一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)混(まろか)れ成(なる)時(と)きに、始(はじめ)に神人(かみ)有(あり)て、可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)と号(まを)す。次に国底立尊(くにのそこたちのみこと)。(彦舅(ひこに)、此(これ)を比古尼(ひこぢ)と云(い)ふ。)
一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)初(はじ)めて判(わか)るるとき、始めて倶(とも)に生(なりいづる)神(かみ)有(あり)て、国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)す。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。又曰(またいは)く、高天原(たかまのはら)に所生(あ)れます神(かみ)の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)と曰(まを)す。次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)。(皇産霊、此(これ)を美武須毘(みむすひ)と云(い)ふ。)
一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)未(いま)た生(な)らざる時に、譬(たと)へば海(うみ)の上(うへ)に浮(う)かぶる雲(くも)に根(ね)の係(かか)るところ無(な)きが猶(ごと)し。其中(そのなか)に一(ひと)つ物(もの)生(な)るは、葦牙(あしかひ)の初めて泥(ひぢ)の中に生(おひい)でたるが如(ごと)し。便(すなわ)ち人(かみ)と化為(な)りて国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)す。
一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)の初(はじめ)て判(わか)るるときに物(もの)有(あ)り。葦牙(あしかひ)の若(ごと)くして、空(そら)の中(なか)に生(な)れり。此(これ)に因(よ)りて化(な)る神(かみ)を天常立尊(あめのとこたちのみこと)と号(まを)す。次に可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)。又(また)物(もの)有(あり)て、浮(うか)べる膏(あふら)の若(ごとく)して空(そら)の中(なか)に生(な)れり。此(これ)に因(より)て化(な)る神を国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)す。<現代文>一書には、天地(あめつち)が最初に別れたとき、一つの物が虛中に在(あ)り、その形はなんともいいがたいものであったけれど、その中から国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生られたとあります。この神様のまたの名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)といいます。
次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)(別名を国狭立尊(くにのさたちのみこと)が生(な)られ、
次に豊国主尊(とよくにぬしのみこと)(別名を豊組野尊(とよくむのみこと)、豊香節野尊(とよかふののみこと)、浮経野豊買尊(うきつねのとよかふのみこと)、豊国野尊(とよくにのみこと)、豊囓野尊(とよかふのみこと)、葉木国野尊(はきくにのみこと)、見野尊(みののみこと)といいます)が生(な)られました。(葉木国と書いて播舉矩爾(はきのくに)と読みます。)
一書には、大昔の国も地(つち)もまだ稚(わか)かったときに、たとえてみれば油が浮(う)かんでいるかのように漂(ただよ)う中から、葦牙(あしかひ)が生(は)えるように成られた神様があり、その神様の名を可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)と申したとあります。(可美と書いて于麻時(うまし)と読みます。)
次が国常立尊(くにのとこたちのみこと)。
次が国狭槌尊(くにのさわけのみこと)です。
一書には、天地(あめつち)がまだ混(まざ)っているときに、始めに神人が有り、その名を可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)と言いました。(彦舅と書いて比古尼(ひこぢ)と読みます。)
次が国底立尊(くにのそこたちのみこと)です。
一書には、天地(あめつち)が初(はじ)めて別れたとき、始めに倶(とも)に生(な)られた神の名が国常立尊(くにのとこたちのみこと)であったとあります。
次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)が成られています。
また、高天原(たかまのはら)に生(な)られた神(かみ)の名を、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)といい、次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)といいます。(皇産霊と書いて美武須毘(みむすひ)と読みます。)
