはシアトルでもパレードが実施されました。
ニューヨークでは市長主催の歓迎会も行われました。
二人が飛行に成功した1か月前には、満州事変が起こっています。
満州の制圧を開始した日本に対し、米国政府は否定的な見解を出し、日米間には険悪な空気が漂っていた頃でした。
しかし、パングボーンとハーンドンは、機会あるごとに、日本人が親切であったこと、特に三沢の人々の献身的な援助があったことを話しました。
おかげで、米国の新聞の論調も、「日本は近い国」、「友情の橋がかけられた」等、日本に好意的な記事がたくさん見られるようになったのです。
ウェナッチはアメリカのリンゴの大産地です。
その年の11月、ウェナッチ商業会議所は、お世話になったお礼にと、リンゴの新品種であるリチャードデリシャス一箱を船便で朝日新聞社宛に送りました。
ところが、その前年から輸出入植物取締法の適用が厳しくなっていました。
この法律のおかげで、リンゴの上陸が認められない。
青森県リンゴ試験場長須佐寅三郎氏らも植物検査所長に、送られてきた果実を研究用に提供して欲しいと懇願しました。
しかしこれも断られてしまう。
結局、日本の港まできたリンゴは、送り返されてしまったのです。
須田試験場長は、ウェナッチ商業会議所会頭あてに、今回のお詫び文を書きました。
そして「できれば穂木を贈ってくれないか」とお願いしました。
ウェナッチ商工会議所は、快くこれに応じてくれました。
昭和7年4月、リチャードデリシャスの1mほどの接穂5本を青森県リンゴ試験場に送ってくれたのです。
試験場では、生産者代表と関係者が、なんと68名も出席して、盛大な接木式を行いました。
リチャードデリシャスの原木

この接木は、すくすくと成長しました。
そして昭和10年頃からは、青森県内各地に接穂として配布されました。
昭和16年には、5本だった穂木が、なんと1万227本のリンゴの木になりました。
栽培面積も22ヘクタールに拡大しました。
このりんごの評判は高く、りんご試験場の樹から枝が盗まれることまであったそうです。
このような心温まる交流も、昭和16年の大東亜戦争開戦で中断してしまいました。
太平洋無着陸横断飛行から50年後の昭和56年、
ウェナッチ市と三沢市はふたたび姉妹都市となるのです。
三沢市の淋代海岸には、この快挙をたたえる
「太平洋無着陸横断飛行記念碑」が建ちました。
そして近くには、「ミス・ビートル号」の復元機が展示されました。
この復元模型は、あの東日本大震災の津波で、粉砕されてしまいました。
けれどその年の9月、三沢基地の航空祭に、アメリカからミス・ビートル号がやってきました。
そして三沢市の上空を舞いました。
それは、震災に悲しむ三沢の人々へのウェナッチ市からの贈り物でした。
太平洋無着陸横断飛行のときの、三沢の村の人々の温かい心遣い。
そして少女が贈ったリンゴ。
東日本大震災で見せてくれたアメリカの友情。
あたたかな心の連鎖が、いま、わたしたちの食卓に並ぶ、赤いリンゴです。
世界初の偉業の達成のために、村のみんなで力を合わせて無償で貢献した日本人。
公徳心を持ち、みんなのため、地元のため、お国のために力をあわせた日本人。
だからこそ、そこに育った日米の友情。
そういう日本を、わたしたちは取り戻したいと思うのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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※この記事は2009年12月のリニューアルです。


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コメント
一有権者
我が国の当時の国内情勢や国際社会の情勢、当時の日本国と敵対する形の国との関係性等々。
過去も現在も我が国日本国も日本人も情報収集と収集した情報の適正かつ冷静で客観的な判断ができず、主観的で自分に都合のよい甘い判断が数十年かけてこれらの国々との争いに至ったのだろうと現代から見てそう思うのです。
それではそのような価値観は教訓を得て正すことができて居るだろうか。?
と思えば現代も正すことができておらず中共や南北朝鮮に情報戦争を仕掛けられていても負け戦になっていると思わざる負えません。
私達日本人は他国人との交渉事でも日本人同士の感覚で駆け引きを行い他国の人からお人よしと言われるほど交渉相手を思いやり譲歩してきたきらいがあります。
親日国家や友好的な国であればそれでも何とか対等な関係を構築して行けるだろうとは思いますが、基本的に反日が国是の国である中共や韓国、北朝鮮に日本人式の感覚は通用しません。
既に建前は同じ民主主義国家であるはずの韓国に何度も合意した条約をひっくり返され支援や技術供与のみ毟り取られ「恩を仇で返し」反日無罪を嘯くような事をされ続けてもまともな反撃さえできない我が国日本国と私達日本人はかの国から見下され侮辱され続けてきました。
もうそろそろそのような事はいつまでも通用しない事を冷徹、冷淡に突き放す事で相手に思い知らせるべき時です。
世界中の国々と友好的でありたいとほとんどの日本人は思っています。
それを逆手に取るような反日国家は相手にせず距離を置き本当に友好的でありたいと願ってくれる国々とまずは手を携えるべきでしょう。
民団の新年会に大勢の我が国国会議員が参加し友好をアピールする発言をしたり中には共産党の小池は「日本が真摯に謝罪せよ、外国人参政権付与を目指す」と発言し、社民党の福島みずほこの議員が慰安婦問題においては一番悪辣と思うのですが「一緒に外国人参政権付与に一歩ずつ進むように努力する」と発言したのだそうです。何故ありもしない慰安婦問題を煽った人物が国会議員でいられるのか。?
冗談はやめてくれと。反日国家出身の密入国者に地方自治といえど選挙権を認めたらどうなるか。?日本国は根元から腐り始める。
我が国の政治家にはそのような売国奴が潜んでいることを私達はしっかり認識しなければなりません。
話が脱線してしまい失礼いたしました。
2017/01/19 URL 編集
にっぽんじん
騒ぎが大きくなればなるほど中国は困ることになるでしょう。中国人の入国を拒否すれば差別と批判されるが、「南京事件はなかった」は差別にはなりません。
中国政府のこれからの対応に期待しています。
東京裁判での証拠は全て証言証拠であり、写真などの客観的証拠は何一つありませんでした。東京裁判で出ていない証拠が、戦後半世紀もたって出てくるなどありえないことです。
裁判所が認めていない証拠など「証拠」にはなりません。
常識で考えても「虚構事件」です。
2017/01/19 URL 編集
花田良春
今後とも宜しく御願い申し上げます。
(82歳老翁)
2017/01/19 URL 編集
ラベンダー
今日も、読みやすく、イメージしやすい文体でのリニューアルをありがとうございました。
より進化し、深みをましたお話を再読できるのは嬉しいです(^-^)
ブログって有難い媒体です。
このお話も、いつかは映画、テレビドラマの題材になりそうですね♪
あと5年後くらいかな?
楽しみにしております!
2017/01/19 URL 編集