レーニンは、ロシア皇帝を引きずり降ろし、政権を奪いました。
これを当時の世界は、テロリストたちによる過激行動と捉えていました。
ですから世界中どこの国の政府も、レーニンのソ連を国家として承認していませんでした。
そしてロシア革命によって、ロシア国内は事実上の「無政府状態」となりました。
とりわけ多数の囚人が送られていたシベリアの惨状はすさまじいものでした。
シベリア送りになっていたロシアの凶悪犯罪者らが突然牢から出されて世間に放たれ、共産党から武器を支給されて、あらゆる暴行が奨励されたのです。
なぜかといえば、ロシア政権を混乱に陥れるためです。
急速に治安が悪化し、これを共産党軍が制圧すれば世間の人気は共産党に集まります。
しかも地域住民を皆殺しにすれば、その地域の土地も富もすべて手に入れることができます。
共産主義者にとっては、混乱こそが味方だったのです。
ちなみに、Chinaの王朝の交代劇の際も、実は同じことが起こっています。
前の王朝に関係する人たちは、皆殺しになりました。
そして人口が激減したところで、土地や、土地から生まれる財を、新たに移住してきた新たな王朝の役人が私物化します。
ですから王朝交代の都度、シナ大陸では人口がいったん激減し、そこからまた増殖が始まるということが繰り返されています。
こうした大陸風の考え方は、かつて日本にはかようなことが歴史上一度もなかったために、まるで理解できない、もしくは理解しにくいことであろうかと思います。
けれど、それが事実です。
そもそも戦乱によって国土が荒れれば、食料生産高が激減するのです。
それに合わせて人口も低下させなければ、食料と人口の釣り合いがとれなくなるのです。
この点、日本においては、たとえば戦国時代は、全国の大名たちの新田開発によって、むしろ食料生産高が激増しています。
歴史の組み立てが、大陸と日本では、まるで違うのです。
さて、釈放され、武器を手にした彼らは、民家を襲い、食べ物や財物を奪いました。
キチガイに刃物とはよく言ったものです。
もともと粗暴で凶悪な犯罪者だった彼らは、集団で徒党を組み武器を手にして、組織化されたゲリラ集団となってシベリア各地を荒し回りました。
そして彼らは、タテマエとして外国勢力追放を叫び、各地で同国人だけでなく、外国人に対しても襲撃事件を起こしました。
当初は、それでもまだシベリア方面には保守派のロシア極東総督のロザノフ中将や、コルチャック提督などがいて、彼ら正規軍がこうした共産パルチザン化した凶悪犯たちや、革命派勢力などと戦ってくれていました。
このロシアの正規軍の支援のため、日英米の三国がシベリアに共同出兵したのが大正7(1918)年8月のことです。
ところが翌年になると、オムスクにあったロシアのシベリア総督府が、武装共産パルチザンの攻撃を受けて壊滅します。
ロシアの総督府あればこその、シベリア出兵です。
身の危険を感じた米英両国は、シベリアからすぐに撤兵してしまいました。
彼らにとっては、自国防衛に何の関係もない出兵だったからです。
ところが日本にとっては深刻な事態です。
日本にしたら、友好的な総督府があればこそ、極東の平和と日本居留民の安全が図られ、ひいては日本の安全が守られたのです。
パルチザンが勢力を増し、海をわたって樺太、北海道にやってくれば、その被害は想像を絶するものになります。そこまで行かなくても、満州には多数の日本人開拓団が入植しているのです。
やむなく日本は、シベリアに兵を留めたのですが、極度の戦力不足を補うために、やむなく第12師団(約1万5000名)を、シベリア各地に派遣しました。
けれどシベリアは広大です。
1万5000名は、諸所に分散し、その結果、ニコラエフスクには、2個中隊260名が駐屯していた、というのが、当時の情況だったわけです。
ちなみに、こうしたいまにしてみれば、はっきり言って中途半端としか言いようがないような国家安全保障上の政治決断しかできなかったというのが、大正から昭和初期にかけての日本の政治です。
当時の日本は、政党が民政党と政友会という二大政党に別れ、互いに党利党略のために足の引っ張り合いを行い、また同じ政党内部でも、激しい権力闘争が繰り返されていました。
そしてどちらかが与党第一党となって政権をとるためには、なんとしても選挙に勝って議席を増やさなければなりません。
従って多くの議員の目線は、自らの選挙区にいる選挙民に、どれだけの利益供与ができるかということと、対立候補や対立政党にどれだけのダメージを与えることができるかのみにあって、外地にいて日本国内の選挙に関わりのない人の命など、はっきりいってどうでも良いという情況にありました。
これが議会制民主主義の怖さで、だからこそ、外地に兵を派遣するとなったときには、猛烈な反対運動が起きて、政府は中途半端な対応しかできなくなったわけです。
これは、その後に続く日華事変でもまったく同じ構造です。
このために日本の軍は、常に10倍、20倍の敵との戦いを強いられることになりました。
それでも勝ち続けたのですから、どれだけ日本の軍が優秀だったかということなのですが、問題は、軍隊の作戦行動ということであれば、本来ならシベリアから北満州方面の治安の完全な確保という面では、その作戦計画には国家の安全保障のために完璧をつくさなければならないのに、それができなかった、政治的に許されなかったということです。
よく、日華事変から大東亜戦争にかけてを「軍部の暴走」という人がいますが、いったい軍部って誰のことを言っているのかという話です。
暴走どころか、必要な最低の兵員の確保さえ、させてもらえなかったというのが実情であったのです。
