そのひめゆり隊は、学徒看護隊のなかの、ひとつの部隊の名称です。
沖縄戦での女子学徒による看護隊は、ひめゆり部隊だけではありません。
他にも
白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
ずゐせん学徒隊(県立首里高女)
積徳学徒隊(私立積徳高女)
梯梧学徒隊(私立昭和高女)
なごらん学徒隊(県立第三高女)
など、それぞれ看護隊として従軍しています。
そしてそれぞれに碑が建てられているのですが、残念なことに、ひめゆり以外の女生徒たちの碑には、あまり訪れる人もなく、閑散としています。
「白梅学徒隊」は、ひめゆり隊より17日はやい、3月6日に結成されました。
メンバー数は55名でした。
第二四師団の野戦病院で、傷病者の手当についてなど、必要な看護教育を受けていたのですが、そのさなかの3月23日には米軍の猛爆撃が開始されてしまいました。
このため、勉強していた病院の建物が危険ということで、彼女たちは医師や患者とともに、八重瀬岳の病院壕に移動しています。
病院壕といえば聞こえはいいけれど、ただの「ほら穴」です。
床も壁も天井も地面むき出しのままです。虫も出ます。
近くに爆弾が落ちれば、轟音とともに天井から土や石が落ちてきました。
その洞穴に前線で重傷を負った兵たちが運ばれてきます。
ここが大事な点ですが、他の戦場でもそうなのですが、沖縄戦も同じで、少しでも動けるものは銃をとって戦いましたから、病院壕に運ばれてくるのは、すでに戦闘能力を失った余程の重症患者です。
彼女たち白梅部隊は、そのほら穴で、重症兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯炊き、排泄物の処理、傷口に沸いたウジ虫の処置、死体埋葬、伝令などをしました。
彼女たちは、沖縄県立第二高等女学校の最上級生(四年生)でした。
とはいえ、いまならまだ高校一年生です。
手術は、医師たちによってほら穴の中で行われました。
爆風によってつぶされた腕や脚は、最早切り取るしかありません。
切り取った手足は、バケツに入れ、それを白梅部隊の女学生が、交代で敵の爆撃のない早朝に表に捨てに行きました。
4月下旬になると、負傷兵が増加し、ほら穴の入り口付近まで、負傷兵であふれるようになりました。
やむをえず5月上旬には、東風平国民学校の裏手の丘にも分院を開設し、収容しきれない患者をそこへ移しました。
ところが分院のある場所にも、米軍が迫ってきました。
やむなく分院を閉鎖し、もとの八重瀬岳の本院へ患者と白梅隊を集合させたのですが、この分院を閉鎖するとき、歩けない負傷兵たちに白梅隊のメンバーが、青酸カリなどを与えて彼らを処置しました。
痛みに苦しむ患者たちの日常の世話をし、彼らと親しく会話も交わしていたものを、歩けないと知った彼らに、青酸カリを渡したのです。
そのときの心の痛み、辛さ、苦しさ、哀しさはいかばかりだったことでしょう。
6月4日、八重瀬岳の本院にも、敵の手が迫りました。
病院は、約500名以上の重症患者の「処置」をしました。これもまた白梅隊の仕事でした。
そして、病院は解散となりました。
白梅隊も解散になりました。
彼女たちは、軍と行動をともにしたいと願い出ました。
しかし、死を覚悟した軍の兵士達は、彼女たちの願いを退けました。
どうしても、彼女たちには生き延びてもらいたい。それが兵士たちの願いでした。
彼女たちは、数人ずつに別れて、南部に向けて撤退しました。
逃げるあてなどありません。
爆風渦巻く中、8名が途中で死亡し、ようやく16名が国吉(現糸満市)でほら穴を見つけ、そこに隠れました。そこがいま「白梅の塔」のある洞窟です。
その16歳の武器さえ持たない彼女たちの隠れる壕に、6月21日、米軍が「馬乗り攻撃」を仕掛けてきました。
「馬乗り攻撃」というのは、ほら穴の上から穴をうがち、その穴からガソリンなどの可燃物を注ぎこんで火を着ける攻撃方法です。
この攻撃で、壕に隠れた彼女たちのうち、6名が死亡しました。
6月22日も同様の攻撃を受けて2名が死亡しました。
そして後日1名も、重度の火傷のため米軍病院で死亡しています。

