義和団事件と大陸出兵



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20170121 北京の55日_th
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先日、ある方と話していたら、「だって日本は現実に大陸に兵を置いていたではないか」と、いまさら洗脳された哀れなことを言っていました。
おっしゃる通り、日本は戦前、China大陸に兵を出していました。
これは国際的な約束事であり、今ふうに言うならPKOの派遣です。

日露戦争が起こる4年前になりますが、明治33(1900)年、北京で義和団事件が起こりました。
義和団というのは中国の伝統的な武芸と宗教が結びついた拳法結社で、
「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンにし、外国人や中国人のキリスト教信者などを襲撃していた団体と、よく紹介されています。

少し詳しく述べてみたいと思います。

義和団のもとは、中国の山東省にあった「神拳」という拳法流派です。
これに剣術道場の太刀会や、拳法流派の梅花拳などの複数の武術道場が合流し、門弟たちを集めて「義和拳(義和神拳)」を名乗って、巨大な武闘集団となりました。

義和神拳を身につけると、
「体は鋼鉄となって銃弾さえも跳ね返し、刀で刺すことも斬ることもできなくなる」
のだそうです。
しかも不死身の肉体となるだけでなく、闘気だけで敵を倒すことができるというリーダーが、数多くの門弟を率いて武闘団となり、その武力に惹かれてさらに大勢が群がりました。
気がつけば、その数20万という、ものすごい大集団になっていたわけです。
まるでマンガの北斗の拳で、ラオウが複数の武道家の流派を統合して、巨大な大軍を率いたみたいな話ですが、こちらは実話です。

「すごいなあ。そんな人がいたんだ」などと騙されてはだめです。
そもそも白髭三千丈というウソばかりの国なのです。

では真実はどうだったのでしょうか。

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義和拳の生まれた山東省は、もともと孔子の生地です。
だから山東省の住民には、地域への誇りがありました。
そこにドイツが進出しました。
そしてさかんにキリスト教の勧誘をしました。
ただドイツが他の国と違ったのは、教会を建てるために、強引に地元住民を立ち退かせたことでした。
このため土地争いが起きてしまうのです。

土地を奪われた住民は、地元の剣術道場の太刀会に泣きつきました。
太刀会は、ドイツ人の教会と交渉するのに、奴らは武器を持っているからと、近所の拳法道場の神拳に、交渉への合流を促しました。
こうして、太刀会と神拳道場が共同して、ドイツ人教会と交渉することになりました。

ずいぶんと話が大げさなのですが、ドイツ軍相手の交渉ならいざしらず、ドイツ人のカトリックの教会と交渉するだけの話です。
神父は武装などしていませんし、もちろんそこにドイツ軍もいません。

要するに武装していない丸腰のドイツ人宣教師を、太刀と拳法を身につけた大勢が襲撃したわけです。
結果はご想像の通りです。
ドイツ人宣教師は殺され、教会は壊され火がつけられました。

これが「ドイツ人に勝利した」というウワサになります。
こうして土地争いなどの紛争を抱えた山東省各地から、太刀会と神拳道場に、助けてくれという依頼が次々に舞い込むようになりました。

ちなみにこうして次々と教会が襲撃されたのですが、襲撃する道場側にも、これはメリットがありました。
襲撃の都度、おいしい肉が手に入り、皆で腹いっぱい焼肉料理に舌鼓を打つことができたのです。
しかも相手は丸腰。
絶対に負ける心配もないし、怪我をすることもありません。

そして「食える」となると、そのご相伴に預かろうと、大勢の人たちが集まってきます。
そしてその人達が、ウワサをまき散らします。
非武装のドイツ人を袋叩きにして撲殺して食べちゃったというだけの話が、いつのまにか、China武術の道場がドイツの正規軍と戦った。
彼らの武道家の肉体は、ドイツ軍の銃弾や砲弾さえも跳ね返した。
その名も「神拳」だ。神の拳だ。
その神拳は、おいしい肉をたくさん持っている!!

