嬉しくなった石松は、
石「で、五、六人とは一体誰でえ」
江「清水一家で強いと言えば、
一に大政、二に小政、三に大瀬の半五郎、
四に増川の仙右衛門・・・」
と続くのですが、なかなか石松の名前が出てこない。
いい加減焦れた石松、
石「おめえ、あんまり詳しくねえな。
次郎長の子分で肝心なのを
一人忘れてやしませんかってんだ。
この船が伏見に着くまででいいから、
胸に手ェあてて良~く考えておくれ。
もっと強いのがいるでしょが。
特別強いのがいるんだよ。
お前さんね、
何事も心配しねぇで気を落ち着けて考えてくれ。
もう一人いるんだよお」
江「別に心配なんかしてやいねぇやい。
どう考えたって誰に言わせたって
清水一家で一番で強いと言やぁ、
大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」
石「ん?」
江「大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」
「うわぁ~客人すまねェ、
イの一番に言わなきゃならねぇ清水一家で
一番強いのを一人忘れていたよ」
石「へ~。で、誰だいその一番強ぇってぇのは」
江「こりゃあ強い。
大政だって小政だってかなわねえ!
清水一家で離れて強い!
遠州森の生まれだぁ!」
石「へえ。そこのところをもう少し聞かせてくれや、
誰が一番強いって?」
江「こりゃあ強ぇ。遠州森の福田屋という宿屋の倅だ!」
石「なるほど!」
江「森の石松ってんだい。これが一番強いやい!」
石「呑みねぇ、呑みねぇ、寿司食いねぇ、
もっとこっちへ寄んねぇ。
江戸っ子だってねえ」
江「神田の生まれだい」
石「そうだってなぁ。
そんなに何かい、その石松は強いかい?」
江「強いかいなんてもんじゃないよ。
神武この方、バクチ打ちの数ある中で、
強いと言ったら石松っつぁんが日本一でしょうなあ!」
石「へぇっ、そいつぁ凄い!」
江「強いったって、あんな強いのいないよ。
だけど、あいつは人間が馬鹿だからね」
と、まあ楽しい掛けあいが続きますが、森の石松のお話はまた今度ということにして、今日のお題は、清水次郎長です。
清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
上の石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、映画やテレビで繰り返し取り上げられていますので、ほとんどの方は、ご存知であろうかと思います。
清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市で生まれています。
当時、元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもない悪い奴になるかのどちらかと相場が決まっているとされ、生後まもなく母方の叔父で米屋を営む甲田屋の主(あるじ)山本次郎八のもとに養子に出されます。
清水次郎長の本名は山本長五郎ですが、「山本次郎八さんの家の長五郎」がなまって次郎長と呼ばれるようになったのだそうです。
次郎長15歳のとき、養父の次郎八が逝去したため、甲田屋の跡を継いでいます。
この頃の清水港は、小さな廻船港で、富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送していました。
甲田屋も、米の輸送をしていて、次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまいます。
次郎長は、妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊ら弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
これはいわゆる凶状旅というやつで、罪を負った人間が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、というものです。
旅を終えた次郎長は、弘化4(1847)年に、弟分の江尻大熊の妹お蝶(おちょう)を妻に迎え、清水に一家を構えます。
最近まで、ヤクザや博徒などは「○○一家」と名乗っていることが多かったのは、ご存知の通りですが、誤解を恐れずに申し上げますと、極道の世界というのは、ある意味、日本社会の価値観の縮図のようなところがあって、この「○○一家」とい名乗りも、その典型です。
日本社会は、すべてにおいて「家」という単位で社会が構成されていました。
たとえば大名にしても、山之内家であり、上杉家であり、浅野家であり、井伊家、松平家等々、藩主を家長とする「家」という概念です。
そこにいる藩士たちも、それぞれは「家」を持ち、家督も俸禄も「家」を単位として形成されています。
