ちなみに、私たちがよく知る神武天皇も、その時代には神武天皇という呼名はなく、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこてんのう)でした。
神武天皇とか、天智天皇、天武天皇といったお名前は、同様に奈良時代にChina風の諡(おくりな)として付けられた名前です。
さて、その持統天皇の和風諡(おくりな)には、「高天原」の文字が入っています。
これは歴代天皇のなかで、実は、持統天皇ただお一方です。
持統天皇は、高天原の神に等しい存在と呼べる素晴らしい天皇であったことが、この「高天原」の三字に込められています。
「鵜野讃良(うののさらら)」というお名前は、「鵜野」が、鳥の鵜、鵜飼の鵜のいる川の三角州のような広い野原、「讃良」の「讃」は褒めるという意味の漢字です。
つまり「鵜野讃良」は、すべてを承知して中つ国である日本(=野)をひとつにまとめる偉大な女性と褒め称えられるような皇女となることを期待されてお生まれになられた女性であったわけです。
別な字の「菟野沙羅羅」も同じです。
「菟(う)」は、植物のネナシカズラのことで、この植物は、草原や森で、まるでと網をかけるように、野原全体を覆う習性があります。
また「羅」は、鳥を捕える網のことです。
つまり、すべてを覆う偉大な女性という意味が込められているとわかります。
持統天皇の父は中大兄皇子(後の天智天皇)です。
娘にこれだけの名前を付けたというところに、父の娘への大きな期待を読み取ることができます。
実際、鵜野讃良皇女は、後に中大兄皇子の実弟の大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎ、夫をよく扶(たす)け、後には自ら天皇となって、豪族たちの連合体であった我が国をひとつの国家にまとめあげています。
さてこの時代、東亜の情勢は下の図のようになっていました。

Chinaでは、各地の軍閥が乱立して約300年の群雄割拠の戦乱が続いていました。
群雄割拠の間は、日本からすれば、勝手にChina国内が乱れているだけのことで、我が国にとって脅威にはなりません。
ところがそこに隋という軍事大国が現れて、Chinaを統一すると、捨て置けぬ状況になります。
遣隋使は、こうして派遣されることになったわけです。
その隋の大帝国ですが、隋という漢字は「肉を細かく切る」という意味の漢字です。
つまり隋は、肉食の遊牧民が築いた王朝だということが、その名前からわかります。
Chinaの中原で戦乱が続くと、漢族の一般民衆は、定住していればそこを襲われて食べ物を奪われ、何もなければ自分が食べられてしまいます。
ですから、土地を捨ててあちこちに逃げ回るのですが、中には北方の遊牧民の住むエリアにまで進出し、そこで遊牧民の大切な家畜を勝手に殺して食べてしまう者が度々出るわけです。
このことは、家畜を財産とする北方遊牧民にとっては、まことに迷惑な話です。
ですから、漢族はまさに天敵ということになります。
ところがいくら打ち払っても、また別なものがやってきて、同じことをする。
要するに、後を絶たないのです。
こうなれば、もはや漢族のエリアを武力で制圧するしかない、ということになって出来上がったのが、隋の大帝国であったわけです。
ところがこの隋は、隣にあった、やはり軍事大国の高句麗とたびたび干戈を交えます。
高句麗も、いまの北朝鮮と同じ軍事大国です。
おかげで高句麗との戦いに、疲弊した隋は、わずか29年で滅んでしまいます。
その後に起こったのが唐です。
唐という字も杵で肉を突くという字で、この国もまた鮮卑系です。
鮮卑というのは遊牧騎馬民族のことです。
つまり遊牧民王朝である隋に代わって中原を制したのは、やはり遊牧民の唐であったわけです。
唐も、強大な軍事大国でした。
そうであれば、唐は、上の図の中の、どこの国を一番警戒するでしょうか。
答えは簡単にわかると思います。
高句麗です。
なにせ隋が滅ぶ原因を作った国なのです。