「義」という字は、もともと羊の肉のように我が身を神に捧げるという成り立ちの字なのですが、見方によっては、我が羊の肉を得るというようにも見えます。
非武装・無抵抗のカトリック教徒を襲撃して金品を奪い、火を付け、神父らを殺害して、その肉を食べることが、要するに彼らにとっての「義」です。
このあたりの言語感覚の違いも、私達日本人はちゃんとわきまえる必要があります。

しかも彼らは、ドイツ人だけを捕食し、同胞であるChineseは狙いません。
だから「和」、「和」は、稲穂を意味する禾と口から成り立ちますが、要するに貧しいChinaの民衆に、ドイツ人から奪った食べ物や財貨をもたらしてくれます。
だから太刀会、神拳の道場は、ついに「義和団」と呼ばれるようになりました。
「義和神拳」という呼び名もあったようです。
そして彼らは、山東省内で巨大化していきました。

けれども巨大化すれば、当然弾圧があります。
義和団は明治32(1899)年には、ドイツから依頼を受けた北洋軍閥の袁世凱が軍を率いてやってきました。
義和団は、いかなる軍隊がやってきても、銃弾さえも跳ね返す肉体を持っているから大丈夫なはずだったのですが、本物の銃を持った軍隊がやってきたら、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。
銃弾さえも跳ね返す肉体でも、弾はすこし痛かったのかもしれません。

そして、ここからが、いかにもChinaらしい展開になるのです。
義和団は、山東省から武力で事実上追い出されてしまったわけですが、このことによって逆に勢力を拡大してしまうのです。
どういうことかというと、豊富な食べ物を持ち、弾さえ跳ね返す勇者たちが、わが町にもやってくる、という話になったのです。
これによって河北や天津、北京方面で次々と入団者がやってきて、またたく間に彼らは20万の大勢力になりました。

ところがこうなると困るのが、義和団のトップたちです。
Chinaでは、伝統的に、トップは下の者たちを食べさせなければなりません。
けれども、20万人を養うというのは、とてつもなくたいへんなことです。
山東省で暴れていた頃は、ドイツ人しか襲わなかったし、食べなかったし、だからこそ義和団という名前にもなったわけですが、さりとて山東省から追い出されたいま、他の軍閥のように、一般の民家を襲って食料を奪うわけにもいきません。

そこで困った義和団が選んだのが、北京にある紫禁城を訊ねることでした。
外国の侵略に悩む西太后に泣きついて、清王朝の正規軍に取り立ててもらおうとしたのです。
義和団は、わたしたち日本人の感覚からすると暴徒です。
それがいきなり自衛官のような正規軍になるというのは、驚かれる方も多いかと思います。
しかし大陸では古来、軍と暴徒とヤクザは同じものです。

明治33(1900)年6月10日、20万の大軍で北京入場を果たした義和団は、清王朝の西太后にたいへんに気に入られます。
西太后はこの頃、清王朝内の自分の政治権力基盤を強化することを画策していましたから、義和団は、たいへんにたのもしい存在にみえたわけです。

西太后の後ろ盾を得た義和団は、北京南西8キロにある張辛店を襲い、駅舎に火を放って電信設備を破壊し、彼等の暴行を制止しようとした日本公使館の杉山彬書記生を、生きたまま心臓を抉り抜いて路上で殺害しました。
同月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーを殺害。
そして西太后から清王朝の10万の正規兵を借り受け、北京市内にあった外国人公使館区域にいる約4千人の外国人の男女を、いっきに殲滅・殺害しようとしました。

このとき北京の外国人公使区域(外国人疎開)にいたのは、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインと日本、合計11カ国の公使とその家族と随員、それと教会に付属していた中国人キリスト教徒たちでした。
まともに戦える兵士は11カ国全部合わせて、400人です。
そのわずか400人が、義和団20万、清王朝の正規軍10万、合わせて30万の大軍を前に、なんと100日間の籠城戦を闘いぬいたのが、義和団事件です。

当初外国人外交団は、清国政府に暴徒を鎮圧するように要求しました。
そしてその一方で天津港に停泊する列国の軍艦から、各国の海軍陸戦隊400名余を、急遽北京に呼び寄せようとしました。
このとき日本からも、軍艦愛宕から25名の将兵が北京に入っています。

この時点で列強は、清王朝による暴徒鎮圧を期待していました。
ところが清王朝は何もしない。
何も動かない。
動かないまま北京〜天津間を結ぶ鉄道が義和団によって破壊され、北京に滞在している各国の外交団は、完全に孤立する状態となったのです。

5月13日、公使館区域に400〜500人の義和団が襲いかかってきました。
列強の陸戦隊の兵士たちは、銃で果敢に応戦し、これを撃退しました。
翌14日になると、今度は義和団の暴徒は、外国公使館区域に隣接するChineseのキリスト教徒たちが住む地域を襲いました。そこは列強の陸戦隊の守備線の外側です。
男たちの凄まじい怒号と女たちの悲鳴が、遠くはなれた公使館区域まで聞こえたそうです。
そしてこの日一日で惨殺されたChineseのキリスト教徒は、千人を超えたものとなりました。