さて、尼港事件です。
事件が始まったのは、大正9(1920)年1月29日のことでした。
雪深いニコライエフス(日本名「尼港」)あたりは、それまでは比較的静かな状態だったのですが、この日、突然ロシアのトリビーチンを首領とする約4000人強の共産パルチザンが、尼港市街を包囲したのです。
守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(約260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)の合計約350名です。
守備部隊の10倍以上もの暴徒が、街を取り囲んだわけです。
共産パルチザンたちは、街を包囲した後、自分たちには敵意はない、食料の補給に協力をしてほしいだけだと申し入れました。
誰だって争いは好むものではありません。
真に受けたニコラエフスク市は、パルチザンを市内に入れました。
するとパルチザンたちは、市内に入るやいなやロシア白衛軍の将兵を捕らえ、これを全員皆殺しにし、さらに一般市民であったロシア人、ユダヤ人たちの家内の家財を奪い、婦女子まで全員皆殺しにしてしまったのです。
どのようにしたかというと、次々と白衛兵と白系市民を銃剣で突き刺し、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに放り込んだのです。
たった一晩で、尼港では、ロシア人とユダヤ人約2500人が、こうして惨殺されました。
翌朝、事実を知った石田副領事が、この暴虐行為に対して「厳重抗議」を行ないました。
けれど共産パルチザンは、聞く耳など持ちません。
当たり前のことです。
抗議を受け入れるくらいなら最初から虐殺などしていない。
そしてパルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきたのです。
武装解除をしたら、そのあと何をされるかは火を見るよりも明らかです。
現地の日本軍部隊は、日本本国に急を知らせる電文を打ちました。
緊急時、日本からの救援部隊は小樽から出港することになっていましたが、真冬の寒い時期です。
海面が凍結していてすぐには動きようがありません。
満州方面にいる他の部隊も、移動は徒歩ですから、いちばん近い部隊でさえ、到着するのに40日を要するという情況でした。
また、ニコラエフスクから日本人、ならびに日本軍駐屯隊が脱出しようにも、周囲は凍土です。
しかも街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されています。
つまりニコラエフスクの駐留隊と、日本人居留民は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。
「座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。」
白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募りました。
そして日本軍110名で武装パルチザンの本拠を急襲したのです。
これが97年前の今日、3月11日にあった出来事です。
けれど敵は、武装した4000人の大部隊です。
衆寡敵せず。
駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまいます。
義勇隊に参加しなかった軍人、軍属と女子供達600名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に避難しました。
けれど、領事館に集まることができたのは、わずか250名だったのです。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかってしまいました。
これは、いつの時代も同じです。
戦場というものは、一瞬の判断が生死を分けます。
いまの日本も同じです。
非常時には一瞬の迷いが死を招きます。
戦いが始まったら、一切の迷いは禁物です。
尼港事件には、事件後の調査記録があります。
そこに書かれた事実は凄惨です。
共産パルチザンたちは、この日、日本人の子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺しました。
こうしてまたたく間に、義勇隊110名、逃遅れた日本人約240名が犠牲になっています。
一方、避難できた日本領事館では、襲ってくる共産パルチザンたちと、激しい戦闘が繰り広げられていました。
戦闘はまる一昼夜、休むことなく続いたそうです。
実際に傭兵として世界の戦場を点々とした経験を持つ友人から直接聞いた話ですが、一般に銃撃戦というのは、ほんの数分で決着がつくものなのだそうです。
銃撃戦が10分も続いたら、
「今日の戦闘はむちゃくちゃ激しかったねえ」
と後々まで話題になるくらいで、銃撃戦というのはそれだけものすごい集中力と緊張を強いるものです。
それが、尼港の日本領事館では、まる一昼夜、銃撃戦が続いたというのですから、立てこもった日本人たちの緊張と婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。
一昼夜が経ち、朝日が射す頃、領事館内の生存者は、わずか28名になっていました。
弾薬も底をつきました。
残った一同は、まず子供を殺し石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
