通州事件から南京事件までの流れとは



人気ブログランキング ←いつも応援クリックをありがとうございます。

20170729 通州城内見取り図
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)


【お知らせ】
 7月15日(土)18:30 第42回 倭塾 公開講座
 7月17日(祝・月)18:30 CGS公開講座(幕末史)
 7月23日(日)14:00 第1回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
 7月27日(木)18:30 第17回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
 8月 9日(水)18:00 新潟県新発田市講演(古事記)
 8月13日(日)14:30 東京・世田谷講演(古事記)
 8月15日(火)14:30 ねずさんと靖国神社昇殿参拝
 9月 2日(土)18:30 第18回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
 9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
 *****

昭和12(1937)年当時のChinaは、統一王朝であった清国が勢力を失い、南の方では国民党が勢力を持つ一方で、中原から北方にかけては様々な新政府を標榜する軍閥や、国民党、共産党、軍閥、汪兆銘のような新政府を標榜する勢力、あるいはそれらの対立や殺し合いから地域住民を護るとして結成された地元保安隊など、さまざまな勢力が、内乱を繰り広げている状況にありました。

それが単に、中央政府構築のための政争というだけなら問題はありませんが、それぞれが軍隊を持って、互いに覇権を狙って、軍事的な衝突を起こしていました。
そもそも大陸では、軍と暴徒とヤクザは同じものです。

軍を維持するために、軍は民衆から食料や金品を徴発します。
すると食えなくなった若者が、食うために軍に入る。
軍の人数が膨れ上がる。
軍は、その若者たちを食べさせるために、更に徴発を行う。
ますます軍の人数が増える。
そうして軍の勢力が増すと、その軍を利用しようとする外国人たちが、軍に資金や武器の援助をする。
武器を持った彼らは、ますます暴徒化し、凶暴化する。
それが繰り返され、泥沼のような内乱が続く・・・といったことが繰り返されていました。

少し考えたら誰にでもわかることですが、軍の兵になれるのは、若い男性です。
老人や女子供は、兵にはなれませんから(なっていた者もいましたから、そこは本当に複雑なのですが)、あの広大なChinaの大陸にあって、猫の額(ひたい)のような農地で農業を営み、なんとか生計を立てていたわけです。
そして農作物ができると、そこをまた軍が襲ってくる。
この繰り返しです。






◆◆◆◆◆スマホで読めるKindle版もあります。◆◆◆◆◆

◆youtubeの動画サイトをはじめました。
↓下のバナーをクリックするとチャンネルに飛びます↓
20170513 バナー _th
↑よろしかったらチャンネル登録をお願いします。登録無料です↑
新しい動画がアップされました!


『ねずさんと語る古事記・弐』
  まだお求めでない方は、お早めにどうぞ。

↓画像をクリックすると購入ページに飛びます↓
20170526 古事記弐


その中で、比較的治安が保たれ、人々が安心して安全に暮らすことができたのが、日本軍がいた地域でした。
日本軍がいた地域では、軍と称する暴徒やヤクザの暴徒の凶行は許されず、治安が保たれましたから、市(いち)も立ち、比較的平和が保たれていたのです。

比較的というのは、その日本軍の虎の威を借りて凶行を働く者たちがいたこともまた事実であったからです。
それが、生粋の日本人ではなく、あとから日本人になった半島人で、清朝時代に漢族よりも下層に位置づけられていた彼らは、日本人に組み込まれたことで、強国になったと自称して、強姦や強盗などを公然と働く者が一部にあったわけです。

ですからChineseからすれば、犯人を捕まえると「俺は日本人だ」と言い張るから、その怨嗟の声は次第に高くなる。
つまり、日本が治安を維持した地域においてもそこに火種はくすぶるものがあったわけです。

一方、日本軍が治安を維持することで、利権を損なわれた人たちもいました。
それがChina中でネットワークを張っていたアヘン密売の一族で、日本軍はアヘンの密売を禁止しましたから、アヘン密売業者は、日本軍がやってきた広大な地域で、その商業利権を失うことになったわけです。

下にあるのは、近年の教科書などに良く載っている「日本軍によって侵略された」とされる地域です。
20170729 日本軍によって侵略されたとされる地域


随分と広大な地域であるということがわかると思いますが、これだけの地域(それは当時のChinaにおいても、とても発展した地域であったわけですが)で、アヘンの密売一族が追い出されたわけです。
密売一族が受けたダメージの深刻さはご理解いただけようかと思います。

