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藤原忠平の歌を通じて、我が国のカタチを考えます。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)京都嵐山の北側に、大堰川(おおいがわ、桂川ともいう)をはさんで「小倉山(おぐらやま)」があります。
まるい、まるでおまんじゅうのような形をしたこの山は古来、紅葉の名所とされ、ふもとには山荘がありました。『小倉百人一首』という名称は、藤原定家がこの小倉山の山荘で「百人一首」を選歌配列したことに由来しています。
その百人一首に、藤原忠平(880-949)が詠んだ歌があります。
小倉山 峰の紅葉葉 心あらば
いまひとたびの みゆき待たなむ(おくらやま みねのもみちは こころあらは
いまひとたびの みゆきまたなむ)
この歌を詠んだ藤原忠平は、後に関白太政大臣にまで栄達して藤原家繁栄の基礎をつくり、没後にその徳をたたえられて「貞信公(ていしんこう)」という謚(おくりな)を贈られた人です。
この歌は『拾遺集(1128番)』に掲載されていて、詞書(ことばがき)には次の紹介文があります。
「宇多上皇が大堰川に遊ばれた際に、
上皇が見事な小倉山の紅葉に感動して、
『我が子である、醍醐(だいご)天皇にこの紅葉を見せたい』
とおっしゃられたことを受け、
藤原忠平が醍醐天皇に
そのことを伝えるために詠んだ。」
(原文)亭子院大井河に御幸ありて行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふにことのよし奏せむと申して。
解説書のなかには、直接「宇多上皇がお誘いですよ」と伝えるのではなく、むしろ紅葉を擬人化して、「待っていておくれ」と謳い上げているところに興があると評しているものがあります。
つまり「擬人法を使ったところに、この歌の面白さがある」と言いたいようです。
しかしそれを言うなら、拾遺集よりもはるかに古い時代に成立した『古事記』のなかに、「因幡の白兎ウサギ」の物語があります。
そこではウサギが人と会話しています。
まさに擬人そのものです。
擬人法はもっとはるかに古い時代から普通に使われていた表現方法なのですから、別に目新しいテクニックではありません。
実はこういう、ちょっとしたところに、こっそりと反日的な思想を忍ばせるというのが、戦後70年の日本の学会の特徴です。
おそらくは、そのように書いた大学の先生も、9世紀から10世紀の半ばにかけて生きた藤原忠平の時代よりもはるか以前から日本文学に擬人法が使われていることくらい、とっくに承知のことです。
けれど、そうではないように書かなければ、左翼系の学生たちや、下手をすると大学からも突き上げをくらって、教授職を失いかねなかったのです。
というのは、現代日本の学界では、「日本の古代は平安時代まで」ということになっています。
鎌倉時代からが中世の始まりです。
古代の前は有史以前です。
要するに古代というのは、ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代のあけぼので、階級とか国家がなんとなく成立していた時代であって、これが次の中世に至って、剣と鎧(よろい)の階級闘争の時代となるということになっているわけです。
もともと古代とか中世とかいう区分は、西洋史にあった区分方法で、西洋史では古代ギリシア文明の成立の時代から、5世紀の西ローマ帝国の崩壊までの時代を指します。
このあと西洋では、フランク王国とかビザンツ王国とかロンバルト王国とか、様々な王国が栄えては消えるというよくわからない時代が続き、紛争続きで文明の停滞が起こるのですが、弱体化した西洋諸国は、13世紀にモンゴルに征圧されてしまいます。
西洋史では、ここまでが「中世」です。
ところがそのモンゴルのオゴデイが死去することで、モンゴルの正統な後継国を自認する国が次々と誕生しました。
こうして生まれたのが、いまに続く西欧諸国で、ですからそこからが西洋史では「近世」になります。
西洋の学校で自国の歴史として習うのは、なんとその「近世」からの歴史になります。
要するにモンゴルの征服、その後の自立、独立という中で、現在に続く西洋諸国は誕生し、15世紀の大航海時代からが「近代」、第2次世界大戦以降が「現代」であるわけです。
整理すると次のようになります。
<西洋史>
有史以前 ギリシャ・エーゲ海文明以前
古代 古代ギリシャから西ローマ帝国の滅亡まで
中世 よくわからない王朝が続いて、ついにモンゴルに征服されるまで
近世 モンゴルの後継国が互いに競った時代
近代 大航海時代から第二次世界大戦まで
現代 第二次世界大戦後、植民地を失ってからの時代
ざっと、このような考え方の時代区分になっているわけです。
東洋史というのは、主にChinaの歴史を云いますが、もとより西洋史と東洋史では、歴史についての根本的な思想が異なります。
