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6月24日(土)18:30
第41回倭塾 7月 2日(日)13:30
黎明教育者連盟講演 7月15日(土)18:30 第42回倭塾
7月17日(祝・月)18:30
CGS【ねずさんとふたりごと】公開収録 7月14日(金)08:00 ABCフォーラム朝食会(テーマ:百人一首)
7月23日(日)14:00 第 1回名古屋倭塾(テーマ:古事記)
7月27日(木)18:30 第17回百人一首塾
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日本は調べれば調べるほど、まっとうな国です。
これまで、あまり「まっとうでない」とされてきた歴史上の出来事も、よくよく調べてみれば、巷間言われてきたことはただの不勉強で、実はきわめてまっとうな出来事であったことがわかります。
たとえば司馬史観では、乃木希典大将は、愚将として描かれています。
けれど歴史を調べてみれば、まさに名将そのもので、世界中から賞賛されたすごい大将であるとわかります。
とりわけ戦傷者のために、自ら私費を投じて義手を開発して傷を負った兵に贈るなど、戦えば鬼神にも勝り、平時にあっては如来のような姿です。
ちなみにこの乃木義手、コンピューターが発達した現代でも、この乃木義手を超える自由度のある義手は出ていません。
秀吉も、最近では特に在日系の方を中心に、意図的な貶めが続けられていますが、調べてみれば、やはり、どこまでも真面目で、日本人女性が奴隷売買されはじめたことを早期に防いで、日本を守ってくれたのは、まさに秀吉です。
ところが周辺国の歴史を見ると、調べれば調べるほど、まっとうでないことがボロボロと出てきます。
なぜかというと、根本に人が人を支配し蹂躙してなんとも思わない、むしろそれを正当化しているだけだということがあるからです。
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周辺国では、支配を受ける側の人は、人としてさえもみなされません。
ただの生き物であり、畑に巣食う害虫と同じか、それ以下のものとしてしか認識されていない。
つまり、ごく一握りの支配層が、自分たちだけの「愛と喜びと幸せと美しさ」、もっというなら我儘(わがまま)を実現するために、人をまるでモノのように支配し、蹂躙してきていながら、それを正当化してきたのが、彼らにとっての文化です。
有名な話に『史記』に書かれた「妲己と紂王(だっきとちゅうおう)」の逸話があります。
紀元前11世紀頃の、殷(いん)の時代の出来事です。
この頃の殷の皇帝は、第30代の紂王(ちゅうおう)です。
紂王は、頭もよく武力にも恵まれ、その力量は人々を凌駕し、猛獣すらも手で撃ち殺す程であった人です。
『史記』は、その紂王について、
「その知たるや諫めを遠ざけるに足り、
その言たるや非を飾りて是なるが如くに論ずるに足り、
人臣に対しては己が才能に驕り、
天下に対してはその盛名に驕り、
誰一人として己に及ぶ者はいないと自負していた。」
と書いています。
その紂王のもとに、殷に滅ぼされた有蘇氏から、妲己(だっき)という美女が献上されます。
妲己は十代後半でしたが、強大な権力者である紂王にも物怖じせず、媚びもせず、それでいて妖しい魅力をもっていたのだそうです。
そんな妲己の虜(とりこ)になった紂王は、彼女の気を引こうと、彼女に金銀財宝を与えたのみならず、庭に砂の離宮を建て、離宮の庭園にある池には酒を満たし、木々には美味しい干し肉を吊るし、淫靡な音楽を流し、多数の奴隷たちの男女を裸にして、思うがままに交合をさせます。
そしてそんな様子を前に、紂王は妲己との愛欲に耽ります。
これが派手で淫猥な『酒池肉林』の語源です。
ところが話は、まだまだ続きます。
淫猥な遊びに飽きた二人は、今度は奴隷たちに刀を持たせて、眼の前で殺し合いをさせて、これを見て愉(たの)しむようになりました。
さらにこれを拒否する者には、みせしめとして、「蟇盆(たいぼん)」と「炮烙(ほうらく)」という刑を与えました。
「蟇盆(たいぼん)」というのは、地面に穴を掘り、その中に数千匹の蛇を入れ、その中に罪人を突き落とすというもの、
「炮烙(ほうらく)」は、真っ赤に熱した銅の橋に油を塗り、その橋の上を罪人に渡らせるというものです。
湾曲した銅の橋に油が塗られていては、滑って渡れるはずもなく、さらに真っ赤に焼けた銅板の上で大やけどを負って苦しみ、最後は火の中に人が落下して焼け死ぬのを、妲己と紂王は抱き合って笑い転げて見ていたといいます。
また、こうした行状に諫言を行う忠臣は、生きたまま縛り付けて心臓をえぐりとり、処刑後は酒池肉林の一部にしたと書かれています。
