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この時期は、どうしても戦時中の話が多くなります。
特攻や玉砕など、辛い話ばかりですが、今日は、まるで映画のジョン・ランボーさながらの大活躍をされた舩坂弘さんのお話をしてみたいと思います。
日本男児ここにあり!というお話です。
ちなみに舩坂さんは、三島由紀夫が自決した際に使った日本刀「関の孫六」をプレゼントした方でもあります。
私の家にも、曾祖父の代まで「初代孫六」が代々伝わっていたのだそうで、生意気に思われるかもしれませんが、そんなところからも個人的には舩坂先生にとても親近感を覚えています。

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舩坂弘(ふなさかひろし)さんは、大正9年のお生まれの方で、戦時中は軍曹として、パラオ・アンガウルの戦いを生き残った方です。
戦後、舩坂さんは渋谷で小さな書店を開き、それが大きくなって日本初の書店ビルを築き、渋谷の街の健全化にも貢献され、またパラオと日本の架け橋として数多くのご活躍をなさいました。
その舩坂さんが、パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に着任したのは、戦況も押し迫った昭和19年3月、23歳のときのことでした。
このとき舩坂さんは、除隊を目前にした宇都宮歩兵第59連隊軍曹でした。
アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。
その島に、同年9月11日、米軍が来襲しました。
開戦から5日間にわたって、米軍はまず空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯爆撃を行いました。
次いで戦艦テネシーから島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃をしました。
そして9月17日、米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸したのです。
島を守っていた日本の守備隊は、わずか1400名です。
小さな平たい島ですから、内陸部に誘い込んでの戦いはできません。
ですから日本側は、上陸しようとする米軍を水際作戦で迎え撃とうとしました。他に方法はなかったのです。
このとき舩坂軍曹は、擲弾筒や臼砲で米兵を200人以上やっつけています。
兵力差は15倍です。
装備の劣る日本側に勝ち目はありません。
水際作戦で中隊が壊滅するなかで、舩坂軍曹は筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けました。
そうすることで米軍の足を止め、退却する仲間たちを守ろうとしたのです。
米軍は次々と上陸してきました。
やむなく日本側は、大隊の残存兵力を島の北西の洞窟に集結させました。
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戦い3日目、舩坂軍曹はひん死の重傷を負いました。
米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
味方に助けてもらおうには、そこは敵陣のど真ん中です。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂のもとに、ようやく軍医がやって来ました。
傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去ってしまいました。
これは、「おまえはもう死んでいる」と宣告されたようなものです。
「負けるもんかっ!」と舩坂さんは、近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きました。
着いた時には、死体が這ってきたような姿だったのですが、この舩坂軍曹、並みの体力気力ではありません。
翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまいました。
舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負いました。
けれど不思議と翌日には回復しています。
ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうですが、ほとんど人造人間もどきの体力です。
舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊です。
子供のころからきかん気のガキ大将でした。
長じては剣道と銃剣道の有段者となり、また中隊一の名射手でもありました。
気迫と集中力の素晴らしい人だったのです。
舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けました。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒しました。
またあるときは、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ突き殺しています。まさに鬼神の如き奮戦です。
そんな舩坂軍曹を間近に見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。
しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相でした。
舩坂軍曹自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまいました。
そしてさらに腹部の傷が化膿し、ハエがたかって、そこに蛆(ウジ)が湧きました。
舩坂軍曹は、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意したそうです。
このときの舩坂軍曹の体調は、死の瀬戸際です。
立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えません。
そんな状態で、彼は遺書を書きました。
「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。
靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、
皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、
すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、
敵を目前にして戦死するのはくやしいけれど、
すでに数百の敵を倒したので、
自分は満足しています。
七たび生まれ変わって国難を救わんと念願し、
いま従容として自決します。
思い残すことはありません。
陸軍軍曹 舩坂弘」
【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ
自決を決意した舩坂軍曹は、手にした手榴弾を引き抜きました。
自爆しようとしたのです。
ところが手榴弾が爆発しません。
思いに反して手榴弾が不発だったのです。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか。
舩坂軍曹はこのとき、深い絶望感を味わったといいます。
このときも洞窟には、絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましています。
周囲には、傷の痛みに呻く声が満ちています。
壕内は、垢にまみれた体臭に傷口の膿みの臭い、洞窟内の糞尿の臭気が満ちています。
そこはまさに地獄の様相です。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂軍曹は、絶望から気を取りなおし、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いようと、米軍司令部への単身での斬り込みを決意します。
