時は戦時下です。
にもかかわらず、どうしてそんな周到なことをしたのかといえば、民衆は「おほみたから」という観念が、あたりまえの常識となっていたからです。
人々はみんな陛下の「おほみたから」なのです。
その「おほみたから」に疎開していただくのです。
ですから、ちゃんと状況を説明し、理解をしてもらって疎開を進める。
それが当然の、あたりまえのこととされていたのです。
どこかの◯主党政権とは、えらい違いです。
沖縄では、荒井県警部長の赴任の直前の7月7日に、サイパンが陥落しています。
3万1000名の守備隊は玉砕、1万2000名の在留邦人も運命を共にしていました。
このとき、邦人女性たちが集団で飛び降り自殺を図っている姿を写した動画をyoutubeなどでご覧いただくことができます。
目の前で若い女性たちの命が失われていくのです。
ところが撮影している米兵たちからは、まるで見世物を見るような笑い声が映像にまじります。
悲しいことです。
同じことが沖縄で起きたらどうするのか。
ここは、つらくても一時的に疎開するのしかない。
疎開することで、軍の沖縄守備隊も精いっぱいのご奉公ができる。
しかし、疎開についての沖縄県民の反応はイマイチでした。
警察官の言うことはわかるのです。
けれども、先祖伝来の土地からはそうそう簡単には離れられるものではないのです。
やむをえず荒井退造県警部長は、県の職員や警官の家族を先に疎開船に乗せることを企画しました。
役人や警官の家族が動き出したとなれば、県民たちだって安閑としてはいられなくなるだろうという読みです。
とにかく老人や妻子を本土に疎開させることができれば、残った職員たちは後顧の憂いなくご奉公ができると考えたのです。
7月21日、疎開船第1号の「天草丸」が県庁職員や警官らの家族752人を乗せて那覇港を出発しました。
このとき、警察部輸送課長だった隈崎俊武警視(当時42歳)の妻と5男2女もその中にいました。
当時6歳だった四男の勝也さんは、当時の状況を鮮明に覚えています。
「追い立てられるような、
慌ただしい旅立ちだったと
子供心に記憶しています。
その日、一張羅を着せられ、
まだ新しい帽子をかぶり、
ランドセルを背負い、
新品の革靴姿でした。
母は乳飲み子と3歳の妹をつれ、
兄や姉は持てるだけの荷物を持って、
那覇港に行きました。
埠頭(ふとう)は乗船する家族連れ見送りの人たちで一杯で、
父も見送りに来ていました。」
輸送船「天草丸」は、すこし走っては停まっては耳を澄ます、また少し走っては、停まってあたりを警戒するという動作を繰り返しながら、すこしずつ航海をしました。
敵潜水艦による攻撃を警戒したのです。
通常ならわずかな道のりの航海も、だからこのとき、鹿児島に着くまでに2週間もかかったそうです。
航海の途中、勝也少年は、ある日、黒く長い物が水面すれすれに、ジャブジャブと泡を立てながら、船体をかすめていったのを目撃しています。
大きな魚かと喜ぶ勝也少年を、大人たちは「じっとしなさいっ」と叱りつけて、ぎゅっと体をつかまえたそうです。
それは敵潜水艦の放った魚雷でした。
天草丸は間一髪で助かっています。
8月5日には、二番船だった「対馬丸」が、鹿児島の南西260キロの海上で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しています。
この船には、学童825人、一般疎開者836人が乗っていました。
助かったのは177人だけです。
ひとつ、たいせつなことを付け加えます。
非戦闘員を運ぶ船舶への魚雷攻撃は、国際条約に従い明らかな「戦争犯罪」だということです。
戦後日本は、東京裁判で、戦後の事後法である平和に対する罪などで裁かれました。
日本の輸送船は、当然のことながら非武装輸送船(疎開船)であることを示す標識を掲げて航海しています。
しかも、走ったり停止したりを繰り返している。