「ずゐせん女子学徒隊」は、沖縄県立首里高等女学校の、やはり4年生(いまの高校一年生)の61名の少女たちでした。
彼女たちもまた、第六二師団の野戦病院(といっても、これもほら穴(壕)です)で、休む間もなく負傷兵の看護をして働き続けました。
まだ16歳の少女が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいたウジ虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりしたのです。
絶え間なく落ちて来る艦砲弾の下をかいくぐり、水を汲みに行ったり、食事の支度をしました。
4月23日、患者を収容するために壕を出た生徒1名が、砲弾の破片を受けて死亡します。
5月20日、敵が迫りくる中、ついにこの野戦病院も退去することになります。彼女たちは歩ける負傷兵を支え、南部へ移動しました。
そしてまる10日間、砲火の中を逃げまどい、ようやく6月1日、摩文仁村米須の石部隊の壕に到着しまし
た。
しかし、そこは患者と兵隊でいっぱいでした。
やむをえず患者だけを壕に収容してもらい、彼女たちは伊原の崖下の岩間に入りました。
6月7日、その岩間が、直撃弾を受けて落盤しました。
この落盤で、生徒一名が死亡しました。
6月10日、軍は、彼女たち「ずゐせん女子学徒隊」に解散命令を出しました。
しかし彼女たちは納得しません。どうしても軍と行動を共にし、患者たちの面倒をみるといって聞かなかったのです。やむなく解散命令はいったん撤回されました。
6月19日、米軍の砲火が激しくなり、軍は彼女たちに、
「もはやこれまで。
自分たちはここに残るが、
君達は解散するから、
逃げなさい」
と説得しました。
ようやく承諾した彼女たちは、いったん壕外に出るのだけれど、外はあまりに砲撃が激しく、ふたたび、壕に舞い戻るしかありませんでした。
そして6月23日、この壕が、米軍の「馬乗り攻撃」にあいました。
壕の奥はガソリンで焼かれ、入口付近は火炎放射器で焼かれました。
いぶり出されるようにして、生徒たちは壕外に出、米軍に収容されました。
この時の馬乗り攻撃と火炎放射機で、生き残っていた生徒のうち、25名が死亡しました。
結局、動員された61名の女生徒のうち、33名死亡が死亡しています。
ずゐせん女子学徒隊

「積徳学徒隊」は、私立積徳高等女学校の4年生25名です。
彼女たちも同様に、豊見城城跡の第二四師団、第二野戦病院で、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などを行いました。
彼女たちも、5月下旬には、首里の軍司令部まで米軍が迫ってきたため、真壁村糸須の自然洞窟へ撤退しました。
このとき、彼女たちも重傷者に青酸カリで「処置」するようにと命令されるけれど、どうしても、それができません。哀れに思った軍医は「処置」を取りやめました。
しかし、6月20日には、洞窟入口に火炎放射やガス弾を投下され、軍は、自決を決意します。
小池病院長は、彼女たち積徳学徒隊に解散を命じ、
「生き延びて、沖縄戦のことを他府県の人々に伝えよ」と訓辞を与え、自決されました。
生徒たちは壕外へ出て、米軍に収容されました。
動員された25名の生徒のうち4名が死亡しています。
積徳学徒隊

生還した彼女たちは、入隊したときの気持ちを次のように語っています。
「全く不安はなかったね。
戦争は絶対に勝つもんだと信じきっていたから」
「私たちが行かなかったら、
誰が傷病者を世話するのって真剣に思ってた」
「ただもうお国のためにという気持ちで一杯だったんです」
彼女たちに戦局の様子はわかりません。
ただ、爆弾が落ち、次々に運ばれてくる負傷者を必死に介護した。そして多くの命が失われたのです。
戦いに敗れ、蹂躙されるということは、こういうことです。
しかし闘わなければ、もっと悲惨な運命が待ち受ける。抵抗しなければ殺されずに済んだなどということはないのです。
なぜ彼女たちが、ここまで追い詰められ、この世の地獄とも思える厳しい現実に接しなければならなかったのでしょうか。
それは戦争だったからです。
では何故、戦争が起こったのでしょうか。
日本の軍部が暴走したから?