そして拳銃弾から中の火薬を取り出すと、その火薬を腹部の患部に詰め込みました。
傷口は貫通創です。腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いています。
そこに蛆がわいている。
船坂軍曹は、傷口に火薬を詰め終わると、そこに火をつけました。
傷口の両側から炎が噴き出します。
このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。
意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ました。
当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していました。
そのまっただ中に、舩坂軍曹は数夜かけて這って米軍前哨陣地を突破し、指揮所周辺さえも突破してしまいます。
そして4日目、米軍指揮所のテントにあと20Mの地点にまで到達します。
舩坂軍曹は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入しようと決めました。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきました。
指揮官たちが集まったのです。
舩坂軍曹は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出して立ち上がりました。
それは異様な光景でした。
絶対安全なはずの米軍の本部指揮所に、突然、まるでホームレスが武装したような、しかもガリガリにやせ細っり、真っ黒に汚れた幽鬼のような日本兵が、いきなり茂みから姿を現したのです。
そのあまりの異様な風体に、発見した見張りの米兵もしばし呆然として声もでなかったそうです。
実際、このときの舩坂軍曹は、すでに、
左大腿部裂傷、
左上膊部貫通銃創2箇所、
頭部打撲傷、
右肩捻挫、
右足首脱臼、
左腹部盲貫銃創など
大小合わせて24箇所の重傷を負っていました。
さらに連日の戦闘による火傷があり、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいたのです。
全身血まみれ、服はボロボロ。人間に見えたら不思議なくらいだし、そもそも生きていること自体、ありえないような状態です。
米軍の動揺を尻目に、舩坂軍曹は司令部目掛け渾身の力で20Mを突進しました。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとしました。
けれどその瞬間、首を撃たれて昏倒してしまう。
倒れた舩坂軍曹のまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断しました。
全身血まみれで首を撃たれ、大量な出血があります。生きていると思うほうがどうかしている。
駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断し、とりあえずその日本兵の遺体を野戦病院の死体安置所に運びましだ。
このとき軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、集まった米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。
日本のサムライだけができる
勇敢な死に方だ」
と語ったそうです。
ところが、死体置き場に3日間転がされていた舩坂軍曹は、そこで息を吹き返します。
死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍りました。
そして舩坂軍曹に銃口を向けました。
ところがその幽鬼は、向けた銃口にゆっくりと向かってきます。
そして銃口に自分の身体を押し付けると、
「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」
とうなり声をあげました。
この不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となりました。
米軍は、舩坂軍曹の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂軍曹に
「勇敢なる兵士」
の名を贈りました。
そして舩坂軍曹は、米軍の中で伝説となりました。
元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。
あなたのような人がいるということは、
日本人全体の誇りとして残ることです」
と、讃辞の言葉を贈っています。
さて、一命を取りとめた舩坂軍曹は、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、となりのペリリュー島に送られました。
けれど闘志の衰えない舩坂軍曹は、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見ると、
「よし!あの飛行機をすべて破壊してやる」
と心に誓います。
ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出しました。ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことです。
舩坂軍曹は、約千メートルをほふく前進し、途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、小銃弾を67発集め、火薬を抜きました。
そしてその火薬を導火線にすると、米軍の火薬庫に火をつけたのです。
火薬庫は大爆発を起こしました。
さらに別の棟へも爆発が移りました。
おかげで島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいます。
舩坂軍曹は、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻りました。
米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせています。
収容3日目の夜、舩坂軍曹はこんどは歩哨を殺して銃を奪いました。
そして夜陰にまぎれてさらに別な歩哨の背後に忍び寄りました。
あと5メートルです。
そのとき、突然背後から「ヘーイッ!」と声がかかり、いきなりタックルをくらいました。
軍曹は必死に抵抗したのですが、こちらは瀕死の重症患者、相手は元気な米兵の大男です。
舩坂軍曹はぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられてしまいました。
米兵の大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵って舩坂軍曹に銃を向けました。
「銃殺される。これで楽になれる」
そう思って舩坂軍曹は、目を閉じました。
ところが舩坂の耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語でした。
「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂軍曹をそのままにしてテントを出て行きました。
翌日、縄を解かれて放置された舩坂軍曹は、懲りずにまた飛行場炎上計画を練り始めました。
そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れました。
マッチがたまったきたある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えました。
歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。
今夜こそチャンス!
