*
まず西洋社会です。
西洋社会における法は、いわば国家との契約です。
もともと西洋では、神と契約した者が「人」と規定されます。
従って法もその契約の延長線上にあります。
ですから法も契約も、書かれていることだけが守るべきことです。
なぜなら、神が相手の契約です。
守らなかったらたいへんなことになるからです。
そこでたとえば、「人を殺してはいけない」という法があるとします。
この場合、殺してはいけないのは「人」です。
そして「人」と人でないものを分けるのは、神との契約があるかないかです。
ですから神との契約をしていない者は、「人モドキ」です。
つまり、パンバイア(吸血鬼)やリカント(狼男)と同じです。
それらは人ではありませんから、いくら殺しても構いません。
むしろより多く殺した者が英雄です。
同様に異教徒は「人」の形をしていても、彼らの神との契約をしていませんから「人」ではありません。
つまり、パンバイアやリカントと同じです。
「人」でないのですから、たくさん殺した者が英雄です。
さらにいうと、相手が「人」であっても、「殺してはいけない」といだけで、「殴ってはいけない」とは書かれていませんから、暴力があたりまえの社会が構成されます。
日本では、親が子を殴ることは、それなりに余程の場合にほぼ限られますが、西洋で殴るは「ヒット」、叩くは「ビート」です。
「ヒット」は、野球のヒットと同じです。
「ビート」は、音楽の「ビート」と同じです。
拳骨がうまく当たればヒット、叩き続ければビートです。
要するに法にふれるかどうかを厳しく問うという、いわゆる「現代法学論」にいう「構成要件該当性」を厳しく求めるという姿勢は、西洋の歴史と宗教と文化から生まれたものであるということがわかります。
*
では、東洋社会ではどうでしょうか。
東洋社会では、西洋史と区別して、東洋史があります。
この東洋史というのは、基本的にChinaの歴史とそこに書かれた歴史認識を言います。
そのChinaでは、法をもって統治を為すことを、最初に実行したのが秦の始皇帝です。
秦は紀元前221年に成立して、紀元前206年に滅んだ国です。
要するに紀元前に、たったの15年で滅んでなくなった国です。
ところがこの秦という国名を英訳したものがChinaです。
つまり、英語のChinaとは、いまから2223年も昔に滅んでなくなった国のことを言います。
要するに現代そこにある中華人民共和国の英語名(People's Republic of China)にある「China」は、俺達は二千年以上も昔の秦の時代から続く、古くて長い歴史を持った国なのだという、国名自体が国家の宣伝文句になっているわけです。
実際、中華人民共和国の憲法は、その前文の冒頭の第一行目が、
「中国は、世界でも最も古い歴史を持つ国家の一つである」
となっています。
本当は、たった68年前の1949年に成立した国なのに、です。
ところが実際には、秦以降に、前漢、後漢、晋、隋、唐、宋、元、明、清と王朝が続きますが、この中で項羽と劉邦が戦って建国した前漢以外は、すべて外来王朝です。
北方の狩猟民族が、度重なる漢族の内乱による殺し合いに耐えかねて本国を捨てて逃げ出してきた難民に放牧地を荒らされる(これは昨今の日本で、勝手に河川敷の堤防を削って勝手に畑を作るChineseと同じ行動です)ことに怒った遊牧民が、漢族の住むエリアに王朝を立てて、漢族を支配したというものです。
つまり、言い方を変えると、前漢以外は、Chinaはずっと被植民地であったということでもあります。
ちなみに我が国をはじめ、朝鮮半島やベトナム、チベット、ウイグル、モンゴルなど、かつてChina文化圏にあったとChineseがみなしている諸国には、Chinaは、自国の名称を「China」ではなく「中国」と呼ぶように強要しています。
「中国」というのは、世界の真ん中の国という意味ですが、もしそれを英訳するなら、おそらくMedium countryか、Country of centerにでもなろうかと思いますが、アルファベット表記でそのような呼び方を彼の国にする国や言語は、世界中見渡してもひとつもないし、現在の中共政府も決してそれはしません。
そんなことを言い出したら、世界中から総スカンされることが目に見えているからで、要するに、あっちではこう言い、こっちでは別な言い方をするわけですから、これは要するに国家自体が「ご都合主義」ということです。
さて、とっくの昔に滅んだ秦は、法家を採用して、China初の法治国家を形成しました。
これは、諸国を征圧して皇帝の位に就いた始皇帝が、諸国を従わせるために行われたことです。
皇帝が法を定めて、諸国はそれに従うとしたのです。
その法を定めるのは皇帝であり、解釈するのも摘要するのも皇帝です。
ですから法は、常に皇帝の一存とともにあります。