6月19日になると、清国政府は24時間以内に外国人全員が北京から退去するようにと通告してきました。
周囲をぐるりと義和団に包囲されていて、ようやく堡塁を築いて銃で応戦しているのに、そこを出て行けとなれば、それは即、死ねということです。
あまりの通告に、ドイツの大使が抗議に赴いたのですが、清国政府に到着する前に、清国兵に銃撃されて即死しています。

翌20日からは、命令に背いたことを理由に、地域の警備についていた(何もしなかった)清国兵たちが、堂々と義和団と一緒になって外国人公使街への攻撃を始めます。
義和団の暴徒たちの武器は、青龍刀や槍などですけれど、清国兵は正規軍です。
彼らは堂々と大砲まで持ち出して、公使館区域を攻撃しはじめたのです。

北京の外国人公使街というのは、東西に約900メートル、南北が約800メートルの四角く囲まれた小さなエリアです。
そこに英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの欧米十カ国と日本公使館が置かれていました。
なかでも英国公使館は各国の公使館の中でも、もっとも壮大な建物でした。
そこには各国の婦女子が収容されていました。
その英国公使館の正面を清国兵が砲弾で破り、開いた穴をめがけて数百の義和団の暴徒たちが青龍刀や牛刀を振りかざして、奇声をあげて襲いかかって来ました。
正面で銃で応射していた英国兵も、その迫力に後退を余儀なくされました。

「このままでは、英国公使館がやられる」
誰もがそう思ったとき、どこからともなく、わずか8名の日本兵がやってきました。
先頭にいたのが安藤大尉です。
彼は暴徒の前に躍り出ると、手にした軍刀で、抜き打ちざまに義和団暴徒の首を刎ねました。
そして周囲にいた大勢の義和団暴徒たちを斬り伏せました。
このとき、たちまち安藤大尉の前に義和団の暴徒たちの死体が重なった様子をイギリス公使館に避難していた各国の婦人たちが目の当たりにしていました。
とにかく目にも止まらぬ早業なのです。
日本兵たちは、声もたてずに暴徒を切り伏せます。
そのあまりの強さに、暴徒たちは浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出しました。
この奮戦を目の前で見た婦人たちにより、日本兵の勇敢さは賞賛の的となりました。

ピーター・フレミングという米国人のジャーナリストが、このとき北京にいて、その一部始終を目撃し、それを『北京籠城』という本にしました。
その中に、
「あるイギリス人の義勇兵が見た、とても人間業とは思えない光景」
というのがあります。
すこし引用します。
「そのとき私は、
 隣の銃眼で監視立っている日本兵の頭部を
 銃弾がかすめるのを見ました。
 瞬間、真赤な血が飛び散りました。
 ところが彼は後ろに下がろうとはしません。
 軍医を呼ぼうともしない。
 『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、
 手ぬぐいを取り出すとはち巻の包帯をして、
 そのまま何でもなかったように敵の看視を続けたのです。」

「戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、
 ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりしませんでした。
 彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、
 メスの痛みに耐えました。
 手術後も彼らは沈鬱な表情一つ見せず、
 むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめていました。
 日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、
 その一角はいつもなごやかで、
 ときに笑い声さえ聞こえていました」

「長い籠城の危険と苦しみです。
 欧米人たち、なかでも婦人たちは暗くなりました。
 中には発狂寸前の人もいました。
 だから彼女たちは日常と変わらない
 日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、
 看護の欧米婦人は、
 みんな日本兵のファンになってしまいました」

「戦略上の最重要地点である王府では、
 日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳でした。
 日本軍を指揮した柴中佐は、
 籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、
 誰からも好かれ、尊敬されました。
 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、
 この籠城をつうじてそれが変わりました。
 日本人の姿が模範生として、
 みなの目に映るようになったのです。」

ピーター・フレミングの『北京籠城』は全米で大ヒットとなりました。
そしてチャールトン・ヘストン主演で、
『北京の55日』
という名のハリウッド映画になりました。
この映画でチャールトン・ヘストンは、アメリカ軍将校として大活躍するのですが、実は、この役の現実のモデルが、指揮をとっていた日本人、柴五郎中佐(後に陸軍大将)です。

北京に、救援のための各国混成連合軍が到着したのは8月13日でした。
総勢1万6千のうちの約半数は、日本から駆けつけた福島安正少将旗下の第五師団でした。
その他ロシア3千、英米が各2千、フランスが8百などの構成でした。
日本軍の数が多いのはあたりまえのことです。
日本が地理的にいちばん近いからです。

正規軍による救援隊がやってくると、翌日には西太后の一行が北京から西安に向けて逃げ出しました。
清国の首都北京から政府がなくなってしまったのです。
このため北京市内では生残った義和団や清国兵による暴力や略奪が横行しました。