たとえば徳川家には八万騎の旗本、御家人がいるとされていますが、その旗本や御家人たちは、それぞれ佐藤家であり、榊原家であり、松平家であり、井伊家、勝家等々の「家」の集まりです。
「家」が集まって、藩と言う名の「家」を構成し、その諸藩が集まって「日本」という「家」が形成されている。
その「家」の中の本家の中の総本家が、天皇家にあたります。
以前、出光佐三氏のことを書いた「社員は家族だ」(
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3249.html)の記事で、出光石油の創業者の出光佐三氏が、「社員を家族」として大切にした、というお話を書かせていただきましたが、こうした「社員は家族」、会社は、一個の「家族」であるという考え方は、日本社会の、かつては基礎をなしていた考え方です。
日本は、いまから2675年前に、神武天皇が即位された際、建国の理念として「八紘をおおいて一宇となす」と述べられました。
「八紘」は四方八方の意、一宇は「ひとつ屋根の下」という意味です。
「四方八方をおおって、ひとつ屋根の下に暮らす家族のような国家を築く」これが日本建国の理念です。
ですから、大名も会社も家族、もちろん我が家も家族、そして清水一家のような者でも、まさに「一家」つまり「家族」を名乗ったのです。
さて清水一家ですが、保下田の久六を斬ったり、富士川舟運の権益を巡って甲州の黒駒勝蔵と抗争を繰り広げたりしながら、次第に勢力が増え、気がつけば配下千人の大博徒一家に成長しています。
幕末の風雲急を告げた慶応4(1868)年(明治元年)、次郎長49歳のときのことです。
新年早々に、京都で鳥羽伏見の戦いが起こりました。
この戦いのあと、有栖川宮を大総督とする東征官軍が京都を出発して東海道を東に向かって進発するのだけれど、問題は駿府(静岡)です。
駿府といえば、徳川家のおひざ元です。
街の住民も含めて、何が起こるかわからない。
そこで菅軍は、街道筋の年貢を、従来の幕府の半分にするとお触れを出すとともに、遠州浜松藩の家老であった伏谷如水を駿府町差配役に任命します。
この伏谷如水が、次郎長に街道警固役を命じるのですが、このときの様子が(
「次郎長翁を知る会」のHPに書かれているので、引用します。
~~~~~~~~~~~~
ある日、清水港の長五郎のところに出頭命令が来た。
駿府町差配役、判事伏谷如水からである。
長五郎はすでに50の声を聞こうという年頃である。
女房のお蝶を呼んで言った。
「おれは罪の多い身だ。出頭すれば、二度とおまえっちの顔を見ることはできめえ。逃げようと思やあわけねえことだが、今度のことは、お上がおれを捕えようというのじゃない。特別のことでお召しになるようだから、逃げかくれするのは、やっぱ、よくねえ。行かなきゃなるめえ」
長五郎が腹をくくって出頭すると、小役人が案内して、別室の伏谷判事に引き合わせた。
判事が言った。
「今戦乱で何かと事の多い時代だ。武士だ、官員だと詐称して悪事を働く者が後を断たない。一方、取締る側も、旧幕臣との間で意見の食い違いから上司に抗するなど、憂慮すべきことが多い。そこで、その方を登用して沿道の探索に当たってもらうことにした。これまでの処世態度を改めて、御奉公につとめてもらいたい」
長五郎は固辞した。
「とんでもねえことです。私らのように身分いやしい無頼の徒が、お上の御用なんてつとまるわけはありません。どうか勘弁して、ほかの人を選んでおくんなさい」
長五郎の返事を予期していたように、判事は部下を呼んだ。
官員の制服を着た部下の男が、書類を手にさげて部屋に入って来た。
下座の方に坐っていた長五郎が、顔をあげてその男を見て驚いた。
よく見かけた顔である。
その男は清水の港町を近頃よく歩いている足袋の行商人である。
長五郎の家にも、一度買ってやったら度たび現われ、時には酒を出してやったこともある。
伏谷如水は小池にささげ持つ書類を朗読するように言いつけた。
長五郎は頭を下げてこれを聞いた。
長五郎の旧悪が細大もらさず記されている。
長五郎は背中に冷水をかけられたかのようであった。
「包みかくしなどできることではございません。お上の御明察には恐れ入った次第ですが、ただ間違っていることが二件ほどございます」
長五郎は誤認の箇所を詳細に申し立てた。
判事は、率直な長五郎をほめ、登用する旨を正式に申渡した。
積年の長五郎の罪科はすべて免除され、平民としては破格の帯刀を許されるという栄誉もあわせて、命を受けて長五郎は退出した。
天保13年、23歳の年に国を売って清水を出て以来、実に27年の間、常に危難の中に身を置き、一日たりとも世をはばからない日はなかった長五郎は、ここにおいて初めて、青天白日の身となったのである。
~~~~~~~~~~
こうして明治元年3月から7月まで街道警固役を無事つとめ終えた次郎長に、この年の9月、事件が起こります。