そしてここからChinaではずっと「法とは他に従わさせるもの」という伝統が生まれています。
つまりChinaの法理には、
1 法の施行者は法を守る必要がない。
2 法は守るものではなく、守らせるもの。
という根本法理が含まれているわけです。
これに乗ったのが儒家です。
もともと儒は人に序列をつけて、下の者は常に上に従わなければならないという教えです。
このことが法家思想と結びつき、後には「下の者にとって、上にいる者は常に法である」という概念に発展していきました。
これが今なお続くChina流の「人治主義」の正体です。
従ってChinaにおいては、法の解釈も適用も、常に上に立つ人の都合によって変わります。
解釈だけではなく、意味も変わってしまいます。
上に述べた「人を殺してはいけない」で例えますと、
「殺」という字は、獣を木の枝で殴ることの会意象形文字です。
彼らの考え方では、このようにすると肉が締まって美味しいのだそうです。
ですから彼らにとって「殺す」ということは、我々日本人の言語感覚からすると「殺意をもってなぶり殺す」ことを意味します。
ですからあっさり殺すことは「殺」に該当しません。
つまり大量殺戮は「殺」ではありません。
ですから権力者は何百万、何千万の人を殺しても罪に問われないし、むしろ英雄になります。
最近では、これを身をもって実行してきたキンピラ・ゴボウのような名前の人が、China社会で国際的にもたいへんに影響力を持つ大人(たいりぇん)になっています。
ちなみにおもしろいのが、現・中華人民共和国の憲法で、その第一条には、
「中華人民共和国は、
労働者階級の指導する
労農同盟を基礎とした
人民民主主義独裁の
社会主義国家である」
と書かれています。
「民主=独裁」というの表現は、我々日本人からすると明らかに矛盾した(相反した)表現です。
なぜなら人民民主主義なら、民衆が主役のはずですから、独裁にはなり得ないからです。
ところがChinaにおいては、「民」という字は、民衆の目を潰して、無理やり言うことを聞かせるという漢字です。
「主」は、何もしない人です。
ですから「民主」とは、何もしない(働かない)人が、圧倒的多数の民衆の目を潰して貢がせるという意味になります。
その主が独裁するというのですから、China語では、これは矛盾も相反もしないわけです。
要するに中華憲法というものは、権力者の「都合」次第でどうにでもなるのです。
第二条では「中華人民共和国のすべての権力は人民に属する」と規定しています。
ところが、その第二項で、「人民が国家権力を行使する機関は、全国人民代表大会及び地方各級人民代表大会である」としているわけです。
要するに権力というのは、行使されてはじめて意味を持つものですが、その行使者は「大会」だとはいうものの、その大会を仕切っているのは、「人民の代表」と呼ばれる人物であり、実質的な皇帝です。
日本では、このような表現のことを「詭弁」と言います。
*
さて、現代日本の法制度は、西洋の法制度を取り入れています。
すくなくとも、China式ではないことは、我が国の僥倖とすべきことと言えます。
ところが、西洋かぶれした人たちは、日本の法理もにも構成要件該当性を重んじます。
それはとても良いことであると思います。
しかし過度にこれにだけ頼りすぎると弊害が生まれます。
なぜなら、西洋社会においては、宗教的倫理が法以前に重んじられますが、東洋社会には、その伝統がないからです。
すると何が起きるかというと、西洋式に定められた法や憲法を、東洋式にご都合主義で解釈するChinaかぶれした人たちが出てきます。
たとえば、「憲法9条を護れ」というのは護憲派の人たちの言い分ですが、その護憲派の人達は日本国憲法の第一条を否定します。
ということは全然、護憲ではありません。
それはただの「都合」であり「詭弁」です。
日本の法理が、西洋式のものであるならば、法や憲法以前に、人が人として守らなければならない教えがなければならないのです。
西洋ではそれを宗教に置いています。
つまり、我が国においても、西洋で宗教にあたる道徳的規範が、西洋的法理を導入するには、欠かせないものであるということがいえると思います。
そうではなく、法理ばかりに目を向けるから、東洋的法理観を持つ人達、つまり上に立ちさえすれば、解釈次第で、どうにでも自己都合を満足させることができると考える、日本人のような顔をした日本人でない人(最近ではこういう人たちのことを、生まれや血筋に関係なく在日というのだそうです)人たちに「付け入るスキ」を与えることになるわけです。
西洋的法理を学んだ人ほど、このトラップにひっかかりやすく、そのためかいわゆる法律家という人達に左向きの方が多かったりします。
残念ながら、これはトラップです。
要するに我が国が、西洋型の法治国家を目指すなら、そこに「和魂洋才」が必ず必要であるというこなのではないかと思います。
