沖縄戦の二人の知事



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20170325 沖縄戦
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沖縄戦の開始は、昭和20(1945)年3月23日の米軍の延べ二千機の航空機による空襲です。
写真は、米軍による空爆と艦砲射撃で蜂の巣状態になった沖縄の写真です。
水たまりのようにみえる穴が、すべて爆撃によるものです。
そのすさまじさがわかります。

米軍が投下した戦力は、艦艇1,500隻、輸送船450隻、兵員は54万8,000人(うち上陸部隊18万人)にのぼります。
迎え撃つ日本側の兵力は、116,400人です。
沖縄戦では、この兵員のうち 94,136人が、死亡、または行方不明となりました。
そして沖縄戦で忘れてはならないのは、沖縄の民間人死者 94,000人です。

当時の沖縄県民の人口は、約59万人です。
人口の2割が戦禍の犠牲となったのです。
ではなぜ、沖縄ではそこまで莫大な民間人の被害者がでたのでしょうか。

反日左翼のみなさんは、沖縄の日本軍が住民にヒドイことをしたと宣伝しています。
あたかも日本軍によって沖縄県民が虐殺されたとでもいいたげです。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。

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沖縄戦に先立つ8か月前、昭和19年7月に、サイパン島が陥落しました。
このとき東条内閣は、緊急閣議を開いて「沖縄に戦火が及ぶ公算大」であるとして、沖縄本島、宮古、石垣、奄美、徳之島の五島から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童の、本土及び台湾へ疎開を決定しています。
決定は、その日のうちに沖縄県に通達され、開戦前の即時疎開目標は、
「本土へ8万、台湾へ2万、計10万」とされました。

このとき沖縄には、約49万人が沖縄本島に残留し、10万人が、周辺の島々に残留していました。
戦争は現実です。
実際に戦闘になったとき、軍にとっていちばん負担が重いのが、実は民間人の存在です。

そもそも何のために戦っているかといえば、民間人を保護するために戦っているのです。
けれど民間人は、規律と統制のとれた軍人とは違います。
移動ひとつをとっても、散漫で遅滞しがちです。
加えて軍は、戦闘となった被災場所から逃げ遅れた民間人がいれば、そのための捜索隊を危険を冒しても出さなければなりません。
戦傷者が出れば、そのぶん余計に人手をとられます。
軍の機動力も損なわれます。
寡兵で戦わざるをえない日本軍にとって、これは実は致命的です。

加えて沖縄は、数々の離島で構成されています。
周辺の島々に住民がいれば、日本側守備隊は、それぞれの島の防衛のために、ただでさえ少ない兵力を、さらに割かなければなりません。

戦いは、戦力が集中した方が有利なのは、古来戦場の常識です。
離島に戦力が分散し、本島の民間人保護に戦力を取られたら、それだけでも、戦いは不利なものになります。
まして、高齢者や婦女子は、戦いの場にいたら危険なだけです。
ともかく、日本国政府としては、一日も早く、沖縄県民を疎開させなければならない。

ですから、そもそも閣議決定された10万人疎開にしても、これは当面の緊急課題です。
できれば全島民を疎開させたい。
しかし県民の大量疎開となると、種々の問題が発生します。
ただでさえ船舶が不足し、輸送力が低下していることに加え、米潜水艦による輸送船への攻撃もあるのです。

同時に県民自身の郷土への執着や、見知らぬ土地への疎開に対する不安に対する介抱も必要です。
手荷物の制限もしなければならなりません。
住民にきちんと事情を説明し、理解を得がら、疎開誘導を円滑に進めるには、当然のことながら、現地の行政府の協力が不可欠となります。