ちなみに、この「日本軍が侵略した地域」と呼ばれる地域ですが、時間があったらGoogle Earthでこのあたり一帯の衛星写真をご覧になってみてください。
いまもこのあたり一帯は、Chinaの他の地域と比べて、緑が豊かです。
なぜかといえば、その地域に、当時の日本軍が、せっせと植林をしたからです。

つまり日本軍は、これだけの広大な地域に、ごく少数の部隊を派遣し、そこで治安維持を図り、またトラブルのもととなるアヘン業者を駆逐したわけです。
逆にいえば、これだけ広大な地域でアヘンを手がけていた一族が、どれだけ深刻な経済的被害を受けていたのか、誰にでも想像がつくことであろうと思います。

そうなるとこの一族は、豊富な資金と人脈を持っていますから、いかにして日本軍を追い出すかが、最大のテーマになります。
そしてこの地域には、日本人となった半島人の一部の凶行へのChineseたちの強烈な反発心がありますから、あとは対立を煽り、当時のChinaにあった軍閥や暴徒、自治政府、保安隊など、あらゆるところに配下を置き、また資金や物資の援助をすることで、一方的に日本軍への敵愾心を煽っていきました。
これが実は、いまも続く「反日」のはじまりです。

こうして国共合作が起こり、Chinaにおける軍と暴徒とヤクザの共通の敵が、日本軍という形が形成されていきます。
そしておよそ2年がかりの準備の上、ついに実行に写されたのが、昭和12年7月7日の盧溝橋事件です。

この事件は、日本軍が夜間に実弾を持たずに演習していたところ、突然、日本と中国の両方の軍にあてての発砲騒ぎがあり、互いが戦闘状態になってしまったという事件です。
いまでは最初に発砲したのが中国共産党であり、日本と国民東軍を無理矢理戦わせるための共産党の「謀略」であったことがはっきりしています。

この事件は、よく、「国民党に対して劣勢だった中国共産党が、起死回生を図ろうとして日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、漁夫の利(つまり中国全土の支配権)を得ようとして行動に出たもの」として説明されますが、それだけですと、それ以前の国民党と共産党の仲の悪さからして、どうにも納得しにくいものがあります。

ところがそこに、China内部における莫大なアヘン利権を牛耳っていた一族の恨みという補助線を一本引くと、あらゆるものがつながってきます。
このことは、河添恵子さんの著書『トランプが中国の夢を終わらせる - プーチンとの最強タッグが創生する新世界秩序』をお読みいただくと、詳しいです。



さて、盧溝橋事件では、戦うことを嫌う日本は、きわめて冷静に対処して、現地で停戦協定を結んでしまいました。あたりまえのことです。治安維持のために中国に出兵しているのです。その治安維持部隊が先頭きって争いを起こしているようでは話にならないからです。

目論みが外れたChinaは、7月25日に北京近郊の廊坊駅で「廊坊事件(ろうぼうじけん)」を起こします。
この事件は廊坊駅にある中国国民党軍の兵営内を通過する軍用電線が故障したために、日本の中国駐屯軍が前もって国民党軍側に通報してから、護衛を含む百名ほどの兵員で回線の修理に向かったところを、いきなり発砲され、日本側に14名の死傷者が出たという事件です。

この事件に危機感を持った日本側が、増援部隊を北京に送ったのですが、その増援部隊が北京の広安門を通過中に、いきなり門を閉ざされ、隊列を分断された挙げ句、発砲され、またまた19名が死傷するという事件が翌日に起きました。
これが「広安門事件」です。

この広安門事件も、日本側は、相手を蹴散らして事件を収束させたのですが、この廊坊、広安門で事件を起こしたChineseの学生暴徒と、当時通州上のあたりにいた冀東防共自治政府軍が、日本軍が北京界隈に集結することで防備の手薄になった北京郊外の通州市の日本人居留民を襲ったのが通州事件です。

通州事件が起きたのは、昭和12(1937)年7月29日です。
通州は、北京の東18キロの地点にある明朝時代に城壁が築かれた街で、天津からの集荷の拠点として栄えたところです。
そこは事件直前までは日本人にとっても、Chineseにとっても治安の良い場所とされ、日本の軍人や民間人の妻子たちが多数居住していました。

