はじめに「東征より6年を経た」とあります。
「征」の字が、後年、征服とか征伐などの熟語に用いられるようになったために、神武天皇は大軍を率いて宮崎を出発して、ついには畿内にまで軍事的に進出して畿内に王朝を築いたと解釈されることが多いのですが、すこし違います。
漢字というのは今でもそうですが、たとえば北京語と広東語では、同じ漢字を使っていても発音がまったく違います。
歴史をさかのぼれば、呉音とか宋音とか漢音とか、時代によっても読み方が違います。
つまり漢字は、異なる語圏の人々が表意文字である漢字を使って相互のコミュニケーションをとる道具とされたものです。
ですからたとえば『古事記』の「古」という字は、下の「口」が棺桶で、上の「十」が墓標を示し、地面に埋められた棺桶の上に書かれた墓標から、「棺桶に入っている人はすでに亡くなられているのだから墓標にはその人の事績など過去の出来事が記されている」ということで、過ぎ去った昔を意味する漢字となっています。
ですから「古語」と書いてあれば、漢字圏の人々であれば、話す言葉はそれぞれ違っていたとしても、これは「古い時代の言葉なのだ」とすぐにわかるわけです。
そうした漢字を使って、我が国の歴史を記すという試みが現存する最古の書が大和言葉を漢文に多数挿入した『古事記』であり、これを正式な漢文に訳して内容を補強したものが『日本書紀』です。
ついでに申し上げると、古事記には『帝記』や『旧辞』などを基に書いたと序文に書いてあります。
つまり『古事記』以前にも、何らかの書かれた史書はあったということです。
ところがそれらの史書は現存していないし、そもそもどのような文字で書かれていたのかもわかりません。
だいたい日本の文字が漢字しかなかった(漢字が渡来するまで日本に文字がなかった)と考えるほうがどうかしているわけで、漢字そのものは、仏教伝来といわれる6世紀よりもはるかに古い1世紀の土器に、墨字で書かれたものが出土しているし、同じく1世紀の「漢委倭奴国王」の金印にしても、そもそも印は、書かれたものに押捺するものです。
つまり1世紀には、我が国は交易等に際して、すでに漢字が用いられていたし、これとは別に神代文字による大和言葉の記述法がすでに確立されていたとみるべきなのです。
神代文字は、現代の日本の歴史学会では、すべて「江戸時代の贋作」としています。
ところが伊勢神宮には、源義経や頼朝、あるいは菅原道真が奉納した神代文字で書かれた幣(へい:祈願書)が現存しているし、すくなくとも江戸時代よりももっと古い時代の神代文字で書かれた石碑が全国に多数あるのです。
我が国には6世紀の仏教伝来まで文字がなかったと考えるほうがどうかしています。
中国漢字における「征」の字は、「彳」が「行く」の省略形、「正」は、正しいです。
ですからもともとの意味は「正しきを行う」になります。
従って「東征」というのは、「正しいことを行うために東に向かった」ということを意味しているのであって、かならずしも東へと向かった軍事遠征を意味する言葉ではありません。
似たような用例に「征夷」という言葉があります。
「征夷」もまた「夷(い)を軍事的に征伐する」という意味ではなく、「夷に正しきを行う」がもともとの意味です。
そのための軍の将なのであって、ただやみくもに周辺民族を滅ぼしたり殺したりすることを良しとしなかったというのが、我が国の文化です。
神武天皇は、宮崎県の高千穂を出発され、日本書紀では6年(古事記では17年)の歳月を経て、畿内を平定します。
それが上の文にある「天つ神の霊威によって凶徒は滅んだ」です。
それでも「辺土はいまだ騒がしいが、中洲国には風塵はない」と続きます。
文意からは、おそらく東日本一帯は、まだ神武天皇に服していなかったということがわかります。
「中洲国」というのは、橿原宮のある大和盆地が、川の流れでできた平野部であることから、川の中州という意味で使われているのではないかと思われます。
「そこで壮大な皇都と皇居を建てよう。
いま国は出来たばかりで若く、
民心は素朴で穴に住む習俗もいまだ残っている。
それ大人の制を立て義を必ず行い、
いみじくも民に利があるとき、
聖造に何のさまたげがあろうか。」
その大和盆地に、壮大な都を造り、また皇居を建てると述べられています。
そしてその国はできたばかりで、まだ若い。
民心は素朴で、「穴に住む習俗もいまだ残っている」と続くのですが、この「穴に住む習俗」というのは、縄文時代の遺跡に広く見られる、いわゆる竪穴式住居のことを意味していることは明らかです。
ここに、読み解きの大きなポイントがあります。
神武天皇は、それ以前の記述から、稲作農業をいまの中四国から畿内に向けて広げた人であったことが、わかります。