「一部にした」ということは、吊るして干し肉にして食べた、ということですが、これらの凶行の発案は、ことごとく妲己の発案だったというから驚きです。
それで妲己と紂王がその後どうなったかというと、この二人の暴虐にいたたまれなくなった太公望(たいこうぼう)などが周の武王を担いで決起し、牧野の戦いで殷を破り、これにより600年続いた殷王朝が滅亡します。
このとき妲己は、紂王とともに、宮殿に火を放って死んだと書かれています。
要するに紂王が、殷の最後の皇帝となったわけですが、このように王朝の最後の皇帝は、あからさまに悪行が書かれているのがChinaの史書の特徴です。
王朝の権威は天命によって授かるという易姓革命思想を持ったChinaでは、王朝を築いた最初の王は徳が高く、最後の王は、残酷無比のろくでなしとして描かれます。
けれど実際には、始祖の皇帝から最後の皇帝まで、いずれも残酷さにかけては人語に落ちなかったわけで、そのことは比叡山延暦寺の第三代法主の慈覚大師が、唐の国へ留学した際の見聞録『入唐求法巡礼行記』に詳しく書いています。(これについては明日の記事で再掲します)。
要するに、特定の人たちが権力を持ち、その権力者が責任を問われないようになると、これが特権階級化するわけです。
そして特権階級化した人たちは、何世代かすると、これを当然の権利と考えるようになり、結果として特権を持たない層の人たちを、人としてさえ見なくなる。
単なる肉の塊、もしくは動く道具としてしか見なくなるのです。
このことは、洋の東西を問わず同じことで、かつての植民地支配の時代には、支配層の白人女性たちが、現地の少年少女たちに、まるで鳩に餌を巻くように、食べ物を巻いている様子の映像などが残っています。
彼女たちにとって原住民の子供たちは、我々にとっての公園の鳩と同じ存在だったわけです。
どうしてこのようなことが起こってしまうのか。
その理由のひとつが、権力と責任の関係です。
Chinaの史書は、『史記』以来、代々の王朝によって正史として書かれていますが、いずれも自分たちの王朝がいかにして正統なのかを証明することを目的に書かれていますから、そこに記述されているのは、前の王朝の歴史です。
そして、例外なくすべて同じパターンで、最初の皇帝はまともだったけれど、最後はろくでなしだったために、天命があらたまったのだという構成になっています。
おそらく最初に現王朝を倒すために兵を挙げたときは、現状の不条理に対する義憤や、正義を貫こうとする理想に燃えていたと思うのです。
世の不条理を正し、良い世の中を築こう!、そういう理想のもとに人が集まり、挙兵され、苦しい戦いを制して新たな王朝が築かれるわけです。
ところがひとたび王朝ができあがると、その皇帝は天命を授かった人ですから、いわば神の代理人です。
神は直接人々と口をきくことはありませんから、神の代理人となるということは、皇帝は人を超越した神そのものとみなされるわけです。
従って、皇帝は一切の政治責任を負いません。
国家最高の権力者でありながら、一切の政治責任を負わないのです。
そうすると、これが二代、三代と重なる内に、責任を負わない権力が常態化します。
何をしても一切の責任を負わなくて済むのですから、それはエスカレートしていきます。
要するに、やりたい放題になるのです。
反対意見を唱える者には、平気で死が与えられ、このことが世の中の仕組みとして定着すると、上に立つ者は、常に下の者からいくらでも、まったく責任を負うことなしに全てを奪うことが可能になります。
こうして、ほんの一握りの人の贅沢のために、他の圧倒的多数が犠牲にされていくわけです。
これに対し日本では、天皇はまさしく神とつながる国家最高の存在ですが、政治権力を持ちません。
どこまでも神とつながる存在であって、これを国家最高の権威としてきたのが日本の歴史です。
そしてその国家最高権威が、国民を「おほみたから」とします。
政治を司る政治権力者は、その天皇によって親任される人です。
そして天皇の「おほみたから」の繁栄のために働きます。
しかも、そのために与えられた権力には、常に責任がついて回ります。
つまり日本では、権威と権力を切り離すことで、権力に責任を科すことに成功しているわけです。
日本でも権力者は世襲ですが、仕組みが「権威から権力を授かり、おほみたからに対して責任を持つ」という構造ですから、権力者の家に生まれた跡取り息子は、幼い頃から、責任を取る覚悟と民をたいせつに思う心を徹底的に教育されました。
食事をして、「うまぁ〜〜い!」などと叫ぶことなど、絶対に許されません。
美味しい作物を口にすれば、「世の中はきっと満足するであろう(世は満足じゃ)」が精一杯です。
美味いとか不味いとか言ったり、食べ物に好き嫌いを言うのは我儘であり、その食べ物を造ってくれた民や、城に運んでくれた人、調理をしてくれた人に対して非礼であるとされました。