さらに、進路は戦地に兵員や軍備を運ぶ「行き」のコースではなく、沖縄から本土に向かう「帰り」のコースです。
誰がどうみても、素人判断でさえも、よほど頭の足りない戦闘員であったとしても、それが非戦闘船であることは一目瞭然なのです。
こういう船を、一方的に攻撃されたのだ、ということを、私たちは事実として忘れてはならないと思います。
ところが対馬丸事件に関して、国際法違反で攻撃して沈没させた米国を責める人はだれもいません。
その一方で、日本政府や当時の日本海軍が、いかにも非道扱いされています。
日本のリベラルという人たちには、果たして遵法精神はあるのだろうかと不思議に思います。
ともあれ、この疎開船によって、昭和19(1944)年7月から翌年3月までに、沖縄から本土に、延べ187回、合計7万3000人が疎開しました。
当時の沖縄の人口は60万人です。
疎開者が以外と少ない、とお感じになると思います。
必死の思いで退造や沖縄県警の職員たちが推進した集団疎開に、おもわぬ邪魔が入ったのです。
邪魔をしたのは、当時沖縄県知事だった泉守紀と、県のNO2である内政部長の二人です。
泉守紀第26代沖縄県知事

泉知事は新聞記者や議員たちに、露骨に疎開反対の意思表示をしました。
理由は、年寄りや女、子供を言葉や風習の違う本土に行かせるのは可愛そうだ、というものです。
挙句の果てが、荒井退造県警部長の推進する集団疎開は、
「県知事の意に反して、警察部長が勝手にすすめている独断専横である」とまで言い放っています。
おかげで退造は、県議会に呼び出され、議員から激しい追求まで受けています。
間違った上司のもとでは、正が邪に、邪が正になるのです。
退造は、当時の日記に次のように書いています。
「排斥ならいくらでもやれ。
喜んでその排斥を受けるぞ。
愚民どもめ。まったく沖縄はいやになった。」
誤解のないように文章の前後の関係から少し付け加えると、愚民と言っているのは、排斥運動をしていた県議会議員たちのことです。
沖縄がいやになったと書いているのは、沖縄県民が嫌になったというのではなく、沖縄に赴任して、さんざん嫌がらせをされ、いじめられる自分が嫌になったという意味です。
それが当時の日本男子の心です。
先々の危険を予測すれば、当然やらなければならないことをしているのです。
しかもそれは、お国の決定事項でもある。
退造は、誰からも咎められるようなことをしているわけではないのです。
退造を信じてついてきてくれている沖縄県警の警察官たちは、全員が退造の指示を信じ、必死になって村々の説得にあたってくれているのです。
村で一緒になって村人たちの疎開のための荷物や老人を運ぶのを手伝ったり、ひとりひとりの健康を気遣ったり、空家となった村人たちの家の戸締りを確認したり、家畜動物たちの保護先を探したりして、みんな懸命に働いてくれています。
にもかかわらず、その責任者である退造は、県知事から嫌がらせを受け、県議会では吊るしあげられていたのです。
風雲は急を告げています。
内輪揉めしているような場合ではない。
にもかかわらず、退造さえ追い払えば、集団疎開のプロジェクトをつぶせると泉知事らは思っていたのです。
内政部長も同じです。
彼は、NHKの取材に答えて、県民向けラジオ放送の中で、
「敵は絶対に沖縄に上陸しないことを確信します」
などと放言しています。
いつから内政部長は米軍の指揮官になったのでしょうか。
加えて制空権、制海権を持ち、日本の絶対防衛ラインも破られているのです。
そしてそうした機密情報は、ちゃんと県知事にも内政部長にも知らされていたのです。
米軍が、沖縄にくるか台湾にくるか、いきなり飛び越えて本土上陸を画策するか、それは米軍の判断であって、沖縄県庁が決定する事項ではない。
そんなことは、すこし冷静になって考えれば、誰にでもわかることです。