そんな中で、各国との協議によって日本に割り当てられた占領区は、いちはやく治安が回復しました。
日本軍が横行する強盗や窃盗、無頼漢らを容赦なく捕えて厳罰に処したからです。
また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵)を捕え、彼らの軍司令部に突き出しました。
このため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶たず、日本人占領地ばかりが日に日に繁昌していました。

さらに日本は、清国を守るために、清国皇族の慶親王に、
「一刻も早く北京に戻って列国と交渉を始めなければ、
 清国はその存立が危ない」
と使者を送り、一日も早い清国の安定のための努力もしています。

いまでは考えられないことですが、この時代、世界で認められた公式な政府がない地域は「無主地」として、列国が分け取りにしてよいというのが世界のルールでした。

実際、義和団鎮圧後になって、北京での義和団事件にまったく参加していなかったドイツが、治安の回復後になって続々と大軍を送り込み、北京で稼ぎそこなった分を他の諸都市で略奪しはじめています。
またロシアは、義和団事件直後に、2万の兵力を満州に送り込んでそこを占領しました。
ロシアは、各国の軍隊が引き上げたあとも、そこに居座り続けました。

事件後、ようやく政府機能を取り戻した清国と、各国は賠償会議を開きました。
このとき最大の賠償金を吹っかけたのがロシアで、一番少なかったのが日本です。
イギリスは日本の五倍、
戦後にやってきたドイツがイギリスの二倍、
わずかな兵を出しただけのフランスは日本の二倍(出兵数の比では日本の百倍)を要求しています。
義和団の乱に乗じて、自分の政治権力の強化をはかった西太后は高い代償を払うことになったのです。

この事件後の会議で、攻められた側の11カ国と攻めた側の清国が交わした条約が、
「北清事変に関する最終議定書」
です。略して
「北京議定書」
と呼ばれています。
欧米では「Boxer Protocol」、現代中国ではその年をとって「辛丑条約」です。

「北京議定書」によって交わされた条約内容は、およそ次のような内容です。
[1]日本,ドイツへの謝罪使の派遣
[2]責任者の処罰
[3]賠償金四億五千万両の支払い
[4]公使館区域の設定と同地域における外国軍の駐兵
[5]北京=山海関等十二の要地における外国軍の駐屯
[6]天津周辺二十里以内での中国軍の駐留禁止
[7]外国人への殺害が行われた地域での五年間の科挙停止
[8]排外主義的団体への中国人の加入禁止
[9]各地の官吏に対する排外暴動鎮圧の義務化
ここに書かれた賠償金4億5千万両というのは、利払いまで含めると総額が8億5千万両にものぼるたいへんな金額でした。
なにせ当時の清国は、年間予算が約1億両です。

時代はこの後、日露戦争(1904)、第一次世界大戦(1914)、日華事変(1937)、大東亜戦争(1941)と進みますが、昨今よく聞かれる、「日本の軍がなぜ中国にいたのか」という疑問に対する答えが、この義和団事件と、事件後に交わされた「北京議定書」です。

清国はこの議定によって、まさに天文学的な賠償金を支払うことになりました。
たとえ国母という圧倒的な清国内の政治的地位があったとしても、いかがわしい新興団体と手を握れば、結局は亡国となるのです。
政府の弱化は、結果として中国国内の治安をますます悪化させることになりました。
国内には腐敗した軍閥が割拠し、その後も外国人への襲撃が相次ぎました。
そして日本を含む列国は、居留民や領事館保護のために、中国各地への駐兵を余儀なくされました。

一方、この事件後に混乱に乗じて満州を軍事占領したロシアは、その後も着々と満州の兵力を増強していきました。
当時のロシアは、国家予算も兵力も、日本の十倍です。
さらにロシアが朝鮮北部の旅順にまで軍事要塞を構築するにおよぶと、このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力は日本が太刀打ちできないほど増強されることが明らかになります。

日本政府は、手遅れになることをおそれ、ついにロシアとの開戦を決意します。
こうして起こったのが日露戦争です。


※義和団事件の模様には伊勢雅臣氏の『国際派日本人養成講座二二二号』、経緯については自由社刊『新しい歴史教科書』を参考にさせていただきました。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

一有権者

No title
我が国日本国と日本人の将来の為に自虐史観ではなく、真実事実にもとずく歴史教育をしなくては日本の亡国化、劣化を防ぐ手立てはないと危機感を覚えます。

中共や南北朝鮮の歴史捏造による反日工作を論破できず、あまつさえ反日に勤しむ日本国民が少なかれ存在するのは何故か。?
私達日本人は今一度よく考えて正すべきは正すようにしていかなくてなならないと思います。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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