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「ウガヤフキアエズ朝」というのは、『ウエツフミ』や『竹内文書』などに記載されている神武天皇以前にあった、我が国の古代王朝で、『ウエツフミ』によればこの王朝は74代、『竹内文書』によれば72代続いたとされる王朝です。
そのような王朝が過去にあったのかなかったのか。
これを示す史跡は、いまのことろ出土していません。
ですから、「あった」と言われて、それを素直に信じる方も大勢おいでになりますし、古代史というのは、わからないことが多いので、そのわからないことが、ある意味、ロマンにもなっているわけで、特段、これを頭ごなしに否定する必要もないことなのですが、さりとて盲目的に、誰かが説いたものを信じるというのもまた、いかがなものかと思ったりします。
というのは、古事記、日本書紀には、そのような王朝があったということが書かれていないのです。
古事記には、天孫降臨した迩々芸命(ににぎのみこと)と、古代史きっての美女である木花咲耶比売(このはなさくやひめ)との間に生まれた子の火遠理命(ほをりのみこと)の子の名前が、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)です。
日本書紀は、それぞれのお名前の漢字は異なりますが、経緯経過は同じに書かれています。
つまり記紀は、「ウガヤフキアエズ」というのは、単にひとりの御子の名であって、以後の大和朝廷以前にあって70代以上続いた別王朝という記述はまったくなされていないのです。
そこで、「ウガヤフキアエズ朝」があったとされる方々のなかの一部の研究者たちは、これを我が国の古代における王朝交代であって、我が国の古代王朝は、天照大御神や須佐之男命がいた高天原王朝、続いてできた大国主神の出雲王朝、ニニギ王朝、ウガヤフキアエズ王朝と変遷し、最後に神武天皇が新たにいまに続く大和王朝を打ち立てたのだ、という説を唱えたりしています。
しかしこれは、Chinaにおける易姓革命における王朝交代が我が国にもあったのではないか、という、いわば色眼鏡から出てきた話であって、我が国の国柄とは、相容れないものであるように私は感じています。
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と申しますのは、いわゆる古代史に描かれた時代というのは、いまでいう縄文時代にあたるわけです。
その縄文時代は、いまから約1万7千年という途方もない昔から、およそ3千年前までの、1万4千年という、これまた途方もない長い期間です。
全国に「貝塚」と呼ばれる遺跡がたくさんありますけれど、それらは皆、その縄文時代の遺跡です。
その「貝塚」の場所は、かなりの内陸部から、いまの海岸沿いまで、様々な場所があります。
どうしてそうなるかというと、昨日の記事に書きましたが、地球全体の長長期の環境変化のためです。
「縄文海進」と呼ばれる海面がいまよりずっと高かった時代、逆に海面がいまよりずっと低くて大陸棚が陸地だった時代まで、土地環境自体が長期間に大きく変化しているのです。
早い話、近いところでも神武天皇が大阪にやってこられた頃には、いまの大阪市は、浜名湖のような巨大な塩水湖でした。
つまりその頃の大阪は海の底だったわけです。
ですから神武天皇は、潮の潮汐の海流に乗って、またたくまに大阪の奥の方にまで船で進んだという記述があります。
また、大国主神神話には、稲葉の白菟が、ワニを騙したという記述がありますが、6千年前頃の西日本一帯は、熱帯です。
熱帯なら、ワニが生息していたとしても何の不思議もありませんし、現に、大阪でも、時代は異なりますが巨大ワニの化石が出土しています。
要するに現代の土地環境や、気象環境だけで1万7千年前から続く縄文時代を考えてはいけないということです。
そして、その縄文時代の日本列島の人口は、日本列島全体で、少ないときで2万人余、多いときでも30万人未満とされています。
人は、食料供給ができる範囲内でしか生きることができないのですから、早い話、海岸で貝を採って食べる生活なら、そこで養えれる人口は限られたものであって当然です。
この広い日本列島に、30万人未満なのです。
気象状況が変わって、今住んでいる土地が住みにくくなったのなら、住みやすい土地へ移住する。
何の問題もないことです。
いまだって、老後は東京ではなく、温暖な沖縄や宮崎でと考える人がいるくらいです。
それが無料で、いつでもできるのです。
逆に気象条件が良くないところ、土地が良くないところでは、一緒に住んでいる一族が全滅してしまう危険もあるわけです。
みなさんなら、それでもその土地にしがみつくでしょうか。
より住みよい土地を求めて、移住するでしょうか。
高天原が天上界だと説いたのは、実は比較的新しくて、江戸中期の本居宣長からだといわれています。
では、それ以前にはどうだったのかというと、高天原は地上にあって、その場所は九州説(宮崎、熊本、長崎など)、畿内説、飛騨高山説、茨城説(水戸から日立市のあたり)まで、様々な説があります。
長期間の気象変動を考えれば、そのいずれもが正しくて、その時々の気象条件や海面の高低によって、私達の祖先が点々と移動したということは、十分に考えられることです。
ですから、私は、そのいずれもが正しい説だと思います。
