緒明菊三郎

菊三郎の生家は、船大工とは言っても、たいへん貧しい家庭でした。
そのため、いつも母が下駄の鼻緒(はなお)を作る内職をして家計をたすけていました。
ちなみにその鼻緒、和服の着物というのは、糸をほぐせば反物に戻ります。
ですから、いまどきの洋服のように、ちょっと体重が増えたらもう着れなくなって捨てるしかなくなるのと異なり、一着の着物が、着る人が太っても背が伸びても、ずっと着ることができました。
また、親や祖父母の着物を、セガレや孫が着るというのも、あたりまえのことでした。
ですから着物は、だいたい60~70年、孫の代まで持たせて着用しました。
けれど、最後はボロボロになります。
そうすると、その着物の一部は、捨てずに下駄の鼻緒に使うのです。
当時は、その鼻緒を売る業者さんがいて、その下請けの内職を、母が毎夜、夜明け近くまで一生懸命やっていたのです。
菊三郎は、そんな母の姿を見て育ちました。
当時の日本家屋というのは、夏の暑さ対策が主で、冬の夜などは、とても寒かったのです。
そんな寒い夜も、母は夜なべ仕事で、鼻緒を一心に作っていました。
明治に入って、一般庶民が戸籍に自分の苗字を申告して登録することになったとき、だから菊三郎は、迷わず名字を「緒明(おあけ)」としました。
鼻緒を夜明けまで結っていた、そんな母の苦労を、ずっと忘れないでいるためです。
実はこのころの菊三郎は、榎本武揚の世話で、蒸気船を隅田川に浮かべる仕事をしていたのです。
乗り賃は一銭のこの蒸気船は大ヒットして、彼はちょっとしたお金持ちになっていました。
だからこそ貧しかった時代のことを忘れない。
苦労して自分を育ててくれた母の恩を、自分の生涯だけでなく子孫まで、その心がけを残したい。
そのために名字を「緒明」にしたのだそうです。
そのおかげか、緒明家は、造船王として大成した菊三郎の後も、静岡銀行の頭取を出したり、また、いまのご当主の母親はなんと西郷隆盛のお孫さんなのだそうで、代々、家は隆盛を極めているのだそうです。
ちなみに、その静岡銀行ですが、とにかくお硬いことで有名で、地元では、静銀と取引があるというだけで、信用のある会社とみなされたそうです。
そういう行風も、貧しかった時代を忘れないという心掛けのなせるわざであったのかもしれません。
さて、その菊三郎が、もともも伊豆の船大工だったのに、どうして蒸気船ビジネスを始めるようになったかには、ちょっとしたワケがあります。
それは、菊三郎が10歳のときのことでした。
ロシアの全権大使、プチャーチン提督の乗ったロシアの最新鋭戦艦「ディアナ号」が、駿河湾で難破して、海に沈んでしまいました。
プチャーチンは、皇帝ニコライ一世の命令で日本にやってきたロシアの提督です。
当初、嘉永6(1853)年7月、ちょうどペリーが黒船に乗ってやってきた1ヶ月半後、彼は4隻の艦隊を率いて長崎に来航し、長崎奉行にロシア皇帝からの国書を手渡しました。
ところがなかなか幕府からの回答が来ません。
困っているところに、なんと英国艦隊が、プチャーチン一行を攻めにやって来るという情報がもたらされます。
この時期、ロシアは黒海の北側で、オスマン帝国とクリミア戦争をしていました。
英国は、オスマン帝国側に付き、ロシアと激しく対立していたのです。
こうなるとプチャーチンは、日本どころではありません。
そこで彼は、11月に、長崎を引き払って上海に向かいました。
ところが上海で情報を集めてみると、どうやら大英帝国の艦隊は来ないらしいとわかったのです。
そこでプチャーチンは、嘉永6年12月、再び日本にやって来ます。
こんどは幕府全権の
川路聖謨、筒井政憲らとと交渉しました。
そして将来日本が他国と通商条約を締結した場合に、ロシアにも同一の条件の待遇を与えるなどと話を決めました。
日本にしてみれば、とりあえずの口約束でなんとかロシアを体よく追い払えたから成功といえるし、プチャーチンにしてみれば、日本がどこかの国と条約を結べば、ロシアも同一条件で条約する約束を取り付けたのだから、一定の交渉の成果はあったとすることができるというわけです。