通州には親日派とされる中国軍閥の「冀東防共自治政府」も、守備にあたっていました。
長官の殷汝耕(いんじょこう)は日本人を妻にしており、しかもこの自治政府は、付近から雑兵を掻き集めて九千人の「保安隊」を組織していました。
けれど、そのなかに、悪魔がひそみました。
事件当日、通州にいた日本人は385名でした。
このうち、軍関係者(男)は110名。残りは婦女子です。

29日午前3時、突然、冀東防共自治政府の保安隊の張慶餘(じょけいよ)が率いる第一総隊と、張硯田(ちょうけんでん)が率いる第二教導総隊、合計で三千の保安隊が、日本軍の基地に攻撃をしかけてきました。
不意をつかれた日本軍は、獅子奮迅の防戦をするけれど、三千対110名では勝負になりません。
しかも寝込みを襲われたのです。
襲撃と同時に日本兵30名が死亡しています。

そしてこの戦闘の最中に保安隊は、自分達保安隊のボスである殷汝耕(いんじょこう)を拘束します。そ
して日本人民間人への虐殺を開始しました。
この襲撃で、日本人居留民385名中、223名が惨殺されています。

以下は、女性の読者の方には、衝撃が強すぎるかもしれないけれど、そのままを掲載します。
これが歴史の事実です。

<虐殺現場を目撃した萱島高氏の東京裁判での証言>
「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中四、五名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」

<通州救援の第二連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述>
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。」

近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊でした。彼らは女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑しています。

<China駐屯歩兵第二連隊小隊長桜井文雄証人>
「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。
「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。
旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。
池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。」

悪鬼も目をそむける酷たらしい所業ですが、これら頭部切り落とし、眼球えぐり、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺などは、昔からのChinese特有の日清戦争以来の、お決まりの惨殺パターンであって、日本にはこのような風習はまったくありません。

ちなみに、「生きて虜囚の辱めを受けず」という東条英機元首相の戦陣訓について、これを日本軍の集団自決や玉砕の理由にする人がいますが、それは違います。
義和団事件以降、何度もChineseの残酷さを目撃し経験させられた日本が、生きたまま拷問殺戮を受ける悲惨に合わぬよう、むしろ、
「そのくらいなら先に死んだ方がよっぽどまし」
という現実を述べたものだったのです。

その後の調べでは、襲撃した連中は襲撃対象の日本人居宅を、あらかじめリストアップまでしていたことが明らかになっています。
つまり事件は、きわめて計画的な犯行だったのです。

その殺戮と略奪は、まる一日続けられました。
そのなかにひとつ、涙なくしては語れない物語があります。

ある人が、便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。
その声は、日本語でこう怒鳴っていました。
「日本人は隠れろ!!
 日本人は誰も出てくるな!!
 日本人は逃げろ~~っ!」
必死の叫び声だったそうです。

そして、ズドンという銃声。
以降、その声は聞こえなくなった。
わずか百十名の守備隊に三千で押し入ったChina兵。
そのChina兵に引きずられながら、その日本人男性は最後の瞬間まで、自分のことではなく、他の日本人の心配をしていたのです。
だから、
「たすけてくれ!」じゃなかったのです。
「日本人は逃げろ~~!」だったのです。

事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島無敵連隊が、事件を知り、通州に急行しました。
夕方まで非武装の日本人民間人を虐殺し続けた張慶餘と張硯田率いる中国軍保安隊は、萱島部隊がもどると聞いて逃亡。北京へ向かいました。
そして北京付近で翌30日に日本軍と遭遇し、三千の中国軍保安隊は、たちまち粉砕されています。

このとき、虐殺の指揮側であった張慶餘と張硯田は、さっとChineseの国民服である「便衣服」に着替え、一目散に逃げ出しています。
部下らは置き去りです。
そしてこの二人はその後も戦争を生き延びました。
張慶餘(ちょうけいよ)は後年、中国共産党人民解放軍の中将にまで出世し、昭和61(1986)年には、革命の英雄気取りでウソ八百の回想録まで出版しています。

一方、保安対の総責任者で、日本人女性を妻にしていた長官の殷汝耕(いんじょこう)は、事件後、日本軍の手に戻され裁判で無罪となり、犠牲者追悼の義捐金を集めたり供養搭を建てたりの活躍をしたものの、日本の降伏後、蒋介石により「親日分子」の烙印をおされて残酷に処刑されて亡くなりました。