時期によって、移動したのです。
なかでも「高天原」の名前のもとになったのは、飛騨の高山説が有力なように思います。
縄文海進によって、海面が上がり、西日本一帯が熱帯雨林に包まれていた時代なら、いまは高地となっている高山が、人々にとって住みやすい都となったであろうということは、十分に考えられることです。
そして人口が増えれば、他の土地に子孫たちが入植していきます。
古事記には、出雲の大国主神が「倭国に上った」という記述がありますが、「上った」ということは、出雲国は、倭国の一部、つまり高天原の一部であった、あるいはその子孫の国であったということを意味すると考えられます。
さて、前置きが長くなりましたが、580歳続いたという「ウガヤフキアエズ朝」のことです。
『ウエツフミ』では74代、『竹内文書』では72代続いたとされるこの王朝ですが、では「ウガヤフキアエズ」とは、どのような意味なのでしょうか。
古事記に書かれているのは、「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」の父の火遠理命が、高千穂宮に580歳住まわれたということです。
子の「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」の御在位に関する記述はありません。
日本書紀には、どちらも年数に関する記述はありません。
さて、この580歳という記述を、いまの私たちは、年も歳も、どちらも「一年」という認識ですから、580年もの長い間の御在位があったのか?と疑問に思うのは当然のことと思います。
火遠理命おひとりが580年も統治など、できるはずもありませんから、そこから、
1 古事記はいい加減なことを書いているのではないか。
2 これは江戸幕府が260年続いたという記述と同じで、火遠理命以降何人もの「ウガヤフキアエズのミコト」がいたに違いない、
などという考えが生まれてきます。
1は、現代の学会の立場。
2は、ウエツフミや竹内文書の立場です。
2については、歴史時代にはいってからの天皇の御在位の平均年数はおよそ8年ですから、単純に580年を8年で割ると、72.5代になります。
ですから「ウガヤフキアエズ朝」72代説、74代説は、このあたりからきているようにも思えます。話が符合するからです。
ところが、古事記の記述をよく読むと、原文に書いてあるのは「580歳」です。
古事記は「年」と「歳」を明らかに使い分けて書いています。
そして、「年」という漢字の持つ意味は、稲穂の稔りから次の稔りまでです。
暦は、農業祭事と密接な関係があり・・・というより、そもそもそのためのものなのです。
いまでも西日本一帯は、二期作です。
つまり年2回、稲の収穫をします。
つまり古事記でいう「年」というのは、いまでいう半年のこととわかります。
では「歳」とは何かというと、この字の字源は、神事から神事までの期間のことです。
我が国では、神事は毎月行われます。
同じ「歳」という文字を使った言葉に「歳時記」という言葉がありますが、これは毎月の季語のことです。
つまり、「歳」は、いまでいう「月」を意味します。
昔は、月の満ち欠けで「月」を計りましたが、新月から新月までは、およそ29.5日です。
ですから、
580歳×29.5日÷365.25日=46年10ヶ月
となります。
365日ではなくて、365.25日なのは、4年に一度のうるう年があるからです。
すると計算結果は、46年10ヶ月です。
「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」の父の火遠理命が天皇として、およそ47年御在位され、崩御されたと書かれていることがわかります。
そして「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」の正式なお名前である、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あままつひこひこ なぎさたけう かやふきあへずのみこと)の意味を見ると、次のようになります。
天津日高日子 天照大御神直系の子孫の御子
波限(なぎさ) 以音で「那藝佐(なぎさ)」と読めと注釈
建鵜(たけう) 建が交差点で伸びやかに立っている人の象形。
(迷い路でも迷わないから健全の健となった)
鵜は河口や浅い海域に生息する水鳥の鵜
葺草(かや) 屋根をふく際に用いる丈の高い草
葺不合(ふきあへず) カヤの屋根がまだふき終えられていない
どういうことかというと、母の豊玉毘売が「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」をお生みになられたとき、鳥の鵜の羽毛で屋根を葺いた高級産屋が建設されたのです。
ところがその屋根がまだ葺き終わらないうちに、産気付き、御子が生まれてしまったことから「渚の脇に建てた産屋の屋根がまだ葺き終わらないうちにお生まれになった御子」という意味で、「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」というお名前がついたのです。
このときの出産の様子を、父が垣間見てしまったことから、両親は別れて住むことになってしまいました。
だからこそ、お互いの気持、人の気持を大切にすることを生涯忘れないという意味で、息子は「鵜草葺不合命」を生涯の名としたのです。