こういう、両方が納得できる一定の線を上手にまとめるというのは、戦後の日本では「そういうのは玉虫色の決着てーの」などと馬鹿にされ続けてきたけれど、実は、最近のアメリカでは、もっとも進んだ先進的合意技術として両方が満足する「WIN-WINの関係」というのが、最高の交渉結果であるという考え方が主流です。
つまり日本で「玉虫色」などといってコケにされ続けて来た「双方得」という日本的な解決法が、世界では様々な試行錯誤の結果、一方の勝者が敗者からすべてを奪うという弱肉強食型解決法よりも、はるかに進んでいる素晴らしい解決法として絶賛されるようになってきたのです。
さて、こうして一定の成果を得たプチャーチンは、嘉永7年1月に、フィリピンのマニラに向かい、そこで老朽化した旗艦パルラダ号から、新造艦の戦艦「ディアナ号」に、船を乗り換えました。
そしてディアナ号以外の船を、万一の大英帝国艦隊との決戦に備えて沿海州に残し、プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本にやってきたのです。
これが、嘉永7年8月のことで、大阪奉行と会って交渉するのだけれど、ここでもやはり海外との交渉の権限はないという。
そこで大阪奉行の薦めに従って、彼が向かったのが、伊豆の下田でした。
こうしてプチャーチンの乗ったディアナ号は、嘉永7年10月に下田に入港します。
報告を受けた幕府は、再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣し、プチャーチンとの交渉を行うことになったのですが、ここで事件が起こりました。
下田での交渉中に、安政の東海大地震が起こったのです。
地震の規模は、マグネチュード8.4、震度7の強震です。
この地震は、直下型で、地面に腹這いになっても、振動で振るいあげられたというから、その恐ろしさたるや、推して知るべしです。
この地震の震源地は遠州灘沖で、このときの津波は、なんと最大23メートルに達したそうです。
ちなみに東海大地震の危険が叫ばれるようになって久しいですが、こうした20メートル級の津波対策というのは、地元ではしっかりとできているのでしょうか。
地震は天災です。
しかし津波は、人の努力で被害を阻止できるものです。
つまり、津波被害は、人災です。
話を戻します。
この地震とそれによって誘発された大津波で、下田一帯も大きな被害を受けました。
そしてこのとき、ディアナ号も津波で大破してしまうのです。
プチャーチンが偉かったのは、この津波で自船もたいへんな被害に遭い、乗員にも死者が出たにもかかわらず、波にさらわれた日本人を救助し、また船医が日本人のけが人の治療に積極的にあたってくれたことです。
このことには、幕府もたいへん好感を持っています。
もっとも、船は大破しています。
とりあえずは船の修理を急がなければならない。
そこでプチャーチンは、船の修理を幕府に要請します。
幕府は、伊豆の戸田村を修理地と決め、ここへディアナ号を曳航することにしたのです。
曳航には、由比ケ浜あたりの漁民たちが手伝いました。
なんと小さな漁船100隻あまりで、巨大なディアナ号を綱に結んで引っ張ったのです。
ところが、ちょうど由比ケ浜と戸田の中間地点くらいで、ディアナ号は高波に襲われます。
この高波で、船体に大穴が空いたディアナ号は、浸水が起こり、もはや沈没するしかないところまで追い詰められます。
やむなく、プチャーチン以下、ロシア人乗員たちは、船を降りて、日本人漁師たちの小さな漁船に分乗しました。
全員が漁船に移り終えたとき、ディアナ号は、みんなの見ている前で沈没し、海の中に消えて行きました。
さてここからです。
幕府は、戸田の船大工たちに命じて、プチャーチンが持っていたディアナ号の設計図を元に、代替船を建造することにしたのです。
これが日本ではじめて建造された西洋式木造大型軍用帆船です。
全長24.6メートル、排す量88トン。
まったく前例のないこの大型船を、なんと日本人の船大工たちは、たったの3ヶ月で建造してしまいます。
日本人の技術や恐るべしです。
プチャーチンは、船大工たちの働きにおおいに感激し、新しくできた艦に、戸田の船大工たちへの感謝をこめて、「HEDA号(戸田号)」と命名します。
戸田号

この建造作業では、「材木加工」は、日本の大工によってまったく問題なく、手際よく行われたといいます。