この「和魂洋才」は、明治時代に福沢諭吉が提唱した言葉ですが、もともとは菅原道真公の『菅家遺訓』にある「和魂漢才」が元になっています。
近年では、この『菅家遺訓』は、室町時代の贋作だという人がいますが、たいせつなことは、そこにあるものの考え方です。
「和魂」は、大和魂のことです。
大和魂というのは、「魂の存在を大切にしてきた日本」(
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3448.html)の記事に書きましたが、「魂こそが本体、肉体は借り物」という思想です。
思想と書きましたが、私たち日本人にとっては、これこそが現実です。
命というものが今生限りのものならば、生きている間に自分だけがどれだけいい思いができるかしか問題になりません。
しかし、魂が本体であり、その魂が永遠に続くものと考えるならば、今生で自分だけが良い思いをするために、他を犠牲にするという考え方は成り立ちません。
何かのために、誰かのために命を捨てるという姿勢も、まさに、魂こそが本体であると考えるからこそになります。
ところがこのことは、昆虫や動物でさえも行う、実はあたりまえの行動です。
卵を奪われそうになった母鳥は、自分よりもはるかに強大な敵にさえ向かっていきます。
蝶の幼虫を木から取り除こうとすると、蝶がその取り除こうとする手に、必死にまとわりつきます。
そして日本の神語では、愛するヤマトタケルのために、弟橘比売が、荒れ狂う海に身を捧げています。
▼参考「弟橘比売命」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2410.htmlつまり根底に何が大切かという大和びとの魂観があり、そのうえに、人々が互いに協力しあって社会を営もうとする姿勢が、日本社会の根底にあるわけです。
そしてその根底は、我が国の神語によって形成されています。
そしてこれを憲法にしたのがまさに十七条憲法です。
だからこそそこには「和を以て貴しとなせ」と書かれているわけです。
さらに、十七条憲法には「詔(みことのり)を受けては必ずつつしめ」とあります。
天皇を国家最高権威として、そのもとに国民一丸となって我が国の歴史伝統文化を守り抜くという国家観がそこに書かれているわけです。
要するに、法も憲法も道徳も国家観も、我が国の歴史伝統文化を踏まえなければ、実のところ、何の意味も持たなくなってしまうということなのではないかと思います。
そうでなく、我々が条文至上主義に陥ってしまうことは、実学にみえて、実は曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)の空論に陥ることになるのだと思うのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
KU
2017/09/19 URL 編集
スパム
外の世界は、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸全て、先に拡がった農耕沿岸海洋文明の人を獣と見て、虐殺し、略奪し、奴隷化した獣の精神。殺し合いのぶつかり具合、捏造の歴史。
知って尚、精神の正常性を保たれる小名木善行先生は、凄いなあと思いました。もう一人、この方も、どれ程の過酷な状況にあっても、日本男児としての精神の正常性を、保たれるだろうと、思ったのが、小坪しんや議員です。
今回の解散を、「 ミサイル解散 」と、命名されました。
https://samurai20.jp/2017/09/kaisan-8/
これがいいと思いました。
お題そのものではないので、このHNで失礼します。
2017/09/18 URL 編集
神無月
「民主」の意味の違いにも驚かされます。あちらでは奴隷の意味になるのですね・・・
差別を無くせとか、多文化共生を謳う方々は、同じ顔つきならば中身の違いも共存できると思っているのでしょうか?
ヘイト反対を叫ぶ方々ほど、差別主義者だと言動から実感いたします。
「和魂」については、正しくです。
肉体は「霊魂」の入れ物に過ぎないと思っています。
死を迎えれば、肉体は元の姿の分子や原子に返りますが、魂には生前のエネルギーは残ると思っています。
自然体に生きた方は、天国方面の層へ行かれ、我欲にまみれた方は、地獄方面の層へ行かれるようです。
その様に心構えをしておれば、身勝手なことは慎みます。
ただ、生きている間は「身魂」は一体ですので、体を綺麗に保つ必要はあります。
死んだら終わりの方や、無宗教の方とは相容れないと思っています。
益々、大和民族の奥深さを実感致します。
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2017/09/18 URL 編集