一書には、天地(あめつち)が未(いま)だ形成されていないときに、たとえば海の上に浮かぶ雲には根がかかるところがないような状況の中で、ひとつ物(もの)が生(な)り、それは葦牙(あしかひ)が初めて泥の中に生(は)えるように人の姿となり、国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号したと書かれています。
一書には、天地(あめつち)が初(はじめ)て別れるときに、ある物があり、それは葦牙(あしかひ)のようでしたが、空中で生まれました。これによって化(な)られた神の名をを天常立尊(あめのとこたちのみこと)といいます。
次に可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)が生(な)られました。
また物(もの)があって、それが浮かんだ油のように空中に広がるものから生られた神が国常立尊(くにのとこたちのみこと)であったと書かれています。<解説>▼一書(あるふみ)に曰(いは)く日本書紀が本文で採用しているのは、天地が別れ、そのなかの天が先に形成されたときに、天に最初に生られた神様が国常立尊(くにのことたちのみこと)であり、次いで国狭槌尊(くにのさつちのみこと)と豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)が生(な)られたという説です。
ところが日本国内には、そうではないとする異説を「一書曰」として6つ紹介しているのが、この段です。
▼第一の書その注書きに現れる第一の書には、最初の神様が国常立尊(くにのとこたちのみこと)であったと記されています。そこまでは日本書紀本文と同じなのですが、異なるのは、この神様の別名が記されていることです。
その別名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)といいます。
大和言葉での違いは「とこたち」と「そこたち」の違いです。
「とこたち」は、一段高いところに立たれた神という意味、「そこたち」なら全宇宙の根幹に立たれた神という意味になります。
漢語ですと、「常に立つ」と、「底に立つ」の違いですが、意味の違いは上と同じです。
次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)で、別名として国狭立尊(くにのさたちのみこと)が生(な)られたとあります。
大和言葉では、「さつち」と「さたち」の違いになりますが、「さ」は神稲を意味しますので、「神稲の土」と、「神稲が出現した」の意味の違いになります。
漢語では前に述べましたように「狭槌」は「大鎚を手にして境界を定める」という意味です。
「狭立」は、「立ち位置の境界を定める」ですので、前者の方がすこしおそろしい感じがします。
三番目に出てくる豊国主尊(とよくにぬしのみこと)は、別名が7つも併記されています。
「豊国」は、豊かな国で、これは大和言葉の「とよくに」も、音読みの「ほうこく」も同じ意味です。
では、それぞれの別名はどのような意味になっているのでしょうか。
【豊組野尊(とよくむのみこと)】漢語=豊かな野を組む、和語=ゆたかさを掬(すく)いとる(はぐくむ)。
【豊香節野尊(とよかふののみこと)】漢語=季節の穀物の甘い香り(香りという字は稲穂の稔りを口にした象形です)、和語=ゆたかなかおり。
【浮経野豊買尊(うきつねのとよかふのみこと)】漢語=宙に浮いているものから豊かさを手に入れる(買は財貨に編みをかぶせる象形。豊買で豊かさを手に入れる。和語=同義。
【豊国野尊(とよくにのみこと)】漢語・和語=国が豊かになる。
【豊囓野尊(とよかふのみこと)】漢語=噛み付く豊かさ。和語=おなかいっぱいに噛む。
【葉木国野尊(はきくにのみこと)】「葉木」は、注釈で「葉木国と書いて播舉矩爾(はきのくに)と読む」とありますから、この場合の「葉木」は単なる当て字とわかります。従って「はきの国」ということになるのですが、「haki」はもしかすると「hauki」かもしれません。すると「葉木国」は、伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県の西半分にかつてあった地名)のことかもしれないのではないかと思います。
尚、この「葉」が、実は「豊」という字の書き間違いではないかという説がありますが、賛成できません。もし「葉木」が「豊木」なら、それはどうみても「はきのくに」とは読めないからです。
【見野尊(みののみこと)】漢語=野を見る、和語=みえる。
古事記では、このように神様のお名前が連なるときは、神を消して読むと(この場合は尊)、そこにひとつのストーリーが読めてくるといことを『ねずさんと語る古事記』に書かせていただきました。そこで同じようにここに連なっている神様のお名前から尊の字をとってみますと次のようになります。
「豊国主尊(とよくにぬしのみこと)は豊かさをはぐくみ、豊国は穀物の甘い香りにつつまれ、物々交換がなされ、皆が豊かに暮らし、国も豊かで、誰もがお腹いっぱいな国。そこは伯耆の国に見える(という)。」
ちなみに「伯耆」の「伯」は、「おさ」を意味する漢字、「耆」は老人で、やはり「おさ」を意味します。
伯耆の国という地名は、大昔、そこに偉大な村長(むらおさ)がいたということを意味する名前です。