ところが、人というものは、理屈でばかり動くというものではありません。
人は安直な方に流れます。
警察が強権発動で集団疎開を進めているというウワサもたてられました。
それに家族が離れ離れになることは、多くの人にとってとてもつらいことです。
なかには、そうした退造たち警察官の指導を疎ましく思う人まで出てきました。
そういう情勢下にあっての内政部長のこのラジオ談話は、沖縄県民の間に、いっきに広まりました。
そしてせっかく盛り上がりつつあった疎開気運に、まっこうから冷や水を浴びせる結果となってしまったのです。
こうなると、集団疎開を推進している荒井退造ら警察は、まるで県民の敵です。
当時の県の幹部というのは、本庁からの派遣です。
いまのような県内の公選制ではない。
本社が東京にある会社の沖縄支店長や副支店長みたいなもので、東京の本庁で人事が決まり、沖縄に赴任しています。
そして、実は泉知事も内務部長も、沖縄がすでに「危険な状態」にあることは、一般県民よりもはるかによく知っていたのです。
ですから彼らは、「このまま沖縄に残っていたら、もはや命はない」と知り、一日もはやく自分だけが沖縄から遠く離れたところに転勤したいと願い出て、裏でこっそり運動していたのです。
要するに、沖縄で集団疎開運動が大々的に起こり、沖縄が戦場と化す危険が高まれば高まるほど、総責任者である県知事、内務分野の総責任者である内務部長は、立場上の責任から、当然、最後の最後まで危険な沖縄に残らなければならなくなるわけです。
そうなれば、グァム、サイパン、パラオのように、自分たちが生き残れる可能性は、まずありません。
言いかえれば、集団疎開が本格化すれば、すでにイエローゾーン、レッドゾーンになったという認識となり、自分たちが転勤になれる可能性は皆無となる。死んでしまうのです。
だから泉知事と県内政部長は、県民の命を盾にとって、自分たちだけの安全な転勤だけを図るために、沖縄県民の疎開を邪魔していたのです。
そういう卑怯者に操られて、退造らを糾弾した県議会の議員たちも、いまにしてみれば哀れなものです。
しかし、こうした卑怯者というのは、はじめのうちはわからなくても、時がたつとだんだんに庶民の目にも明らかになってくるものです。
県内政部長は、東京に出張中に出たかと思ったら、無断で大分県の山奥の電話もない湯治場に「胃病の治療」と称して雲隠れしてしまいました。
泉知事は、用もないのにまる一ヶ月も東京に出張し、そこで転勤のための工作を必死でやっていました。
そしてやっと泉知事が沖縄に帰ってきた10月10日、米軍機による最初の大空襲が那覇を襲ったのです。
このとき泉知事は、寝間着姿のまま、官舎の防空壕に飛び込んで、市内の状況把握もしないで、空襲が終わると、そそくさと12キロも離れた普天間の地方事務所に、ひとりで逃げてしまっています。
空襲の後なのです。
那覇の町は、大火災に見舞われている。
街の消化活動、被災者の救助と保護、医療機関の手当、焼け出された人々の避難場所の確保と食料やトイレの確保、離れ離れになった家族や迷子の子供の保護や捜索、瓦礫の山の撤去等々、やらなければならないことは山のようにあったのです。
それらを全部放り出して、自分ひとりだけ、逃げてしまった知事に代わり、退造は、県庁のすべての機関をとりしきり、市内を駆け回って督励や具体的手当を講じました。
その途中、車で移動中の退造を、米軍の戦闘機が上空から機銃で攻撃しています。
間一髪、難を逃れた退造は、それでもめげずに、現場の警備中隊や警防団の督励に走りました。
警察部長の命がけの視察は、現場で働く多くの人々を勇気づけました。
沖縄県民も、力を合わせて町の消火作業に努めてくれました。
けれど、渦になって町を駆け抜ける猛火の前には、どうすることもできない。
ここへきてようやく、怨嗟の声が、知事や内政部長に対してあがるようになりました。