事件の起きた通州は、北京郊外にあたります。
日本軍がやってきたということで逃げ出したChinese兵の若者たちの多くが、事件後に北京市内になだれ込みました。
その北京には、たくさんの日本人民間人が住んでいました。
その日本人たちのもとにも、通州の事件の報道は行われていました。

では、北京にいて、逃げてきた犯人たちを目の前にした日本人は、そのときどのような対応をしたのでしょうか。
これがなんと、彼らを匿い、食事を与え、「もう二度と馬鹿なことはするなよ」と説諭して、路銀まで渡して彼らを故郷に逃しています。
あきれるほどのお人好しぶりですが、それが日本人です。

その蒋介石は、通州事件の十年前に南京に攻め込んで、各国の領事館を襲撃し、各国の領事や婦女子に暴行を加えて、これを殺害しています。
米英は共同して砲艦でもってこれを攻撃し、生残った居留民の救出にあたっています(南京事件)。

世界の常識はこのような事件が起こった場合、徹底的な報復と賠償を求めます。
四千人の居留民が襲われ、ほぼ無傷で全員が助かった義和団事件でさえ、当時の清朝政府の年間予算をはるかに上回る賠償請求がなされたのです。
では日本は、この事件後、いったいどのような対処をしたのでしょうか。

実は事件後、日頃は仲の決して良くないといわれる陸軍省と海軍省も意見が一致し、内閣満場一致で決めた対策があります。
それが「船津工作」です。

「船津工作」というのは、日本の民間人で、Chineseからの信頼の厚い元外交官の実業家であり、紡績業組合の理事長をしていた船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて、蒋介石側に和平を働きかけるというものでした。
その内容は、それまでのChina側の言い分を、日本にとって不利益なこともふくめて全部まるのみするから、争いを止めようというものでした。

中国国民党の対日本に対する政治的主張を、全部まるのみしますというのです。
そうなれば、これ以上国民党側には、日本と争う理由がありません。
あれだけ酷い惨事となった通州事件についてさえ、日本はいっさいの賠償請求をしないというのです。
いかにも平和を愛する日本らしい対応です。
日本はそこまで譲歩したのです。

ただし、この日本の譲歩は、はっきりいって政治とはいえません。
当時の日本では、議会が民政党と政友会の二大政党に分かれて、まるで森友学園や加計学園事件さながらに強烈な政争を繰り広げていました。
そして、そうした政争の渦中にある個々の議員にとって、議員生命を維持するためには、地元選挙区への利権誘導が最大の関心事となっていました。
通州事件は、世にもまれなる残虐な事件ですし、当時の新聞でも大きく採り上げられた事件ではありましたが、議会の関心は、もっぱら国内事情におかれ、外地で起きた惨劇への政治上の関心はほとんど払われなかったというのが実際のところということができます。

だからこそ民間人の船津辰一郎氏が派遣され、国民党の言い分を丸呑みして事件を終わらせようという、きわめて安直な解決策が採られています。
なぜなら、通州事件を起こしたのは、冀東防共自治政府の保安隊であり、そこに入り込んでいた共産党のスパイ工作員であり、しかも事件は2年も前から計画された出来事であったわけです。
政権が乱立していた当時のChinaにあって、そこで蒋介石と談合したところで、何の抜本的解決にもならない。
むしろ、政権とか政党とか、国家とかいうよりも以前の、もっと違った存在によって事件がもたらされていることは、明らかであったわけです。

これは、明治の中頃に勝海舟が見事に喝破していることですが、Chineseというのは、政府がどっちに転がってもChineseなのです。
もともと外来王朝によって、いわば植民地とされ続けてきたChineseたちにとっては、自己の利権のみが大事なことであって、人の生死や国富や国家の安定や繁栄など、どうでも良いことであったのです。

それを国民党とだけ和解しようとしたところで、何の解決にもならない。
ですから当時、Chinaにいた日本人居留民は、China全土から上海へと移動し、そこから日本への帰還をしようとしました。
こうして上海には、約3万人の日本人民間人が集結します。

ところがなんと日本は、その上海で、8月9日に船津工作に基づく現地停戦協定を結ぶことにしました。
繰り返しますが、その上海には、3万人を超える日本人民間人が日本への渡航を前に集結していたのです。
そしてこの日本人居留民の安全確保のために、上海には2千人の日本海軍陸戦隊が上陸していました。