神武天皇は、宮崎を兄の五瀬命(いつせのみこと)とともに出発されていますが、この五瀬命という名前も、没後の諡名(おくりな)です。
そして五瀬命の「五」は五穀、「瀬」は、田んぼの浅瀬のことを意味しますから、農業指導を行って、多くの人びとから尊敬された人であることがわかります。
そして稲作を行う集落は、周囲が水を引く田んぼですから、住宅の形式が高床式になります。
あたりまえです。田んぼの水よりも、床が低い竪穴式住居では、床に水が染み出してきてしまって住めたものではなくなるからです。
つまり周囲に「竪穴式住居に住む人々がまだいる」ということは、神武天皇の時代には、まだ水耕栽培ではなく狩猟採取型の人々が国内に多く住んでいたことを意味します。
そこで神武天皇は、大和盆地に「山林をひらき、宮殿や室を築き、宝位に就いて元々を鎮めよう」というわけです。
「宝位」というのは、天皇の位のこと、「元々」というのは、もともといる人々であり、同時にもともとの神々の「おほみたから」たち、すなわち民衆のことを意味します。
そして「上は乾霊が授けてくれたこの国の徳に答え、下には皇孫の正しい心を養おう」と続きます。
「乾霊(けんれい)」の「乾」は天空を意味しますので、「乾霊」は、天の神々の御霊という意味です。
その天の神々が、地上のすべてを授けてくださった。
私たちの生命もまた、天の神々が授けて下さった。
その御徳に答えて「下々に正しい心を養おう」と述べられています。
ではその「正しい心」とは何かというと「八紘を掩(おほ)いて一宇となす」ということです。
「八紘」は、四方八方です。
「宇」は、屋根のことです。
つまり都を中心に、四方八方のすべてが、ひとつ屋根の下に暮らす家族となろうとおっしゃっています。
その前にある「六合を兼ねて都を開き」の「六合」というのは「東西南北+天と地」の六つを合わせるという意味です。
ですから、単に世間をひとつ屋根の下におおうのではなく、天地のすべてをおおう。
その「おおう」に「掩」という字が使われていますが、この字には「手でおおう」という意味があります。
単に世間を一つ屋根の下に暮らす家族同様にみなすということではなくて、「掩」という字が加わることによって、そのために様々に手を下して、民を正しい道に教導するというひびきが、含まれています。
そして「畝傍山の東南に観(み)る橿原の地は国の真ん中にあたるや。ここで治めるべし」と述べられて、橿原宮に、最初の都を置かれたわけです。
神武天皇という諡号(おくりな)は、実は、神武天皇の生きられた時代よりもずっと後の、奈良時代になってから、付けられた漢風諡号です。
もともとの名は、『古事記』では神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)です。
『古事記』には注釈があって「伊波礼毘古」は「以音」、つまりただの当て字であって、これは大和言葉の「いわれた毘古」である、という意味です。
「毘古」は「彦」と同じで、男性を意味しますから、要するにこの諡号は「倭(やまと)の神といわれた男」という意味とわかります。
つまり、生きながら「神」と讃えられた人であったわけです。
その「神」という用語についても注釈が必要です。
「神」の音読みは「シン、ジン」です。
中国漢字では、この字は生贄を捧げる台に雷が落ちる象形で、そこから天の神を意味する字となりました。
ところが日本語の読み(訓読み)は、「かみ」です。
「かみ」というのは、古い大和言葉では、ご先祖をずっと「かみ」のほうにさかのぼっていったときに、◯◯家のご先祖だけでなく、およそ6〜700年経過すると、日本中すべての家系のご先祖がかぶってしまいます。
そのかぶってしまった先のご先祖、つまりすべての家に共通するご先祖のことを、祖先をずっと上(かみ)にさかのぼった先にある人々の共通のご先祖という意味で、「かみ」と呼んだのです。
ですから、田舎の方の郷では、その村に住むすべての人は、同じ血筋だったりしますから、村人たちの共通のご祖先が鎮守の神様として祀られました。
そうした村々が集まると、惣(そう)となりますが、これがいわば、いまでいう地域のことで、その地域一帯の総鎮守の神様が、国の宮に祀られます。
たとえば、武蔵の国一宮(いちのみや)という具合です。
そして全国の共通のご先祖となられる神様がおいでになるところが、神(かみ)の宮(みや)ということで神宮と呼ばれました。
そして初代天皇である神武天皇は鵜草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)の子です。
その鵜草葺不合命は、海彦山彦の物語で有名な山佐知毘古でお馴染みの、火遠理命(ほをりのみこと)の子です。
その火遠理命は、天孫降臨した迩々芸命(ににきのみこと)の子です。