おそらくこの第一の書は、その伯耆の国の史書もしくは伝承であったのであろうと思われます。
ちなみに現代日本では、東海道のある太平洋ベルト地帯が経済の盛んな土地となっていますが、江戸の昔の物流は河川や外洋の沿岸公開が主流で、とりわけ北回船と呼ばれる日本海側の海上交通は極めて盛んとなっていました。
さらにいえば、日本は江戸時代に限らず、歴史上、たびたび鎖国を実施していますが、開国していた時期には、日本海に流れる海流を利用した海上交易が非常にさかんに行われていました。
この関係で、特に古代においては、おそらく伯耆の国あたりは、まさに海上交通の中心地として非常に発展をしていたといえますので、その意味で伯耆の国をここでは「葉木国尊」としているのかもしれません。
▼第二の書二番目に紹介されている書では、最初に成られた神様を可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)としています。
二番目と三番目は同じで、順に国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさわけのみこと)となっています。
はじめの神様だけが名前が違うわけです。
そのはじめの神様のお名前にある「可美」は、そう書いて于麻時(うまし)と読むと注釈されています。
「葦牙(あしかひ)」は、葦の芽のことで、それが「うまし」ですから「良い葦の芽」、「彦」は才能のすぐれた男性で、「舅」は男性の老人のことです。
従って、はじめに「最初の萌芽が優れていたために、歳をとっても優れた男性がいた」ために、国ができ(立ち)、国の境が生まれた(狭槌)といった意味になります。
この三柱の神様のお名前を通しで読めば、「はじめに優れた男性がおいでになられたおかげで、国ができ、国境も定められた」といった意味になります。
▼第三の書三番目に紹介されている書では、最初に現れたのが可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)であり、次が国底立尊(くにのそこたちのみこと)であったと書かれていると日本書紀は書いています。
ここでの「彦舅」は、「ひこぢ(比古尼)」と読みなさいと注釈しています。
和語の「ひこぢ」は、今風にいえば「彦爺」で、男性のお年寄りという意味です。
その人が、国の基礎を成したということが「国底立尊(くにのそこたちのみこと)」というご神名で見て取ることができます。
▼第四の書ここの記述は、古事記、もしくは古事記がもっとも史実に近いとの判断の依拠とした書を指しているものと思われます。
ここでは、天地(あめつち)が初(はじ)めて別れたときの初めの神様を国常立尊(くにのとこたちのみこと)、次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)としていますが、それ以前のまだ天地が別れる前には高天原(たかまのはら)があり、そこで最初に成られた神様を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、次が神皇産霊尊(かみむすひのみこと)であったとしています。
また、「皇産霊」と書いて「みむすひ(美武須毘)と読む」と注釈しています。
日本書紀は、対外的に書かれた史書ですが、要するにこの四番目の書では、我が国の祖は国常立尊であるけれど、そもそもの宇宙創生は天御中主神であり、その後に高所における神の「みむすひ=御結び」があったのだということを述べています。
▼第五の書五番目の書は、そうではなくて、天地創造の際に葦の芽が泥に生えるように混沌とした中に人の姿をした神様が現れて、その名を国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号したとしています。
▼第六の書また別な書(第六の書)では、最初の神様が、国常立尊ではなく、天常立尊(あめのとこたちのみこと)と記されているとあります。
特定のエリアである「国」ではなくて、「天」になられた神というわけです。
二番目が可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)で、これは「良い葦の芽のような男性の老人の神」が生(な)られ、そしておそらくその後のことだと思うのですが、浮かんだ油のように空中に広がるものから国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生(な)られたとであったとしています。
▼一書曰は箇条書きか?この「一書曰(あるふみにいわく)」という表現については、「第一、第二、第三」等と同じ、単に箇条書きを示したものにすぎないというのが通説です。
しかしそれなら単に「一、」とすればよいだけのことです。
あきらかに「一書」と書いてあるのです。
私はこれは、日本書紀が編纂された時代に、編纂の参照として「別に書かれたものがあった」ことを示していると思います。
そもそも「書」という字は、手で筆を持って台に置いた紙や板に何かを書いている象形文字です。
従って、「一書」というのなら、どうみてもそれは「書かれたもの」です。
むしろそう書いてあるのに、単なる箇条書きだと決めつけるほうがおかしいのではないかと思います。
ところが日本書紀よりも先に書かれた書として、現存しているのは古事記だけとされています。
古事記は711年に提出され、日本書紀は720年の完成なのですが、その古事記の序文には、記紀編纂のきっかけは天武天皇の681年の詔(みことのり)であったということが書かれています。