事件に登場するのは、幕府の軍艦「咸臨丸」です。
「咸臨丸」といえば、勝海舟が海軍伝習所で、坂本竜馬らとともに操船を学んだ船であり、また、福沢諭吉らを乗せて、サンフランシスコまではるばる太平洋を横断した船としても有名です。
この「咸臨丸」が、明治元年、海軍副総裁榎本武揚らとともに、品川沖を脱走して函館に向かうのですが、途中で台風の影響による暴風雨にあい、榎本艦隊とはぐれて、下田港に漂着してしまうのです。
そして救助に来た蟠竜丸とともに清水港に入港します。
9月11日、榎本艦隊と合流するために、蟠竜丸が先に清水を出発。次いで咸臨丸も出航しようとした矢先、明治新政府の艦隊に清水港内で襲われ、沈没してしまうのです。
このとき次郎長は、傷ついた徳川方の軍人を官軍の目が届かないように密かに逃がし、湾内に浮遊する屍を拾い集めて、手厚く供養して葬りました。
港に浮かんだ多数の幕府軍の兵士の遺体は、次第に腐乱し始めていました。
官軍はこれを放置したままでした。
漁民たちには漁の邪魔にもなっていました。
けれど、
「賊軍に加担する者は厳罰に処す」
とのお触れが出ていたのです。
だから怖くて、誰も遺体の処置ができないでいました。
これを知った次郎長は、
「不仁のために仁をなさずんば」と啖呵を切ると、子分を引き連れて小船を出し、港に浮かぶ遺体の回収作業を行いました。
この時次郎長は、次のように述べたと伝えられています。
「人の世に、賊となり敵となる悪む所、
唯その生前の事のみ。
もしそれひとたび死せば
復た罪するに足らんだ。」
これこそが本物の大和の男です。
当然次郎長は糺問官に出頭を命じられました。
「賊兵を葬うとはお上を恐れぬ行動」というわけです。
ところが次郎長は、
「敵だろうが味方だろうが、死ねば仏だ。
仏に官軍も徳川もあるものか。
仏を埋葬することが悪いと言うのなら、
次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けいたしやすぜ」
と啖呵を切って、出頭を突っぱねました。
いつの時代もそうですが、ヤクザの大親分の啖呵というのは、実におそろしいものです。
迫力がちがう。
結果として次郎長はお咎めなしとなりました。
鉄舟は、次郎長の行動に感動し、「壮士墓」と揮毫を贈りました。
これは、いまでも巴川のほとりの埋葬地で墓標となって現存しています。
その山岡鉄舟の勧めで次郎長が明治7(1874)年にはじめたのが、富士山麓の万野原の開墾です。
いまではすっかり住宅街になっている万野原ですが、明治の初めごろは、ここはうっそうとした雑木林でした。
次郎長は、そこをおよそ10年がかりで広大な水田地帯に開墾しています。
はじめたのが次郎長55歳のときですが、次郎長自身も、鋤や鍬を持ち、人夫衆と一緒に開墾をしました。
人夫衆には、お上の了解を得て、懲役囚を数十人を使ったのだけれど、誰ひとり脱走する者はいなかったそうです。
翌明治2(1869)年9月、江戸城を明け渡した徳川慶喜は、駿府(今の静岡)に居住することになりました。
これを受けて、この年の12月、江戸の大物親分の新門辰五郎が次郎長に会い、徳川慶喜公の護衛役を依頼します。
次郎長は辰五郎の意思を引き継ぎ、影ながら晩年まで慶喜の護衛を果たしていますが、徳川家では、その労に対し、葵の五つつの紋が入った熨斗目(かみしもの下につける礼服)を次郎長に送っています。
そして博徒稼業から足を洗った次郎長は、万野原の開墾の他、清水港の整備事業の推進を説いて回り、単なる廻船港にすぎなかった清水港を、国際貿易港として機能するように築造しています。
さらに清水港から、蒸気船を使って清水~横浜間の海運会社を起こし、米や海産物の輸送だけでなく、静岡茶の販路の拡大にも貢献しています。
また清水港内に宿泊施設「末広亭」を築造して、船旅の旅客の宿泊に供し、ここで英語塾を開き、米国人教師を雇って、塾を清水の青年たちに開放したりもしました。
晩年の次郎長は、「どてら姿で縁側に腰をおろし、子供たちの相撲を眺めている好々爺」だったそうです。
たとえ犯罪者であっても、あるいは博打打ちであっても、心のどこかで「いつかは俺も世のため人のためになる真人間になろう」という気持ちを持ち続ける。
それが日本人という生き方だし、そんなことを実際に実行し生涯を駆け抜けたのが、清水次郎長だったのではないかと思います。
次郎長親分が、いまだに大変な人気なのも、単に次郎長三国志の男伊達というだけでなく、晩年の彼がほんとうに体を張って、世のために尽くしたという、そういう姿が、多くの庶民に受け入れられたのでしょう。
ただの喧嘩早い博徒の話なら、広く大衆に受け入れられる物語とはならないからです。
現実の問題として、暴れん坊の次郎長話が好きだと子供が言ったとして、それが単なる暴れ者として好きだというのなら、親にしてみれば心配なことです。
