ソ連が崩壊した後、世界中の大学や議会における共産主義は崩壊していきましたが、不思議な事に日本の大学には、いまだに共産主義を素晴らしいものと讃える人たちが生き残って、しかも教授陣を構成しています。
大学は本来、アカデミックな教養の殿堂のはずですが、どういうわけか教授陣の人脈の殿堂となっているようです。不思議の国ニッポンです。
さて冒頭に「万世橋駅」の話を書いたのは、実は、戦前には、この万世橋駅前に、ある壮大なモニュメントがあったからです。
それは、軍神・広瀬武夫中佐と、一緒に亡くなられた杉野孫七兵長の、巨大な銅像(明治43(1910)年建立)でした。
万世橋駅前の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像

この銅像も、戦後にGHQの指示で撤去されてしまいました(昭和22(1947)年)。
この時期、GHQは、日本国内にあった軍人さんの銅像を片端から破壊しました。
生き残った銅像は、大山巌元帥の銅像だけで、これはマッカーサーが個人的に大尊敬する軍人であったことによります。
そこで今日は、その軍神・広瀬中佐の半生を、書いてみたいと思います。
***
広瀬中佐は、日露戦争の旅順港閉塞作戦における閉塞船(へいそくせん)福井丸の艦長だった方です。
旅順港にいるロシア艦隊を封じ込めるために、旅順港の入り口を、沈船で閉塞させようとした作戦で、艦が攻撃を受けて沈没するときに、艦から撤収しようとして行方不明となっていた部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けようとして、ひとり船内に戻り、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受けて戦死され、明治以降、初の「軍神」となられた方です。
広瀬武夫中佐

広瀬武夫(廣瀬武夫)中佐は、慶応4(1868)年に大分県竹田市にある岡藩藩士の家に生まれました。
岡藩というのは、織田信長と豊臣秀吉に仕えた中川清秀の家系で、関ヶ原で徳川方につき、以降、一度の移封もなく廃藩置県まで、この地にあった藩です。
藩風は地味で堅実、これに九州男児としての豪放磊落さが加わり、やさしく真面目で男らしい藩士を輩出してきた藩です。
広瀬中佐は、幼い頃に母を亡くし、お婆ちゃんに育てられますが、明治にはいり西南戦争で家が焼失してからは、一家揃って飛騨の高山に引っ越しています。
その高山で小学校を卒業した広瀬中佐は、卒業後には小学校教師になるのですが、明治18(1885)年、17歳で海軍兵学校に入学しています。
その海軍兵学校入学時の成績が19番、卒業時が80人中64番でした。
決して成績の良い方ではなかったのですが、講道館で柔道を学び、有段者紅白戦で五人をいっきに勝ちぬくという実力を身につけています。
ちなみにこの頃の柔道は、体重制がありません。
勝ちも、「一本」と「技あり」しかなく、試合中の大声をあげた声援もありません。
まさに真剣勝負さながらに、シーンと静まり返った道場で、真剣勝負の技の掛け合いが行われました。
また体術には、殴る蹴るの当て身技も用いられ、まさに実戦さながらの柔道が行われていました。
当時の広瀬中佐は、また、兵学校の運動会のマラソンで、左足が骨膜炎で左足切断を宣告されるまでの状況でいながら、見事完走するという根性を見せています。
卒業して海軍の見習い士官になった広瀬中佐は、清水次郎長親分にも会っています。
それは練習艦で、広瀬中佐を含む50名程の練習生が清水港に入港したときのことです。
やってきた練習生をジロリと見渡した次郎長親分は、
「見たところ、男らしい男は一匹もいねぇなあ」と一同をけしかけました。
これが当時の気風で、そうやってけしかけて、男を探そうとしたわけです。
そうと知った広瀬中佐は、前に出て、
「おうおう、
そう言うなら、ひとつ手並みを見せてやる。
びっくりするな!」と、
いきなりゲンコツで、自分の鳩尾(みぞおち)を5~60発、立て続けに殴りました。
これには次郎長もいたく感心し、
「なるほど、お前さんは男らしい」と、互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されています。
卒業して海軍に入隊した広瀬中佐は、明治27(1894)年、26歳で日清戦争に従軍しました。
武功あって、翌年には大尉に昇進しています。
このとき広瀬中佐は、清国から捕獲した軍艦「鎮遠」の移送を命ぜられました。
「鎮遠」は、清国海軍がドイツのフルカン・シュテッティンに発注して建造した甲鉄艦で、当時は東洋一の堅艦と呼ばれた大戦艦です。
この「鎮遠」が開戦前に長崎にやってきたとき、日本を甘く見て、搭乗した船員たちが日本で乱暴狼藉を働いたのが「長崎事件」です。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1960.htmlそして「鎮遠」は、日清戦争開戦当初の黄海海戦で、はるかに艦としての性能の劣る日本海軍を挑発し、一方的に攻撃を加えて起きながら、いざ日本側が反撃に転じると、瞬く間に大火災をとなり、慌てて逃げたところを航路を間違えて威海衛沖で座礁し、日本海軍に鹵獲(ろかく)されています。
その「鎮遠」を広瀬中佐が日本に曳航することになったのですが、いざ、搭乗してみると、船内があまりにも汚い。およそ手入れというものがされていない。
あまりの汚さに、部下たちさえも、掃除をどこから手を付けて良いかわからないというありさまでした。
すると広瀬中佐は、「清掃というものは一番汚いところからやるものだ」と言って、先頭切って便所掃除から始めたそうです。
当時はいまのようなトイレ用洗剤なんて便利なものはないです。
水と雑巾でこびり着いた汚れを落とし、それでも落ちない汚れは竹べらなどを使って落とすのですが、その竹べらさえも効かないほど、汚れがこびりついている。
このとき広瀬中佐はためらう部下たちを尻目に、汚れを爪で擦り落としたそうです。
そうやって部下に模範を示しました。
トイレは汚れる。
だからこそ率先してきれいにする。
広瀬中佐の行動は、まさに模範となる行動でした。
明治30(1897)年、広瀬中佐は駐在武官としてロシアに赴任しました。
明治34(1901)年1月のことです。
武官としてロシアのサンクト・ペテルブルクに滞在していた広瀬中佐は、かねてより親しくしていただいているロシアの海軍少将ウラジミール・コヴァレフスキー氏の晩さん会に招待されました。
そこには大柄なロシア将校たちが集まっていました。
そこで広瀬中佐は、ウラジミール少将から、「日本の武道の達人です」と紹介されました。
このような紹介をされて、おとなしく拍手で迎えられるのは、日本くらいなものです。
当時のロシアでも、「ならやってみせてみろ」とばかりに、腕自慢のロシア将校が広瀬中佐に挑んできました。
身長差は20センチ以上あります。
挑みかかってきた大男のロシア将校を、広瀬中佐は、得意の一本背負いで「エイッ!」とばかり投げ飛ばしました。
柔道は畳の上で練習するし、受け身を学んでいるから投げられた人も普通に起き上がることができます。
それでも強い人に思い切り投げられると、受け身をしても体がバウンドしてしばらく起き上がれないほどの衝撃を受けることがあります。
ましてロシアの邸宅の硬い床の上です。
床で腰をおもいきりぶつけた大男は、すぐには起き上がれない。
仲間に助けられてようやく立ち上がったその将校は、腰をさすりながら「日本の柔術コワイコワイ」と言いました。これに部屋中が湧きました。
こうして全員が、「ヒロセ君に乾杯!」と歓声しています。
この事件がきっかとなって、広瀬中佐はぺテスブルグで、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えることになりました。
世の中というのはおもしろいもので、このときの事件がきっかけとなって、ロシア内に柔道が普及しています。
そして日本とロシアとの国交がなくなったあとも柔道は残り、ロシアがソ連となったあとには軍隊用格闘技「コンバット・サンボ」という格闘技に発展しました。
そのサンボは、いまではロシア発のオリンピック種目ですが、勝負は「一本」で決まります。
またプーチン氏も柔道家として知られていますが、そのきっかけも、歴史をたどれば広瀬中佐に行き当たるわけです。
広瀬中佐がロシア人将校を投げ飛ばしたとき、その部屋にコヴァレフスキー少将の次女のアリアズナがいました。
アリアズナは一部始終を目撃していました。
ロシア人女性は美人として名高いですが、アリアズナも他聞に洩れず、肌は抜けるように白く、褐色の目はキラキラとかがやき、髪は亜麻色で、とても頭が良く、優雅で気品にあふれ、しかも子供のように無邪気で快活で明るい娘であったと言われています。
そして投げ飛ばし事件のあった翌日、アリアズナは、広瀬中佐のアパートを訪ねています。
以前にも一度、父母と一緒に訪ねたことはあったのだそうです。
けれど今回は、内緒の訪問でした。
(もっとも、貴族の娘ですから、たくさんの従者をしたがえての訪問です)。
訪問したとき広瀬中佐は、軍艦の断面図を開いて、熱心にメモをとっていたそうです。
そしてニッコリ笑うと、
「これは戦艦アサヒです」と、流暢なロシア語でアリアズナに紹介しました。
「アサヒとは、朝のぼる時の太陽のことです。
朝の太陽のように清らかで、
若々しく、力づよいという心をこめているのですね。
私は去年4月にイギリスで完成したばかりのこの船に乗りました。
おそらく世界で一番新式な一番大きな軍艦でしょう。
私の国はこういう艦を6隻も持っているのです。」
広瀬中佐は、目を嬉しそうに輝かせながら、まるで自分の娘を語るように、軍艦の紹介をしました。
アサヒ、ヤシマ、シキシマ、ハツセ、フジ、ミカサ・・・
広瀬中佐は、それぞれの艦の名前を言い、その名前の意味を説明しました。
「美しい名前です。
日本は美しい国だから、
日本人はみな美しいものを愛しているんです。」
「どんなに堅牢な新式の大軍艦にも、
われわれは日本人は、
連想をかぎりなく刺激する詩のように
美しいひびきをもった名前をあたえます。
アサギリ、ユウギリ、ハルサメ、ムラサメ、シノノメ・・・ほらね。」
「力は強い。
けれど心はやさしい。
姿はうつくしい。
これが我々日本人の理想です」
このとき広瀬中佐が述べたことは、軍艦の名前とその由来です。
けれどアリアズナは、広瀬中佐が無骨な中にも、愛と喜びと幸せと美しさを大切にする日本人の心や、日本の文化を感じ取りました。
そしてそんな広瀬中佐に、熱い恋心を抱きました。
アリアズナには、セルゲイという海軍少尉の兄がいました。
兄の縁故で、美しい彼女のまわりには、貴族出身のロシア海軍の若い士官がいつも群がりました。
なかでもドミートリ・ミハイロフ大尉ははっきりと好意を示して、彼女の心を捉えようとしていました。
ところがアリアズナだって、貴族の令嬢です。厳重なしつけを受け、物腰は優雅で美しく、しかもエカテリーナ女帝がつくった貴族女学校を卒業した才媛です。芯も強い。
そんなアリアズナにとって、ミハイロフらは貴族の武官らしく見た目も良いし、洗練されていたけれど、人として最も大切な愛と喜びと幸せと美しさを持つ心の不足を感じていたようです。
ところが広瀬中佐には、その全てが揃っている。
ところが年上の広瀬中佐は、アリアズナを、まるで妹をいたわるような気持ちでしか接しません。
指一本触れようとしません。
そんなある日広瀬中佐は、ミハイロフ大尉から、アリアズナが広瀬に好意を寄せていると知らされました。
広瀬中佐は、びっくりしたそうです。
そして広瀬中佐も、次第に彼女に心を寄せていきました。
ふたりは度々逢って、いろいろな話をしました。
一緒にいるだけで、二人の心はときめきました。
そんな広瀬中佐に、明治35(1902)年、突然、帰国命令が届きました。
ロシアと戦争になるというのです。
戦争は、すべてを奪います。
いよいよサンクト・ペテルブルグを出発する日、アリアズナは広瀬中佐に小型の銀側時計を渡してくれました。
その時計には、アリアズナのAの文字が刻まれていました。
Aには、Amor(愛)の意味も込められています。
そして時計の鎖には、彼女の写真を入れたロケットもついていました。
二人は、からなず再び逢おうと誓い合いました。
そして、これが永遠の別れとなりました。
実は、この広瀬武夫とアリアズナの恋物語は、広瀬の死後も長く世に知られていなかったそうです。
広瀬の死後20年たった頃、広瀬と同時期にペテルブルグに駐在した加藤寛治大尉が、広瀬とアリアズナの交際を知っていて、大正13(1924)年、加藤が第二艦隊司令長官として旗艦「金剛」に座乗して大阪湾から伊勢湾にむかって航海中に、同乗した大阪朝日新聞の記者大江素天に、
「もう話してもいいころだろう」といって、克明に語ったことで明らかになりました。
広瀬中佐の恋物語は、同紙に5日間にわたって連載され、世に知られることになりました。
下の絵は、広瀬武夫が義理の姉である春江に、絵葉書で示した恋人アリアズナの面影です。
きっとこの絵のイメージとアリアズナの面影が、どこか重なるところがあったのでしょう。
美しい女性です。

明治37(1904)年2月、東郷平八郎中将率いる連合艦隊は、旅順口閉塞作戦を立てました。
旅順港の入口に老朽船を沈めることで、ロシアの旅順艦隊を港から出れなくしてしまおうという作戦です。
作戦会議のとき、秋山真之(さねゆき)参謀は、
「もし敢行すれば、
閉塞部隊は
全員、生きて帰れません」
と作戦に反対しました。
実は秋山参謀と広瀬中佐は同じ歳で、海軍兵学校では広瀬中佐が二級上です。
海軍軍令部諜報課員として着任した頃、二人は東京・麻布霞町で、同じ下宿に住みました。
このときの下宿の向かいの屋敷のお手伝いさんの談話が残っています。
「広瀬さんという人は武張ったかんじだけど、
話をしてみるとやさしくて近づきやすかった。
秋山さんはその逆でした」・・・だったそうです。
この二人の意見が、会議で対立しました。
広瀬中佐は言いました。
「断じて行えば鬼神もこれを避くといいます。
敵からの攻撃などはじめからわかっていることです。
退却してもいいなどと思っていたら、
なんどやっても成功などしない」
広瀬中佐のこの言葉で、旅順港閉塞作戦は実行が決定されました。
しかし第1回閉塞作戦は失敗します。
明治37(1904)年3月27日に、第2回閉塞作戦が決まりました。
投入されるのは、「千代丸」「福井丸」「弥彦丸」「米山丸」の四隻です。
そして「福井丸」には、広瀬が艦長として搭乗しました。
実行の三日前、秋山真之が旗艦「三笠」から「福井丸」にやってきました。
秋山は、友でもある広瀬に、
「敵の砲撃が激しくなったら必ず引き返せ」と言いました。
作戦はもちろん成功させたい。
さりとても、友を死なせたくない。
旅順港閉塞戦

いよいよ決行の3月27日未明、まずは先鋒の「千代丸」が、旅順湾入り口に向かいました。
ところが近づいたところをロシアの哨戒艇に発見され、サーチライトを浴びます。
照明に照らされた「千代丸」に、旅順港の丘の砲台が一斉に火を噴きました。
攻撃を受けた「千代丸」は、湾の入り口の南東、海岸から100Mに投錨して自沈してしまいます。
失敗です。
二番艦の「弥彦丸」は、湾の入り口手前まで近づくことができました。
しかしやはり見つかり、砲撃を受けて東向きに自沈しました。
続けて猛烈な砲火の中、副将の「米山丸」が「弥彦丸」と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈しました。
これで港の出口の半分は閉鎖できました。
けれどまだ半分が開いたままです。
「なにがなんでも、これを塞がねばならぬ」
旅順港にいるロシア太平洋艦隊の戦力は、日本海軍とほぼイーブンです。
しかし大西洋からは、世界最強のバルチック艦隊が日本に向かって近づいてきていました。
もし、旅順にいるロシア太平洋艦隊とバルチック艦隊が合流したら、日本の海軍力とは雲泥の差が出ます。
そして日本海軍が敗れれば、日本は制海権を失い、朝鮮半島、満洲にいる日本軍は補給を失って孤立し、日本軍は全滅してしまいます。
広瀬中佐は、「福井丸」を駆って旅順港の入り口に向かいました。
残り半分をどうしても塞がねばならないからです。
敵のサーチライトを浴びました。
丘から砲弾が矢のように飛んできました。
その砲弾の中を、ようやく湾の入り口まで到達しました。
なおも「福井丸」は、右舷を旅順港側、左舷を沖に向け、艦を横にして湾を塞ぐ体制をとりながら、湾の入り口に向かいました。
あとすこし。あとすこし進んで投錨し、自沈すれば、湾を塞げる。
あとすこし。あとすこしです。
そのとき、猛烈に撃ちまくるロシア駆逐艦の砲弾が、「福井丸」の船首に命中しました。
その一撃で「福井丸」の船首は、木っ端微塵に、吹き飛ばされてしまいました。
「福井丸」は、浸水をはじめ、船首から海に沈み始めます。
艦尾が水上に上がりました。
もはや艦の操船は不能です。
もはやこれまでと、広瀬中佐は、砲弾が飛んでくるのとは反対側の左舷のボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせました。
ところが、点呼をとると、杉野孫七上等兵曹がいません。
「俺が捜してくる」
広瀬中佐は、ひとり船内に戻りました。
敵の弾は、まだ次々と飛んできています。
銃弾も来る。砲弾も来る。
艦はすでに半分以上が沈んでいます。沈没まであとわずかの時間しか残されていません。
艦の沈没の渦に巻き込まれたら、命はありません。
「杉野~!
杉野はいるか~!!
杉野はどこだ~!!」
これまで寝食を共にしてきた可愛い部下です。
決して死なせるわけにはいかない。無事に連れて帰りたい。
広瀬中佐は必死に杉野を捜しました。
一説によれば、彼は敵弾の中を、艦内をくまなく、三度にわたって探したそうです。
しかし杉野上等兵曹は見つかりませんでした。
やむなく広瀬中佐は「福井丸」が海にのみ込まれようとするぎりぎり、ボートに乗り移りました。
そしてボートが、六挺身ほど離れたところで、「福井丸」の爆薬が点火されました。
半ば沈んだ「福井丸」が大爆発を起こします。
海が明るくなました。
「福井丸」が沈むことで、ボートが敵の前にさらけ出されました。
爆破の破片の炎で、海上が明るくなり、ボートが敵からよく見えるようになったのです。
そのボートをめがけて、敵弾が矢のように飛んで来きました。
場所は湾の入り口のすぐそばです。
広瀬中佐は、他の乗組員に、絶対に頭を下げろと命令しました。
しかし戦況は、きちんと確認しておかなければならない。
それが艦長の職務です。
広瀬中佐は、そのために銃弾の中で顔をあげました。
そのとき、広瀬中佐の頭部に、敵の銃弾が命中しました。
広瀬中佐の頭が半分吹き飛び、身体が海中に落ちました。
「艦長~~!!
艦長~~!!」
日ごろ広瀬を慕う乗組員は、必死の思いで艦長の姿を海に求めました。
「朝日」艦長の山田彦八大佐が東郷平八郎に出した報告書には、
「頭部に撃たる海中に墜落」と書かれています。
また明治天皇紀には「一片の肉塊を残して海中に墜落」と書かれています。
広瀬中佐が敵の直撃を受けたとき、近くにいた兵のそばを、飛び散った肉片がかすめました。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が、靖国神社遊就館で時折展示さます。
広瀬中佐の遺体は、旅順港に流れ着きました。
そして遺体はロシア軍によって埋葬されました。
広瀬武夫中佐、享年36歳でした。
広瀬中佐は、翌日一階級昇進して中佐になりました。
そして、日本初の「軍神」と讃えられるようになりました。
さて、ここまでが「軍神・広瀬中佐」の物語です。
戦後、「軍神」という言葉は、あたかも軍国主義の象徴であり人殺しの象徴として、むしろ忌むべきものとして反日左翼主義者たちに喧伝され続けてきました。
しかし、ここまでの物語を読んで、みなさんは何をお感じになったでしょうか。
「軍神・広瀬中佐」は、戦争好きで、人殺しの象徴でしょうか。
断じて違います。
部下をかわいがり、身の危険を顧みず、最後の最後まで自らの命を犠牲にしてでも、部下の無事を願い続けて行動した、そういう広瀬中佐の人としてのやさしさ、ぬくもり、思いやり、勇気、そして国境を越えた愛が、多くの人々に「軍神」として愛され、尊敬されたのです。
※この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。
コメント
junn
http://blog.livedoor.jp/ishiitakaaki3/archives/2232075.html
2017/06/12 URL 編集