ちなみに高句麗(こうくり)という名は、マルコポーロによって西洋に伝わり、後に現在の英語の「コリア」(Korea)の語源となっています。
もっともその高句麗は、いまから1300年以上も昔の668年には滅んでなくなっていますので、いまだにコリアが高句麗(Korea)を名乗るのは、ある意味、図々しい話です。
このような事情から、唐は、どうしても高句麗を滅ぼしたい。
そこで、高句麗の後背地にある新羅と手を握ることを考えつきます。
この頃の新羅は、倭国への朝貢国です。
百済も同じです。
跡継ぎの王子を大和王朝に人質に出しています。
この時代について、百済や新羅が倭国よりも進んだ文明文化を持ち、日本は遅れた国であったと解説する先生もおいでになります。
とんでもない話です。
なぜなら倭国は、百済や新羅に人質を出したことは、ただの一度もありません。
図に「伽耶」と書かれている地があります。
ここは、倭国の直轄地だったところです。
この伽耶の地を、百済は日本の政府高官に賄賂を送ることで、いつの間にか自国の領土に組み込んでしまいました。
どうしてそんなことが、と驚いた倭国で調べてみたら、原因は買収だったということがバレたというお話が日本書紀に書かれています。
昔もいまも半島マインドは変わらないのですね。
もっとも、買収によって勝手に百済人にされた伽耶の人々は、倭人であるという誇りを失わず、その後約100年にわたって百済への税の支払いを拒んで、わざわざ海を渡って倭国に税を収め続けています。
文化レベルの劣る百済人と一緒にされたくない、という思いが濃厚にあったのであろうと思われます。
ちなみに、百済という国名は、百が「もも」です。
済は、穀物が稔ることの象形で、「成る」という意味を持ちます。
つまり百済という国名は、和風に訓読みすると「桃が成る」となります。
古事記に、伊耶那岐が醜き醜き穢国から逃げてくるとき、桃の実を投げて穢軍を撃退し、その国の民に意富加牟豆美命(おほかむつみのみこと)という名前をあげたという記述がありますが、もしかすると百済は、その末裔として、もともとは倭人の国家であったのかもしれません。
ついでに申し上げますと、この伽耶の買収が、あまりにも図々しいことであったために、百済の王が申し訳に日本に唐の高僧と、唐の仏教の経典、唐で造られた仏像を献上しています。
これが、いわゆる「仏教伝来」と呼ばれるもので、西暦552年(6世紀)のことです。
先生によっては、文化の遅れた日本に、これによって百済からはじめて文字と仏教がもたらされたのだと説明している方がいますし、韓国も、日本に文字や仏教を「教えてやった」と学校で教えているそうですが、残念ながら漢字は、日本では1世紀にはすでに使われていたし、371年に百済王から贈られた七支刀にも、漢字で書かれた文が刻まれています。
それに本来、ひとつの国家が国家儀礼として物品を贈る場合、その国の最高の物産を贈るのが常識です。
それが自国の文物ではなくて、唐の坊主と唐で書かれた仏典、唐の仏像であったということは、逆にいえば、百済には倭国に誇れるほどの文物が何もなかったということです。
しかも百済は軍事的にはまったくの弱国として知られていました。
平時には、賄賂で良い地位を占めたいと思って行動するけれど、いざとなるとすぐに逃げ出す。
その点、新羅は、やや不器用だけれど、軍事的には強い国とされていました。
こうした事情ですから、唐が軍事同盟を結ぶとすれば、その選択肢は新羅しかなかったわけです。
新羅は、新羅の王子が倭国から引き上げてきたタイミングで、軍事行動を起こし、いきなり百済に攻め込みます。
もともと軍事弱国であった百済ですから、攻められたらひとたまりもありません。
瞬く間に国土を蹂躙されてしまいます。
百済最後の王となった義慈王は、それでも王都のあった扶余の近郊で、数万の軍隊を出動させて決戦を挑みますが、総大将の王自身がそくさくと逃げ出し、結局、指揮系統の崩れた百済軍は、約一万の兵力を失って敗退します。
百済王は、残兵をまとめて扶蘇山城に立て籠もるのですが、このときにも義慈王自身は早々と城を捨てて逃走しています。