ハルノートがあったから?
ルーズベルトが仕掛けたから?
なるほど戦争の原因については、諸説あります。
しかし、どれも他国や他人の「せい」にするものばかりです。
違うと思います。
他人のせいじゃありません。
原因は、軍事バランスが崩れたからです。
日本は、平和を希求しました。
そして大正10(1921)年のワシントン会議において、米英日の主力艦保有率を、5:5:3とする条件を飲みました。
そしてこのとき同時に、米国の強い主張によって、20年続いた日英同盟が破棄されました。
それまで、世界の最強国であった日本の軍事力が弱化しました。
すると、これと同時に日英同盟が解消され、新たに最強の二国である米英が同盟国になりました。
主力艦保有率は、この瞬間に米英10に対し、日本は3となりました。
それまでは、日英10に対し、米国が5でした。
軍事バランスが崩れたのです。
10:3では、もはや日本には物理的に到底勝ち目がありません。
弱くなった日本は侮られました。
侮られた日本は、昭和4(1929)年の世界恐慌の際、米英で日本製品のボイコットを受けます。
そして昭和3(1928)年に誕生したChinaの蒋介石政権は、露骨な排日運動を展開するようになりました。
そしてあちこちで日本人が、酷い目に遭わされるようになりました。
尼港事件が起こり、通州事件が起こり、そしてついに昭和12(1937)年には日華事変が勃発しています。
続く昭和16(1941)年には、大東亜戦争が勃発しています。
日本が弱国となるやいなや、またたく間に日本は追いつめられていくことになったのです。
世界に条約はあっても法律はありません。
法の執行機関もありません。
あるのは、今も昔も、国家間の力関係だけです。
いったん戦争になれば、条約など誰も守らない。
だからこそ、実際、沖縄戦でも赤十字の旗が翻る病院施設が爆撃されています。
戦時中でさえ、必死に条約を守り通したのは、世界広しといえども日本軍ぐらいなものです。
自衛隊を持つ戦後日本は、戦後68年、戦争をしていません。
この68年間、まったく戦争をしていない国は、日本とスイスくらいなものです。
スイスは永世中立を宣言している国です。
しかし、スイスは国民皆兵の国でもあります。
スイスと戦争をする国は、スイス政府を相手取っての戦争はできません。
スイスの760万の国民すべてを相手取って戦争をしなければならない。
しかもスイスは、国際金融の要を握っています。
世界の大金持ちの資産の多くはスイスに預けてある。
スイスが戦乱に呑まれるということは、世界のお金持ちがその財産を失うということでもあります。
だから、どこの国もスイスは攻めない。
では日本が戦後、戦争をしないでこれた理由は何でしょうか。
理由は3つあります。
ひとつは、米国の核の傘に守られたことです。日本を攻めることは米国の核を敵にまわすことになる。
ふたつめは、終戦前までの日本が、あまりに強かったことです。
「寝た子を起こすな」、まさにそのことが世界各国の合い言葉でもあったのです。
みっつめは自衛隊です。軍事バランスでいえば、日米軍事同盟は、世界最強の地位を占めています。
だから戦争が起こらなかっただけのことです。間違っても憲法9条があるからではありません。
よく勘違いしている人がいますが、日本に憲法9条があろうがなかろうが、攻めようとする国には相手国の法など関係ないのです。
日米同盟がなく、憲法9条だけが存在したなら、日本はもっと早く、Chinaかソ連に攻め滅ぼされていたかもしれないのです。
世界は理想で動いているのではありません。
現実の利害得喪で動いているのです。
弱国となれば、容赦なく攻めてくる。
それは軍事面ばかりとは限りません。
ねつ造史観や、ありもしない慰安婦問題など、なぜ韓国があれほどまでに騒ぐのかといえば、日本に憲法9条があり、「日本からは絶対に軍事的に自国が攻められることはない」と彼らは知っているからです。
現に、彼らは、あれだけ日本を侮りながら、日本に対する軍事行動は起こしません。
なぜなら、戦えば負けると知っているからです。
Chinaも同じです。
逆にいえば、日本が軍事面で弱くなれば、Chinaにしても韓国にしても、容赦なく日本を蹂躙します。
竹林はるか遠くや、通州事件、そして上にある沖縄戦の現実が、いまの現実となって蘇るのです。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という有名な言葉を残して6月6日に自決した沖縄方面の指揮官、大田実海軍中将は、自決の直前、海軍次官宛てに電報を発しています。
そこに、女子看護隊の様子も描かれています。
「沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも
県には既に通信力なく
三二軍司令部又通信の余力なしと認めらるるに付
本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども
現状を看過するに忍びず
之に代って緊急御通知申上ぐ
沖縄島に敵攻略を開始以来
陸海軍方面 防衛戦闘に専念し
県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき
然れども、本職の知れる範囲に於いては
県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ
残る老幼婦女子のみが相継ぐ砲爆撃に
家屋と財産の全部を焼却せられ
僅かに身を以て軍の作戦に差支えなき小防空壕に避難
尚 砲爆撃下○○○(文字不明)風雨に曝されつつ
乏しき生活に甘んじありたり
而も若き婦人は率先軍に身を捧げ
看護婦烹炊婦はもとより
砲弾運び
挺身斬込隊すら申し出るものあり
所詮敵来たりなば老人子供は殺されべく
婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて
親子生別れ
娘を軍衛門に捨つる親あり
看護婦に至りては軍移動に際し
衛生兵既に出発し身寄りなき重症者を助けて○○(文字不明)
真面目にして一時の感情に駆られたるものとは思われず
更に軍に於いて作戦の大転換あるや
自給自足 夜の中に遥に遠隔地方の住民地区を指定せられ輸送力皆無の者
黙々として雨中を移動するあり
之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来
終始一貫 勤労奉仕 物資節約を強要せられつつ
(一部の兎角の悪評なきにしもあらざるも)
只管(ひたすら)日本人としての御奉公の誇りを胸に抱きつつ
遂に○○○○(文字不明)与え○(文字不明)ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形○○○○○○(文字不明)
一木一草焦土と化せん
糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂う
沖縄県民斯く戦へり
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
女子高生たちが、二度とふたたび同じ悲哀を味わうことがないように。
そのための具体的責任は、いまを生きるわたしたちにあります。
わたしたちひとりひとりにできることは小さいかもしれないけれど、二度と再び未成年の女の子たちを戦渦に遭わせてはならないという強い意志を持つことは、日本人として、あたりまえの、当然の意識であるものと思います。
米国が、世界の警察となることをあきらめ、世界からの軍事面での撤収を言い出したということは、逆にいえば、日本は、これから、単独で国を守って行かなければならないときがきているということをあらわしています。
そもそも集団的であれ個別的であれ、自衛権というものは、国家でも個人でも家庭でも、等しく誰もが持っているものです。
自衛権のない主権国家など、あり得ません。
にもかかわらず、こんな簡単なことを否定する。つまり自衛権そのものを否定したり、あるいはいま目前の問題として朝鮮半島有事が迫っているのに、森友学園しか語らない人たちがいます。
いったいどんな下心を持った人たちなのでしょうか。
その人たちには、ひめゆり隊をはじめとした、沖縄の少女たちに、何の責任も哀悼も感じないのでしょうか。
わたしには、不思議でなりません。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2010年9月の記事をリニューアルしたものです。

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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。
コメント
ラベンダー
2010年に掲載された時は、日本だけの悲劇としてしか思いませんでしたが、
7年後の現在は、世界の平和は破壊され、世界のあちこちでテロという名の残酷な殺戮が行われるようになりました。
過去のお話ではなく、現在も同じような事が行われているといると思うと悲しくなります。
早く平和な世界になるといいですね。
日本に危機が迫っている時なのですから、国会では日本への攻撃をどのように防ぐかということを真剣に議論して欲しいです。
2017/03/28 URL 編集
junn
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2017/03/28 URL 編集