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雪の名古屋城

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)時代劇などで、お殿様役の役者さんが、「よは満足じゃ」と語るシーンがあります。
ここでいう「よ」とは、いったい誰のことなのでしょうか。
現代漢字では、「余」とか「予」が充てられます。
けれど本来は、実は「世」です。
ただ、「世」と書くと、なんだか大上段に振りかぶった大言壮語みたいで生意気なので、すこし遠慮して「余」とか「予」を書きました。
音はあくまで「よ」です。
そして「よ」とは「世」のことです。
以前にこのことを書いたときに、ムキになって、「ねずがまたウソを書いている。よ、という一人称は、漢字で予や余、世と書くのが習わしなのだと、わかったようなことをさかんに書き立てていた人たちがいましたが、おそらく、わからない人(=心のねじ曲がった人)には、永遠にわからないことだと思います。
そもそも日本語を、西洋的な人称という概念だけで捉えようとしていること自体が、すでにアホです。
なぜ「世」なのかというと、人の上に立つ者、つまり殿様は、「私」を持ってはならないからです。
これはとっても厳しいことで、殿様は、幼少期から徹底的にこのことを教育されました。
なにしろ「私心を持ってはいけない」ということは、昔の武士たちのイロハのイの字よりも前に来る、基本中の基本だったのです。
ですから、いまの子どもたちなら、
「俺、これ食べたーい」とか、
「俺、これほしい」、あるいは、
「俺が一番!」などという言葉は、ごくあたりまえの日常語ですが、殿様の家庭では、これらはすべて禁止です。
なぜなら、「俺が」という言葉自体が、私心のあらわれだからです。
他の人を優先するとか、譲り合いの精神といったものとも違います。
それも私心です。自他があるからです。
常に世の中のために、何が大切か、必要か。
それだけが大事にされました。
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大事にされた理由は、聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼります。
第十五条に「背私向公」とあります。
「私(わたくし)に背(そむ)き、公(おおやけ)に向(むか)え」と読みます。
およそ人の上に立つ者は、自分個人のことよりも、みんなのことを優先せよということです。
まして殿様といえば、藩主ならいまの県知事、直参旗本ならいまの市長くらいの役職にある者です。
そういう人が、「俺が、俺が」と我を張って自分個人の利益を優先するようになったら、まさに「世も末」です。
だからこそ、お殿様は、一人称を「よ」と言ったのです。
そしてここでいう「よ」は、自分個人のことではありません。
「世の中の人々」という意味です。
ですから「よは満足じゃ」というのは、「私個人が満足に思いますよ」という意味ではありません。
そもそもそういう概念自体、ほんのすこしでも思うことさえ許されなかったというのが、当時のお殿様です。
つまり「よは満足じゃ」は、その議決事項等について「世の中の人々が満足に思うであろう」、もしくは結果について、「世の中の人々がきっと満足したことであろう」という意味で使われた言葉です。
殿様なんぞに生まれたら、これが食べたい、あれが食べたいなどと我儘を言うことなど一切許されません。
ご飯に味噌汁に漬物、しかもお毒味役が毒味してからですから、冷えたご飯に冷えた味噌汁です。
おかわりも、2杯までと決められたら、それに従うしかない。
身の全ては公(おおやけ)のためのものだからです。
美味いものを腹いっぱい食べて「満足、満足」と言えるのは、むしろ庶民の特権でした。
そんな次第ですから、たとえばテレビドラマの「暴れん坊将軍」が、ラストシーンで「余の顔、見忘れたか!」などというのは、まったく日本の歴史を知らないか、日本の歴史を誤って教わったか、あるいは意図的に日本の統治の精神を歪めようとするさもしい心得からくるファンタジーでしかありません。
ちなみに、武士は自分のことを「拙者(せっしゃ)」と呼びましたが、これは「そんな公に奉仕することのできない拙(つた)ない者」という意味です。
つまり、「私」を主張したり、自分のことを述べたりする者というのは、公ではなく私であって、それはつたないもの、と考えられていたのです。
殿様というのは、天子様である天皇から、担当地域の政治を委ねられた者、もしくは日本の治世を親任された将軍家から、領土領民の統治を委ねられた者たちです。
だから、領土領民を「御拝領」といいます。
いわば人のものを預かっている立場ですし、何のために預かっているかといえば、その領土領民たち、つまり天子様の「おおみたから」を、より安全に安心して暮らせるようにと預かっているのです。
いまでは知事や市長は、選挙によって「選ばれた人」という位置づけですけれど、「俺は選ばれた人間だ」という意識は、いわゆる選民思想に由来します。