結局、扶蘇城には、息子の泰が立て籠もるのですが、攻めてきた敵軍のあまりの数の多さを見て恐怖し、戦いもせずに、早々と降伏しています。
これによって扶蘇山城が660年に陥落し、百済は滅亡しています。
ちなみにこのとき、王宮に仕えていた3千人の女官たちは、落花岩と呼ばれる断崖から白馬江に投身自殺しています。
その模様は、韓国の「皐蘭寺」というお寺の壁画に残されています。
女官たちの潔さに対し、百済の王や男たちのだらしなさには、呆れるばかりです。
このあと676年には、唐と新羅の連合軍は高句麗も滅ぼして、ついに新羅が朝鮮半島を統一しています。
皐蘭寺壁画

さて、660年に百済が滅亡したあと、中大兄皇子は、百済出兵を決意します。
これが661年の出来事です。
持統天皇は、その前、657年に12歳で大海人皇子と結婚していました。
要するに父の弟と結婚したわけですが、これは三親等での結婚になりますので、現代日本では許可されていません。
また持統天皇は、12歳で結婚した後、17歳で、百済出兵のために夫とともに同行した筑紫で男子を産んでいますが、結婚してから子が生まれるまでに、まる5年が経過しています。
これは、いつの時代も同じですが、幼くして結婚しても、子づくりに励むのは女性が15歳以上になり、かつ、女性としての体が十分にできてからです。
さて、筑紫で子の草壁皇子を産んだ持統天皇(このときはまだ鵜野讃良皇女)は、663年、白村江の戦いで倭国が大敗したあと、筑紫を離れて大和に帰っています。
倭国の朝鮮出兵は、661年から663年に渡るのですが、最後に白村江の戦いで大敗北を喫して、倭国は朝鮮半島での権益をすべて放棄しています。
白村江の戦いは、数からしますと倭国と百済の連合軍の兵力が4万7千。
唐と新羅の連合軍が、18万の兵力でした。
強兵をもって鳴る倭国の兵だけなら、唐や新羅の4倍程度の敵など物の数ではなかったのですが、とにかく、戦いになると、百済の兵がすぐにアイゴーと言って武器を捨てて逃げ出す。
戦闘というものは、どんな戦いでも勝敗は微妙なものです。
どこか一角が、任務を放り出して潰走すると、そこから全軍が総崩れになるものです。
日本は白村江の決戦で、半島に向かった兵力のうち、4分の1にあたる約1万を失って敗退しました。
この時代の日本の人口は、約500万人です。
現代日本は、1億2500万人ですので、1万の兵力を失ったということは、現代日本なら、25万の若者の命が失われたようなものです。
これは当時の倭国にとって、きわめて重大な出来事でした。
しかも唐と新羅の連合軍は、今度は海を渡って日本に攻め込んでくるという情報がもたらされていたのです。
この時代の倭国は、豪族たちの連合政権のような形だったのですが、この国難の危機を乗り越えるためには、なんとしても、倭国が統一国家として、ひとつの国にまとまる必要があります。
このため、中大兄皇子は、反対派を粛清するまでして、国の統一に努めます。
一方、商業的には、唐と交易をすれば、日本の刀剣や織物などの物産品を唐に持ち込めば、およそ20倍の高値で売れ、唐の文物を日本に持ち帰れば、これまた20倍の高値で売ることができました。
つまり、唐との交易は儲かったのです。
ですから、日本国内には、日本の統一などどうでも良いし、日本が唐の属国になっても構わないから、自分だけが儲かりさえすれば良いと考える豪族もなかにはいたわけです。
日本は、古来、言論の自由の国ですから、平時においては、何を言おうが、ある程度は許されます。
けれど、国家存亡のとき、日本がなくなってしまうかもしれないというときに、そのような我儘が赦されるはずもありません。
ところが、そういう言論を用いる人たちは、交易で金儲けをした影響力のある人達でもあるわけです。
これを粛清するとなれば、その恨みを買うことになります。
中大兄皇子は、そうした親唐派の人々を説得し、あるいは粛清して、国の統一に努めます。
ところが、斉明天皇が崩御してしまう。
そうなれば、中大兄皇子が、天皇になる他ありません。
