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以下のお話は、以前、靖国神社に参拝したときに遊就館で配られていたチラシに掲載されていたお話の要約です。
ただ、肝心のチラシを紛失してしまったため、もともとはそのチラシをどなたがお作りになられたのか、自分にはいまではわからなくなってしまいました。
いまの日本では「北海道は日本」と、誰もがそれをあたかもあたりまえのように思っています。
けれど昭和20年8月9日、突如として日露不可侵条約を破って日本の領土領海内に侵入したソ連は、このとき間違いなく北海道をソ連の領土にしようとしていたし、その危険があったのです。
その目論見を粉砕したのは、占守島にいた日本の91師団です。
軍事を否定する方は多いですが、非常時に機能できるのは、実は軍隊だけです。
それは、ごくあたりまえの世界の常識です。
私たちは、そのあたりまえの常識を取り戻していかなければならないと思います。
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【お知らせ】◆
9月 2日(土)18:30
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第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)11月 3日(金・文化の日)
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占守島での戦いが起きたのは、すでに終戦の御詔勅が発せられた3日後の8月18日のことでした。
この時点で守備隊は、武器の解体作業を進めていました。
そこを突然、どこの国ともわからない軍隊からの攻撃を受けたのです。
ところがその占守島には、ニチロの缶詰工場がありました。
魚の缶詰は外地で戦う兵隊さんたちにとって、重要なタンパク源だったのです。
そしてその缶詰工場には、約400人の若い女性たちが働いていました。
「なんとしてもこの子たちを守らなければならない」
すでに終戦後ではありながら、第五方面軍司令官兼北部軍管区司令官だった樋口季一郎中将は、「断固戦え!」との命令を発しました。
占守島守備隊は、少ない装備でよく戦い、ついにソ連軍を撃退したのです。
けれど、日本国としての戦争はすでに終わっています。
女性たちの本土への避難を無事終えた第五方面軍は、ソ連軍に停戦を申し入れました。
そしてあたかもだまし討のようにして、守備隊の兵隊さんたちは、拿捕され、シベリアに抑留されていきました。
少し流れを追ってみます。
8月15日 正午 玉音放送
8月18日 午前1時 国籍不明の軍が占守島に砲撃開始。ほぼ同時に上陸を開始。
この時点で守備隊は、武器や戦車、砲塔などの解体作業を進めていました。
戦車の車載銃砲や無線機を取り外し、爆砕や車両の海没の準備まで進めていたのです。
日本人は作業が早いですから、要するにこの段階で、砲塔は解体されてバラバラ、戦車も自走はできるけれど、砲塔も無線もすでに取り外し済みという情況であったわけです。
そして前夜には、お別れ会を開き、みんなで酒を酌み交わして、10時に就寝に就いています。
すると午前1時になって、突然対岸のロパトカ岬からソ連の長射程重砲の砲撃が始まるわけです。
就寝時間から3時間ということは、ある意味、もっとも熟睡状態になっているところです。
そこに突然、爆裂弾が鳴り響く。
濃霧の中です。
最初の段階では、その大砲の弾の炸裂が、いったいどこから飛んできたものなのかさえわからない。
そこへ国端崎の監視所からは「海上にエンジン音聞ゆ」と急電がはいります。
さらに、
「敵輸送船団らしきものを発見!」
「敵上陸用舟艇を発見!」
「敵上陸、兵力数千人!」と、相次ぐ急報が入ります。
これはおかしな事態です。
降伏勧告の軍使なら、夜中に来ることはありません。
つまり、明確に「攻めてきた」ということです。
しかも島には民間人がいます。
管区司令官の樋口中将は抗戦を指示します。
守備隊は国端崎の砲兵が、竹田岬と小泊崎の速射砲・大隊砲で反撃を開始しました。
濃霧の中です。
敵の姿は見えません。
時折、撃ってくる際の光が視認できるだけです。
ところが、そこは日頃の訓練の賜物です。
日本側の反撃は、きわめて正確に敵上陸艦等を次々に粉砕していきました。
更に後方の島から航空機による決死の反撃も開始しました。
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しかし敵の兵力は未知数。
それどころが攻めてきている敵が、どこの誰かさえも、まだわかりません。
ようやく霧の合間から、敵がソ連軍であることが確認されました。
すでにこの18日の時点では、ソ連軍が日本へ攻め、民間人を含む日本人に甚大な被害を及ぼしているという情報はもたらされています。
「このままでは女子行員たちに必ず被害がでる。
なんとしてもあの娘たちを北海道へ
送り返さなければならない。」
そしていまがチャンスと見極めると、部隊の一部を割いて、島にあった20数隻の漁船に女子工員約400名を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させました。
この時点でソ連軍は航空機による爆撃を行っています。
その航空機に漁船が発見されれば、女子工員たちはひとたまりもありません。
守備隊はありったけの弾を使って高射砲の一斉射撃をして、ソ連の爆撃機を追い払いました。
敵上陸部隊にも集中砲撃をあびせました。
そうすることで、ソ連軍を漁船の出港が見えない位置に釘付けにしたのです。
戦いは4日間続きました。
戦闘は激烈を極めました。
日本軍の死傷者約 600名。
ソ連軍の死傷者約 3,000名です。
守備隊は、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅(せんめつ)するところまで追い詰めてしまいます。
8月21日、女子工員たちの乗った漁船の安全が確実に確認されたところで、占守島には第五方面軍司令部から停戦命令が届きました。
守備隊は、ソ連軍の攻撃はまだ続いている中で軍使を派遣し、自ら進んで停戦交渉を進めて戦闘を終結させています。
そして守備隊のもとに、女子工員たちが「全員無事に北海道に着いた」との電報が届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。
