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お父さんが最期に残した遺書は、娘への手紙でした。
お父さんは、なににも代え難い愛を遺しました。
親から子へ、子から孫へ。
日本人のDNAはずっと変わらずに受け継がれています。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)毎年、この時期にご紹介しているのが、植村眞久(うえむらまさひさ)海軍大尉の遺書です。
今年もまたご紹介します。
この遺書は、かつてあるテレビ番組で、鶴田浩二が朗読して、途中から涙でむせてしまった遺書です。
先般、たまたま晩飯に入ったお店でテレビがついていて、そこで「世界衝撃映像100連発」とかいう番組をやっていました。
youtubeで公開されている事故などの衝撃映像を見て、番組のコメンテーターたちが、笑いながら値段を付けるという番組でした。
いかにも濊系の顔立ちのキャストが、ニヤニヤと笑いながら、場を仕切りまくっていましたが、人が大怪我をしたりする場面を見て、それを笑いものにす。
それどころか、その不快な動画に値段を付けてランキングするという、極めて低俗な番組でした。
胸が悪くなり、食事もそこそこに、思わず店を出てしまいました。
個人が動画を投稿し、それをまた個人が愉しむなら、それはそれで良いのです。
しかし公の、全国ネットの放送局が、その手の動画を扱うのはいかがなものかと思います。
そもそも、人が大怪我をしたりすることを観て、値段をつけるなどという最低の番組が、果たして放送倫理に照らしていかがなものか。
そもそも、何にでも上下関係を付けたがる半島出身者にとっては、それは常識なのかもしれませんが、日本人の目からみたら、それは異常行動にしかみえません。
セブ島に戻った植村大尉は、二隊に分けられた大和隊のうちの一隊を指揮して、「神風特別攻撃隊大和隊、第一隊隊長」として出撃されました。
目標は米国海軍T・L・スプレイグ艦隊です。
米艦隊は他の艦隊からの補充を合わせ、全戦闘機60機を上空に配置して、日本機の攻撃を待ち受けました。
植村隊3機は、60機の米軍戦闘隊と遭遇し、重たい爆弾を機体に吊り下げたまま激闘し、敵機の猛攻と、海上からのさかんな対空砲火をかいくぐって、米機動艦隊に特攻を敢行しました。
そして敵艦隊を大破炎上させ、特攻を成功させ、散華されています。
その植村大尉は、出撃前に、生後3ヶ月になる一人娘の素子さんに手紙を書いています。
***
素子へ
素子は私の顔を
よく見て笑いましたよ。
私の腕の中で眠りもしたし、
またお風呂に入ったこともありました。
素子が大きくなって
私のことが知りたい時は、
お前のお母さん、
佳代叔母様に
私のことをよくお聞きなさい。
私の写真帳も
お前のために
家に残してあります。
素子という名前は
私がつけたのです。
素直な、心の優しい、
思いやりの深い人に
なるようにと思って、
お父様が考えたのです。
私はお前が大きくなって、
立派なお嫁さんになって、
幸せになったのを
見届けたいのですが、
もしお前が
私を見知らぬまま死んでしまっても、
けっして悲しんではなりません。
お前が大きくなって、
父に会いたいときは
九段にいらっしゃい。
そして心に深く念ずれば、
必ずお父様のお顔が
お前の心の中に浮かびますよ。
父はお前が幸福者と思います。
生まれながらにして
父に生き写しだし、
他の人々も
素子ちゃんをみると
真久さんにあっている様な気がすると
よく申されていた。
またお前の伯父様、叔母様は、
お前を唯一の希望にして
お前を可愛がって下さるし、
お母さんもまた、
御自分の全生涯をかけて
ただただ素子の幸福をのみ
念じて生き抜いて下さるのです。
必ず私に万一のことがあっても
親無し児などと思ってはなりません。
父は常に素子の身辺を護っております。
優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
お前が大きくなって
私のことを考え始めたときに、
この便りを読んで貰いなさい。
昭和十九年○月某日 父
植村素子へ
追伸
素子が生まれた時
おもちゃにしていた人形は、
お父さんが頂いて
自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子は
お父さんと一緒にいたわけです。
素子が知らずにいると困りますから
教えて上げます。
***
手紙にある素子さんは、
父の母校である立教大学を昭和42年に卒業され、
その年の4月12日に、