ことは迅速を要します。
すでにサイパン島は陥落しているのです。
米軍は、沖縄のすぐそこまで迫ってきているのです。
時間がないのです。

こうして沖縄が、まさに官民一体となった大規模疎開を実施しようとしたとき、これに「待った」をかけた者がいました。
それが当時の沖縄県知事の泉守紀(いずみしゅき)です。
この男、頭は空っぽだけど、態度だけはでかい。
昭和18(1943)に、沖縄県知事に赴任したのだけれど、着任早々から、やれ「沖縄は遅れている」だの「だから沖縄はダメだ」などと、県の職員たちを見下し、こき下ろし、日頃から県庁職員たちの反感を買っていました。

で、この男が何を言ったかというと、
「沖縄県が戦場とならないために努力するのが軍の仕事である」
です。
言うだけではなく、職権を利用して、沖縄県が疎開行動に協力するのを拒みました。

たしかに言っていることはもっともなことです。
けれど風雲急を告げているときなのです。
愚図愚図しているヒマはないのです。
まして、戦闘はこちらが望んで起こすものではありません。
相手が相手の都合で、戦略的に仕掛けてくるのです。
こちらの都合で決まるものではありません。

いまの日本でも、北朝鮮、China、韓国がまさに風雲急を告げています。
にもかかわらず、国会もメディアも、騒いでいるのは森友問題ばかりです。
もし、米国と中共が戦端を開けば、南シナ海は閉鎖されます。
すると日本には石油が入ってこなくなります。
するとその日から、電気も物流も一切が停まります。
北と戦闘になれば、北のミサイルは容赦なく日本を襲います。
標的は米軍基地だけではありません。
北にしてみれば、味方以外は中立国を除いて、すべて敵であり攻撃の対象です。
日本は中立国ではないのです。
住宅街の真ん中となった米軍基地だけでなく、自衛隊基地、交通網となる高速道路、発電所、行政庁なども攻撃対象になります。
攻撃を受けてから対処するのでは、取り返しがつかないのです。


沖縄に話を戻します。
昭和19年12月になると、敵上陸が眼の前に迫ってきていました。
実際の米軍に寄る攻撃開始は、4ヶ月後の3月からですが、この12月の時点でも、離島も本島も、疎開は遅々として進んでいませんでした。

疎開は、米軍が完全に海上封鎖をしてしまったら、もはや不可能になります。
これに抗するだけの海軍力は、すでに日本にはありません。
もはや、内地や台湾への疎開は、間に合わないという状況になりました。

やむをえず沖縄守備軍は、「南西諸島警備要項」を作成して60歳以上と15歳未満の老幼婦女子を沖縄本島の「北部」に疎開させる計画を作りました。
これは、戦場を沖縄本島の南部に集中することで、沖縄本島の北部を日本側が意図して戦場としないことによって、その北部に疎開した島民たちの命を守ろうというものです。

これは軍としては苦渋の決断です。
米軍が南部に上陸したとき、北部に我軍があれば、上陸した米軍を挟み撃ちにすることもできるのです。
ところがその北部を、軍が民間人保護のために積極的に放棄することで、できるだけ民間人の命を救おうというのです。

この場合、米軍の良心は期待できません。
つまり北部が民間人だけだからといって、米軍がそこを「攻撃しない」ということにはならないのです。
現に、直前にあったサイパン戦でも、多くの民間人が犠牲になっています。
つまり北部に丸裸の沖縄の民間人が残留すれば、そこを人質にされ、攻撃を仕掛けられ、民間人が虐殺される可能性は否定できないのです。
ということは、南部に兵力を集中させた日本軍は、米軍の攻撃の矛先が北部に向かないように、島の南部にいる軍が米軍に直接身を晒して米軍の攻撃を、南部にいる日本軍側に集中させなければならないのです。

米軍の火力は圧倒的です。
本来なら長期戦覚悟で、米軍がめちゃくちゃに砲撃してくるときには、ひっそりと穴蔵に身をひそめ、爆撃の合間を縫っては反撃に転じる戦法であることが望ましいのです。
ところがそれをすると、米軍の攻撃は北部に及ぶ危険があります。
米軍に北部を攻撃せないためには、南部にいる日本軍が絶えず米軍の前に出没し、米軍の攻撃を直接受けながら米軍に対して常に攻撃を加え続け、米軍の動きを南部にいる日本軍に釘付けにしていかなければならないのです。
このことは、軍事的にはたいへんな消耗戦となることを意味します。
なにせ兵力が違いすぎるのです。