ところが天皇は、政治を行わないということが、我が国の古くからの伝統です。
天智天皇は、側近を通じて、国のまとめに努力をされますが、おそらくそこに限界もあったのでしょう。
また、粛清をすれば、その恨みは天智天皇おひとりに集中します。
そこで天皇即位のわずか3年後の671年、天智天皇は、山に行くと言ったきり、行方不明になります。
個人的には、これは殺されたとかそういうことではなくて、死んだことにして身をお隠しになられたのであろうと思っています。
もしかしたら、額田王と、二人で、吉野あたりで農場を営みながら、ゆっくりと余生を送られたのかもしれません。
事実は、歴史の闇の中です。

天智天皇がお隠れになることで、当然、その後継問題が浮上します。
このとき、親唐派の人たちは、天智天皇のご不在を奇貨として、大友皇子を奉じて政変を企てます。
このときに、迅速に立ち上がったのが、持統天皇の夫の大海人皇子、つまり後の天武天皇です。
天武天皇は、673年に飛鳥浄御原宮で即位されます。
もちろん、兄の天智天皇の事績を引き継ぐためです。
ただし、天皇の地位にある限り、直接政治をみることはできません。
そこで、天皇は天武天皇でありながら、政治は、皇后の鵜野讃良がみることになりました。
女性の鵜野讃良が政治を指揮するわけです。
そうなると、いわゆる群臣の中には、女性に使われることを拒否する者もあらわれる。
そこで持統天皇は、周囲にひとりの大臣もおかずに、直接政務を摂りました。
これを「皇親政治」といいます。
これが持統天皇28歳のときです。
それから13年後の673年、鵜野讃良41歳のとき、夫の天武天皇が病気でお亡くなりになります。
このとき、持統天皇が亡くなった夫のために詠んだ歌があります。
やすみしし 我が大君の
夕されば 見めしたまふらし
明け来れば 問ひたまふらし
神岳かみをかの 山の黄葉もみちを
今日もかも 問ひたまはまし
明日もかも 見めしたまはまし
その山を 振り放さけ見つつ
夕されば あやに悲しみ
明け来れば うらさび暮らし
荒たへの 衣の袖は 乾ひる時もなし
現代語訳しますと、次のようになります。
我が大君の御霊は
いまも夜になればご覧になっていることでしょう。
朝が来ればお尋ねになることでしょう。
「神岳の山の林は、もう紅葉したか」と。
今日だって、
大君が生きておいでならそうお尋ねになられたことでしょう。
明日だってご覧になることでしょう。
その山を仰ぎ見ながら、
夜になれば無性に悲しみ、
朝が来れば心寂しく過ごし、
粗布で織った喪服の袖は、乾く間もありません。
持統天皇の限りない、夫・天武天皇への愛が伺えます。
しかも続けてその3年後、後継者であり鵜野讃良の一人息子の草壁皇子が薨去されます。
やむなく、鵜野讃良は翌年、45歳で持統天皇として、皇位につきます。
こうして皇位に就かれたとき、唐の国から、白村江の戦いのときに唐軍の捕虜になって、そのまま30年の歳月を唐の国で過ごした大伴部博麻(おほともへのはかま)が帰国します。
すこし経緯を追ってみます。
白村江の戦いに一兵卒として、九州の八女から出征した大伴部博麻は、唐軍の捕虜となり長安に連行されました。
連行された博麻らは、捕虜とはいえ拘束されることなく自由に長安を往来できたようです。
そんななかで博麻はある日、
「唐の軍隊が日本襲来を計画している!」
との情報を耳にします。
唐の軍隊が日本に攻めてきたら大変です。
日本にとっての一大事です。
大勢の人が殺されてしまいます。
「なんとしてもこのことを、日本に知らせなければならない」
しかし虜囚の身です。
旅費がない。
博麻は、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の子の四人の仲間にこう言います。
「ワシを奴隷に売れ。
そのお金でおまえたちが日本に帰るのだ。
そして唐による日本襲来計画のことを伝えてくれ」
博麻は奴隷に売られ、その売却代金をもとに、
四人は衣服、食料、旅費を調達して、日本に向かいました。
天智一〇(671)年、四人はようやく対馬に到着しました。