「この重大な戦局のさなかに長たるものが逃げるとは何だ」というわけです。
一方、退造は、自宅にしていた官舎を焼かれて、着の身着のままになったけれど、県庁の近くのほら穴に寝泊まりしながら県庁に通い、みんなとともに被災地の復興や、疎開の手当てに奔走を続けました。
ここまでくると、沖縄守備隊の牛島中将以下の第32軍も、もはや泉県知事は相手にできないと悟ります。
第32軍は、退造を頼ってくる。
といって、退造は、警察部長です。県の行政全部に権限があるわけでもない。
やむなく第32軍は、大本営に対し、沖縄県において軍で戒厳令を引き、県知事も軍の指揮下に入れるべし、との要求を出します。
これを聞いた東京の内務省は、驚いて、ようやく泉知事の転勤と内政部長の解任を承諾しました。
ひとつの地方自治体について、軍が戒厳令をひくというのは、内務省のメンツが丸つぶれになるからです。
こうして沖縄には、昭和20(1945)年1月になって、島田叡(しまだあきら、43歳)が、大阪府の内政部長から沖縄県、第27代県知事として赴任しました。
島田叡第27代沖縄県知事

島田県知事は、荒井退造警察部長を右腕とし、第32軍とも打ち合わせて、沖縄県民の集団疎開を本格化させました。
けれども、この時点では、もはや疎開船だけでは、もう間に合わなくなっていたのです。
やむなく、島田知事と荒井退蔵は、島に残っている老人や婦女子を、沖縄本島の北部に避難させることにしました。
2月中には4万人を移動させ、学校、集落事務所などの既設建物に収容しました。
その移動中に、新たな収容施設を建設し、3月上旬までに5万人強を移動させました。
そのために県土木課員を総動員し、移動する住民になじみの深い教職員の一部を疎開の第一線に配置しました。
単に人が移動すればよいという話ではないのです。
人が移動すれば、そこには施設を作らなきゃいけないし、食べ物や排せつの面倒もみなければならないのです。
女性や高齢者の集団です。医療の問題も見過ごせない。
島田知事と退造は、半年分の備蓄食料を確保し、医者を手配し、それらを県北部に移送するだけでなく、避難民が決して飢えることがないよう細々とした手配を行います。
これにより、疎開船で本土に疎開した人、戦場とならない北部に疎開させた人は、合計で約20万人にいたりました。
沖縄県60万県民の、3分の1が、疎開することができたのです。
戦火の中で生き延びた沖縄県民は、戦地にならなかった北部の人たちばかりではありません。
助かった多くの人々は、このとき島の北部に逃れた人々でもあるのです。
沖縄戦では、その後第32軍の牛島軍司令官が6月22日に沖縄本島南部の摩文仁で自決、その数日後、荒井はアメーバ赤痢で亡くなられ、島田県知事は、近くの海岸の自然壕でピストルで自決されたといわれています。
ただ記録では、島田知事と共に6月19日に牛島司令を訪ねて最期の挨拶をされたあとの足取りは不明のままで、目撃談としては、現在島守の塔が建立されている場所で26日に目撃されたという話があります。
おそらく、知事と荒井部長は最期を共にされたのでしょう。
昨年もこのお二人の遺骨を探す方々の活動が県内のニュースになりました。
けれど、もしかすると神々のお計らいで、お二人に匹敵する人物が県内に現れなければ、出て来られないのかもしれません。
沖縄県民の疎開を、自分一人が助かりたいからと故意に送らせ、多くの県民の命を奪うきっかけをつくった泉守紀元沖縄県知事と、県内政部長は、戦後も生き残りました。
そして、こうした卑劣な卑怯者が、戦後の政治や思想の中心になっていきました。
ひと昔前までは、「反動」という言葉がよく使われたものです。
戦前戦中の価値観を否定する戦後政治において、戦前戦中の思想や価値観を取り戻そうとする動きは「反動」だというのです。
けれど、実はすこし考えたら誰にでもわかるのです。