つまり、実はこの段階で、沖縄戦は苦戦となることが、実は確定してしまっていたのです。
北部への県民避難は、日本軍にとって、苦渋の決断です。
その決断を、軍は泉知事に提示しました。
泉知事が何と言ったか。
「反対」です。
「山岳地帯で、耕地もない北部へ県民を追いやれば、戦争が始まる前に飢餓状態が起きる」
というのです。
「ではどうすればよいのか」といえば、対案はいっさい示さない。
あげくの果てが、現地軍との交渉不調であるとして、この問題を内務省と陸軍省に棚上げしてしまいます。
つまり、沖縄県の民間人の疎開や、戦災に関する責任を負わず、いっさいを東京に丸投げしたのです。

そして泉知事は、「現地軍から要請のあった県内疎開を政府と協議する」と言う名目で昭和20(1945)年1月12日に東京に上京してしまいました。
そして、裏から手をまわして、香川県知事の発令を受け、結局沖縄から逃げてしまうのです。
要するに激戦地となる沖縄にいたら、我が身が危ないから、なんだかんだといって軍と軋轢を起こし、自分だけが沖縄を去って助かろうという魂胆がミエミエの泉知事の行動だったのです。

ちなみに、当時の県知事というのは、いまのような公選制ではありません。
中央の内務省からの辞令を受けて派遣されています。
ところが泉知事は、在任一年半のうち、三分の一近い175日間もの間、沖縄県を留守にしていました。
どこに行っていたのかと言うと、東京との調整と称して、風雲急を告げる沖縄をほったらかして、ずっと中央に逃げていたのです。

そもそも泉知事は、昭和19(1944)年3月に、沖縄防衛軍である第三十二軍が着任すると、すぐに軍の幹部と揉めています。
なにを揉めたのかというと、軍が若い兵士たちのために「慰安所」の設置を求めたのに対し、
「皇土の中にそのような施設をつくることはできない」と拒否したのです。
「慰安所」というのは、要するに売春宿です。
たしかに「売春宿を皇土にもちこむのはよくない」といえばそれまでです。
言っていることは、ご説、ごもっともな正論です。

しかしはっきりといえることは、この手の「いっけんもっともらしい理屈をいう人間にろくな奴はいない」ということです。
最近も、国会で失言(?)をする稲田朋美防衛大臣について、テレビである評論家が、日頃は北朝鮮問題について何も報道もコメントもしないのに、このときばかりは、
「このような失言をするような人物が北朝鮮情勢が緊迫しているときに大臣をしているようで良いのでしょうか」
などと、もっともらしいことを言っていました。
まったく逆なのです。
緊急時においては、少々の失言があるくらいの人物でなければ、危機を乗り越えることなど出来ないのです。


泉知事は、昭和19年10月10日の那覇空襲のときには、逃げまどう市民や県庁職員をほったらかして、自分だけさっさと防空壕に隠れてしまいました。
職員すらほったらかしです。
自分だけ逃げたのです。
さらに空爆が終わると、被害現場もほったらかして、黒塗りの乗用車でこっそり那覇を脱け出し、本島中部の普天間に立ち去っています。

そして年が明けて米軍上陸必至の情勢になると、大蔵省幹部の実兄に宛てて転任工作を依頼する手紙を出し、自らも上京して、沖縄を去り、見事、裏からの根回しを成功させて、香川県に去ってしまいました。
要するに泉知事は、沖縄がヤバイとなったとき、県知事という職を利用して、中央や軍、あるいは県庁職員の疎開案に、ことごとく反対し、そのことで沖縄県民の安全を人質にして、自分ひとりだけ、そこからうまく逃げ出す算段をしたのです。

