◆『ねずさんと語る古事記 壱』絶賛発売中!

◆
【お知らせ】◆
4月 9日(日)13:30 第39回倭塾(江東区文化センター)
4月20日(木)18:30 第14回百人一首塾(江東区文化センター)
4月30日(日)13:00 玉響講演会「甦れ、日本魂」(御茶ノ水ソラシティ)

←いつも
応援クリックをありがとうございます。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)昨日の記事の続きになります。
古代史に限らず、日本史全体を俯瞰していえることなのですが、従来説にある大きな間違いは、天皇の存在をChinaの皇帝や、西洋の王様のような権力者として捉えようとしているところにあります。
そうすると権威と権力がごっちゃになり、日本の歴史が見えてこなくなります。
日本の歴史を通底するのは、国家の最高権威と最高権力を切り離したところにあります。
天皇は、政治上の最高権力者ではありません。
どこまでも国家最高の権威です。
このことが、過去の時代においても、特に帰化系の方にはわからない。
ですから、天皇の地位に昇ることが国家の最高権力を得ることであると誤認してしまうことになります。
何度も繰り返して述べていることですが、日本の歴史において、最も肝要なことは、権威と権力を、はるか古代において切り離したところにあります。
そしてある意味、このことは当然のことでもあります。
なぜなら政治権力は常に政治責任とセットでなければならないからです。
政治は、多数のために、少数を犠牲にしなければならないことがあります。
政治は、常に利害関係が伴います。
政治は、意見の衝突がつきものです。
そして何かを行えば、必ずそこには「結果責任」が付いてまわります。
つまり国家における最高の存在が権力者であれば、権力には責任が伴いますから、国家そのものが失われる危険が常に付いて回ることになります。
このことを避ける方法は2つです。
ひとつは、権力者が一切の責任を取らないこと(無責任政治)
もうひとつは、権力と権威を切り離し、権力者の上に権威者を置くことで責任政治を実現することです。
日本は、太古の昔から、後者です。
これを「シラス統治」といいます。
権力と責任は、常にセットでなければなりません。
ひとつ例をあげます。
以前、川崎で中一児童殺害事件がありました。
もし、この事件が江戸時代に起きたなら、もちろん犯人逮捕は当然ですが、同時に川崎の町奉行も当然に切腹です。
なぜなら、町奉行というものは、管内に悲惨な事件や事故が起こらないようにするために、そして人々が豊かに安心して安全に暮らせるようにするためにある存在だからです。
そのために町奉行には、必要なありとあらゆる権限が与えられています。
それだけの権限が与えられていながら、現実に悲惨な事故が起きてしまったのなら、奉行は当然に責任をとって、腹を斬る。
あたりまえのことです。
自分で腹を斬れば、奉行の家は安泰です。
息子は、奉行職を継ぐことができます。
けれど、自ら腹を斬ろうとせず、愚図愚図としているならば、江戸表から使者がやってきて、
「上意でござる」
と切腹を申し渡します。
この場合、お上の手を煩わせたということになりますから、奉行自身が検分役立会のもとで切腹となるだけでなく、お家は断絶、妻子および郎党は翌日から露頭に迷うことになります。
責任を負うべき者が責任を負わないなら、それは当然のことだからです。
このことは、いまの会社でも同じです。
営業部長には、会社が予定する営業成績予算を達成する使命があります。
そしてそのために部長職として必要なありとあらゆる権限が付与されています。
にも関わらず予算を達成できなかったのなら、それは営業部長の責任であり、更迭もしくは降格させられて当然です。
なぜなら、権限権力には責任が伴って当然だからです。
だからこそ日本では、国家最高権威と、権力を切り離したのです。
このことは、記紀にしっかりと出ています。
天照大御神は太陽です。
太陽が責任をとって天の石屋戸に隠れて出てこなくなったら、この世は闇です。
ですからここではじめて、八百万の神々は議会を開き、自分たちで責任を持って政治を行うという選択をしたのです。
そしてそれは高天原の統治の仕組みです。
高天原は、神々の国です。
つまり、すべての住民は神々です。
それと同じ統治をしなさいといって、迩々芸命(ににぎのみこと)が地上界に降臨されます。
これが天孫降臨です。
高天原と同じ統治ということは、地上の住民(つまり民衆)は、高天原における神々と同様にみなされるということです。
これが民衆は「おほみたから」であるという概念です。
誰の「おほみたから」かといえば、国家最高権威である迩々芸命であり、その直系のご子孫である歴代天皇です。
民衆は、天皇という最高権威によって「おほみたから」とされるから、隷民化されことなく暮らすことができてきたのが日本です。
つまり、天皇と民衆は、対(つい)の関係にあるのです。
天皇がおわすから、民衆はたからであり、政治権力者からの自由を得ているのです。
天皇の存在がなければ、あるいは天皇が日本の最高権力者なら、民衆は被権力者となります。
それは隷民であるということです。
隷民は、奴隷ともいいますが、人ではありません。
奴隷は、所有物であり、売買できる物でしかありません。
人ではないのですから、当然に、人権もありません。
つまり民衆が自由な民であるために、天皇は国家最高の権威である必要があるのです。
西洋では、近代に至って、その天皇に代わる国家最高の権威を法に求めようとしました。