迩々芸命は、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子です。
その天忍穂耳命は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の子です。
そして天照大御神は、イザナキ、イザナミで有名な伊耶那岐大御神の子です。
以上のことを簡単に図示すると以下のようになります。
伊耶那岐大御神(いさなきおほみかみ)
↓
天照大御神(あまてらすおほみかみ)
↓
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
↓
迩々芸命(ににきのみこと)
↓
火遠理命(ほをりのみこと)
↓
鵜草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)
↓
神武天皇
つまり神武天皇の高祖父の母が天照大御神、裏返しに言うと神武天皇は天照大御神から5代目の来孫(らいそん)となるわけで、そういう意味では、天孫降臨された迩々芸命が初代天皇でも良かったわけですし、同様にそれは火遠理命でも、鵜草葺不合命でもよかったはずです。
それなのになぜ神武天皇が「初代」天皇とされてきたのかというと、まさに神武天皇が、天照大御神から迩々芸命が授けられた天壌無窮の神勅に基いて、稲作を中心とした我が国を開いた御方になるからです。
このことは我が国が、有史以来、ずっと稲作を中心とした農業国として営まれてきたことを示します。
なぜ農業国なのかといえば、臣民の誰もが豊かに安心して安全に暮らせるようにすることが目的です。
それが天照大御神以来の神勅によって示された我が国の形です。
そして農業国であるがゆえに、その農業を営む人たちが、黎元(おほみたから)とされました。
黎元の「黎」の字は、「禾」が実った稲の象形、「刀」みたいなところが鍬(くわ)や鋤(すき)、「八」みたいなところが、その鍬や鋤の刃、その下にあるのが「水」です。
つまり「黎」という字は、これ自体が稲作を意味します。
その稲作農業をする人々がいるから、みんなが食べられるのです。
そしてその稲作農業を推進するために、みんなで力を合わせて土地を開き、田植えをし、稲刈りをし、藁を編んで生活用品にし、決して飢えることのない国を、上下心をひとつにして築いていく。
それが、八紘一宇の本質となります。
もちろん、農業だけしていれば国が成り立つわけではありません。
作物を運ぶ人も必要ですし、鍬や鋤といった農具を作る人、食事を作る人、食事のためのお椀やお皿を作る人、それを運ぶ人、土地を開墾する人、それらを管理する人など、様々な人の様々な営みによって、国が成り立ちます。
そうしたすべての人に感謝し、その一員として自分も働く。
だからいまでも日本人は、食事のときに「いただきます」といいます。
一昔前なら、必ず家族全員、両手を合わせて「いただきます」と言ったものです。
感謝の心があるからです。
商業主義に陥ると、富を持つ者が富を独占し、他者を顧みなくなる弊害が起こります。
そうした弊に陥らないように、日本人は歴史の中で、常に国の根底に「黎元(おほみたから)」を置いてきたのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
愛信
https://twitter.com/W109_300SEL63/status/929984358873812992
この様な話が日本民族の教科書で話される事は無かった。
せめて72年後の今から日本の人々に読んでもらいましょう。
「お町碑」
詳細は
【前航空幕僚長の国防問題の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj10.cgi
2017/11/13 URL 編集
疑問
私はずっと、「倭の磐余の英雄(もしくは立派な男子)」という意味だと思っていました。
問題は、アイヌや、旧琉球王国にルーツを持つ沖縄の人々にもこの神話の精神を押し付けられるかということです。
琉球神話は、何となく本土の神話に似通っていて、感覚の近さを感じるけれども、天照大神とは別の名前の神様ですしね。
2017/11/13 URL 編集
愛信
https://twitter.com/bluesayuri/status/652064188387332096
ここの記載されている内容は、反日売国テレビ局・マスコミが報道しない自由を行使している
為に、72年間もの歳月経ても未だに日本国民に伝えられていない歴史の真実です。
詳細は
【マスコミ隠蔽の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi
2017/11/13 URL 編集