ソ連側は守備隊に武装解除を要求しました。
日本は国としてはすでに終戦、つまり「戦闘行為を終わらせる」との決定をしています。
守備隊からすれば、戦(いくさ)に勝っているのに、どうして勝っている方が武装解除しなければならないのか、という不満も少なからずあったことでしょう。
けれど守備隊は、従容として武装解除に応じています。
これによって、占守島に残存した日本の軍人8,500人は、武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって民間人を含めて全員逮捕されました。
本来、停戦である以上、果たしてソ連側に逮捕権があったかどうかは疑問が残るところです。
けれど日本側の武装解除があれば、かさにかかって逮捕にまで至るのが国際社会の非情です。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)逮捕された日本人は、占守島からシベリアに送られました。
けれども、彼らの中でシベリアに到着できた日本人は、約5000人です。
その差数は、シベリアに到達する前に殺されています。
シベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、その後、幅員までに約1割が亡くなっています。
一連の流れから伺えることは、占守島の守備隊は、終戦後にソ連と戦いましたが、これは理不尽なソ連側の上陸行動によって、民間人の婦女子が危険に晒される可能性が濃厚にあったからです。
国家として国際社会に向けて終戦を宣言していたとしても、どこの誰とも名乗らない者たちが大勢で砲撃を加えながら勝手に上陸をしようとしてきたのなら、それは国軍の行動云々という前に、国家緊急権の発露として、反撃をすることが当然の国家生存権であるということができます。
しかし同時に国家として終戦を宣言している以上、その民間人の危険が去ったのなら、すみやかに停戦を申し入れて、戦闘行為を集結させなければなりません。
仮にそれによって、日本側に甚大な被害が生じたとしても、それはたとえどんなに理不尽であったとしても、これは受け止めなければならない現実であるわけです。
つまり、まさに日本は、国際法のルールに従って、堂々と戦い、堂々と停戦し、従容として捕縛についたのです。
実に立派としかいいようのない行動であったものと思います。
では、ソ連はなぜ終戦3日後になって占守島に上陸を強行したのでしょうか。
実は千島列島に配備された日本軍に対する攻撃は、米海軍によって行われていました。
8月12日には、温禰古丹島(おんねこたんとう)から占守島に漁船で移動中であった日本軍の独立臼砲部隊が、米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出しています。
つまりこの地域には、米軍による戦闘実績があったのです。
ソ連は、ヤルタ会談の秘密協定で、米英から千島列島をソ連に引き渡すとい言質は得たものの、あくまでも口頭での秘密協定です。
日本固有領土の千島列島を、米英がそうそう簡単にソ連に引き渡すかはわかりません。
つまりソ連は、自らの戦闘実績によって、自力で千島列島から北海道までを占領しようとしていたのです。
そのため彼らは、満蒙への8月9日からの戦闘とは別に、意図して占守島に迫ってきたわけです。
そして短期間に北海道にまで進出するためには、日本側の軍隊が装備を処分が進んでいる8月18日の深夜が、まさに奇襲攻撃のための絶好のチャンスであったわけです。
そのためにソ連は「占守島は一日で占領する」と計画し豪語していました。
ところが占守島守備隊は、そうしたソ連の目論見を、見事に粉砕し、なんとまる一週間、彼らを占守島に釘付けにしています。
そしてソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、米軍は北海道進駐を完了させています。
これによって北海道は、ソ連軍の侵攻を免れ、ドイツや朝鮮半島のように、日本列島が米ソによる分割統治になるという事態が避けられています。
占守島守備隊は、
終戦を迎えた後にも、身を持って卑劣なソ連の進行を妨げてくれました。
彼らは、ソ連軍占領予定地点の北海度中部まで本土上陸を阻止ししてくれました。
彼らは、多くの婦女子を占守島より脱出させてソ連軍より守り通してくれました。
彼らは、上陸しようとするソ連軍を水際から一歩も踏み入れさせず、勇敢に戦ってくれました。
彼らは、私たちに北海道を残してくれました。
彼らのおかげで、北海道は、いまも日本でいます。
占守島に上陸してきたソ連兵は、日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。が、あとの祭りでした。
もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったら・・・。
ボクたちは占守島の第91師団の勇気を、恩を、決して忘れてはならないのだと思います。
せめて北海道では、小学校の教科書の副読本で、この占守島の戦いがしっかりと教育に組み込まれるようになってもらいたいものです。
それこそが、健全な若者教育に役立つものであると思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。

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コメント
神無月
よく、全員無事に北海道までたどり着けたものと思います。
ねずさんのお話の中で、日本兵は、女性、子供、高齢者に優しく、また、敵兵で有っても捕虜には人権の配慮をしている等、後生の日本人として誇りに思うと同時に、同じ状況で果たして命を懸けて守りきれるかどうか、自信はもてません。
当時の兵隊は、徴兵で集められた方が多いわけですから、生い立ちはそれぞれで、夢や希望も有ったでしょうに、命懸けで戦う姿に頭が下がります。
時代が織りなす場があったのでしょう。
皇軍の誇り、大和民族の誇りなのでしょうか?
己の誇りを忘れて久しいですが、不器用ですが家族を護ることからですね。
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2017/09/03 URL 編集