ですから同じ分類など、本来はあてはまるべくもないのですが、なぜかChina史(東洋史)にも、この分類が当てはめられています。
一応簡単に、いまの学会の分類を整理すると次のようになっています。
<東洋史>
有史以前 秦王朝成立以前
古代 秦王朝の成立から後漢の崩壊まで
中世 三国志の時代から唐、五代十国の時代まで
近世 宋から清朝まで
近代 辛亥革命から第二次世界大戦まで
現代 第二次世界大戦以降
要するにChinaの中世は2世紀に始まるとしているわけです。
そして日本の中世は、12世紀の鎌倉時代に始まるとする。
そうすると、日本はChina文明よりも、あたかも千年遅れいていた、ということになるわけです。
しかし、古代というのが「ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代のあけぼので、階級とか国家がなんとなく成立していた時代」と定義するならば、たとえばいまのChinaも、チベットに侵攻したり、ウイグルや内モンゴルの人たちに、何をしているのか、よくわからない。
そういう意味では、Chinaは中華人民共和国となった現代においても、その実態は「古代中華人民共和国」にほかなりません。
つまり、Chinaはいまもまだ、国家としては古代にあるといえます。
一方、日本は、紀元前の大和朝廷の時代から、天皇を頂点にいただく知らす国です。
ということは、西洋史的な意味での分類に従うなら、神武天皇から皇極天皇あたりまでが古代、天智天皇以降が中世、江戸時代が近世、明治以降が近代、大戦後が現代です。
我々の認識としても、
古代大和朝廷
であり、
中世鎌倉室町時代
近世江戸文化
です。
さて、話を元に戻します。
藤原忠平、貞信公の歌の良さが、ただの擬人法の使用にないというのなら、ではこの歌の本当の良さは、いったいどこにあるのでしょうか。
詞書に書かれていることから、宇多上皇が小倉山へ紅葉見物に出かけ、そこに藤原忠平も右大臣として同行したことが伺えます。
ここでひとつ質問です。
「なぜ上皇が天皇より先に紅葉狩りに出かけているのでしょうか」
答えは、「天皇(醍醐天皇)は、紅葉見物に、「行きたくても行けなかった」です。
いまでもそうですが、天皇の御公務は多忙をきわめます。
ありがたいことに私たち一般庶民の多くは週休二日ですし、盆暮れのお休みもあります。
年間の休日は、祭日を含めれば軽く百日を越えます。
つまり、一年のうちの三分の一がお休みになっています。
ところが陛下には、お休みがありません。
一年三百六十五日、すべてが御公務の毎日です。
公務の数は年二千回を超えます。
一日平均、5〜6件の御公務のスケジュールがはいっているのです。
そしてそのいずれもが、国の大事であり、なかには国運を左右する重大な用件を含みます。
そして陛下の御公務にはミスが許されません。
風邪さえひけないし、ひいても寝込むことも許されません。
プライバシーもありません。
それだけの厳しい御公務を、陛下は日々こなしておいでになります。
さらにその忙しい御公務の合間をぬって、田んぼにはいって農作業をされたり、様々な研究もされています。
このことは醍醐天皇の昔も、昭和天皇の時代も、今上陛下の時代もなんら変わることがありません。
それだけ多忙な御公務のなかでも、日本の心、みやびな心を失わないでいらっしゃるのが、我が国の天皇です。
そしてその天皇は、政治権力を持っていないのです。
現代風に分かりやすくいえば、政治権力というのは「立法」「行政」「司法」の三権です。
これに「軍事」を加えれば、四権といえるかもしれません。
西洋や東洋における王や皇帝は、それら三権(四権)のすべてを掌握し、直接に命令を下せる権限を持っています。
ですからたとえば、王の目の前で、くだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいれば、王は即座にその者のクビを刎(は)ねることもできます。
それが古来変わらぬ、王や皇帝の権力と権限です。
社会そのものが「支配と隷属」の関係で成り立っているわけです。
ところが我が国における天皇には、その権力、権限がありません。
仮に、目の前でくだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいたとしても、そういう者を処分する権限は、あくまで天皇が親任した太政大臣や関白、いまなら内閣総理大臣や国会両院議長などの政治権力者の仕事です。
天皇ご自身が、どうしても政治権力を揮いたいと思うなら、天皇を退位しなければなりません。
そして、天皇の下の位である上皇になれば、政治に直接介入することができます。
上皇は、序列的に天皇の下になりますが、太政大臣よりも上位の政治権力者となるからです。
私たち一般庶民の感覚で考えると、政治権力者のほうが忙しくて、政治権力のない天皇のほうは暇ではないか思われます。