父の手紙にあった、
「お前が大きくなって、
父に会いたいときは九段にいらっしゃい」
という約束を果たすため、
そして靖国神社で鎮まる父の御霊に
自分の成長を報告するために、
母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、
文金高島田に振袖姿で、
6歳のころから習った日本舞踊で
「桜変奏曲」を舞い、奉納されました。
そのときの写真です。

素子さんはこのとき、
「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」
と言葉少なに語らました。
父から子へ、子から孫へ。
この世は、魂が「愛と喜びと幸せと美しさ」の経験を積むために肉体を持って生きるところだというのが、古い時代からの日本人の考え方です。
「庭の木から蝶の幼虫を取り払おうとした。
すると、その幼虫の親なか。
一匹の蝶が、取り除こうとした手に必死にまとわりついてきた。
こんな昆虫でも、愛ってあるのだなと思った」
瀬島龍三の『幾山河』にあるお話です。
ふと思ったのです。
お亡くなりになった植村大尉は、きっと素子さんの花嫁姿を見たかったろうなと、そう思ってトップの画像を、花嫁人形にしました。
※この記事は2013年7月のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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神風特別攻撃隊大和隊 海軍少尉 植村真久遺書朗読
コメント
神無月
高度経済成長期の様子に、子供心にも戦争などの面影はテレビドラマの中にある程度のものでした。
神風特攻隊も美化され格好良さが残る印象です。
ただ、戦後GHQの支配下にあった日本人が、鬼畜米英が嘘のように媚びを売っていた映像の違和感は残っています。
命を懸けて戦いながら、敗戦と同時に何事も無かったかのような米兵への対応には・・・何故?
水に流すことは日本人の美徳ですが、英霊の気持ちを思いますと、複雑な心境です。
日本人とは、誠に不思議な感性の民族です。
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2017/08/07 URL 編集
シミズ
あそこに掲示されてる文章にはいつも泣かされてしまいます。
2017/08/07 URL 編集
紫陽花
少々過激かもしれませんが、戦争を放棄(させられて)して日本男児はその価値を下げられたように思います。自分より大切に思って家族、祖国を護って下さったこの時代の日本男児の魂の強さ、愛の深さを知ると、強かった日本の根底にあったこの「愛」こそが私達の命をここまで繋げて来られたのかと涙が零れました。今の日本男子の特に左巻きの人達の「言い訳」のような反戦論にはどうしてこうも納得出来ないのかを考えた時、「自分かわいい」命惜しさの薄情けを感じてしまうからかと思いました。どんな綺麗事を甘い囁きで述べられても、かつての日本男児を育て上げた女達の遺伝子を継ぐ日本女子には通用しません(笑)儚くも力強く、日本の大地で踏ん張り続け、慟哭をこらえ見送り続けた女の遺伝子もまた、私達女には受け継がれて要る証明のような思いがこの長い戦後にも遺されて居ます。悲しく厳しかった昭和の復興の陰にはやはり、その散らされた命に応えようと懸命に生きた女達の息吹きも感じます。今年もその母性の大地に異国で亡くなられた御霊が還って来られるのかと思うと、両手を拡げて安らかな心で待っていたいと思いました。 日本の女性達には特に、優しく安堵してお盆週間を迎えていただきたいと願います。きっとそんな姿をご縁ある英霊さん達は微笑んで眺めて下さると思います。
2017/08/07 URL 編集
なおと
2017/08/07 URL 編集
疑問
情報に不確かな部分が多く、資料としての問題点もあるようですので、お手数ですが「580歳続いたウガヤフキアエズ朝とは」と、「森林を砂漠に変えてきた人類史とは」の記事における私の書き込みを全て削除願います。
実は、遺伝子の調査というのはかなり恣意的な調査が可能なようです。
少なくとも江戸時代ぐらいから代々日本に暮らしている日本人全員の遺伝子を調べた場合のみ、正確な「調査結果」が出せるのでしょうが、実態は、例えば九州の人々の遺伝子を調べるにしても、一部地域の人々だけを調べて全体の傾向を「こうである」と出してしまう事が多いようで、必ずしも「正確」とは言えませんし、個人の思想が入り込む可能性もあるでしょう。
2017/08/07 URL 編集