これは、俺は神によって選ばれた者だ、というのに等しいことで、あたりまえのことですが、傲慢をうみます。
ですからこのような人達が、自分の所轄する、自分を選んでくれた県や市町村で、何か大きな不祥事が起きたからと、自ら責任をとることはありません。
戦後の現代史を見ても、知事や市長が引責辞任するのは、常に、その知事や市長自身の手による金銭不祥事くらいなものです。
先般、神奈川県川崎市で中一児童の殺害事件がありました。
もしこれが江戸時代に起きたことであれば、川崎の、この場合は町奉行になりますが、川崎町奉行は、世間を騒がす問題を起こしたということで、切腹です。
なぜなら、そのような問題を「起こさないために」町奉行の職があるからです。
問題が起きたならば、その「問題を起こしたことに責任」をとるのはあたりまえです。
そのことを自覚し、自分で責任をと切腹すれば、家門は維持できます。
せめて息子は家督を相続し、また別な任地で奉行職を勤める家柄を維持できます。
けれど、自分で責任を自覚せず、腹も切らないとなれば、幕府から譴責(けんせき)を受けます。
この場合は、切腹ではなく、斬首です。
斬首は武門の恥です。
ですから、お家はお取り潰しとなり、妻子も親も、翌日からは一介の浪人一家となり、路頭に迷わなければなくなります。
武家稼業は楽じゃないのです。
現代社会では、切腹も打首もありません。
そして神奈川県警が被害者をイジメた児童を逮捕し、川崎市長は、市議会で「二度とこのような事件が起きないよう、教育委員会とも連携し、しっかりと対策をしていきたいと思います」と述べるだけです。
いささか過激な発言に思われるかもしれませんが、現代日本の市長さんは、小楽なものです。
ここまで申し上げても、「でも昔のお殿様は世襲だったよね」などと思う人がいるかもしれません。
しかし考えてみてください。
殿様と呼ばれる間も、そうでない間も、泣いて我儘を言えたのは生まれたての赤児の内だけで、その後は一生死ぬまで「私」ということを、言葉さえも発してはならないのです。
しかも何か大きな事件が起きれば、公のために問題を起こした責任をとって切腹です。それが殿様の役割です。
気楽に「私」を主張できる民と、幼児から死ぬまで一切「私」を言えないお殿様。
話をする際にも、「私はこのように思う」とは一切口にさえできないお殿様。
常に「世は」と、世の中の人はこのように思うであろうという形でしか発言できず、「私は」とか「俺が」などと一言でも言おうものなら、主君押込(しゅくんおしこめ)といって、座敷牢に入れられ反省するまで半年でも1年でも牢屋から出してもらえなかったのが、昔のお殿様です。
いま、youtubeなどにおいて、様々な論客のみなさんの動画が出回っています。
どれでも構いませんから、どれかひとつを再生してみてください。
多くの場合、その人の発言は、1分に一度「私は」と、私という言葉が出てきます。
公のために活動し、発言している人ですら、そうなのです。
そのことが良いとか悪いとか言っているのではありません。
ただ、一切の「私」を捨てるということは、人生の途中からいきなりなれるということではなく、幼児のうちから徹底した教育を施さなけば身につくものではない、ということなのです。
だから殿様は世襲であり、生まれたときから、ずっと「私」を捨てる教育が施されてきたのです。
食べ物の中に、好きな食べ物があっても、「俺、これ大好物なんだ」とさえ言えない。それがお殿様です。
そしてそこまで徹底して公に尽くし、公に生きることは、世襲でなければできることではありません。
ただし実力分野、たとえば藩の経理財務や藩の外交、あるいは学問や武芸などの分野においては、世襲や血筋ではなく、実力がものを言いました。
ですから、どの藩においても、そうした分野には出自(しゅつじ)などは一切問題にせず、たとえ農民や職人、あるいは商人の出であっても、有能な人材を用いました。
これまた至極もっともなことです。
ただし、責任を取るということに関しては、そういう人達は切腹やお家断絶はなく、解雇というだけにとどめられました。
そういう違いがあったのです。
こうしてみたとき、江戸時代が、前にもご紹介しましたが、江戸の享保年間の20年間の間に、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数がゼロだったこと、あるいは江戸の日本橋のたもとという、日本一往来の激しかった場所で、青天井のもとに全国に送金される現金がザルにいれられて、見張り役さえいなかったのに、江戸時代を通じて盗難事件がゼロだったこと。
明治から昭和の中期頃まで、家に鍵なんてかけなくても、誰も泥棒さえはいらないというほどまでに、優れた治安が実現していたことなど、ある意味当然のことであったと思います。
それから考えれば、児童が殺害されるような事件があっても、女子高生がコンクリート詰めにされていながら、区長も知事も警察署長も、だれひとり死刑にならない時代というのは、施政者にとっては「都合の良い時代」かもしれませんが、民衆にとってそれが本当に良い時代といえるのか、そういうことをこそ、私達は考えていかなければならないのではないかと思います。