舩坂軍曹はその夜ひそかにテントを出ると、ほふく前進で有刺鉄線を越えました。
「よし、あとすこしだ。」そう思って頭を上げたとき、そこに例の大男が立っていました。
舩坂軍曹は拳銃を突きつけられ、テントに戻されてしまいます。
「殺せ」という舩坂軍曹に、大男はこう言いました。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲ、
タズネタコト、
私ニ連絡キマシタ。
アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、
私ハ仕事ノ途中ダケレド、
切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けた。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、
即座ニ射殺サレタコトデショウ。
私ハソレガ心配デ
大急ギデ帰ッテキタノデス。
無事デヨカッタデス」
さらに大男は、舩坂軍曹の無謀な行動を戒め、
「生きる希望を捨てるな」
「死に急ぐな」
と説きました。そして、
「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」
と問いました。舩坂軍曹は、
「わからない」
と意地を張りました。
けれど舩坂軍曹の心に、その大男の人間味あふれる言葉が心にしみました。
舩坂軍曹ら捕虜は、ハワイへ送られることになりました。
一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、いつもの大男がやってきました。そして、
「軍曹、死ンデハイケナイ。
生キテ日本ニ帰リナサイ。
私ハ軍曹ガ無事ニ
日本ニ帰レルヨウ神ニ祈リマス」
そう言って彼は一枚の紙片を軍曹の渡した。そこには彼の名前が記されていました。
舩坂軍曹はその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまっています。
舩坂軍曹は、ペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国しました。
帰国した舩坂元軍曹は、栃木の実家に帰りました。
実家では、すでに戦死したものと思われています。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日です。昭和20年12月には、舩坂の実家に戦死公報が届けられていたのです。
ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれてあったそうです。
「弘って字があるけど、これ俺のこと?」
そんな舩坂元軍曹が、実家に帰って一番初めに行ったことは、「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことだったそうです。
けれど村の人々は、帰ってきた舩坂元軍曹が、あまりに傷だらけでボロボロであったために、これはきっと幽霊か魔物が化けたものに違いないと噂しました。
「もののけ」と思われたのです。
こうなると、せっかく帰ったのに、村にもいずらい。
舩坂元軍曹は、親戚を頼って焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前にあった養父の地所で、わずか一坪ばかりの書店を開きました。
後年、この書店が、日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展しています。
舩坂さんは、書店経営の傍ら、
「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」
「血風 二百三高地」
「ペリリュー島 玉砕戦」
「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」
「硫黄島‐ああ!栗林兵団」
「殉国の炎」
「聖書と刀‐太平洋の友情」
「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わしました。
ちなみに松坂さんのこれらの本は、いま中古本が見つかるとすぐにChineseたちに買い占められています。
彼らはカネにいとめをつけずに買うので、中古本の価格が、文庫本でも一冊1万円近くになっているのだそうです。
また剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っています。
この関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられています。
また、ペリュリューで世話になった大男にも何とか連絡を取りたいと考え、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しています。そしてようやく、CRENSHAW伍長を見つけ出し、二人は生涯の友となっています。
舩坂さんは、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立しました。
書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行われました。
さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行ったのです。
舩坂さんが築いたアンガウルの慰霊碑慰文は、次のように記されています。
「尊い平和の礎のため、
勇敢に戦った
守備隊将兵の冥福を祈り、
永久に其の功績を伝承し、
感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。」
まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
日本には、こういう男がいたのです。
なぜ、舩坂さんは、ここまでして戦い、また戦後も亡くなられた戦友たちのために尽くされ、そしてまた渋谷で大きな書店を経営し、そしてさらに渋谷の街の健全化にも精力的に取り組むことができたのでしょうか。
アンガウルでの戦いのとき、すでに重傷を負い、指揮系統まで完全に崩れていた中で、舩坂さんは、自分の傷口を火薬で焼いてまで戦いに出ました。
