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#拉致被害者全員奪還 ツイキャス
配信URL↓タップするだけで聴けます♡http://twitcasting.tv/shellymamy1日本の商人道の開祖といえば、江戸中期の石田梅岩(いしだばいがん)です。
今日はその石田梅岩を通じて、光と和について考えてみたいと思います。
この記事は、過去記事の↓と連携しています。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-886.html梅岩塾の様子(ガレリアかめおか・京都府亀岡市)

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【お知らせ】◆
9月17日(日)13:30
第43回 倭塾 公開講座(古事記) 9月21日(木)13:00
埼玉縣護國神社奉納揮毫10月 1日(日)11:00
日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)10月15日(日)13:30
古事記に学ぶ25の経営学10月26日(木)18:30
第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)11月 3日(金・文化の日)
第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)11月 5日(日)
第45回 倭塾 公開講座11月25日(土)
第20回 百人一首塾 *****
石門心学(せきもんしんがく)は、江戸時代中期の18世紀に、石田梅岩(いしだばいがん)が打ち立てた日本の商人道です。
石田梅岩はもともと京都府亀岡市の農家の次男坊で、呉服屋に勤めに出て丁稚(でっち)から番頭にまで出世するのですが、45歳のときに自分の住む長屋で、たった一人で商人道を説く私塾を開きました。
その私塾は、受講に際して紹介不要、かつ男女の性別も問わないというもので、石田梅岩は、たとえ誰も受講生が来なくても、たったひとりで講義を開き続けるという決意のもとに、この私塾を始めています。
門弟は次第に増えましたが、少ない受講料で経営は苦しく、せっかく良い教えを説いても、それを書にすることさえ、まる10年出来ませんでした。
しかも石田梅岩の人気が高まるに連れ、梅岩は世間からたいへんな批判を浴びるようになりました。
どういうことかというと、梅岩の思想というのは神学、儒学、仏教の三教の要旨を総合・折衷して、これを日常の生活に活かそうとした、ある意味画期的な教えです。
ところが既存の思想家たちにとっては、思想の体系と論理が重んじられます。
もっとはっきりいえば、師匠が誰で、どの書籍を規範とし、どの学派に属するかが大事なのであって、その内容は二の次とまではいいませんが、既存の分類に所属しないものは、ただの異端であり、通俗倫理学の範疇を出ないもの、と認識されたのです。
梅岩は亡くなる直前に、「斉家論」という書を著しています。
その本の冒頭に次の言葉があります。
原文は文語体ですので、いつものねず式で現代語訳します。
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私が講釈をはじめようと志して、
「何月何日より開講、ご紹介のない方でも遠慮なくお越しください」
とチラシをまいてから、はや、15年になります。
その頃、私のチラシを見て、「素晴らしい」と褒めてくださる方もおいでになりましたが、その一方で、「あの素人(しろうと)のアホが何を説くと言うのだ?」とそしる者もいました。
あるいは、表向きは褒めてくださるのだけれど、陰で笑い者にする人もいました。
その他、評判はまちまちであったと聞いています。
私は歳をとってから学問を学んだので、いわゆる学歴があるわけではありませんし、また私が説こうとすることも、どなたかがすでに教えているのであれば格別、まったくそういうものもありません。
では、いったい何を説いているのかといえば、それは過去の聖者や賢者が心をつくして得た悟りのようなもので、私自身が考え悟ったことであるに他なりません。
そして、そのようなものをどうして説こうとしたのかといえば、その心が、人の生死は言うに及ばず、名聞利欲よりもまさるものであり、その心をまさに説いていきたいと考えたからに他なりません。
もっとも文学につたない講釈ですから、聴衆も少ないであろうと思いました。
ですからもし、誰も聴こうという人がいなければ、私一人で、たとえ辻説法となろうとも、これを続けようと思いました。
(中略)
それでもし人倫を得て柳が風になびくように睦まじい人生を得る人が、たったひとりでも出るならば、それは私自身の生涯の楽しみです。
たとえ千万人に笑われ、恥さらしになるといえども、その楽しみの前に、何を厭(いと)うことがありましょう。
***
石田梅岩の学問は、石門心学として、日本の商人道を確立していくのですが、要するにそれは神道をもととし、儒学でもなく、仏教や易経でもない、我が国独自の心の有り様を商人の道として確立しようとしたものです。
当然、その内容は、儒教でも易学でも中国古典でもありません。
神道をもとにしていますが、神道そのものでもありません。
日本人としての人の道を、日本の商人としての生き方、生き様として説いたものです。
過去にそれを体系化して説いた人もありません。
ですから梅岩の説は、オリジナルです。
しかし、では完全オリジナルかといえばそうではなくて、その時代に蓄積されていた様々な学問から得られた知識で、日本の神語を学び、これを当時の人々に合ったかたちで説いていったものであるわけです。
日本人としての人倫の道は、日本の神語にもとづく縄文以来の価値観に基づきます。
そして日本は天皇のシラス国として、民こそが「おほみたから」とされる国です。
そうであれば、民の営みとしての商業においても、その心はあってしかるべきで、その道は、収奪社会であるChinaの教えとは異なってしかるべきです。
実は、まさに儒教等で語りきれない我が国独自の価値観が、まさにここにあるわけで、石田梅岩は、まさにこれを説いていたわけです。
ところがそのことは、既存の学問社会からみたら、異質です。
ですから梅岩の石門心学は、当時の学問の世界からは異端とみなされました。
けれど、梅岩の説は、民衆がまさに求めるものとなり、梅岩が生きた時代には、梅岩は異端視されたけれど、梅岩の死後、梅岩の学問は「石門心学」というまさに学問の一派を形成するに至りました。