なぜならここは日本なのですから。
お読みいただき、ありがとうございました。

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※この記事は2015/5の記事のりニュールです。


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コメント
w
2017/01/26 URL 編集
-
天子様の立場を大名が担っていたいたと言う事になりますよね。
2017/01/26 URL 編集
lala
先生のお話とは、違うコメントなのをお許しください。
昭和天皇を想いながら、今日のお話を読み、
涙が流れてきました。
今上陛下のNHKでの『御言葉』。
内容について少しだけ文章で読んだだけで、
映像は観ていません。
今上陛下が私心を…。
有ってはいけない事だと思いました。
あと何十年か過ぎ悠仁様の時代になり、
『平成』はどんな時代だったのだろうと回想した時、
今上陛下の『御言葉』をその時代の日本人は、
どう感じるのだろうか。
いつだったでしょうか、
葉山の海で今上陛下と秋篠宮妃殿下に抱かれた、小さな悠仁様が和船に乗る。
今上陛下自らが和船を手で漕ぐ映像を観ました。
海での遊びではなく祭祀だと知り、
皇室とは、日常が祭祀の積み重ねの日々なのだろうと感じました。
悠仁様が生まれてまず、今上陛下がお抱きになったのも、意味のあることなのでしょう。
日本の国が、日本人の心がかわらず、
続くように祈るばかりです。
悠仁様が即位するまで、
元気にいたいと思っている、51才の女性です。
2017/01/26 URL 編集
-
人口減少と言っても、あと30年は1億人維持なので、
市場規模はあまり変わりません。一方、生産年齢人口減
少率は総人口のそれの4倍もあり、人手不足が深刻化し、
このままでは、供給能力維持が困難になります。よって、
生産性向上が必要であり、そのため第四次産業革命のた
めの投資と交通インフラ整備が必要です。
交通インフラ投資による効果は、短期的には受注者側所
得上昇によるGDP増加、中長期的には輸送能力増大による
生産性向上があり、地方創生にも寄与します。例えば、
交通渋滞解消などによる高速化や、高架化で開かずの踏
切除去による単位時間当たりの輸送量増加により、生産
性向上が達成されます。
80km/h以上走行可能道路網に関し、欧米先進国の高速走
行可能道路はメロンの網目状であるのに対し、日本は、
数か所のループを除き基本的に線状で貧弱です。特に、
日本海側がそうであるので、高速道路網整備は、地方創
生の主要な必要条件です。しかし、10万台当たりの高速
道路延長(km)と高速道路の6車線道路構成比(%)は
日本:0.9, 8.0
英国:1.5, 70.1
ドイツ:1.7, 23.8
であり、日本の高速道路整備が不十分であるのが、明白
です。
また、整備だけではなく、インフラ維持管理も不十分で
あり、その原因が公共投資悪玉論による、1998年の約15
兆円をピークに半分以下の約6兆円までになった公共投資
減少です。その期間での公共投資の変化は、ドイツが
1.06倍、イタリアが1.33倍、英国が2.92倍、アメリカ
が1.8倍であり、日本の減少が異常です。したがって、生
産性向上とデフレ脱却のため、公共投資の増額をすべき
です。
2017/01/25 URL 編集
ポッポ
先日、新聞でコラムを読んでいましたら、お殿様はご飯にネズミの糞がのっていても、そのまま食べなければならなかったとのことです。
その理由は、お殿様が食べなかったら、誰かが腹を切らなければならなくなるからだそうですが、お殿様の「よは満足じゃ」の一言は、重い一言だと思います。
2017/01/25 URL 編集
ワンポイント
愚妻、愚息、愚作を「ひどい」「妻を悪く言うなんて」という人がいますが、あの「愚」は自分を謙る言い方で「愚か」なのは私(発言者自身)です。
2017/01/25 URL 編集
木村千鶴子
『世の中のために、何が大切か、必要か。それだけが大事』なのですね。
現代は、一人一人がみんな違う、それぞれが生まれてきた意味を通して、宇宙全体に貢献をしていく時代です。
「俺が」「譲り合いの心」の体験を通して、初めて大我の世界に至ります。
自分と全体の二つは、別のモノではなく、一つの役割り(生まれて来た意味)の違いです。
だから、本当はどちらでも、その人の成長リズムでいいのです。
大事なのは、外部の人や考え方を鵜呑みにしないで、自分の頭で考え、体験を通して真髄を掴んで行けばいいのですね。
こうした主体の確立した人との出会いは、どんな成長段階にいたとしても、『協力関係』になり、宇宙への最大の貢献になっているという状態です。
この意識感覚こそが、21世紀を生かされている私たちの願いであり、目的地です。
木村千鶴子
2017/01/25 URL 編集
junn
http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2017/01/post-07a8.html
2017/01/25 URL 編集