四人の報告は、直ちに「筑紫國大宰府政庁」に伝えられ、天智天皇に奏上されます。
情報は生かされました。
天智天皇は、大宰府沿岸の警備を強化し、また都を近江に移して、国土の防衛を図られたのです。
一方、博麻は、ひとり唐の地にとどまること二十余年、ある日、知り合いの唐人から、
「日本に行くが一緒に行かないか」
と誘われます。
そして日本書紀によれば、持統四(690)年10月、博麻は30年の歳月を経て、ようやく日本に帰ってきます。
この、己の身を奴隷に売ってまでして情報を伝えた「大伴部博麻」の国を想う忠誠に、持統天皇が贈ったのが
「朕嘉厥尊朝愛国 売己顕忠」
(朕は、朝廷を尊び、国を愛し、己(おのれ)を売ってまで忠を顕したことを感謝する)
という勅語です。
さらに持統天皇は大伴部博麻に、従七位下の位を与え、絹織物十反、真綿十屯(1・68㎏)、布三十反、稲千束、
水田四町の報酬を与え、さらに課税を父族、母族、妻族まで免じています。
今日にいたるまで、天皇が一般個人に与えた「勅語」というのは、これが最初で最後です。
そしてその勅語の中で、「愛国」の言葉がうまれました。
「愛国」という言葉は、近年では、単に戦時用語の一種であるかのように思われがちですが、この物語が示すように、いまから1300年以上も昔から使われている、
「国を思い、身を捨てても、 国、すなわち『みんなのために』尽くす」
ことへの尊敬と感謝の意味が込められた言葉です。
そして7年間のご在位の後、52歳で軽皇子に皇位を譲り、初の太上天皇(上皇)となります。
実は、この頃に、持統天皇が詠まれた歌が、冒頭の歌です。
春すぎて 夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ 天の香具山
この歌は、万葉集』巻一雑歌二十八に収蔵されています。
そこには、
「藤原宮御宇天皇代
高天原広野姫天皇元年丁亥十一年
譲位軽太子尊号曰太上天皇天皇御製歌」と書かれ、
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
と、この歌が紹介されています。
全部、漢字で書いてあります。
このことから、古来、この歌には様々な読み方があって、
一例をご紹介しますと、
春過ぎて 夏来るらし 白妙の
衣干したり 天香具山 定訓
春過ぎて夏ぞ来ぬらし白妙の
衣かはかすあまのかぐ山 古来風躰抄
春すぎて夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ天の香具山 小倉百人一首
やはり、藤原定家が一番センスが良いように思います。
さて、この歌の原文が「衣乾有 天之香来山」となっていることから、「有」が香久山にかかるのであろうということになり、そこから、
「女帝である持統天皇が、強権を発動して、宮中の女官たちに命じて、宮中の洗濯物を遠くに見える香久山に干しに行けと命じた歌である」
とか、
「香久山で洗濯をしたので、山で洗濯物がひらひらと舞っているのだ」といった解釈が行われています。
しかし、ちょっと常識を働かせて考えたらわかることですが、昔も今も、山で洗濯はしません。
また、遠くの香久山まで洗濯物を干しに行ったら、行く途中で洗濯物は乾いてしまいます。
ぜんぜんそうではないのです。
女性である持統天皇は、天皇の御位にあってもなお、お洗濯などの女性の労働は、なおご自身で行われていたのです。
当時の洗濯は、宮中にひいた小川で行いますが、冬の水は冷たいです。
それが春になれば、すこしは楽になる。
夏が来れば、日差しが強いですから、冷たい水が心地よい。
だから、おもわず一生懸命に洗濯をしてしまって、
ほら、こんなにも洗濯物が真っ白になった。
その洗濯物を、夏の日差しのもとで干していると、それはまるで白い蝶が舞っているかのようです。
そして洗濯物を干す手の向こうには、大和三山で一番立派な香久山が見ている。
その香具山を、立派だった亡くなった夫の天武天皇に見立てているから、「天の」香久山です。
その香具山を見ながら、