そして石田梅岩の石門心学は、幕末明治を生き残り、松下幸之助さんの商人道に活かされ、現代に生きています。
実は、日本文化のこれは特徴と言って良いことなのではないかと思うのですが、日本文化は、茶道、華道、剣術、柔術など、どれをとっても、間口が広くて奥行きが深いのが特徴です。
たとえばお茶を飲むだけなら、3歳の子供でもできます。
しかし、お茶を極めようとすれば、一生かかっても、果たしてできるかどうか。
剣術も同じです。
棒振りだけなら子供にもできる。
けれど剣術を極めれるのは、ごくわずかな剣聖だけです。
古事記などの古典神語も同じです。
因幡の白兎を、ただ「人を騙してはいけませんよ」というだけの童話としてなら、子供にも親しめるものです。
けれど、古事記の目的とする国家論としてこれを読むときには、まったく別な大人としての視点が要ります。
実は兵法も同じで、日本には日本独自の兵法があります。
これは孫子の兵法などのChina兵法とはまったく異なる勝利の道です。
このたび、拳骨拓史(げんこつたくふみ)さんが、「兵学思想入門: 禁じられた知の封印を解く (ちくま新書1280)」という本を出しました。
そこには、日本古来の兵法学の深みがあますところなく書かれています。
日本軍がなぜ強かったのかといえば、日本独自の兵法があったからです。
そしてその精神は今も自衛隊などに生きています。
ところが、その日本的兵法が、いかなるものであるのかを、昨今は説かれず、そのため、多くの人が、外国の戦術を、まるでありがたいことであるかのように学びます。
これは企業活動においても同じで、かつて一世を風靡したランチェスターの法則とか、ポーターの競争戦略とか、ビジネスの専門書としてよく売れました。
ところが実は日本には、古くからの様々な戦略考察が、じつは兵法として確立していたのです。
石田梅岩の石門心学も、その意味では、日本にもとからあるいわば日本学を説いたものです。
ところがそれは漢学でも儒教でも仏教でもない。
だから異端だとされました。
そうではないのです。
実は日本人ならではの王道だったのです。
なぜなら日本では、最高神が天照大御神です。
天照大御神は、太陽神であり、日そのものです。
太陽の光は、あらゆるものを照らし、温め、育みます。
我々は太陽がなければ生きていくことができません。
影さえも、太陽の光がなければ、生まれることができないのです。
このことを石田梅岩に照らして考えてみると、ひとつおもしろいことがわかります。
光があるところには、必ず影が生まれます。
つまり梅岩の教えが光なら、必ず狭いところにたくさんのハエが飛び回っているように、ブンブンとうるさい悪口雑言が沸き起こるし、起こらなければならないのです。
なぜなら梅岩の教えが光なら、必ず中傷が起きなければならないからです。
そうでなかったならば、梅岩の教えは光ではない、もしくは光に沿った教えではないということになります。
このことはある意味、本質をついているような気がします。
たとえば、保守の人は、サンデーモーニングを批判します。
しかし、司会の関口宏その人を悪く言ったり、私生活まで暴いて中傷するような人はいません。
ところがもし、このサンデーモーニングが、おもいきり右寄りの番組であったらどうなるでしょうか。
おそらく番組そのものや、その内容だけでなく、司会の関口宏その人や、キャスターのひとりひとりの私生活にまで徹底した攻撃が行われることでしょう。
前者の批判は、内容は批判しますが、根本に和の心があります。
後者の攻撃には、和はありません。
どこまでも中傷し、攻撃するだけです。
これが光と影の違いです。
つまり、どんなに高尚な理屈を説いたとしても、根底に和の精神がないならば、それはすでに光の道、つまり日輪の道を外れた、ただの影になってしまっているということです。
まさに和をもって貴しなのです。
つまり、梅岩の教えは、ホンモノであった。
正しい人の道を説くものであったということです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
kaminari
小名木さんのブログや本は、後から続く人たちの大きな灯りになることでしょう。
毎日の執筆有難うございます。
2017/09/11 URL 編集
つら
子供が見たらたーのしー、だけで完結するお話でも 「背景にある物」「目の動き」「影の入れ方」「何か引っ掛かる言い回し」等の演出で見る人が見れば表向きとは全然違った世界が広がるアニメがあります。
最近のアニメだと「けものフレンズ」がそうですかね。
乱文失礼しました。
2017/09/10 URL 編集
smile702
2017/09/10 URL 編集
神無月
「士商工農」ではなかったのでは?と思ったのでした。
テレビ番組の影響が大きいのでしょう。お代官様と悪徳商人のイメージです。
黄門様が正してくれますが、カネ優位の考えに当時の脚本も影響されていたのでしょう。
松下幸之助氏は、商売の神様と言われていますが、松下電器は物造りの会社ですから、物造りの神様なのかなと感じています。
まあ、語録は商いにも通じますから間違いではありません。
「石門心学」を検索したところ、ねずさんの記事(2010年05月19日)「石門心学と石田梅岩」がヒットし拝読致しました。
今回と、切口は少し違いますが、商いにも「シラス」を求める心は感じました。添付されている動画も、改めで先人の偉大さを感じました。
それと、学者さんの立場といいますか、狭い世界に居ることも感じます。派閥は理解出来ますが、新しいものを受け入れるには時間が掛かるのですね。
地動説のコペルニクスも進化論のダーウィンも初めは異端でした。
日本には、古来から人間の営みとは何かが理解され、社会の仕組みに活かされていたことも見えてきました。
西欧が優れ、日本が劣っているとの思想が、そもそもの間違いだったんですね。明治維新が失敗の意味も感じます。
それでも、DNAには大和の血が流れ、現在の違和感を感じている方々も多いと思います。
もう少しで、本気の自信に繋がりそうな気がします。
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2017/09/10 URL 編集
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2017/09/10 URL 編集