結果、沖縄県では、東條内閣の決定以降、沖縄を脱出し、疎開できたのは、わずか3万人にとどまりました。
そして、逃げ遅れた沖縄県民は、戦禍の中を逃げまどい、人口の2割にあたる9万人もの犠牲者を出したのです。
その責任は、やはり明確にしていかなければならないと思います。
ちなみに、泉知事は、香川県知事として終戦を迎え、その後も団体役員などを歴任したうえ、昭和59年、86歳で天寿をまっとうしています。
そういえば、亡くなる前には、北朝鮮への拉致被害者救出のための会にも名を連ねていました。

古来、このような人物のことを「卑怯者」といいます。
そして「卑怯者」は、いつの時代にあっても、どの国にあっても、疎(うと)まれる存在です。
そしてこの手の連中、不思議なことに何かあると問題点だけ指摘するにとどめ、具体的意思決定は、次々と先送りするという共通項があります。
そして成功すれば、その会議に自分も出席していたことで、成功の恩恵にあずかり、失敗したら、「だからあのとき自分は、こういう問題点を指摘したのだ」と失敗を「他人のせい」にします。
このような「卑怯者」が社会において高い地位を占め続けているのは、人類史上も、我が国の歴史上も、おそらく戦後の日本くらいなものではないかと思います。
米国なら射殺です。
江戸時代の日本なら、奸賊としてやはり斬られたことでしょう。
いつの時代にも卑怯卑劣な人はいるものですが、そういう者の存在を許さない社会の気風というものは、絶対に必要なものであると私は思います。

さて、たったひとりのろくでもない県知事のおかげで、疎開が大幅に遅れた沖縄では、事態の打開のため、泉知事解任後、海軍陸戦部隊の大田実少将が、「肝胆相照らす」仲であり、尊敬するしている島田叡(しまだあきら)を沖縄県知事にと、推薦しました。
それは沖縄戦開始のわずか2カ月前、昭和20(1945)年1月末のことです。

この時期、沖縄に行ってくれ、というのは、あきらかに「死ね」というものです。
赴任に反対する家族に、島田新知事は、次のように述べました。

「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか」
「俺は死にとうないから、誰か行って死ねとはよう言わん」
「断るわけにはいかん。断ったらおれは卑怯(ひきょう)者や」
「沖縄軍司令官の牛島(満)さんから赴任を望まれたんや。
 男として名指しされて、断ることなどできやへん」

そして島田は家族に「断」の字を書き残し、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせ、死を覚悟して沖縄へ飛びました。
このとき島田、43歳でした。

島田叡(しまだあきら)氏
島田叡


着任した島田は、すぐに、沖縄駐留軍との関係改善を図り、前任の泉知事のもとで進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していきました。
海上封鎖されれば、県民の食糧難の危機が想定されると、島田は、着任後すぐにアメリカの潜水艦や偵察機がうようよする中を、自ら台湾に渡って総督府に頭を下げ、3000石の米を沖縄に輸送もしています。

また戦場化が避けられない沖縄で、せめて県民に楽しみをと、戦時体制化で全国的に禁止されていた歌舞音楽を開放し、自ら酒を持って農村の民の輪に加わることもありました。

3月になって、米軍の空襲が始まると、県庁を職員らとともに首里に移転し、地下壕の中で執務を執りました。
戦火の下ででも、食糧の確保、避難者の受け入れ、壕生活の改善、治安維持、防諜など行政の任務は数限りなくあるのです。
県知事はそのひとつひとつに判断と執行令を与え、ときに自ら率先してその任にあたりました。
そして島田知事は、沖縄戦の渦中を通じて、常に軍と密接な連携を保ち、壕を移転させながら指揮を執り続けたのです。