この日本海軍陸戦隊は、戦闘部隊ではありません。
日本人民間人が無事に日本船舶に乗って、日本に帰れるように警備をするために派遣された部隊です。
ですから武装も、軽装です。

いよいよ停戦協定の日となります。
その日の朝、上海で起きたのが大山中尉惨殺事件です。

この事件は、海軍上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉が、車で走行中に、Chinaの保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて惨殺され、さらにごていねいに中尉が瀕死の状態でいたところを、車外に引きずり出して、頭部を青竜刀でまっ二つに割られたという事件です。
この緊急事態発生によって、上海は戒厳令が敷かれ、当然の事ながら、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破産になりました。

そしてこの事件の一週間後、なんと上海に、和平を結ぶはずだった国民党が、なんと5万の兵力をさしむけて市内にいる日本人の虐殺をしにやってきます。
日本海軍陸戦隊は二千名のの増援を得て、この5万の大軍を前に、なんとまる二週間も持ちこたえ、これによって、日本人居留民は無事に船に乗って日本に帰還することができました。

しかし考えていただきたいのは、もしこのとき「日本海軍陸戦隊の4千名が上海にいなかったら」ということです。
間違いなく言えることは、上海は第二の通州事件となり、そしてその日上海にいた日本人民間人は、まさに通州事件の惨劇さながらに、虐殺されたであろうことは、火を見るよりもあきらかです。
なぜなら、同じことをチベットに入り込んだ人民解放軍が行っているからです。
武装を持たないチベットでは、当時600万人いた人口のうち、4分の1にあたる150万人が虐殺されています。
チベットは敬虔な仏教国ですが、寺院にやってきた人民解放軍の兵士たちは、寺の高貴なお坊さんを引きずり出して地面に据え、手足を切り落として「お前の信仰の力でその手足を元通りに付けてみろ」とゲラゲラ笑ったそうです。酷い話です。

そうなる事態を防いだ日本海軍陸戦隊の活躍は、これは目覚ましいものです。
銃を使う近代戦では、戦闘は普通1〜2分で終わるものです。
銃撃戦が5分も続いたら、「今日はとんでもなく長い戦いだった」と、後々まで語り継がれるのが近代戦です。
海軍陸戦隊4200名が、十倍以上の敵を相手にして二週間持ちこたえたというのは、24時間、常に銃撃や迫撃砲などの脅威に遭いながら、それでも耐えたということなのです。
これはものすごい精神力です。

このようなことを申し上げると、「歴史にIFは禁物だ」などと言う人がいますが、それは違います。
歴史はその当事者となって「IF」を考えるところに、本当の学びがあるのです。

では、海軍陸戦隊が上海で必死に戦っていた二週間、日本政府は何をやっていたのでしょうか。時の内閣は近衛文麿内閣です。
答えは簡単です。
喧々諤々をしていました。
断固戦うべしという議論と、軍は派遣すべきでないという議論がまっ二つに分かれて紛糾し、決断がつかずにいたのです。

結果として二週間も経ってから(二週間も経ってからです)、日本政府は上海出兵を決断しました。
そして松井大将率いる10万の上海派遣軍が編成されました。そしてようやく日本が軍を派遣したのが、九月九日です。大山中尉事件から、まる一ヶ月が経過していました。
ところが、これまた少し考えたらわかることですが、手ぐすね引いて待ち受けている敵に、1ヶ月もの余裕を与えるということは、軍事的にみたら最悪の選択です。
その間に、待ち受ける国民党は、なんと60万もの精鋭部隊に2万個ものトーチカをつくっていたのです。

古事記を読むと、このときの日本政府の怠慢は、まさに目を覆うばかりです。
古事記は、軍を「稲妻」や「雷(かみなり)」にたとえています。
軍事というものは、常に迅速果敢を要すると、古事記ははっきりと書いているのです。

ですから上海派遣軍の松井大将率いる日本軍は、たいへんな苦戦を強いられました。
あたりまえです。
これが第二次上海事変ですが、この事変で日本側は4万名もの死傷者を出しています。
この数は、日露戦争に次ぐ犠牲者数です。