そして古事記は、それからまる30年、日本書紀はまる39年の歳月をかけて編纂されています。
なぜそんなに月日がかかったのでしょうか。
古事記はこのことについて、「諸家にもたらされている歴代天皇記(帝紀)や我が国の神話や伝承(本辞)」をもとにして書いたとしています。
これはどうみても「諸家に伝わる伝承」です。
この時代の日本は、諸国の豪族たちのゆるやかな連合体です。
それら諸国の豪族たちは、皇族との縁戚関係があったことは、容易に察することができます。
日本は国土が狭くて歴史の長い国なのです。
何千年、何万年にもわたって血の交わりが「なかった」と考えるほうが、実はどうかしています。
天武天皇の詔は、それら諸家に伝わる帝紀や本辞と述べられています。
おそらくもとの出処はひとつでしょう。
縄文時代の日本の人口は、わずか20万人余であり、その状態が1万5千年も続いたのです。
血が混じらないと考えるほうがおかしいし、もっというなら、もとは一組のカップルから、それだけの人口が生まれ、全国に広がっていったと考えられるのです。
ですから諸家に伝わる伝承は、おそらくもとはひとつの物語であったと考えられます。
しかし長い歳月の間に、それぞれの豪族ごとに、自らの家にとって都合が良いように、だんだん伝承が変わっていく。
たとえば沖縄には「あまみこ」が立派な島をつくったという伝承があります。
奄美諸島の奄美(あまみ)は、その名から生まれた名前なのだそうです。
その「あまみこ」は、天照大御神を指しているともいわれています。
いまとなっては、どれが本当の原初の神語であったのかはわかりません。
しかしあまりにも歴史の長い日本では、日本書紀が編纂された当時においても、おそらくいまと同じような状況だったといえるのではないでしょうか。
全国の諸豪族が、いくつあったのかはわかりません。
その数だけ、原初の神語を変形した伝承が行われていたわけです。
これを中央の朝廷で、ひとつにまとめようとするとき、どうしても無視できない有力豪族の伝承は、「一書曰」として添え書きするしかなかったのではないでしょうか。
そして、その有力豪族が、当時六家あったから、「一書曰」は、6つの伝承を併記したといえるのではないかと思います。
そして、それが「一書」と書かれているということは、それは「書かれたものであった」ということです。
その書かれた書は、いまでは日本書紀以前の書としては、古事記以外には「ない」とされています。
しかし、私は違うと思います。
なぜなら、我が国には神代文字があるからです。
神代文字は江戸時代の贋作というレッテルが貼られていますが、源頼朝や義経、あるいは菅原道真が書いたとされる神代文字の奉納の幣(へい)が現存しています。
また、神代文字は「使われていない」とされていますが、いまでも少し古い神社に行けば、そこでいただけるお守り袋の中味には、ちゃんと神代文字が書かれています。
いまでも使われているのです。
それに、あきらかに江戸時代以前に建てられた石碑もあります。
もっというなら、ひらがなは万葉漢字の草書から発展した文字であることは間違いないでしょうが、カタカナは、漢字の一部を切り取ったというよりも、神代文字から発展した文字と考えたほうが、辻褄があうのです。
そもそも、つい戦前まで、ひらかなは女性専用文字であって、男性はカナ文字を書くときにはカタカナを用いるべしとされていたものです。
カタカナが、神代から続く文字なら、男性が用いるべしとされたのは、わかる気がします。
そして諸家が神代文字で書かれた史書を仮に保有していたとするならば、その諸家が有力豪族であり、諸家ごとに使用している神代文字が異なるという状況にあれば、どの神代文字を使うかは、これはたいへんな難題になります。あちらたてれば、こちらたたずになり、まとまらないのです。
しかも、その諸家ごとに、それぞれの家に都合が良いように、内容が少しづつ違う。
その一方で、当時の日本は、唐と新羅の連合軍に白村江で大敗し、国の紐帯が崩れて国家が崩壊しそうなところへ、さらに追い打ちをかけるように唐と新羅の連合軍が海を渡って日本に攻め込むという計画をねっているという情報までもたらされていたのです。
そうした危機状況の中で、日本中の諸家に伝わる伝承をひとつにまとめ、それを文字にして書にしたためるのなら、しかもそうしてまとめた史書を、日本の国際的信用を増し、諸家をひとつにまとめて日本の国力を強くして、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)を避けようというのなら、それはむしろ外国文字である漢字で書いてしまうことが、もっとも合理的な選択となります。
放置すれば、日本はいつまで経っても地方ごとの豪族たちの集合体でしかないのです。
なにがなんでも、まとめなければならない。
ただどうしても、ひとつにまとめきれない部分を、こうして「一書曰」として添え書きにしたというのが、正解ではないかと思います。
(続く)
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
疑問
青谷上寺地遺跡は、弥生時代の戦争や結核の蔓延等の悲惨さを伝える遺跡でもありますが、弥生と縄文は「地続き」であるという事を示す遺跡でもあるようです。
縄文と弥生の境界線は実に曖昧で、東日本に至っては、弥生社会の担い手自体が、多くの場合縄文系住民という状況だったのではないでしょうか?