まさか、72代、あるいは74代にわたる代々の王が、全員、「葺不合(ふきあへず)」の早産だったとは考えられますまい。
そもそも古事記は、「古(いにしえ)を省みて風習や道徳が廃れることを正し、世を照らすべき典教が絶えようとしていることを補強する」ことを目的に書かれたものです。
ですからその目的に沿って、必要なことは書いているし、そうでないものは排除しています。
その意味で、古事記はあくまで書かれたものですから、事実がどのようなものであったかを証明するものではありません。
ですからもしかすると、本当に「鵜草葺不合(うがやふきあえず)王朝」なるものが、古代においてあったかもしれませんが、それはわからないことです。
ただいえることは、580年という歳月は、人には親がいて、祖父がいて、曾祖父がいて、高祖父がいて、必ず2名の両親がいなければ、子は生まれません。
弥生時代頃の日本列島の人口は、全国で約200万人とされています。
これは、一組のカップルからわずか21代、およそ400年で、全員の血がまじる人口構造です。
つまり、日本列島のみんなが親戚です。
しかも400年程度なら、先祖がどこで枝分かれしたかという記憶も、まだ新しい年代にほかなりません。
政権抗争なら、親戚同士でも殺し合いが起こる可能性は否定できません。
なぜなら世界の王朝がまさにそうだからです。
けれど日本における天皇(すめらみこと)は、権力ではなく、高天原から使わされた神々の血を引く最高権威です。
そしてその最高権威は、天照大御神からの直系の血筋によって担保されています。
だから「天津日子」なのです。
つまり、王朝交代はありえないのです。
天皇家の中における血筋の争いはあったとしても、ウガヤフキアエズ朝から、カムヤマトイハレヒコ朝に易姓革命するということは、ありえないのです。
Chinaは易姓革命の国です。
この革命は意味があって、漢族が収奪社会であるために、そこから逃げ出した人々が北方の遊牧民の住むエリアを荒らすわけです。
すると、遊牧ができなくなりますから、困った北方遊牧民は、漢族の住むエリアに侵入して、その地域を制圧します。
そして、マキャベリの君主論よろしく、まつろわぬ民を抑えるためには、その地に王城を築いて、直接支配するしかなくなるわけです。
ところがこうして建てられた王朝が、末期になると、また国内で内乱が頻発します。
すると民が逃げ出して、再び北方遊牧民の住むエリアを荒らすから、今度は別な遊牧民が、漢族の住むエリアに侵攻して、新たな王朝を建てます。
その繰り返しが、実はChinaにおける易姓革命です。
同一民族が住む日本とは、地政学的な条件がまったく異なるのです。
なんども繰り返しますが、以上述べたことは、『竹内文書』や『ウエツフミ』などを否定するものではありません。
実際に起きたことは、いまは立証できる考古学的な発見がないのですから、わからないことです。
わからない以上、軽々に結論付けることではなく、わからないことは、わからないまま保留にして、古事記にはこう書いてある、日本書紀にはこう書いてある、ウエツフミにはこう書いてあるといった理解に留めるべきであろうと思っています。
ただ、我が国の歴史は、古代史にしても、中世史にしても、近現代史にしても、いわゆる対立と闘争といったマルクス史観では、はかりきれないものがあります。
ですから、もっと民族性に根ざした、信頼や信義、そしてどこまでも民のために働いた指導者たちといった見方で、歴史を考えるべきであろうと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
まえだ
2017/08/05 URL 編集
疑問
従来「渡来系弥生人の遺伝子」とされてきたO1b2(Y染色体)ですが、その独特な分布から、もともと稲作農民ではなく、海洋漁撈民の末裔ではないかと想像します。
(最近では、全国に広く見られるものの、日本人一人当たりの遺伝子にはあまり大きな影響を与えていないとする分析結果もあるようです。)
ハプログループO1b2 (Y染色体)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループO1b (Y染色体)←親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
日本の北海道から沖縄まで、朝鮮半島南部や東部の漁業の盛んな地域に多く分布するこのタイプ(O1b2)、親のO1bは中国南部に、姉妹グループのO1b1は、インドネシアをはじめ、東南アジアや南アジアの海洋国家の海に面した地域に多く分布する事から、農民や騎馬民族ではなく、元々は、半農半漁の生活を営み、交易なども行う「海洋漁撈民」だったのかも知れません。
日本に多いタイプも、東南アジアに多いタイプも、漢民族が支配する大陸中央部ではあまり見られないのが特徴です。
黄海に面した、中国東部や北東部沿岸で親や姉妹グループから完全に分かれて、ある頃、朝鮮半島南部の多島海に面した地域などに吹き溜まり、縄文人とも活発に交易を行っていたのではないかと想像しますが、よく分かりません。
2017/08/03 URL 編集
k
日本存亡の一大事の時には国民が自然と一致団結し助け合う事が出来るのはこの民族性なのかもしれません。
2017/08/03 URL 編集