島田知事は、明治34(1901)年に、神戸の開業医の長男坊として出生しています。
旧制神戸二中(現:兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、大正11(1922)年東京帝国大学法科へ入学しました。
勉強もできたがスポーツも万能で、中学・高校・大学と野球に熱中し、二中時代はキャプテンとしてチームを県下のトップクラスに引き上げています。
東大時代は神宮球場のスター選手でもありました。
しかも東大では、ラグビー部の選手まで掛け持ちしています。
要するに、勉強もでき、スポーツも万能、というすごい人でした。
親分肌できっぷもよく、およそ横柄なところのない人物だったそうです。

沖縄の防空壕暮らしの頃の逸話があります。
女子職員が汲んできた水で洗顔を勧めると、
「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」
と、笑顔で答えたのだそうです。
そして島田知事は、最後まで他の職員と同様に、米の研ぎ汁に手拭いを浸して顔を拭いたそうです。
やわらなかな神戸弁と、笑顔のとても素敵な人でした。

島田知事が沖縄県知事を務めたのは、沖縄戦の直前からのわずか5カ月にすぎません。
しかし、その5カ月間に接した全員が、島田知事のことを心から慕っています。

陸軍守備隊が首里を撤退するときのことです。

島田知事は、
「南部には多くの住民が避難している。
 軍が首里から南下すれば住民が巻き添えになる」
と猛反対しました。

5月末の軍団長会議に同席した際も、島田知事は、
「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退するなら、
 それは住民を道連れにすることになる愚策である」
と憤慨したといいます。
しかし、このとき牛島司令官は、「第三十二軍の使命は、本土作戦を一日たりとも有利に導くことにある」と説いて会議を締め括りました。

沖縄の民間人の安泰の優先を願う島田知事と、日本国軍全体の動静を背負った牛島司令官の意見対立ですが「公」を重視する当時の考え方により、島田は撤退を了承しています。
そして意見は徹底して具申しても、決まれば、それに従って必死にその方向で働く。じつに男らしい男です。

6月9日、島田知事は、最後まで残っていた行政組織「警察警備隊」に解散を命じました。
「島田知事のためなら生死をともにします」
と付き添ってきた二人の属官にも「脱出」を指示しました。
二人はこのとき、
「一緒に死なせてください」といったそうです。

その二人に島田知事は、
「なにがあっても、
 どんなことがあっても、
 きみたちは命を永らえて欲しい」
と突き放すように壕の外へ出してしまいました。

そのとき、島田知事はポツンとこう言ったそうです。
「俺は
 これだけの県民を死なせておいて、
 生き残ることはできないよ」
そしてなお断末魔の戦場を、北東方向の具志頭方面に向かっていったのです。

同年6月26日、島田知事は具志頭の海岸にいました。
このあたりは、琉球石灰岩の地形で、断崖には大小多くの洞窟があります。
そこで球一八八○部隊独立機関銃隊の連絡係だった伍長の山本初雄さんが島田知事に出会っています。

以下、山本初雄さんの述懐を引用します。
「私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、
 摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出たのです。
 日没時、食糧を探しに海岸沿いを、
 糸満方向へ約2百メートル行きました。
 海のすぐ近くに壕があり、民間人が3人いて
 『知事さんがはいっておられますよ』
 というのです。
 奥行き6メートルくらいの横穴でした。
 知事さんは、頭を奥にし、
 からだの左側を下にしておられました。
 『知事さんだそうですね』とたずねました。
 『私は島田知事です』
 と胸から名刺を出してくれました。
 『負傷しているんですか』ときくと、
 『足をやられました』と言っていました。
 知事さんが、
 『兵隊さん、
  そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい」
 と言ってくれました。
 何も食べ物がないときですよ。
 えらいなと思いました。
 2つもらって、
 『元気にいて下さい』といって自分の壕に戻りました。
 その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉を
 ハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行きました。
 ところが、先日と同じ地方人が
 『知事さんはなくなりましたよ』という。
 壕にはいるとヒザのそばに短銃がありました。
 右手から落ちたような感じでした。
 『ああ自決したんだなあ』と思いました。
 合掌して知事さんの壕を出ました。
 知事は、白の半そでシャツ、
 ズボンはしもふりかと思ったが、軍隊ズボンではありませんでした。
 髪、ヒゲは大分のびていました。」