何のためでしょう。
諸外国の兵隊さんは、たとえば南京城の攻防戦の際に、いち早く便衣に着替えて南京から逃げ出した唐生智のたとえをもちだすまでもなく、あるいは尼港事件や通州事件のときのChineseたちを持ち出すまでもなく、自分たちが圧倒的に強い状態にあるときには、相手に対してありとあらゆる暴行を加え、残虐をしつくしますけれど、いったんヤバイとなったら、一目散に逃げ出します。
ところが、ここでご紹介した舩坂さんは、アンガウルにおいて、一介の軍曹でしかありません。軍隊の序列からしたら、そうとう下の階級といっても良い位です。
にも関わらず、すでに部下まで失っていながら、舩坂さんは戦い続けました。
捕虜になってまで、重体の体をひきずって、米軍の火薬庫を大爆発までさせています。
なぜでしょうか。
そしてこのことは、実は、何も舩坂さんに限ったことではなくて、当時の日本の兵隊さんたちひとりひとりに、というより、全員にみられたことです。
このことを考えるに、ひとつの参照としてナポレオンの軍隊があります。
ナポレオンの軍隊は、ヨーロッパにおいて、めちゃくちゃ強かった。
またたく間にヨーロッパ全土を席巻したわけです。
なぜナポレオンが強かったかというと、彼の軍隊はひとりひとりの兵士が、フランスを愛するという気持ちで戦ったからです。
それまでのヨーロッパの王様たちの戦いは、王の私有財産のための戦いです。
そして戦いに赴く兵たちは、これまた王の私有財産である傭兵です。
これは、とことん戦って兵が死んだり怪我をしたら、その分、王の財産が減ってしまうということを意味します。
ですから、戦いは、適当なところで打ち切り、負けたら私有財産である領地の一部を相手国にくれてやって、撤収してました。とことん戦って全滅したら、財産が減るからです。
これは兵からみても、ただカネで雇われているだけのいわばサラリーマンですから、何も戦だからといって命まで投げ出す必要はない。適当に戦って、やばそうなら、さっさと逃げる。これが生き残りの知恵です。
ところがナポレオンの軍隊は違いました。
フランスを愛するという思いを共通させ、誰もがフランスのために戦いました。
ですから、どこまでも戦う。ひとりひとりの兵士が、たとえ大けがをしてでも戦う。命の限り戦う。
だから強かった。
兵が強いから、ナポレオンはヨーロッパを席巻しました。
このことに、ヨーロッパの王たちは驚愕しました。
そして生まれたのが、立憲君主制です。
つまり、王も国法にもとづく法的存在であり、国民や兵士と等しく国を愛する者としたわけです。
そうした変化が西欧で起きたのが、19世紀の出来事です。
ところが日本では、7世紀には、天皇は法的存在となられました。
天皇は人として国や民衆を私物化して支配する(これをウシハクといいます)君主ではなく、国や民衆の生活を守るための政治をする人を任命し、自身は政治権力を揮わないという法的存在となりました。
これがシラスという統治方法であり、シラスがシロシメスと変化し、それがスメラフとなり、スメラミコトとなります。
つまり、天皇は私的に国や人を支配する君主ではなく、国や人を統(す)めるための法的存在となり、政治権力を揮わない政治権力よりも、より上位の存在としたわけです。
そして民衆は、その天皇の民と規定されました。
こうすることで、政治権力者にとって、民衆も国も、天皇からの預かりものという形が生まれました。
そしてそうなることによって、政治権力者も、一般の民衆も同じ「人」という対等感が、日本に根付きました。
ですから今でも、総理大臣も警察署長も、権力を誇示し民衆を支配する存在などと、日本人は誰も思っていません。
仕事による役割の違いはあっても、人としては対等。それが日本人の意識です。
そしてこれこそ、究極の民主主義といえるものです。
私たちの若き日の父祖たちは、そのことを誰もが知っていました。
そしてそのことのもつ意味と、幸せを知っていました。
だからこそ、そういう日本を守るために、そして弾圧や支配によって苦しむ東亜の人々を救うためにと立ち上がり、戦いました。
ですから、戦いは、国の戦いではなく、ひとりひとりの兵士たちにとって、自分の戦いであり、みんなのための戦いだったのです。
だからこそ、私たちの父祖は戦いました。
どんなに苦しくても命の限り戦い続けました。
そしてそのおかげで、いまの私たちの平和な暮らしがあります。
そのことのありがたさを、あらためて思い至りたいと思うのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2009年11月28日の記事をリニューアルしたものです。

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コメント
tangerine
皆様もぜひご覧になって下さい。
「舩坂弘 物語 前編」「舩坂弘 物語 後編」の二本です。
youtubeにもかなり動画がupされてます。
「不死身」「鬼」と呼ばれる所以がよく判ります。
小名木先生、ブログの記事、勉強になりました。
どうもありがとうございました。
2017/08/15 URL 編集
takeda
素晴らしい内容です。我々の祖国のために戦い抜いた英霊に心から感謝しています。今の日本の状況を彼らにどう説明できましょうか。
恥ずかしくてなりません。
2017/08/15 URL 編集
ラベンダー
今朝も、学びのあるブログをありがとうございます。
昨日の、ねず先生の古事記の講演会で
「古事記を学ぶと、私たちは神様に生かしていただいているということがわかります」とお話いました。
その言葉が、とても印象に残っていました。
***
ところが舩坂の耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語でした。
「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂軍曹をそのままにしてテントを出て行きました。
***
今日の舩坂軍曹のお話は、まさに命とは生かされているものである、という究極の一例であると思いました。
命とは、授かり、そして生かされるもの。
ありがとうございます。
2017/08/14 URL 編集