ところが「ボルト」などは、それまで日本では作られたことがありません。
なので製造にはとても苦労したようです。
一方、ロシア側は、日本の船大工の使う墨壺の便利さに、驚嘆していたそうです。
そして、安政2(1855)年3月、日露通商条約をまとめたプチャーチンは、この戸田号に乗ってロシアに帰ります。
さて、この後のことです。
戸田号の建造に携わった船大工たちは、西洋式大型艦の製造について、竜骨からの組み上げや、タールの抽出方法、船底銅板を張る際にタールを用いる技法など、建艦に欠かせない種々の技術を習得します。
なかでも中心人物となった戸田の船大工の寅吉(とらきち、後年名字が許され、上田寅吉となる)は、そのまま長崎海軍伝習所に入学し、文久2(1862)年には、榎本武揚らとオランダへ留学し、さらに明治維新後には、横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮するという大出世をしています。
菊三郎は、父の嘉吉が、その上田寅吉とともに戸田号を造ったというご縁で、江戸に出てきて、榎本武揚や上田寅吉の援助を得て、墨田川で、和舟に小さな蒸気エンジンを乗せた「蒸気船渡し船」を考案します。
これが冒頭に述べた一銭蒸気船です。
まだ黒船が来てから何年も経っていない頃のことです。
隅田川に浮かぶ船は、みんな昔ながらの和舟です。
そんな時代に、その「蒸気船」が隅田川に浮かんだわけです。
しかも一般人がそれに乗れるというのです。
これには当時の江戸っ子たちが大喜びしました。
おかげで、一銭蒸気船は、連日行列ができるほどの大繁盛となります。
そして菊三郎は、たいへんなオカネモチになったと、こういうわけです。
そんな折りに、四号お台場が何も使われていないので、明治政府がこれを貸し出そうということになりました。
創業したての明治政府は、実は当初は、たいへんな金欠政府でもあったのです。
そこで、榎本武揚から相談を受けた上田寅吉が、それなら一銭蒸気船で大儲けしている菊三郎に、ここを買わせて、そこで我が国初の「西洋式本格造船所」を造ったらどうだろうかと提案しました。
こうしてできたのが、四号お台場の「緒明造船所」だったわけです。
ちなみに、いま、国の重要文化財に指定されている3本マストの帆船「明治丸」は、明治政府が英国から買った船なのだけれど、買った当時はマストは2本でした。
これを三本に改造した場所が、石川島で、そのときの改造の責任者が、緒明菊三郎です。
母さんが夜明けまで編んでいた鼻緒。
どんなに大成しても、未来永劫、決してその母の背中を忘れまいとした、明治の気骨のひとつが、ここにあります。
お読みいただき、ありがとうございました。

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※この記事は2011年12月の記事のリニューアルです。
かあさんの歌 歌:倍賞千恵子
この「かあさんの歌」の歌いだしで、「かあさんがよなべをして」というのがありますが、以前若い子に話したときに、「母さんが夜、鍋をして」とずっと信じていたそうです。いまの日本人は幸せですよね。
けれど、そういう時代だからこそ、歴史の重みや、先人たちの苦労をしっかり学ぶ必要があると思うのです。


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コメント
半分南伊豆
これは弓ヶ浜(南伊豆町)ですかね? 南関東から東伊豆一体で由比ケ浜といったら湘南ですよね。西伊豆以遠(駿河湾側)は詳しくないので別に由比ケ浜があるのかもしれませんが。
2017/01/21 URL 編集
じょあ
さて、デモがゼロと強調されていらっしゃいましたが、実際は警官隊との衝突があり、多くの逮捕者も出ています。
あれだけ過激な意見を出しておきながら、デモが0だと共産主義みたいで逆に不自然ではないでしょうか。
私は総合的に彼を支持する立場でありますが、デモがゼロという記載は再検討したほうが良いのではないかと思いましてコメント致しました。
これからもためになる話をお願い致します。
私も日本の良さを伝えるため、微力ながら海外に発信し続けております。みんなでがんばりましょう。
2017/01/21 URL 編集