島田知事の亡くなった最後の壕は、「轟の壕」です。
最後の沖縄県庁という呼び名もあります。

昭和20(1945)年7月9日、島田知事の殉職の報に際して、安倍源基内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈りました。
「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」
内務大臣が一知事に対して賞詞を授与することは、これが最初で最後の出来事です。

昭和26(1951)年、県民からの浄財の寄付によって、島田知事をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑が摩文仁の丘に建立されました。

「島守之塔」にある慰霊碑
「島守之塔」にある慰霊碑


いまでも、高校野球の夏の沖縄県大会を制した高校には、
「島田杯」
が授与されています。
また、沖縄・兵庫高校テニス選抜大会にも
「島田杯」
の名が冠されています。

島田叡の座右の銘です。
「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」

いまどきのマスコミ関係者、反戦平和主義を叫ぶ市民団体等は、非戦闘員が日米両軍の地上戦闘に巻き込まれた全責任を、日本軍(第三十二軍)せいにしようとしています。
けれど、これは間違いです。
約十万人の沖縄県民を死に至らしめた全責任は、疎開を故意に遅らせた泉沖縄県知事にあると私は思います。

けれど、戦後社会では、泉沖縄県知事の問題を出すと都合が悪いのです。
なぜかというと、泉知事の問題を出すと、当然その後任の島田知事の話題が出る。
島田知事は、軍と連携を密にして、沖縄戦の最後の最後まで、県民の保護のために尽力されました。
そして島田知事と親交のあったのは、大田実海軍少将であり、牛島満陸軍中将です。
そしてそうなると、いきおい、彼らがいかに立派に最後まで戦ったのかという話になってしまうのです。

しかし思うのです。
歴史の真実を、政治で誤魔化してはいけない。
歴史は常に真実を語り継がなければならないと。

沖縄戦の物語は、横家伸一著『群青の墓標』が小説で描かれています。
是非、ご一読を。


お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

シミズ

いつの世にも卑怯者はいたのですね
島田知事の逸話、胸を打ちました。涙が出ます。
引きかえ、泉知事の見苦しさ、醜さ…。
戦時のような緊急時にははっきりと人間の真性が出ますね。
いざと言うときに醜くうろたえて人様に迷惑を掛ける事がないように願います。

にっぽんじん

籠池パロディー国会
安倍首相夫人のメール問題で国会は不毛なパロディーを繰り返しています。
野党は「安部献金はなかった」ことを知りながらこれからもパロディーを続けるでしょう。

籠池氏が一番恐れていたのは「大阪府の立ち入り調査」でした。調査を受ければ、それまでの不正が暴かれます。そこで利用したのが「国会証人喚問」ではないでしょうか。

野党が求めていた国会参考人喚問に与党は否定的でした。国会での喚問があれば国会対策準備を理由に大阪府の立ち入り調査を断ることができます。

国会に招かれるためには「大芝居」が必要です。そこで野党4党を招待し、その席で大芝居を演じました。「安倍首相からの寄付金」です。彼が賢いのは「密室」という誰にも証明できない状況をつくったことです。

政府与党は期待通り「証人喚問」を決めました。野党は思わぬ方向に、偽証を恐れ、責任を回避する立場を繰り返すようになりました。

野党との密室会談後、籠池氏の奥さんが意味深な発言をしています。「夫は監獄に行く」と。この意味を考えれば「偽証」は明らかです。

国会で真実を求めるための証人は安倍首相夫人ではなく、籠池氏の奥さんではないでしょうか。

民進党のパロディーを終わらせるためには、メール問題を持ち出すたびに、民進党の過去の疑惑(蓮舫氏の2重国籍問題、山尾氏のガソリン購入問題、菅元首相などの外国人寄付金問題)で国民が納得していない問題を与党が追及することです。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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