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/jomon-man-dna_b_7601964.html
今から10年ほど前に訪ねた青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県鳥取市青谷町)で学芸員が、「弥生時代は渡来人が作り上げたと言うが、それは違う。発掘を長いことやっていると、縄文の力を、ひしひしと感じる」と、やや憤慨しておっしゃっていたのを思い出す。この遺跡から発見された遺物の中に木の枕があって、そこに人間の歯が埋め込まれていた。これは縄文人の抜歯の風習の名残だ。弥生人も呪術のために、歯を抜き、枕に埋めていたわけで、われわれ日本人は、そうした伝統を受け継いだ縄文人の末裔なのだ。
2017/11/19 URL 編集
くすのきのこ
大事なのは国の始まりよりも、揉め事の中で取捨選択して連綿として作り
あげてきた事でしょう。その中で前時代を完全否定する事なく、完全肯定
する事なく伝え続け発展し続けた姿勢が大事ですね。ですから日本書紀で
も諸説を取り入れてある。そうする事で国内の諸勢力へに対応をしつつ、
国外勢力が理解に苦しむように仕込んであるのでは?w
現代アジアの国々は、戦前の日帝に刺激され、戦後日本にも刺激されてい
るわけです。チャイナ地域も旧満州を利用して食いつないでいました。欧
米金融のアジア基地であるシンガポールや香港はすこ~し毛色が違うよう
に感じますが、やはり日本抜きの経済活動は・・・ちょっとねw
時代は移り変わります。ですが歴史は同じようなパターンを繰り返す。
日本は列島国であるために、隣の大国にも攻められにくいアジア地域のオ
ブザーバー的な立ち位置ではある。また例えば江戸時代の鎖国政策は、ア
ジア地域への欧米勢力の浸透のために弱体化されていたため維持しやすかっ
たとも考えられないではない。今後アジア諸国の活性化が続くのであれば、
日本はそれなりに対処しなければならない。ところが・・・w
明治以降(と秀吉時代)を除くとアジア諸国との(交易などの文化交流関係
を除く)積極的な軍事的関わりは、この日本書紀の編纂が行なわれていた時
代の前しかなかったりするわけでw・・天武帝も大量移民には苦労しただろ
うな~とw・・今回の戦後も大量密航者を背負う事になった。
古事記、日本書紀は、編纂を命じた天武天皇の苦肉の策かもw
古代、日本列島にはさまざまな地域からたくさんの人種が訪れて定着してお
り、その流れは絶える事がなかった。血縁ではなく、共存共栄という天災国
である故の生存ルールにより人々は縁を結んできたのだと思います。天災は
神の御業ですから。人類そのものは遺伝のバラツキが少なく皆兄弟と言って
もよいですが、人種は生存地に適応した身体と文化を引き摺った集団です。
それが生存地を離れ移動した先の土地で別の人種と出会う。諍いは当然であ
るけれども。例えばその決着のひとつ・・山が多く逃げ込まれると、争って
も山の民を殲滅はできない・・海の民の技術が無ければ交易などによる新し
い文化に触れる事はできない・・しかし奪う事はできる・・妥協策は共存?w
山が多く孤立化にも向いており、多数の民族が林立していた中に天災が起こ
り列島内での移動が起こる。繰り返し起こる天災は困り者だが、人々を縁づ
かせたでしょうね。
2017/11/19 URL 編集