しかし、先に述べたように御公務は多忙ですし、この歌のなかにも天皇の忙しさが書かれているのです。
視点を変えれば分かることですが、政治権力者である上皇は、小倉山の紅葉が見事だからと、大臣をたちを連れて秋の紅葉見物に出かける余裕があるのに対し、天皇はどれだけ紅葉が素晴らしくても、それを見に行くだけの余裕も時間もないことが、この歌から分かります。
そして政府高官である藤原忠平は、まさ天皇のスケジュールを調整する役割の人です。
そこで、藤原忠平は、
「天皇にも是非この美しい紅葉を味わっていただけれるように、
なんとか公務を調整するから、紅葉に
『御行幸いただくまで待っていておくれ』」
と呼びかけているのです。
実際、この歌のあと、小倉山への紅葉狩りのための天皇の行幸が、毎年行われるようになりました。
日々の公務に追われる天皇ですが、むしろ「御公務の側に小倉山までついてきてもらう」ように調整をすることで、天皇にたとえわずかな時間でも、秋の紅葉を楽しんでいただけるように、制度が変えられたのです。
実はこの「御公務の側についてきてもらう」ということは、現代でも行われています。
昭和天皇が戦後の焼け野原の中で、全国行幸をされたのは有名な話ですし、今上陛下も、東日本大震災などの被災地へ、たびたび行幸されています。
そしてこうしたときには、陛下が宮中で行う事務は、近習の者が持参して、現地で陛下が実務を執り行えるようにしているのです。
さてこの歌で、醍醐天皇に「是非とも紅葉狩りを楽しませたい」と提案したのは、父親の宇多上皇です。
少し前まで、ご自身が天皇だった方ですから、天皇の忙しさは、まさに身をもって体感しているわけです。
だからこそ、せめて美しい小倉山の紅葉くらいは、天皇に見せてあげたいと思ったのでしょう。
その気持ちが痛いほど分かるからこそ藤原忠平は、天皇のスケジュールは自分がなんとかするから、
「小倉山の紅葉よ、それまで散らずに待っていておくれ」と詠んでいるわけです。
この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではありません。
公務で忙しい毎日を送っている天皇への感謝が、歌の真意です。
だからこそ素晴らしい名歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれているのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
くすのきのこ
ガクシャさんがどう解説しようとも、それは単なる参考です。響かない人に
は響かない。現代の忙しく仕事に追われている女性達の中には紅葉狩りなど
夢よね~で終わる事もあるでしょう。
古代文明といえば、古代ギリシャ、古代ローマのように現代西洋の基礎になっ
た当時としては非常に進んでいた社会を示唆します。そしてその文化の波は
飛鳥、奈良時代の建築物や仏教美術にも影響を与えています。その後継であ
るのが平安時代。易姓革命の度にチャイナが自ら破壊し失ってしまった古代
文化を残す日本は博物館のような国です。昨今は地層の下から次々と古墳時
代の遺跡が発掘されてきており、文書に残っていない歴史の物証として古代
史を書き換えています・・反発もあるようですが事実は変えれませんしw
戦後の歴史学会には偏りがあると指摘されています。その偏りはソクラテス
の”無知の知”を忘れた驕りで、人は自分の知る事しか知らない・・と古代の
言葉が明快に評していませんか?wこういう古代文明の豊かさを受け止めて
研究し更に発展させた地域が、実は現代世界の文明先進国と重なってますよ
ねw古代文明の痕跡があるだけではだめで、やはり魔改造しなくてはw
西欧は一度、古代ギリシャ・ローマの文化を破壊し捨て去り中世の暗い時代
へと突入。その間これらの古代文明を大事に研究していたイスラム圏が発展。
その後西欧は再び古代文明を入手し(ルネッサンス)、その価値を認めて発
展させ産業革命へと繋ぎ、覇権を握るに至る。その西欧文明を選りすぐって
日本は古代から続いて進化し続けた文化の中に吸収、魔改造し、そうして受
け取った文化を向上させて世界へとお返ししているw古代とは文明の宝庫w
日本の歴史学会の問題点は、利権問題も絡みますね。ですが戦前よりもより
自由に多元的に発想できず学会が硬直しているのであれば、戦前よりも酷い
状況なのではありませんかw学会体制に背く新説は無視しほうむる。こうい
う思想統制のやり方もあるわけですね。昨今はいろんな歴史研究テーマの面
白い書籍がでていますが、イマイチなのもあるw・・特徴は、根拠のない断
定が何故か突然やってくるw・・戦後の〇✖方式の二元論教育の影響かな~w
自由連想・自由発想の部分が薄く、現代人の視点から離れておらず、何故か
自信たっぷり~、一断面に固執・・ディベートの技法ですねw・・等々で、
玉石混交してま~すw人それぞれなんですね。
2017/09/24 URL 編集