「あなた、私、いまもこうしてがんばっているわよ」
と話しかけている持統天皇のお姿が、目に浮かびます。
この歌は、こよなく夫を愛し、日本を守りぬいて激動の時代を生き抜いた、持統天皇の歌なのです。
持統天皇の御在位は、わずか7年間です。
そして58歳という若さで崩御されました。
人の本体は御魂であり、その御魂は、神様になるためにこの世に生まれてくるのだというのが、日本人の古くからの考え方です。
つまりすべての人は、目的をもって生まれてきます。
その目的を達成したとき、肉体が滅び、神様の世界に還ります。
だから、人は死なないというのは、人の本体である御魂は永遠の存在であるということを言います。
持統天皇の生涯は短かったけれど、天智天皇、天武天皇と続く激動の時代を生き、そして我が国の独立を守り、国をひとつの統一国家として形成するという、ものすごく大きなお役目の最後の総仕上げを完成されたご生涯でした。
その持統天皇のご生涯は、先にお亡くなりになられた夫の天武天皇を限りなく愛され続けたご生涯でした。
そして持統天皇の足跡は、そのまま我が国を愛による統一国家としての形成を見事に完成させたご生涯でもありました。
これを完成させて、崩御されたのです。
だからこそ持統天皇の足跡は、この世において高天原の神々に匹敵するとされ、諡名に「高天原広野姫天皇」と、高天原の三字が添えられました。
持統天皇を「女帝」と表現するのは、私は間違いであると思います。
帝王というのは、権力と権威の両方を併せ持つ人のことをいうからです。
持統天皇は、皇后時代にはなるほど政治権力者として辣腕を振るわれました。
けれど、天皇となられてからは、国家最高権威である知らす存在として、国を、そして国民をこよなく愛し、自ら日本人の鏡となられた天皇です。
帝王ごときではないのです。
それよりも、もっと大きな、神に近いお働きをされたのです。
神のことを帝王という人はありますまい。
ならば、持統天皇は、女帝などでは決してなく、まさに「高天原の神々とともに、この広い野山のある日本を照らした姫の天皇」であった、だからこそ「高天原広野姫天皇」という諡名がされた偉大な天皇であったのだと申し上げたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
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古事記の本がいよいよ今週発売で、手元に届くのが待ち遠しいです。
2013年の伊勢神宮の遷宮にあたり、伊勢神宮の特集がテレビでたくさん流れていたので片っ端から視聴していましたが、そのときに天智、天武、持統の三帝の国際感覚の鋭さに驚かされたことを思い出しました。
当時の国際情勢に相当通じた人物が朝廷内にいたのだろうなとは思っていましたが、その人物の一人が大伴部博麻だったんですね。
数年来の疑問がすっきりしました。
こんなすごい人を知らないでいたなんて、すごく損した気分です。
管理人様、勉強になる記事をありがとうございました。
2017/03/12 URL 編集
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持統天皇は58歳で天に帰られたのですね。まだお若いというのが率直な感想です。 大海人皇子(天武天皇)と供に日本国の礎を築いた尊い御方です。
夫の天武天皇は古事記の編纂も勅令として出されただけでなく、伊勢神宮の式年造替も決められた天皇です。大化の改新を成し遂げた兄君の天智天皇も立派な方ですが、日本の国の形を示された弟君の天武天皇も偉大な天皇です。 天武天皇は、吉野で修験者としての修行もされた宗教家としての側面もあります。 肉食禁止令なども勅令で出されています。
2017/02/12 URL 編集
junn
http://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/d9389c3c866444c3a4ec4357e7632582
2017/02/12 URL 編集