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日本史を理解しょうとするときに、歴史時代となっている古代から現代にかけての日本の長い営みを、7世紀と19世紀というターニングポイントで鷲掴みにする。
そのうえで、各時代の学習にはいっていく。
これはまことに理にかなった歴史教育のあり方といえると思います。蒙古襲来絵詞

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先日、日本史には7世紀と19世紀の二度、大きな改革が行なわれたということを書きました。
実はこの見方は、一般社団法人新しい歴史教科書をつくる会の発行する『新しい歴史教科書』だけが教科書として語る、日本史をわかりやすく学ぶひとつの切り口です。
歴史を学ぶに際して、ただテストのために年号や人物名、事件名などを、ただ覚えるだけというのでは、教育そのものが無味乾燥ですし、せっかく覚えたところで、おそらくその知識は、その子が社会人になったあと、その子の人生になんの役にも立ちません。
せいぜい酔ったときの会話で、
「いやあ昔、日本史で「納豆(710)売ります平城京なんて覚えたっけなあ。」
「そうなの。オイラはなんと (710) 素敵な平城京だったですよ」
などといった会話ができるのがせいぜいで、そのために大切な青春の時間を多く割くのでは、あまりにもったいないようにおもいます。
そして、このようなことでは何の役にも立たないということは、実は教える側もわかっていることですし、教えられた側も、おそらく日本人として日本の教育を受けた者なら、そのなかの99.999%の人が、やはり「何の役にも立たない」と気付いていることです。
にも関わらず、何も改まらない。
それどころか、歴史教科書会社によっては、教科書に記載されている年号や項目数の多さを最大のセールスポイントとして、学校関係者への売り込みをしている会社まであるくらいです。
これではただ子供たちに、地獄の苦しみを強要することを教養と履き違えていると言われても仕方がないのではないかと思います。
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さらに細かいことを言えば、どういうわけか韓国の大統領などの名前だけ、たとえば「李承晩」なら、これに「イスンマン」とルビをふっている。
それは「覚えろ」ということなのでしょうか。
なぜ「りしょうばん」だけではいけないのでしょうか。
すくなくとも高校の入試にも、高校の歴史教科書にも「イスンマン」とは書いてない。
意味不明のルビとしか言いようがなかったりします。
歴史が、ただ年号や人物名、事件名を暗記するだけの教科なら、それはすでに役割を終えています。
なぜなら、いまどきはスマホの時代になっていて、早い話アイフォンのボタンを押して「関ヶ原の戦いは何年ですか」と話しかければ、たちどころに答えが返ってきます。
そしてその答えは、多くの場合、人間の不確かな記憶よりも、はるかに正確です。
このブログで何度も書いていることですが、歴史というのは、事件や事故などの過去の出来事をストーリー仕立てにしたもののことを言います。
過去には様々な事柄があったし、ひとつひとつの事柄には、様々な側面があります。
たとえば冒頭の元寇の絵です。
この絵は肥後国の御家人であった竹崎季長が、元寇における自分の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』の一部です。
このとき日本に攻めてきたのは、元と高麗の軍団と、一般に言われていますが、絵をよく見ていただきたいのです。
黒人、白人が入り混じっています。
実は、元の軍団は、まさに国際色豊かな軍団であったわけです。
そしてここに描かれたひとりひとりにも、それぞれの人生があったはずです。
無理やり戦いに連れて来られた人もいたでしょうし、逆に金儲けのために付いてきた人もいたことでしょう。
家族もあったかもしれません。
上の絵はひとつの例にすぎませんが、要するに歴史は深掘りすれば、様々な側面があるわけです。
そうした様々な側面を持つ歴史を、一連のストーリーにすることで、なぜそれが起こり、どのような事態となって、その結果どうなったをわかりやすく整理してまとめたものが歴史です。
そしてそうであるならば、日本史を理解しょうとするときに、まずは、少なくとも歴史時代となっている古代から現代にかけての日本の長い営みを7世紀と19世紀というターニングポイントで鷲掴みにし、そのうえで、各時代の学習にはいっていくという考え方は、まことに理にかなったものといえると思うのです。
まず日本史全体を俯瞰して、7世紀の大化の改新と、19世紀の明治維新という二つの大きな改革があったこと。
そしてそのいずれもが、
「神武創業に還れという精神」であったこと。
これを押さえたうえで、ではその還ろうとした神武創業とはいかなるものであったのか、と学習を深めていく。
そしてそれぞれの時代ごとに、自分が歴史の当事者となって、歴史を振り返り、先祖の足跡を学ばせていただく。
こうすることで現代まで続く、古くて長い日本の歴史を学ぶ。