ちなみにこのときの上海派遣軍ですが、日本にとって、10万の兵力を外地に出すということは、たいへんな負担でした。
ですからこのときに派遣された軍は、まさに各地から寄せ集めの大隊や中隊で、その多くは家族持ちの兵としてはやや高齢な30代のお父さんたちが多かったのです。
国に帰れば、女房も、まだ幼い子もいる。
そういうお父さんたちが、敵が手ぐすねひいて待ち受ける上海に出撃することになったのです。

二ヶ月後の11月10日、ついに日本軍は国民党軍を蹴散らして、上海の軍事的脅威を取り除きました。
このときの英国の新聞の報道が残っています。
「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。我々は日本軍に感謝すべきである。」
それが当時の世界の客観的な反応です。

しかし勝ちはしたものの、日本側の被害も甚大でした。
この時点でお父さんたちの命は、約半数が失われていたのです。

このことについては、やはり当時の日本政府の政治責任というものを考えざるを得ません。
事態がここに至るまで、国会は、政府は、いったい何をやっていたのでしょうか。
簡単な話、日本は国際協調のもと、欧米諸国と連合軍を組成して、ChinaにおけるChineseの武装を完全解除させる動きに出るか、それができないのなら、遅くとも通州事件が起きた時点で、Chinaにおける日本軍および日本人居留民の完全撤退を図り、満洲、半島、台湾、および日本列島、太平洋の島々といった日本が守備する範囲だけをしっかりと守る。
内乱状態のChinaからは完全撤収し、Chinaへの経済的援助の一切もすべて停止するという選択もあったのではないでしょうか。

そもそも敵に十分な時間を与え、戦争でもないのに日本軍を上陸させれば、後日それを「日本軍による侵略行為であった」と言われることは火を見るよりもあきらかなことです。
だから彼らは「待ち受けた」のです。
日本を攻めるだけの力がないから、「待ち受けた」のです。
ならば、放置すれば、日本側になんら被害はありません。

汪兆銘などの親日政権も、いつまでもChinaに置いておいたから、結局彼らは殺されることになったのです。
満洲にでも移住させて、そこで亡命政権をつくって、時を待つという選択もあったのではないかと思うのです。

いや、実は当時にあっても、そうした議論は、民間ベースではあったのです。
けれど、日本政府の関心事は、次の選挙と政争だけでした。
いまと同じです。
次々と天然災害が起こり、被災者が出ても、国会は学園問題と不倫問題だけです。
日本人の生命と財産の安全に、それらが何の関係があるのでしょうか。

さて、上海戦を勝利した日本軍は、敵が逃げ込んだ南京へと兵をすすめました。
なぜなら逃げ込んだChina軍は、南京市内で、南京市民であるChineseを対象に、まさに通州事件の再現をしていたからです。
治安維持出動であれば、これは行かざるを得ません。

城の外側での激しい戦いのあと、日本側は一週間後の何時何分に砲撃を行うとあらかじめ空から南京城内にビラを撒いて告知したうえで、城外に待機しました。
南京の市民たちに十分な避難の期間を与えるためです。

そして12月10日、総攻撃開始。
12月13日、南京城陥落。
翌14日に城内に入城した第十軍の山崎参謀は、その日記に、南京城の南端にある中華門から東端の中山門までを見分した情況を日記に記録しています。
「南京城東部は、広漠たる空地にして、都市計画の雄大さを認む。」
つまり南京城内は、なにもない広大な空き地になっていたのです。

どういうことかというと、実は、日本が攻めて来ると悟った国民党が、城内に日本軍が隠れないようにと、市民たちを強制的に追い出し、そこに火を放って、何もかも燃やしてしまっていたのです。

同じく14日の模様を、城内東北部の残敵を掃討した佐々木大三〇歩兵旅団長が日記に書いています。
「住民はひとりも顔を見せない。
 痩せ犬だけが無表情に歩いたり、
 寝そべったりしていた。」

歩兵第三八連隊の戦闘詳報には、
「興衛および十字街付近は、
 小集落の点在をみるも、
 住民は居住しあらず。
 敵はこれらの家屋をほとんど焼却し退却せり」
とあります。

また、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者も、当時の様子を「China軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が進撃し始めた。
 これが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
 南京に向けて十五マイルにわたる農村地区では、
 ほとんどすべての建物に火がつけられた。
 村ぐるみ焼き払われた。
 農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
 火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
 中国軍による焼き払いの損害は優に三千万ドルにも及ぶ。」