戦前戦中、卑怯、卑劣で自己中の人の人がいると、そのひとりのために、多くの命が犠牲になったのです。
そうでないまともな責任感の強い人は、ほとんどが戦争で死んでしまいました。
結果、戦後は、戦前に排斥された卑怯、卑劣な人が、天下をとることになりました。
そして彼らは、卑怯、卑劣だった自分自身を正当化するために、彼らを否定する戦前戦中の人を「反動」と呼んだのです。
けれどあれから70年。
いまにしてみれば、戦前戦中を「反動」と呼んでいた人自体が、人の世の常識を否定する大馬鹿者であったことがよくわかります。
沖縄ではいまも、戦時の記念日ともなれば、毎年平和集会が行われます。
そしてなぜかその期間中は、市内のホテルは、そうとう小さな旅館にいたるまで、宿泊施設は満杯になる。
要するにその反戦平和集会に集ってきているのは、沖縄県民などの地元の人々ではない、ということです。
そういう無責任な連中が、平和運動家と称して毎年やってきては、エセ平和運動を展開する。
ことさらに被害を強調する。
しかし、はっきりと申し上げれるのは、それら平和運動家さんたちは、いざとなったとき、沖縄県民を守るために命をかけて戦うということを、絶対に「しない」人たちだということです。
ひらたくいえば、卑怯者の集まりです。
祖国も歴史も郷里も、誰かが守ってくるようなものではありません。
尖閣も沖縄も、まずは私たち国民が「大切なものを守る」という意識を持たなければ護れないのです。
そして戦後という時代の政治は、まっとうな人たちが死んだり口封じされ、そういう卑劣な卑怯者が生き残って天下をとった時代でもあったのです。
戦後に見事に日本が復興できたのは、陛下と臣民の力です。
それを貶め、歪め続けたのが、この卑劣卑怯な連中です。
おもしろいもので、上にある泉知事と島田知事の写真を見比べると、泉知事は実に押し出しの立派そうな大物然とした方に見えます。
一方で、島田知事は、軽くてなんの貫禄もなさそうにみえます。
けれども、戦闘など、実際に命のやりとりをする場にいたったとき、本当に真剣になって身を捧げて働いてくれるのは、見た目が立派だったり、強そうだったりする人ではなくて、妻や子を愛し、職務に忠実で誠実で責任感のあるな人たちです。
なぜなら、おそろしい戦場で、最後の最後まで自分に与えられた任務を遂行できるのは、責任感だからです。
そして責任感は、常に誰かに対しての強い愛を持つ、愛しい愛(おも)ひを持つところにしか存在しないからです。
つまり、愛が人としての、いざというときの強さを生むのです。
口先だけの平和運動家には、いまの尖閣や沖縄、そして日本の危機は護れません。
彼らには愛がないからです。
戦うべき時に戦うのは、愛する心を持つ者なのです。
※この記事は2010年11月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。
コメント
K
「排斥ならいくらでもやれ。喜んでその排斥を受けるぞ。愚民どもめ。まったく沖縄はいやになった。」
この一文は新井部長の日記ではなく、当時の知事だった泉守紀知事のものです。
様々な文献で泉知事の日記のものだと記載があるので、そちらをご参考下さい。
これは推察に過ぎませんが、新井部長はそのような言い回しをされる方でもないと思います。
新井部長の名誉に関わることですので訂正をお願い致します。
2017/08/22 URL 編集
楽さん
ありがとうございました。
うすっぺらな人間がきれいな言葉と理屈で
反対を唱えることを目的に民衆を騙すことは
壊滅的な破壊をもたらすのですね。
昔の沖縄知事も今の沖縄サヨクも
日本人が本当に動かなければならない時に
言葉で邪魔をしていると思うと
不快な気持ちにさせられます。
昔の事件が今日の現状と重なって
暗澹たる未来を予測させます。
今のままでいいわけがありません。
2017/03/27 URL 編集