ところが次郎長三国志を呼んだり観たり聞いたりして、子供が興奮状態になったとしても、「実はな、清水次郎長と言う人はたいへんに偉い人で、晩年の彼は・・・」と話して聞かせたら、子供にはものすごくいい刺激になる。
日本神話の神々と、博徒の次郎長親分を同時に語ったらバチがあたりそうですが、日本神話の神々も、このブログで何度もご紹介している通り、最初、若いうちはどうしようもない暴れん坊だったりしています。
けれど年輪を重ねるうちに、誰からも尊敬される、まさに「神」として成長していきます。
人は神ならぬ身ではあるけれど、神と同様、成長することができるのです。
日本社会は古来、集団を大切にしてきました。
個人の利益よりも、集団の利益や協調を尊びました。
けれど、集団内にいる個人は、常に人と人との間に生きています。
そして人間関係は、とてもわずらわしくてやっかいなものです。
けれど、人を成長させるのも「人」です。
おもしろいことに人間関係は、人間関係で苦労するほど、人を成長させてくれます。
そして集団が、よりよく住みやすい社会を築くには、誰もがちょっとずつ我慢したり、周囲に気遣うことが必要になります。
その「気遣い」が「人の道」です。
一昔前の日本では、演歌や浪曲といった大衆芸能でも、人の道や人の生き方がテーマになることが多かったように思います。
それは昔の人が、人と人との関係を、いつもたいせつに思っていたからです。
そしてそれこそが、日本人としての生き方なのかもしれません。
人は人の中でしか生きられない。
だからみんなが気配りをする社会は、わずらわしくて、面倒で、やっかいだけれど、その分、住みやすい社会になります。
これに対し、戦後日本に蔓延した個人主義は、自分さえよければいい、いまさえよければそれでいい。人の道よりゼニカネが大事、という社会です。
そして人が個人主義に走れば走るほど、人間関係の煩わしさからは解放されるけれど、人は鍛えられず、社会は互いが互いを気遣わない、住みにくい社会となっていきます。
どちらがより多くの人に幸せを与えるか。
答えはあきらかだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
zephyrus
次郎長が壮士を弔ったあとに呼び出されたときに、実は官軍が呼び出した場所(寺)のすぐそばの林に子分が数十名、ありったけの刃のあるものをもって隠れており、親分に何かあったら合図をしてもらい、官軍の武士も何も関係ないと切り込もうとしていたそうな。
「はじめたのが次郎長55歳のときですが、次郎長自身も、鋤や鍬を持ち、人夫衆と一緒に開墾をしました。人夫衆には、お上の了解を得て、懲役囚を数十人を使ったのだけれど、誰ひとり脱走する者はいなかったそうです」:事実と違い、あるとき外で労働して風呂にも入れるという普通のひどい牢との差が違うことを理解しない十代の者が母親に会いたい(だったか、記憶が怪しい)逃げ出してしまい、次郎長はその責任をとり、政府の役人にひき止められたにもかかわらずこの事業から手をひいてしまいます。このため懲役囚は現在の静岡のひどい環境の牢に戻らざるをえず、都市伝説かもしれませんが、この脱走したものは、お前のせいでこんなひどい牢にもどらなければならくなったと恨みをかい、牢の中で布団巻にされて殺されてしまったとのこと。
ともかく、私の母の世代(昭和の初期頃)までの清水生まれの人で「次郎長」と呼び捨てにするものは清水にはいないと思います。「次郎長*さん*」といいました。まあ、母の実家も次郎長の生家の近くですが。ちなみに、次郎長が生まれた家や、働いた商家のある通りを、「次郎長通り」と呼び、私が子供のころには繁盛しておりました。今は、シャッター通りに近い状態ですが。私は「次郎長通り」が正式の住所だと中学くらいまで思い込んでいましたが、そうではありません。でも清水のタクシーの運転手にはそういえば間違いなく連れて行ってくれます。
次郎長の墓のある寺には、賭博の場で殴り込みのときに着たと思しき胴着のようなものに血しぶきがかかったものが展示してあり、寺にこんなものをおいても良いのかと思うこともありましたが、今でも観光でにぎわっているようです。
次郎長は清水港の祖といってもよいかと思います。日本で初めて身分にかかわらず月謝をはらえば通える英語塾を開いたという話をきいたときには驚きました。
英語をおしえたのは、港で貿易をするにあたって必要な外国語がオランダ語ではなくエゲレス語だと明治維新で活躍した人々から聞いたから。
なお、「どてら姿で縁側に腰をおろし、子供たちの相撲を眺めている好々爺」なんですけども、縁側のある通りの四方の交差点それぞれには若い衆がちゃんといて目をひからせていたということは記録しておいてよいかもしれません。本人は手ぶらでも、そうでない若い衆がボディガードをしていて怪しいのは一切近寄ることができなかったと。
2017/01/28 URL 編集