しかし法は、文字であるがために抜け穴がいくらでもできてしまいますし、時々刻々と変わる新しい事態への対処も判断もできません。
しかも権力者であれば、自己に都合が良いように、法さえも変えてしまうことができてしまいます。
ところが天皇は人であるがゆえに、権力者の横暴への見事な監視機能が働きます。
我が国では、こうして、天皇を国家最高権威としてきました。
単に最高権威であって、政治権力を揮うことがありませんから、当然に政治権力に基づく政治責任を負うこともありません。
そして政治責任を負わない最高権威が国民を「おほみたから」と規程することで、政治権力者は、天皇からその「おほみたから」を預かる立場となります。
権力者が権力を揮う相手は、天皇の「おほみたから」なのです。
そうすることによって、我が国では、はるか太古の昔から、権力の横暴を防いできたのです。
同時に、権力には当然に責任が伴うということを実現してきたのです。
およそ責任を伴わない権力ほど、おそろしいものはありません。
会社の営業部長が、予算を達成しようがしまいが、業績が下がろうが利益が出なかろうが、一切、責任を問われることがなくなったら、どうなるのでしょうか。
会社は潰れます。
どんな大きな会社であっても、これは同じです。
昨今ではこうした原則が忘れられ、部長職から、部内における人事やスタッフの配置、部門方針策定についての権限などを取り上げているケースが見受けられます。
こうなると部門の成績を達成できなかったとしても、それは会社の責任であって、部長には何の責任もないということになります。
これは不思議な存在です。
部長としての権限がありながら、責任を問われることがないのです。
ではいったい何のための部長なのでしょうか。
国家も同じです。
中華皇帝は、国家最高の存在です。
最高権威と最高権力を併せ持ちます。
しかも責任を問われることは一切ありません。
そうなれば、権力者は、やりたい放題です。
人の命さえも、皇帝の前では羽毛ほどの値打ちもありません。
西洋の王様も同じです。
王様は国のすべてを所有し、国内のあらゆるものに権力を及ぼすことができますが、それが明らかな失政であったとしても、一切その責任を問われることはありません。
だから横暴になるのです。
西洋社会というのは、童話に出てくるような素敵な社会ではありません。
暴力による支配と、収奪と貧困によって、民族ごと大移動することで成り立ってきた社会です。
これはイナゴの大軍に似ています。
王にとって、宇宙は血の一滴に至るまで、すべては「俺のもの」という社会構造のもとで、世界中を支配してきた民族なのです。
その中で、唯一日本だけが植民地支配を受けずに、時代を乗り越えることができました。
このことは、神々の配慮としか言いようのない、人類史の奇跡です。
ですから日本は人類の希望だったし、未来世界の希望でもあるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
【倭塾】(江東区文化センター)
〒135-0016 東京都江東区東陽4丁目11−3
第39回 2017/4/9(日)13:30〜16:30第4/5研修室第40回 2017/5/13(土)18:30〜20:30第1/2研修室第41回 2017/6/24(土)18:30〜20:30第4/5研修室【百人一首塾】(江東区文化センター)
〒135-0016 東京都江東区東陽4丁目11−3
第13回 2017/3/23(木)18:30〜20:30 第三研修室第14回 2017/4/20(木)18:30〜20:30 第三研修室第15回 2017/5/18(木)18:30〜20:30第三研修室第16回 2017/6/ 8(木)18:30〜20:30第三研修室
【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。
コメント
にっぽんじん
それでは公平な貿易とはどんな貿易でしょうか。使用通貨がお互いに異なる国の貿易は「物々交換」となります。
お互いの貨幣が使えない以上、貨幣貿易は意味がありません。
使用できない相手国の通貨をいくら貰っても、国内では「紙切れ」の価値しかありません。
お互いが欲しい商品を「当価値」相当分交換することが「公平な貿易」です。
「公平な貿易」には損得があってはならないのです。
アメリカが日本から100ドル相当の商品を輸入し、日本が1ドル相当の商品しかアメリカから輸入しないとアメリカにとって99ドルの赤字です。
本当でしょうか。日本が99ドル受け取っても使えなければ紙屑であり、99ドル分の不公平な商品交換になります。これは、使えない通貨を利用したアメリカの植民地的貿易になります。
そうならないのはドルが基軸通貨で他国との貿易に使用できるからです。99ドルを他国からの商品輸入に使えば日本は損をしません。使わなけれ「外貨」として積み上がるだけです。
外貨が多いということは必ずしも良いことではありません。ドルという貨幣が使われないで眠るだけです。
アメリカとの貿易で赤字の国(アメリカは黒字)はドル外貨をアメリカから得ることが出来ないので他国との貿易でドルを得る必要があります。
貿易のために世界中の国が「ドル外貨」を保有しています。そのためには、アメリカは財政赤字になる必要があります。アメリカが全ての国に対して黒字になれば「世界に余剰ドル」はなくなります。
基軸通貨を持ちたいならアメリカはある程度の赤字を我慢すべきではないでしょうか。
公平な貿易は難しいものです。私の考えが間違っているかも知れません。
2017/04/09 URL 編集