日本史がそういう授業であったのなら、それは生徒たちにもワクワク・ドキドキの高揚感あふれるたいへんにおもしろくて、感動のある授業になると思うのです。
そして感動こそ、子供達の心のたからとなり、子供達を成長させるのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
くすのきのこ
スサノオがアマテラスに会いに行くと言うと、山、川は動き国土は皆震えた。
と古事記にあります。・・地震が起きたんですねw
古事記の神武東征のくだり。ナガスネヒコと戦う時に一度退却を余儀なくさ
れた神武帝は、日に向かったのが拙かった。自分は日の神御子であるから日
を背負って撃つ・・と戦法を変えて打ち勝ったと。
古事記は天武天皇の命により着手され、その後編纂されて31年後に完成。
その天武帝は673年2月即位、4月には伊勢神宮の廃れていた斎王制を整え、
皇女を斎王とする。伊勢もまた東海道、東山道、東国の中で見方で、アマテ
ラスを背負って壬申の乱に勝利した。そして天武帝は筑紫地震の後に、スサ
ノオにはたかれた様に次々と国の体制を整えるべく動き出すと。
・・戦いにはアマテラスを背負わないと困難に打ち勝つ事は難しい。実際、
唐・新羅連合軍に負けた。更なる侵略を防ぐためには、豪族連合のままでは
裏切りの可能性もあり・・乙巳の変は鎌足らの工作による明らかな蘇我・中
臣紛争のクーデターであったし、そのため協調外交路線から親百済路線へと
引きずり込まれ、いらぬ敗戦をし大量の亡命移民まで抱え込む羽目になった。
これまでのような緩い豪族連合のままではいずれ亡命移民に中央を侵され、
またもや海外出兵へと突き動かされる可能性が数十年後に出てくる。大きく
朝廷を改変し、中央集権体制を確立しなければ危ない。これは天智帝と同じ
危機感であり、東海道、東山道、東国も同じ思いだ。外地で戦い逝く無念。
と、そこに679年九州で筑紫地震が起きたと。元々大陸や半島の渡来人の多
い土地を大和朝廷に引き摺りよせるよい機会・・スサノオさんの御働き?w
天武帝は親政を実践し人々の心を朝廷へと惹きつけるべく奮闘していく。何
故なら、亡命移民は5代くらいしないと捨てた国への未練が断ち難いからで
しょうw捨てたくせにね。こういうのは今も昔も同じ人間の性分なのかも?
スサノオさんは684年に白鳳地震、東海・東南海地震を。四国の津波も。朝
廷を鍛え固めるためですか?w人間は無力だがしぶとい存在w
太陽の活動は必ず地球に影響し、地上の陸と海も反応し人間の活動を左右さ
せる。自然信仰は自然を科学する事にも繋がる。まんま呑み込むだけではな
く洞察しようとするわけで・・ですがまだまだ・・w
ですけれどね、地上のスサノオさん達の直系は残らないようで・・・天武系
の直系男子は断たれました。秀吉も(実際、秀吉さんは信長よりも家康より
も城攻めがうまかったそうです)吉田松陰も・・・・・・・・・現トップも。
つまり後継が重要なんですよ。これからが大変なんです。天武帝の後継はすっ
たもんだの挙句、桓武帝へ。秀吉の後はすったもんだの挙句、家康へ。この
すったもんだに時間がかかるわけでw
・・ところでツクヨミさまは?・・歴史は夜作られる・・言葉は必要ないとw
2017/11/13 URL 編集
疑問
これに関しては諸説ありますが、高名な研究者らが、弥生時代に‶大量”の‶渡来人”が押し寄せた、古墳時代から奈良時代にかけても‶大量”の‶渡来人”がやって来て、日本の支配階級として定着したと、「渡来人」という言葉を強調しているらしい事が分かりました。
秦氏や漢氏等の帰化氏族や、鑑真一行を「渡来氏族」や「渡来人」と呼ぶことがあったとしても、大昔の弥生人について「渡来人」と呼ぶ事はどうなのでしょう?
弥生時代の‶渡来人”達は、慈悲深く、原住民を追いやる事なく混血し、融和したそうです。
(一方で、30万人ぐらいいた縄文人口は、縄文晩期から弥生初期にかけて8万人にまで減少したという説もありました。最近は異論が唱えられていますが。)
一方で、研究者らは、縄文人についてだけは「渡来人」とは呼びません。
縄文人も様々なルートで「渡来」した移住者ですが。
しかし、これで、高名な研究者達が、秦氏や漢氏の様な「渡来氏族」だけでなく、弥生人についても「よそから来たガイジン」「侵略者」「征服者」と見なしている事がはっきりしました。
やはり、皇室を含め、我々日本人が還るべき「原点」は、神武創業でも、弥生でも古墳でもなく、母なる縄文ではないでしょうか?
2017/11/12 URL 編集
じぇんそん
それが事実だとすれば、「歴史関係の学会」の貧弱さを意味しませんか。日本の場合、歴史学者の多くは既存の歴史記述を史料と照らし合わせてその正確さや妥当性を再検証したり、史料そのものの吟味をする研究者をいい、歴史記述者(歴史家)は作家に近い扱いなので学会に所属している人は少ないのかもしれませんが。
> むしろ歴史の理解には害になり、教育上も避けるべきことです。
意味が分かりません。歴史記述のルールや方法論が知られて困るのは、歴史記述のルールを逸脱した似非歴史を広めようとしている人だけだと思います。
2017/11/12 URL 編集
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2017/11/12 URL 編集