要するに南京での虐殺は、日本軍が行ったことではなくて、上海から逃げ出したChina軍によって行われたことに他らならないのです。

くだんのChina国民党総裁の蒋介石は、南京戦の始まる三日前の12月7日には、そくさくと我先に南京から逃げ出しています。
その蒋介石は、その前にも、あれだけ準備した戦いで、日本軍に負けています。
日本軍の強さを思い知った蒋介石は、南京でも勝てないと踏んだわけです。
だからこそ逃げました。
そして上海で、日本軍に軍事力では勝てないと知った蒋介石は、逃げるだけではなくて、このときから新たしい対日戦闘を開始しました。

それが広告宣伝戦争(情報戦争)です。
蒋介石は、南京陥落の日の少し前から年間300回にもわたる記者会見(ブリーフィング)を行うようになったのです。
これは内外のジャーナリストや外交官など30〜40人の前で、日本がいかに不当であるか、蒋介石自身が宣伝したというものです。日本に軍事力で勝てないから、パフォーマンスで勝とうとしたのです。
同時にこれは、日本に負けて兵を失った蒋介石が、新たな兵を徴用するための広告宣伝活動でもありました。

要するにこのときChina国民党は、日本と戦争していたわけです。
ですから、蒋介石は、日本を非難するための宣伝材料を見つけたり、捏造しては、毎日記者会見をして、自分たちを正当化し、また日本軍の悪逆非道をアピールしていました。
これが年間300回、毎日のように行われました。

現代中国は、日本軍が南京で虐殺を行ったと宣伝していますが、当時蒋介石自身が行った三百回におよぶ記者会見の内容について、昨今、日本の自由主義史観研究会が、すべての会見内容について詳細に分析を行いました。
もし本当に日本が南京で虐殺を行っていたのなら、宣伝をする蒋介石にとって、それは格好の日本糾弾材料になったであろうからです。
ところが三百回にわたるその会見で、日本軍による南京での虐殺の話は一回も、行われていませんでした。
要するに「南京虐殺などなかった」のです。

日本軍の占領後、南京は治安が回復し、少なくとも大東亜戦争が終わるまで、そこは、日本人の若い女性が普通に市場で一人歩きしてショッピングを楽しんでも何ら問題が起こらない、平和な町となりました。

大東亜戦争の末期、日本国内では空爆があり、占領があり、食料の供給もままならないひどい状態が続いていましたが、南京は、すくなくとも昭和20年夏までは、きわめて平和で、食料も豊かで、軍事的脅威やテロの危険のない、安全な町であり続けたのです。

その様子が変化したのは、終戦後、日本軍が去ったあとのことです。
中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、強姦、略奪を行ない、一般市民から十万人から十五万人という、とほうもない死傷者を出しています。
このとき、南京市民の三人にひとりが殺害されました。

通州事件や南京での虐殺事件を起こした張本人が、実際にはありもしなかった日本軍による南京大虐殺なる虚構をこしらえ、これをいまでも宣伝しています。
そして大切なことは、その張本人というのは、蒋介石の国民党でもなければ、毛沢東の共産党でもない。
両方に関係している、いまも昔も変わらぬChineseそのものなのです。

お読みいただき、ありがとうございました。

人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。


◆◆◆◆◆スマホで読めるKindle版もあります。◆◆◆◆◆

20161026 倭塾バナー


20160810 目からウロコの日本の歴史


【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓  ↓
ねずブロメルマガ





この記事が気に入ったら
いいね!しよう
\  SNSでみんなに教えよう! /
\  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