食事をするときに、あぐらをかくことも許されません。
民が一生懸命作ってくれた作物を口にするのですから、殿様であっても、貴族であっても、食事をするときは正座をして、「いただきます」と深々と頭を下げていただきます。
民が飢饉になれば、お城の備蓄米を放出し、自らは米を食べずに毎日を芋ですごします。
なぜそうなるかといえば、権力を担うものは、民に対する責任を持つからです。
しかも、日本では、政治権力を持たない陛下さえも、震災のときには、自らの部屋では、エアコンを使うことも拒否なさいます。
上がそうなら、下にある権力者はなおさらです。
日本は、もともとそういう国柄なのです。
だからこそ日本は調べれば調べるほど、まっとうな国だし、まっとうでないとされてきた歴史上の出来事も、よくよく調べてみれば、巷間言われてきたことは単なる不勉強で、実はきわめてまっとうな出来事であったとわかるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
一有権者
我が国の政治家や役人もだんだんとそのような方向に顔を向けているような気がしてなりません。国政、地方自治問わずです。
議員たる者達は国、地方どちらも己の事よりわが郷土や日本の国がいかにしたらよい方向へ発展し住民達は治安がよく仲良く豊かに暮らして行けるかを考え議論し政策を立案し実行するべきものと思うのですが、いつのころからか政治家は国の事や郷土の事より「自分の理想とする社会の実現」の為に政治家になっているとしか見えない。
そこには当然一般庶民が望む社会とは違う社会を思い描いている者達もいる事でしょう。最近の議員たちの不祥事や傲慢不遜な発言や態度とまるで真摯に行っているようには見えない政策論争の数々は日本国の未来に不安を抱かせるもの。
一般庶民のほぼ唯一の選択肢は選挙。どの候補者が本当に日本国の未来、郷土の未来を真剣に思い汗水流そうとしているか見極めて投票しなくてはなりません。
2017/06/23 URL 編集
猫好きの電機屋
人間性の欠片も無い(自分の存在意義が皇帝を虜にし政治を悪い方向にする)
人格に育てられたと、書いています。
日本人では、あり得ない事ですが、半島、大陸では、他人に対し嘘をつき騙して利益を得る事が普通です。
隣国との対応が最悪(最低)な害務省の無能公務員の意識改革が早急に必要だと声を挙げたいです。
2017/06/22 URL 編集
にっぽんじん
核兵器で考えると核弾頭は「ハード」であり、設計した科学者が「ソフト」と言えます。ここが問題です。
最初に核兵器を開発したのはアメリカの「マンハッタン計画」です。携わった科学者の中心はドイツ人でした。科学者たちは核爆弾を作りながらその脅威を懸念していました。
核爆弾技術をアメリカだけに留めておくことは出来ないことが分かっていたため、いずれ、小国や国家でない組織なども核兵器を作る可能性があることを恐れていました。
そのため、核兵器は国際的な管理が必要だと政府に進言していたのです。
彼らの懸念が現実になってきています。
北朝鮮などがその良い例です。北朝鮮の脅威は核兵器だけではありません。最大の脅威は「ソフト(科学者)」達の存在です。
アメリカの軍事力なら1日で北朝鮮を破壊できるでしょう。しかしソフトまでは破壊できません。仮に軍事攻撃をするなら「ソフト対応」も考えておくべきです。
「ソフト」が北朝鮮国外に流出しないようにしないと新たな「北朝鮮」が出現します。
非核化が実現できない以上、核保有国だけでなく、非核保有国も含め国際管理の強化を真剣に考える必要があります。
可能なら、「核のボタン」を開発して欲しいものです。非核保有国でも「核のボタン」一つで保有国の核を爆発させることが可能になれば核保有国は争って核を放棄します。
可能かどうかは別にして「各ボタン」を開発すると日本政府が宣言すれば核保有国は疑心暗鬼に陥るはずです。
2017/06/22 URL 編集
ラベンダー
今日も、学びのあるブログをありがとうございます。
人間の残酷さ、妲己と紂王の残酷さを読みながら、昨日見た記事を思い出しました。
http://www.imishin.jp/marina-abramovic/?ref=fb
この中の人たちも、同じ環境にあれば
妲己と紂王と同じようなことをしそうな人たちです。
自制を失った時の、人間の残酷さを証明しています。
日本の、大奥とか内裏ではあり得ない話ですから、この酒池肉林のような残酷さを、中々信じることはできない思考回路しか日本人は持っていません。
そして、被害にあいます。
やはり、私たちは世界の常識も学ばないといけないですね。
また、教えてください。
ありがとうございました♪
2017/06/22 URL 編集