こうして一夜が明けたとき、尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しないで、かつ生き残っていた民間人121名だけになりました。
抵抗を続ける日本軍強しとみた共産パルチザンは、策を弄しました。
「山田旅団長の停戦命令」を偽造したのです。
河本中尉は、これは「怪しい」思ったそうです。
けれどもし、停戦命令に従わなかったことが、後日、国際上の問題となったら、それは日本の国家としての信用を毀損することになります。
一方、たとえ騙されたとあっても、命令に従ったとなれば、日本国家の誇りは保たれます。
その代わり、自分たちは、おそらくは拷殺されることでしょう。
河本中尉は、その偽装の命令を受け入れました。
河本中尉以下の121名は、全員、武装解除し、投獄されました。
そして食事もろくに与えてもらえないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。
零下30度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
そして、陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれて殺されました。
春になって、ようやく旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。
そこで彼らは、地獄絵図を見ました。
そこは焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」
と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。
日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月14日に、Chineseの妻妾となっていた14名の女性以外の生き残った日本人全員を殺害していたのです。
Chineseの妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月14日までの106日間の尼港の模様が明らかになりました。
日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ、
死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたまま、あごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。
そして、その獄舎の中で発見されたのが、獄舎の壁に書かれた下の写真です。
被害者の手によると思われる鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれています。

そこで皆様にも考えていただきたいのです。
自分が河本中尉の立場にあり、「山田旅団長の停戦命令」というのが本当であったとしたら、どのように決断をしたら良かったのでしょうか。
また、その結果はどのようになっていたのでしょうか。
同様に、日本政府は、オムスクにあったロシアのシベリア総督府が壊滅し、米英の軍が撤収したときに、どのような政治判断をすべきであったのでしょうか。
歴史に「IF」は禁物だといいます。
これは、戦後の左翼や、世界中に巣食う中華汚染されたリベラルの人たちのご都合主義の造語にすぎません。
私たちから思考力や洞察力を奪い、彼らの描いた事実誤認した歴史認識をただやみくもに暗記させるための用語としてもちいられているものです。
歴史こそ、「IF」が大事なのです。
なぜなら歴史は、因果関係を合理的に説明し記述するものだからです。
なぜ因果関係を明らかにするかといえば、そのようにすることで、現在と未来の安定と繁栄に役立てようとするからです。
因果関係とは原因と結果です。
では同じ原因について、対応に異なる選択をしたら、その後の歴史はどのように変わったのか。
あるいは、原因となる現実を前に、なぜ昔の人はそのような判断をしたのか。
こうしたことを考えることが、歴史を学ぶということです。
そのために必要なことは、歴史に「IF」を考えることです。
そして二度と悲惨な目に遭わないようにしていくことこそ、歴史を学ぶ意義であり、それが「歴史の教訓」だし、尼港事件で被害者となった同胞たちからの、私たちへの重大なメッセージなのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2009年6月の記事のリニューアルです。
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コメント
ネコ太郎
歴史を常に因果関係で解釈することの重要性。まったく同感です。
さて、小生は軍部の暴走は「あった」と考えています。
軍、政治家に浸透していた共産主義者の工作によって戦争開始、敗戦が起きたと考えています。
近衛内閣の時に特に加速し、あとで近衛さんが涙を流して陛下に謝ってもあとの祭りだったのです。
日本に足りなかったもの。それはインテリジェンスです。そのような困難な状況の中でゾルゲや尾崎秀実を逮捕した特高の人々は歴史に残る英雄です。
現在も相変わらず裏表で同じ戦いが繰り広げられています。幸いネットの普及で表面化しやすく、安倍総理がそのあたりに敏感なのでいずれ危険分子は殲滅されるとは思いますが。
2017/03/11 URL 編集