あわせて読みたい

こちらもオススメ

コメント

神無月

シラス
政治が当時も今も変わり映えがしないようで、善くも悪くも、性格とか国民性とかは変わらないものなのでしょうね。

それは、どの民族にも当ては嵌まるわけで、China、KOREAも例外ではないでしょう。

ねずさんも言われています、ウシハク型の民主主義は日本には不適なのがよく判ります。

ある方のHPに次のような文面が有ります。

「精神界からは、このクニの憲法として、たった三ヵ条のものが、人知の側に下されています。


一、 日本国ハ、国土(領土、領海、領空)ヲ、国祖ノ、みからだトス

二、 日本国ハ、天皇ヲ、みこころトス

三、 日本国ハ、国民ヲ、みたからトス

・・・・」


 日本人なれば、上記の三ヵ条だけで、国が治まるようです。

「シラスの国」そのものです。

もし、シラス国であったならば、「大山中尉惨殺事件」が起きれば、みたからを守るために、速攻で対応したでしょう。

スーツにネクタイは、日本人には似合いません。
何となく、従属している気分です。

そこは、中東の王族を見習いたいものです。

楠山秀樹

日本って、、、
日本は本当に自己主張しない国です。China,Koreaの宣伝戦にやられっ放し、捏造にも国として反論しない(確認出来る事実は無いと言うだけ)、嘘だとハッキリ言わないのです。反論してるのは一部の一般国民だけ、しかも自費。国の内外に反日プロパガンダを行う連中がいて、マスコミの多数は反日工作機関と化しています。法曹界や政治家にも反日勢力がいて、反日を恥ずかしげもなくやってます。
そのような、現実を見る時、絶望感で一杯になります。それなのに、脳天気な茹でガエル状態の日本人がまだ多くいます。
迫りくる恐怖を感じて死ぬよりも、気づかないまま茹で上がって死ぬほうが幸せなのか?いや、出来る限りの抵抗をした方が幸せなのだと言い聞かせる自分がいます。一体、自分と同じ気持ちの日本人はどれ位いるのかと考える日常です。
茹で上がる前に、熱っつと目覚めて飛び出して欲しいです。

-

インドは北京に核ミサイルを向けている
インドは中国人を信用していません。本当は、日本はもっと確りと親日であるインドと連携を深めて、野蛮な中国共産党を囲い込まなくてはならないのに九条が足枷になって思うように動けないのが歯痒いです。インドはパキスタンに向けてミサイル配備しているふりをして、本当は北京、中国全体に核ミサイルを向けているそうです。(青山繁晴氏がいっていました。)

ひまわり

今日は通州事件のあった日です。
「生きて虜囚の辱めを受けた」方々の、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

Facebookでは禁止ワードがあり、売国奴の人の通報により、アカウントの停止処分を受けてしまいます。

だけど本日のように、全てアカウント停止対応策をしていただけると
コピぺして拡散する時も、支✖️でなく
china になってると変更も✖️もしなくてよいので楽でした。
ありがとうございます。


難しいお話を、わかりやすく、また読みやすく書いてくださいましてありがとうございます。

たくさんの方に拡散していただいて、政治家の方々にも学んでいただいて、同じことを繰り返すことのないようにしていただかないと、困ります。

むーちゃん

歴史とは。。。
史実の因果関係を明らかにし、どうしてそのような事件、事故が起こったかを考察することです。

通州事件がなぜ起きたのか、また南京虐殺事件がねつ造であるという事が合理性を説明されています。

そして、Chinesesの本質を鋭く指摘点があります。

もともと外来王朝によって、いわば植民地とされ続けてきたChineseたちにとっては、自己の利権のみが大事なことであって、人の生死や国富や国家の安定や繁栄など、どうでも良いことであったのです。

これは日本人とは真逆の本質でこれではお互い理解しあえることは、全く無いと思います。

チベット、新疆ウィグルの次にチャイナ共産党が狙っているのは日本です。
同じ過ちを繰り返していけません。

歴史を学ぶとはそういう事です。

紫陽花

連日のコメント申し訳ありません。通州事件、この惨たらしい事件で犠牲になってしまった日本人の命から、私達はもっと学んで二度と同じような事態にならないよう対策を考えていかなければなりませんね。近所に若い中国人男女が数人で住んで居ます。身なりもよく、家の前に停めてある自転車数台も高級なものばかり、一昔前に日本にいた中国人家族は「残留孤児の親戚」だとかで遠い親戚を頼り豊かな日本に仕事を求めてやって来て、生活も貧しそうで大型ゴミの日には、家族で拾い物をしているのを良く見掛けました。今豊かになった中国は、日本弱体化のチャンスを狙いながら、日本全国津々浦々に点々と自国民を送り動員法を発令する時を待っているようで怖いです。勿論密かに注意して監視していますよ(笑)
私は南京大虐殺も慰安婦強制も軍艦島強制労働も731部隊マルタも、全く信じられません。日本人にはどれも絶対出来ない事です。なぜ同じ日本人である一部の人達がこれらを信じられるのか不思議で仕方ありません。教育上の問題だけではなく、周りの人間(家族や友人、教師)に恵まれなかった人達なのかしら?とも思います。家庭内教育のおざなりの行く末とも思います。
非公開コメント

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

04 | 2023/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク